プロローグ2
「隊長! 撤退しましょう! 自分は、まだ死にたくありません!」
秋晴れの眩しい昼さがりの林道にて、悲痛な叫び声が上がった。
隊長と呼ばれたドッカは縋りつく兵士をなだめることも出来ず、ひたすらに奥歯を噛み締めてその場に立ち尽くすばかりでいた。
その場の異様な雰囲気に飲まれていた、というのが正直なところであろうか。
ドッカは自らが率いる部隊が一方的に蹂躙されていることを未だに認められずにいた。
「馬鹿な……我々は誇り高きラースレイム帝国の軍人だぞ……。何の間違いだ……」
ラースレイム帝国。
この魔法世界の文明を構成する3大大陸のひとつ、メスクシュム大陸の西方にある島国である。
帝国と名乗るだけあり、強力な軍を持ち、兵士の練度や兵器の性能の高さを誇り、大陸一の軍事力とされている。
また、正規兵の中でも実力の高い兵士は鉄の肩当てを葡萄酒色に染め上げ、帝鬼兵という呼称で呼ばれるようになり、敵味方問わず畏怖の念を一身に受ける。ドッカもまたその右肩を葡萄酒色に光らせていた。
ドッカが率いるのは偵察部隊だが、それでも並みの歩兵集団を相手にしても引けを取らないほどの実力があった。
−−はずだった。
それなのに、部隊は一方的な蹂躙に遭い、部下は次々と倒れていき、残った兵士は次々と逃げ出している。
それも、相手はたった一人。
ただの少年。
その上死者と見まごうほどの怪我を負い、肌をその血でぬらぬらと光らせている。
「こんな小僧に、こんな……死に損ないにここまで我々が屈辱を受けるなどと……」
唸り声を上げようとしたが、荒い鼻息が漏れるだけだった。
「おっ、おのれ!」
突如、及び腰で少年の周りを取り囲んでいた兵士達の中から一人がショート・スピアを腰だめに構えて突進を始めた。
対して、少年は突進する兵士の鬼気迫る表情を物ともせず、手に持っていたショート・ソードを刃を向ける形で軽く放り投げる。
少年の動作を投擲と捉えたのか、兵士は急に立ち止まりながら慌てて構えていたスピアでショート・ソードを薙ぎ払う。それが誤算だった。
払い落とした剣に気を取られている内に肉薄していた少年が兵士の首に掴みかかる。首に少年の体重が大きくのし掛かることで兵士の体が大幅に仰反っていく。鎧に身を包んだ体は鎧の稼働範囲から大きく逸脱した方向へ曲がっていくため、兵士の顔が見る見るうちに苦痛に歪む。
見れば、少年の空いている左手から蛍火のような光が発生し、その手の周りに段々と集まっていく。集合していく光が棒状のシルエットを描き出していることが傍目にも分かるようになった頃、光が弾けて少年の左手に小ぶりのメイスを残した。
少年は一瞥することなくメイスを握ると、首を掴む右手に集中して完全に無防備となった兵士の脇腹へと執拗に、太鼓を叩くかのような要領で振るう。
鈍い音が周囲に響き渡る。鎧が歪む程の攻撃を打ち込まれ続けた為か、兵士の膝が崩れ落ちそうになり、ブルブルと震えた。少年は反応を見逃すことなく、ダメ押しに兵士の顔へ首から放した右手で拳を一発打ち込んだ。
少年の一撃で意識を失ったのか、兵士は頬を酷く腫らせて卒倒するばかりだった。
一度に一人ずつでは今倒れた仲間と同じ末路を迎える。
兵士達は戦慄して目の前の惨状を呆然と見つめた。
攻めようにも倒れた仲間の有り様に思わず足が踏みとどまってしまう。
一人で駄目なら、と考える者もいるだろうが、最初に駆け出す一人にはなりたくない。
今は恐怖により屈強な軍人達は揃いも揃って及び腰になる始末であった。
「ぐうの音も出ませんね……隊長、逃げましょう」
縋るような声が上がる中、別の兵士から諭される始末だ。
情けない!
