薬指の約束
鬱蒼とした森の中。そびえ立つ樹々の合間からさしこむわずかな陽の光が、休憩しようと草むらに腰を下ろしたJとアリスの頰を照らし出す。珍しく引き受けた薬草採取の依頼は、やはり難航を極め、疲労を感じてきたJが帰りの体力のことを考えて、アリスに休憩を提案したところだった。十分ほど経過しただろうか。川べりに移動したアリスが川に手をひたして小さく呟いていた。構築した魔術紋が彼女の周囲に淡く光り、ふわりと消える。詠唱は聞こえなかったが、日常的な動作なので、水質を魔術で調べたのだとJにはすぐにわかった。彼女はまだ魔術紋を消すことができないが、彼女に魔術を教えるようになってから、二年が経とうとしている。魔術を覚え始めた頃を思い返し、その構築の速さに上達を感じた。魔術や戦闘面での成長もJとしては密かな楽しみで、そのことについて声をかけたい気分ではあったのだが。
休憩に入ってからアリスが口を開くことはなく、2人の間には沈黙が続いていた。Jがアリスに話しかけないことは珍しいことではないし、アリスが話しかけてこないこともまた珍しいことではなかったけれど、ふだんの心地よい空気とは異なる気配を、Jは感じていた。
ふだんの彼女とどこか違う。その原因はなんだろうかと、Jは思考を巡らせる。ここのところ元気がなく見えたことと繋がっているのだろうか。比較的穏やかな毎日だっただけに、思い当たる節があるとしたら、自分の言動しかなかった。いや、彼女の姉のことや取り戻した記憶についての悩みである可能性も捨てきれはしない。過去の体験について悩んでいるのであれば触れられたくないものもあるだろう。彼女はあまり取り戻した記憶について語りたがらないから、むやみにこちらから触れる気にはなれなかった。
しばらくの間、さりげなく気配を探っていたJは、この問題については少し距離を置いて様子を見ようと結論を出し、鞄の中を探った。探しているのは瓶だ。確か、先日空になったものがあったはずだと、道具を収納した数枚の小さな紙を眺め、カテゴリーごとに分けられた紙の中から一枚を引き抜いて、描かれた絵に指を当てる。スライドさせていくたびに道具の絵がかわるがわる浮かび上がり、瓶が浮かび上がったところで指を止める。決定の意思を紙に伝えると、燐光とともに細長いガラス瓶が手元に現れた。それを持ってアリスのいる川べりまで歩いていくと、音に気づいてアリスが振り返った。ほんの一瞬、動揺の滲んだ表情を浮かべてからふわりと笑う。隣に腰を下ろしたJに、彼女は声をかけてきた。
「ここの水、すごく綺麗だよ」
「飲みましたか?」
「ううんまだ……あ、だ、大丈夫だよ。飲むときは、Jくんに訊いてからにするから……」
以前、妖しの森に入り込んだときには、アリスが泉の水を飲んだことで、ちょっとした厄介なことに巻き込まれてしまった。それはあの森に住んでいた魔物の仕掛けた罠であり、泉に誘惑されたことによるものだったのだが、Jが軽く問いかけた言葉は、アリスの高揚した気持ちを削いでしまったようだった。彼女は小さく肩を落とした。
「水質を調べたのでしょう?大丈夫です。責めたわけではなく、感想を聞きたかったんです」
責められたわけではないとわかってホッとしたのか、パッと笑って、アリスは水の中に手を差し入れた。掬って、口につける。こくこくと小さく喉を鳴らしながら飲み干して、子供のように目を輝かせた。それから軽くJの袖を引っ張ってくる。その仕草と眩い笑顔に、胸の奥を小さく絞られるような想いを抱きつつ、Jも後に続いた。どこまでも透き通った冷たい水を手のひらいっぱいに集めて、口付ける。少し甘みのあるさわやかな味だ。喉を通り過ぎていくその冷たさが心地よくて、味わうように飲んだ。口元から滴る水滴を雑にシャツの袖で拭う。
「Jくん……」
名前を呼ばれて、ふと振り向くと、アリスが物言いたげな目でこちらを見上げている。頰がわずかに朱に染まっていた。自分から見つめてきたわりに、不思議そうに見つめ返すJに根負けしたのか、長く、細い睫毛を軽く伏せて視線を逃し「ちょっと、待ってね」とアリスが大きく息を吸う。ゆっくりと、吐いて。彼女がJの目線の高さまで姿勢を整えると、左耳の上で結わえたお団子頭がわずかに傾く。熟した果実のような赤い横髪がさらりと流れ、ふと視界がさえぎられた。同時にやわらかく重なる唇の感触に、Jは一瞬、戸惑う。けれど、彼女から口付けてくるのは珍しくて、Jはいまだ雫がしたたるほど濡れた手のことさえ忘れて、彼女の頰を撫でた。顔を引き寄せて、今度はJの方からわずかに角度を変えて食むように。彼女の唇に触れては離し、さらに深く。溶け込んでいくように。しばしの間、彼女の感触を貪る。
「…はっ」
息苦しくなってきたのか、小さく声を漏らしたアリスの反応を合図に唇を離した。それまで行為に没頭していた自分に気づいて、実はだいぶ飢えていたのだろうかとJは無自覚な自分を顧みた。ここがどこかさえ、意識の外だった。そろそろ冷静に返ったほうがいいだろう。
「あ……待って。もう少し、だけ」
姿勢を正そうとするが、アリスが首に抱きついてくる。
「今日は珍しいですね。どうしたんですか?」
幼い子供のような彼女の背を自然と抱き返し問いかけると、アリスが甘えるように首筋に顔を埋めながらぽつりぽつりと話し出した。
「今日、本当はマロちゃん、元気なの」
「仮病、ということですか?」
「マロちゃんが気を使って、そういうことにしてくれてるの。採取系の依頼を受けるよう勧めてくれたのもマロちゃんなんだ」
「……マロが僕たちに時間をくれたということですか?」
「うん……わたしが、Jくんと二人きりになりたい……って、お願い、したんだ」
わがままで、ごめんなさい。と呟かれて、Jはここ最近アリスの元気がなく見えたことと、今日の空気に違和感があったことに合点がいって、思わず笑みを浮かべた。おそらくアリスはずっと葛藤していたのだろう。自分がわがままを言えば、マロにどんな思いをさせるのかを、ずっと、考えて、考えて、それでも良案が出せなくて、思い切って頼み込んだことだったのだろう。それはJ自身も考えてきたことではあったけれど、彼女との毎日が変わらないのであればそれでいいと飲み込み、手放したことであったから、彼女がどれだけの勇気を要したのか察しがついた。謝るのは、こちらのほうだ。
「気づかなくて、すみません」
「ううん、でも、ずっとJくんに触れないのはもう苦しいよ」
「……そうですね。マロに気を遣わせるのも、これで3度目ですし……」
「Jくんは……?」と問われて、Jは少しだけ思案する。
「僕は……」
言葉にするのに少し躊躇いがあった。もう、けっこう前には答えが出ていたことだ。彼女と気持ちは変わらない。飲み込み、手放し続けてきたのは、ただ彼女の気持ちが追いつくのを待っていたからにすぎない。先のことを考えるとなかなか口にしづらいものがあったのも事実だが。
「僕は、アリスと一緒に生きていきたいんです……。結婚してくれますか」とJは出した結論を言葉にした。
アリスからの返事は、すぐには返らなかった。代わりのように、背中に回された彼女の腕に力がこもる。
この結論は、今までずっとアリスとの関係性を観てきて、先々のことを考えた結果、一番効率が良く、アリスと一緒にいられる最良の答えだったのだけれど。
アリスの気持ちを優先的に考えているJとしては、アリスにその気がないのであれば彼女が望む形で繋がっていこうと思っていた。彼女と長く一緒にいられるならばそれでいい。もしもこの先任務が終わり、新しい任務に着いたとき。彼女が冷めてしまうのならばそれもまた仕方がないだろうと。彼女との関係性に自信があればこそ口にできた言葉ではなかった。関係は安定していたけれど、先に待つ互いの物理的距離感はすぐに想像がつく。込み入ったJの家庭の事情なども考えれば、断られる可能性はじゅうぶんにあるだろうと思えた。
Jは抱きしめられた格好のままぼんやりと川を眺めつつ、答えを待った。しばらくの間、沈黙が続き、かすかにアリスの身体が震えていることに気づく。洟をすするような音が聞こえてきたあたりで、ようやくのこと少し上擦り気味の震えるような声で「ごめんね……今何も言えないんだ」と答えがあった。アリスは静かに泣いていたのだった。
*