ドッカはそう叫びたくなる衝動を堪え、噛み締めた唇を震わせつつも上ずった声で叫んだ。
「撤退しろ! 幸い敵に殺意はない! 殺される前に逃げるんだ!」
「て、撤収!」
「助けてくれぇ!」
「た、頼む! こっちに追ってくるなぁ!」
「馬鹿野郎! 自分だけ助かる気かよ! おまええぇ!」
ドッカの声をきっかけに、溜まっていた恐怖が堰を切ったように溢れ出した。
兵士達は少年に怯えて、脱兎の如く駆け出していく。
正規軍の兵士としてあるまじき姿であったが、得体の知れない少年のその無慈悲なまでの強さには無理もないと認めざるを得ないことも確かであった。
「小僧……。この借り、いずれ返す」
精一杯の強がりをドッカは喉を絞り出すように呟くが、対して少年は構わないでくれと言わんばかりの冷たい面持ちのまま吐き捨てる。
「……興味ない。それよりも、馬車を置いていけ」
「馬車を……?」
「その中に気配がする。……女の気配だ」
「知っていたのか……。いや、もしや貴様……、この女を取り戻しに来たのか」
「何の関係もないが、お前たちの身なりを見る限り、何処かの正規兵かもしれないが貴族や皇族を護送するような身分の人間には見えない。だとしたら居合わせたところをただ拐ったと思っただけだ」
そこまで見抜いていたのか、とドッカは口の中で呟く。
そして、バツが悪そうにそのつるりとした頭を掻きながら、溜息を吐いた。
「今日のところは俺たちの完敗だ。女はお前が好きにしたらいい」
「お前らと一緒にするな。さっさと消えろ」
少年は吐き捨てるように言う。それこそ生理的に嫌悪するかのごとき嫌がり様だ。
「小僧。最後に貴様の名を聞かせろ」
「亮哉、織部亮哉。今はもう……国は捨てた身だ。何者でもない」
悲しげに呟く姿にドッカは何やら只ならぬ雰囲気を感じたが、同時に詮索してはならないような異様さも感じた。
「リョウヤ、か。その名前覚えたからな」
一言、そう吐き捨てるとその場を後にする。
(国を捨てた、だと……? 根無し草にやられたのか、俺たちは!)
その背中はどこか怒りに満ち溢れていた。
ラースレイムと名乗った兵士たちが去った後、木漏れ日の差すのどかな林道に元の静けさが戻っていた。
台風一過とはこのことか。
亮哉は小さく吐き捨てると、彼らが残した馬車の幌の中を覗き込む。すると、荷台の奥の方で何かが蠢いた。
日の光が差し込むと、中で少女が床に伏せている様が見えた。手足は縛られており、怯えた表情を浮かべていたが、亮哉の顔を見るや驚きの顔色に変わった。
「に、日本人ですか? 助けてください……。私もアエリア界の出身です! 私の名前は美咲・S・デリンジャー……。イギリス人です!」
彼女は汚れたシャツの上に破れたコートを羽織り、ぴっちりとしたデニムがそのすらりと伸びた脚を強調する。背中にかかるほどに伸びた銀色の髪は乱れ、透き通るような白い肌をした顔は抵抗した際に暴行を受けたのか、口元にはうっすらと血が滲んでいた。
「私、彼らの仲間じゃないんです。お願い……信じて……」
哀願する美咲に対して亮哉は自分が先程の連中の仲間と思われていると悟ったのか、淡々と言い聞かせるように声をかける。声色は冷やかなままであったが、表情は先程よりも落ち着きの色を見せていた。
「……俺はお前に危害を加えるつもりはない。だが、すまないが俺はそのニホンジンとやらでは無いと思う」
「東洋人のように見えますが……」
「初めて聞く言葉ばかりだ。俺は織部亮哉というのだが」
「日本人の名前じゃないですか」
少女はこの期に及んで少年がふざけているのではと憤慨したが、一方で亮哉は困惑して否定し続けるままだった。
「悪いが本当に俺はニホンジンとやらを知らないんだが」
「事情が飲み込めません……」
「そうか。しかし、その話をここでしても埒があかなさそうだ。移動しよう」
美咲と名乗った少女の手を取ろうと手を伸ばすが、膝を崩したためにその手は空を切る。
「……少し血を流しすぎたみたいだ……。ここは危ないから、早く……」
美咲の話を遮ってまで急かそうとしたが、亮哉は言い終わることもなく、彼女に向かって倒れ込んだ。
いきなり押し倒してきたかと少女は肩を強張らせたが、そうではなく単に彼が倒れただけだと知るとふらふらとすり寄る。
亮哉が着るチュニックに似た外衣はべっとりとどす黒い血がこびりつき、破けた生地の隙間からは痛々しい傷
が見える。少女はぎょっとして亮哉に向けて力の限り声をかける。
「しっかりして……! なんてひどい、どうしてこんな怪我を……気をしっかり持ってください! どうか、誰か! 誰かいませんか! この人を助けて……」
縛られた体では寄り添うことしか出来ず、さっきまで恐怖で震えていたが、今度は自分の前で倒れた少年を憂う為に震えた。
少女の悲痛な叫びも虚しく響くばかり。
秋晴れの晴れやかな午後の林道は冷酷なまでに静かだった。
無一文となり元の居場所へ帰れなくなった少年は活気溢れる街へ辿り着く。
しかし、その雰囲気に釣られてか欲望渦巻く腐臭が着実に流れ込んでいた。
メスクシュム大陸のど真ん中、戦争を知らない安寧の地。
たった一人の少年の訪問により、どす黒い戦地と化す。
次回、第一話「俺の財布返せよ」