依頼品であった白羽の花は今日中に採取しきることはできなかった。藍色の空に染められつつある薄暮の頃合いに、2人は作業の手を止め、採取した分の依頼品をまとめた。道中口にする飲料水としてJは川の水を汲み、依頼品とともに鞄の中へとしまい込む。
「そろそろ出発しますか」
「うん」
嬉しそうに目を細めながら、そっと手をつないでくるアリスの手を握り返し、先ほどまでの彼女の震える身体を思い出す。
『すごく、嬉しい……わたしも一緒に生きていきたい、ずっと、ずっと』
あの後彼女は今までにないほど嬉しそうな顔でそう答えてくれたが、泣き出した理由までは語ろうとはしなかった。だからその涙にどんな意味があったのか、Jにはわからない。そこにわずかな不安がないかと言えば嘘になる。けれど彼女には、どんなに親しくとも踏み込んではいけない領域があることもよく理解していたから、その理由を尋ねることは躊躇われた。彼女と自分との間にある壁を、取り払いたいわけではない。
宿に辿り着いた頃には空は濃紺の帳に覆われていた。橙の灯りが煌めく街中では時折かすかな笑い声や話し声が漏れ聞こえてくる。おそらく窓が開いている家があるのだろう。すれ違う人々も昼間に比べればまばらで、灯りに照らされない細い路地は暗く、一歩踏み込めば闇に攫われていきそうな雰囲気だった。
「マロ、今日はすみませんでした」
「うむ?なんのことじゃ?」
宿の中の二階。奥から三番目の部屋の窓を閉じながら、黒髪を後ろで1つに結わえた少女がコーヒーをすする。二人は橙のランプの灯りがともるその一室で話をしていた。窓の外を見やれば、白壁に独特の紋様が描かれた石造りの建物が多いこの街の、魔術めいた世界観がランプに照らしだされて浮かび上がって見える。アリスには先に風呂にいくよう指示をしたが、Jはマロに謝っておきたかったのだった。
本音としては気を使ってもらったことを謝罪したかったのだが、Jは帰りが遅くなったことについて説明する。体裁としては、具合の悪い仲間を顧みず遅れて帰ってきたという形になるだろう。相手がさりげなく気を遣ったのなら、それに気づかないふりでいるのもまた礼であり、なお彼女に謝るためには建前としてそのささやかな形が必要だった。
「今はだいぶ持ち直したから、心配なぞしなくてよいぞ。むしろわらわの方こそ仕事に穴をあけてすまなかったな。2人きりで大丈夫じゃったのか?」とマロはいたずらっぽく笑う。
「ええ、薬草採取の依頼でしたからね。今日中には片付けられませんでしたが」Jもいつものように口元に笑みを浮かべた。
「ふむ、薬草採取か。一見楽そうでもあるのじゃが、なかなか大変なのじゃよな。わらわはまだ本調子ではない。正直なところすこし休みがほしいところじゃ。どうじゃ、今回の仕事は二人でしては?」
つくづくと世話焼きな性格なのだろう。マロは迷惑そうな顔をするともなく、そう勧めてくる。もう彼女との付き合いも7年ほどになるだろうか。採取系の依頼を受けるよう勧められたのだとアリスから聞いた時点で、マロがこうして時間を多めに取ってくれる予定でいたことはJにはわかっていた。おそらくマロも、Jがこの厚意を受けることを、もう知っている。
「では、そうすることにします。マロは養生してください」
「うむ。明日は気をつけていくのじゃぞ」
マロは満面の笑みで頷いた。
*
薬草採取の依頼の何が大変であるかといえば、それは数だろう。要求される薬草はどこでも採取できるようなものも多いが、珍しいものも多く、納品を要求される採取量は、だいたいの場合、その薬草の希少さに対し反比例する。つまり薬草が希少であればあるほど採取量は少なく済むのだが、代わりに見つけることがたいそう難しい。平たく言えば量かレアリティか。今回の依頼は後者だったが、作業の大変さはどちらもあまり大差はなかった。
今回アリスたちが受けた依頼は、この地方でしか咲かない白羽の花という薬草を50個納品、というものなのだが、それがまた大変な作業だった。この花自体は、名前の通り、白い羽のような花を咲かせる、よく目立つ花で、見つけやすい。けれど、繁殖力の高い植物ではないのか、一度に見つかるのはせいぜい二つほど。群生している確率の低い植物なために、森中を歩き回らねばならなかった。
Jとアリスはふたりしてうろうろと森の中を練り歩き、この3日でようやく30個ほど集めたところだった。魔物との遭遇に関しては、Jの使う結界魔術──魔物の意識を、結界を張った範囲、あるいは人物から逸らす魔術──により戦いを避けることができたため、安全に作業を行えたが、そのぶんJの精神的な負担は大きかった。魂のエネルギーである魔力を原動力として、精神力を消耗し行使する魔術を、こうも長時間使用するとなると、精神力の鍛えられたJといえども疲労を感じずにはいられないだろう。というのも、結界魔術というものが、術式に組み込んだ時間の間、精神力を継続的に削り取る性質があるからだ。その消耗量は、ふだん攻撃手段や回復手段として使う中級消費魔術を連発するよりも大きい。
「Jくん、ごめんね。わたしがまだ結界魔術を使えないから……」
2人分の結界魔術を行使し続けるJを見て、アリスは申し訳ない気持ちでいっぱいになる。しばし木陰に座り込んで紫色の頭髪を樹にもたせかけるようにして目をつぶっていたJがゆるりと瞼を持ち上げた。切れ長の深い緑色の目がアリスを見つめる。
「いいえ。この依頼が何故あれほどの報酬なのか。これですこしわかりました……実は今は結界魔術を解いています。このあたりなら魔物の気配もないですし、大丈夫でしょう。少し休めば問題ありません……」
精神を回復する秘薬を常に持ち歩いているにも関わらず使用しないのは、これがそうそう手に入る品ではないからだ。この世界で魔術は珍しいものではないが、その消耗──疲労を回復するための手段は効率化が進んでいないのだ。精神を回復する秘薬は、あまり採れない貴重な品を原料とすると、アリスは以前Jからそう聞いていた。
「眠っていいよ、Jくん。何かあれば起こすから」
アリスは鞄の中から例の紙切れを出し、そこから一枚の毛布を取り出すと、Jの身体にかけてやった。Jはもう一度目を開けると、やや疲労の浮かんだ穏やかな目を向けて、ふだん通りに口元に笑みを浮かべた。
「ありがとうございます」
Jがふたたび目をつむり、次第に寝息を立て始めるのを聞いてアリスはやわらかく目を細める。まだ完全に寝入ったわけではないだろうと思いつつ、彼の深い紫色の髪を優しく撫でた。こうして寝顔を見ていると、Jの年齢など忘れてしまう。ふだんの浮世離れした中性的な雰囲気も丸くなるのだろう。あどけない少年のようで、可愛らしいとすら感じる。彼の顔を見つめながら、アリスは一昨日のことを思い出していた。
『僕はアリスと一緒に生きていきたいんです。結婚してくれますか』
あの時。Jの言葉を聞いて、アリスはようやく肩の荷が降りた気がしたのだ。正直なところ、アリスとしては、Jからの結婚の申し出など期待してはいなかった。それは彼になんの非もない。ただ、彼と旅をするにつれ、明確になっていく立場の差がそうさせていた。貴族と平民どころではない。なにも──記憶さえも持たない異世界の人間と貴族。それをおいても、神の代行者という立場の人間と、一緒に生きていける未来が見えなかったのだ。自然とアリスはその現実に追い詰められるように、一緒にいられるのは今しかないだろうと焦ってもいた。今、たくさん、彼と一緒にいたいと思っていたし、彼と別れた後のことさえ考えていた。
その考えは、Jと出会って間もなくの頃。ファジータに助けられた時の件で、痛いほど思い知った自分の甘えと立場によって作られていったものだった。異世界から来た自分がいなくなっても誰の損にもならないという現実は、アリスの心を徹底して孤独にした。誰の家族でもない。家庭もない。仕事を通して繋がっているJとマロしかほぼつながりと呼べるものはなかったのだ。Jに惹かれ、彼と恋人同士になれたことは、この上なく幸せではあったけれど。立場の差を前にすれば、恋人同士という関係性はとてももろく儚いものに感じられ、アリスは安心してJに自分を委ねることはできずにいた。その心の内に巣食っていた不安と緊張感が、あの瞬間、一気に瓦解した。
泣いてしまったことを、Jはどう受け止めただろう。彼は、他人が触れて欲しくないと感じる部分に踏み込んでくる人ではないから、触れてこないことはアリスにもわかっていた。だからこそ、Jを不安な気持ちにはさせたくない。彼は何も言わないけれど、こちらを慮って動く性格であるということは、おそらく色々な可能性を考える人なのだろうと。アリスはこの2年間Jと共にいて、そう感じ取っていた。気にしていない可能性だってあるけれど。あの時アリスは、とても、とても嬉しかったのだ。彼の隣にこれからもいられることが。同時に、とても安心もした。居場所ができたことに。それを、彼にどう伝えたらいいのかを、迷っていた。
アリス自身にも、わかっている。自分はそんなにも心根の綺麗な人間ではないことを。でも。
でも。それをJに知られることは、とても怖かった。ずっと安心感を得たかった自分と彼への恋心が共存している自分を、彼にさらけだすことはアリスがずっと抱えてきた苦悩だ。
「ねぇ、マロちゃん」とアリスが話を切り出したのは、深夜の寝台の上でのことだった。寝台横に備え付けられた小さなランプの明かりだけが灯る薄暗がりの宿屋の一室で、彼女はぽつり、と話し出した。マロは黒猫姿でアリスの足元に丸くなっていたが、何かを悩んでいるようなアリスの声音を聞いて、
「また何を悩んでおるのやら……」言いつつ、彼女の顔の横まで移動した。アリスはマロの頭を優しく撫でる。
「結婚、するなら…」
「するのか!?」
結婚。もうそんな話題が出てくるようになるとは。マロは嬉々として尋ねたが、アリスは不安げに「うん」と頷いただけだった。
「心の中にあるものは、話しておいたほうがいいのかなぁ……」
マロには、アリスの態度からでは、その結婚話が確かなものなのかもわからない。アリスがこうして口に出すということは、他ならぬJがアリスにプロポーズしたと考えてよいだろうが、J本人からはまだそんな話は聞いていなかった。長年見てきた彼の性格を考えれば、なんの準備も整っていない段階で周りの人間に話すことはないだろうから、それも自然に思える。だが、当のアリスがこうして何かを迷っているのを見て、マロはきっとJの言葉が足りないのだろうなとあたりをつけた。
「アリスが迷っているのは、Jの言葉が足りないからではないのか?安心できぬのだろう?」
「ち、違うの」アリスは間髪入れず訂正した。「わたしが……わたしが、狡いから」
「狡い?」
「わたしがJくんを好きで、彼と一緒にいられることが幸せなことには変わらないよ? でも、その一方で、彼がいなくても生きていける居場所を探してたの。その気持ちが、Jくんに申し訳ないんだよ」
居場所になるならば。彼でなくてもいいと、考えてしまっていた自分が狡い。と、アリスは暗に言いたいのだろう。
マロは恋愛ごとに明るい方ではないから、その気持ちを責められるものなのか判断がつきかねた。ましてや異世界からやってきて、誰ともつながりなく、記憶も、何もない過酷な状況を経験したアリスの、早く居場所を安定させたい気持ちを、帰る場所がほしい気持ちを、察してやれなかったのは。Jにも、マロ自身にも非があると言えた。これは、アリスの孤独の話だ。
「アリスは打ち明けたいのか?」とマロは尋ねた。
「うん。Jくんが、傷つかないなら」
「それは狡いな」マロは思わず笑ってしまう。
「Jくんは何も言わないけど、きっとたくさん可能性を考えておく人だと思うんだ。だから、不安な気持ちにはさせたくないの」
アリスという少女は、どうにも中途半端に賢い。きっと、このまま何も言わずに結婚すれば、いずれ今抱えている心情をあらゆる可能性から疑われることになるだろうと考えているのかもしれない。そして間違いなくそれはJを不安にさせる。それは、マロにもよくわかった。アリスは、自分の生き方を自覚しているのだ。本心を晒さない、その生き方は、信用されないのだと。
でも、マロから見て、どれだけアリスがJと一緒にいたいと思っているのかは、今回の件からしてもじゅうぶんにJに伝わっているはずだった。なにせマロがアリスに、二人きりにしてほしい旨を頼まれたのは今に始まった話ではないのだ。むしろ、その回数がかさんだからこそ、Jはお互いがもっと気楽に二人きりになれるよう、結婚することを決意したのだろうとマロには思えた。
アリスの本心は考え方としては狡いのかもしれないけれど。その中身は誠実だ。
「話してもいいのではないか?」とマロは告げた。「Jのあの性格を考えれば、本心がどうこうよりも、アリスが自分と一緒にいたいと思ってくれていることを第一に考えると思うぞ?」
それに、とマロは加えた。
「アリスはそろそろ、Jに委ねてみてもいいのではないか?」
結局のところ、アリスはJを傷つけてしまうかもしれないことが怖いだけなのだとマロは考えた。Jに話しても、話さなくても、彼のほうは何も変わりはしないだろう。マロから見れば、彼は、一時的に不安になったところでそれにとらわれるような男でもなかった。
マロは、「さぁさ、明日もまだ仕事が残っているのじゃろう。もう休めアリス」話は終わったと、アリスの顔の横であくびをしたのち黒いふわふわの身体を丸める。アリスもマロに従いランプの灯りを消すと、眠りについた。
*
「ねぇおとうさん。あとどのくらい?どのくらいで遊園地につく?」
乗用車の後部座席に座ったアリスは、窓から雲行きの怪しい空を見て、父に尋ねた。運転中の父は、一瞬外を見たのか、
「うーん……あと2時間もすれば着くけれど。雨が降り出す前には間に合いそうにないな」
最後の方は独り言のように呟いた。
「えぇー。遊園地で遊びたいよ」
「アリス、しょーがないでしょ?」隣に座る姉のミキが、残念そうに唇を尖らせる妹をおっとりとした声でたしなめる。助手席に座っていた母も、その声を聞いて残念そうに同意した。
「予報では今日は晴れのはずだったのよ。最近の天気予報はハズレが多いわ。年々天候が変化してきているから、天気を予想するのも難しくなってきているのね、きっと」
母の言葉の意味がわかるほどには、まだアリスは大きくない。これは小学1年生になったばかりの夏休みのことだ。アリスはこの日を、本当に楽しみにしていたのだ。
アリスの両親は共働きで、時間に余裕のない人たちだったから、こうして両親が揃って休暇を取り、遠出して遊びに連れて行ってくれることなどめったにないことだった。
楽しみにしていた旅行に、文字通り水を差されて、アリスは車の中でしょんぼりと肩を落としていた。
「あら、やだもう降ってきたわ」
母の声に窓の外をみれば、ポツポツと降り始めた雨がやがてざあ、と大きな音を立てて強くなり、どしゃぶりとなった。
「こりゃあ……遊園地で遊べそうにはないな。ごめんな、アリス。ミキ」
父の申し訳なさそうな謝罪に姉のミキは「ううん」と微笑んで、首を振った。「いいのお父さん。今日は運が悪かったの。わたしはお父さんとお母さんとアリスと家族みんなでこうしてお出かけできただけで嬉しいから、謝らないで。お父さんは何も悪くないんだから」
「ありがとうミキ」
「遊園地はまた今度ね。ホテルには温泉もあるようだし、着いたらのんびり過ごしましょ」
そのやりとりを聞いても、アリスの心は晴れなかった。父を責めていたわけではないし、誰が悪いわけでもないこともわかっていたけれど。小学一年生のアリスの幼い気持ちは、大人な2人のやりとりを納得はできずに、がっかりした顔のまま黙り込んでいた。アリスにあるのは、いつか、でも今度でも、来年、でもなく今だった。思えば車に乗ったあたりから予感はあったのかもしれない。彼女には、今、今日、この日の思い出が大切だった。またこうして家族一緒に旅行に来られるだろうとは思っていなかったのだった。
土砂降りのなか忙しくウァイパーを稼働させて走る車はやがて山通りに入り、いくつものトンネルが連なる道に入った。短いトンネルを走る車の窓に薄暗い闇と光が断続的に映る。長いトンネルに入った時、アリスは本能的に恐怖を感じたけれど、それがなんであるのか彼女にはわからず、胸がそわそわと落ち着かなかった。
「アリス、どうしたの?トイレに行きたいの?それとも酔っちゃった?」
落ち着かなくなったアリスを不思議に思ったミキが心配そうに声をかけたが、アリスは何も言わずに首を横に振った。大丈夫だと口にすることも、怖いんだと口にすることもできずにただトンネルを抜けきることを願っていた。
初めはパラパラと何かが車体に当たる音が異変だった。でもそれは、急激に轟音へと変わった。その轟音は響き渡ると同時に走っていた車体に覆いかぶさった。車体が派手な音を立てて揺れた、と感じた時には、車内をえぐられたかのようにひしゃげ、押し潰された。それは一瞬の出来事で、車内にいた家族の誰にも何が起きたのかわからなかっただろう。
どれくらいそれから時間が経っていたのかわからない。ふと気がつくと、とても窮屈な隙間に挟まるようにして身体が横たわっていた。真っ暗で何も見えず、ただ狭いことだけが伝わってきた。「お姉ちゃん?」アリスはまず隣に座っていた姉を確かめた。隣に座っていたはずだと、手を伸ばす。その手に触れる温かさを確認したと同時に、ドッと心臓が強く鼓動を打ち始める。恐怖。恐怖。何が起きたのかわからない混乱とシン、とした気配。ひしゃげた車内の前方は見ることも叶わぬ惨状で、アリスの心は不安に占められていた。その恐怖から逃れたい一心で「お姉ちゃん!お姉ちゃん!」と叫んで姉の腕を揺さぶった。
ミキはしばらくしてから気がつき、小さく声を上げた。どうやら負傷しているらしく、「痛い……」と呟いた。
「お母さん、お父さん……」小さな声でミキが前方に話しかけるが、あるのはただの静寂だった。アリスはこのひしゃげた車内を見ただけで、母と父の生存を確認することができずにいたから、姉の発したその信号を息を飲んで、ガタガタと震えながら見守っていた。アリスは6歳、8歳年上でも姉はまだ14歳で、大人とは身長差があった。だから、助かったのかもしれない。それならば、大人は……?
頭でそれを計算できたわけではなかった。ただ原形をとどめない車内を見るだけで絶望を感じるほどの惨状だったのだ。
この事故は、トンネルの崩落によるものだった。どこかから知らせが入ったのか。しだいに「人はいないか」と叫ぶ声が聞こえ、救助の人々が駆けつけてくれた気配だけを感じた。車内の前方からは息遣いの1つも聞こえては来なかった。どれほどそうしていたのか。助け出された時には、姉は頭を負傷して血を流しており、両親に至ってはおよそ人間の形らしい形をなしてはいなかった。上半身が下半身にめりこむような形で折り曲げられ、真っ赤に濡れ、だらりとぶら下がった頭からは、お父さんとお母さんという人物を思い描くことは不可能だったが、その光景は幼いアリスの目に強く焼きついた。
思い出したその光景に目を塞ぐようにアリスはきつく目を瞑った。この記憶を手に入れてから、もう何回この光景を見ただろう。アリスにとって人が死ぬということは、喪失ではなく、衝撃であった。記憶を集め始めた頃は、記憶を取り戻すということがどういうことであるかを知りもせず、ただひたすらに取り戻したいと願っていたけれど。こんなことなら取り戻さなければよかったと後悔せずにはいられなかった。
「どうしましたアリス?気分が悪そうですね」
Jの声が聞こえてきて、アリスはハッと顔を上げた。
「ううん、大丈夫だよ。……もう、この辺にはなさそう。移動する、Jくん?」
「では移動しますか」
Jとアリスはいつもの森をさらに深く分け入り、白羽の花を探していた。鬱蒼と生い茂る草葉の影をあちこちと見て回っては、ゆっくりと移動する。それを繰り返してかれこれ3時間が経過している。その間ずっとアリスは手に入れた過去の記憶を思い出していた。今に始まった話ではない。ここのところ、たびたび脳裏に蘇る記憶と格闘しながら旅をしていたのだ。Jには何も話していないけれど、結婚の話を受けてから、こうした話をしたほうがいいのかとも迷い始めていた。
いつものように口元に笑みをたたえ静かな目で見つめてくるJに対し、不安を押し隠すように笑いかけて、アリスはその手を繋ぐ。温かい彼の体温は、アリスの心を癒すと同時に不安を駆り立てるものだったが、そのわけをアリス自身もよくわかっていなかった。
アリスの手をしっかりと握り前を歩くJがふと立ち止まり、もう一度アリスの顔を見つめる。Jの目は静かだったが、どこか思案げで。「やっぱり少し休みませんか」と問いかけてくる。
疲れちゃった?などと無粋なことは聞かず、これは気遣いなのだろうと受け入れて、アリスも「そうだね」と笑顔で返事を返した。
休憩はやわらかい草地の広がる、ぽっかりと空いた空間に無造作に座り込んでとった。今日の区域は魔物もいないようでとても静かだ。おかげでJの負担も軽く済んでいた。彼はアリスの向かい側で胡座をかいて、わずかに微笑み、口を開いた。
「アリスは何に怯えているんですか?」
突然切り出されたその言葉に、アリスはハッと顔を上げる。Jのほうから、こうした話を切り出してくるとは思っていなかったので、思わず戸惑い、答えようと口を開いて、俯いた。うまく伝えられない申し訳なさに自然と視線が下がった。
「僕には、アリスがずっと何かに怯えているように見えます。それは僕では力になれないことですか」
「……ごめんなさい。うまく、言えなくて」
今はなんと口にしても誤解しか生まないような気がして、アリスは口ごもる。
「で、でも、あの!好きなの!Jくんのことが!だから……」
それだけは疑わないでほしい、と伝えようとして、言いかけた言葉に顔が熱くなった。つい慌てた勢いでまた告白してしまった。ちらとJの顔を見ると彼はやや目を見開いたのち、嬉しそうに笑い、「知っています」と答えた。そういう顔もするのかとアリスも目を細めて彼を見つめる。絞られた胸の奥の感触を確かめるようにそっと胸に手を当てた。
「アリスが辛いなら、無理に話す必要はありません。ですが、アリスはもうずっと、僕に何かを伝えたがっているようにも見えるんです。それは見間違いでしたか?」
アリスは首を横に振る。見間違いではないのだ。
「話したいことが、あるの。でもわたし自身にも、うまく掴めなくて。うまく言葉にならなくて……」
「記憶のことですか?」
「いろいろ、かな。ぐちゃぐちゃしてて……」
Jが一語一語、単語からでも拾い上げてくれるような様子を察して、アリスもぽつりぽつりと話し始めた。それをJは静かに聞き入り、ときどきアリスの気持ちを整理するために質問してくれた。ファジータに助けられた時に思い知った甘えや孤独感のことを話すと、Jが謝罪した。どこまで話してよくて、どこから話せば拗れてしまうのかアリスにもわからず、最後はJの優しさにつけこんでいるような気さえしてしまった。取り戻した記憶のことについては軽く触れたが、今まで感じていた孤独感や姉との関係が変わってしまったことを主軸に語った。
話が一段落つくと、Jが言った。
「アリスはずっとこの世界に居場所がないと感じていたんですね……」
うん、とアリスは目を伏せ頷く。
「わたしは、どこにいても異物だったから……」
そう口にして、自分の存在の卑屈さに逆に胸が痛んだ。そう、どこでもそうだった。両親が亡くなったあのあと、親戚に引き取られてからもアリスには居場所がなかった。そこにある家族には、もう決まった形があり、うまく溶け込めなかったのだ。表面上はその家の子供でも、親からの視線はまったく違うものであり、何年一緒に暮らそうと他人の子供だった。それから姉のミキと暮らし始めてようやく居場所を見つけたと思っていたのに、この世界に攫われてしまった。かつて帰る場所だったミキはこの世界に存在していたけれども、もう姉妹としての形に戻ることはなく、その居場所もすでに失われたものだ。
記憶を持たない頃の孤独感以上に、記憶を取り戻していくほどに強くなる居場所のなさのほうが、よりアリスを孤独にしたし、苦しめた。記憶を取り戻していけば、孤独感が消えていくだなんてとんだ甘い考えだったのだとアリスは思い知っていたのだった。
アリスは包み隠さず、狡さの話もした。居場所になるならば、Jでなくてもいいだろうと考えてしまっていたことを。彼と別れた後のことまで考えていたことを。判断をJに委ねるつもりで。でもJは、たった一言、「よかった……」と言ったあと、近づいて、アリスを強く抱きしめた。
「よかった?」
「タツヤではなく僕を選んでくれたことがです」
抱きしめられる心地よさに、アリスは目を細める。彼の香りを吸い込むように息を吸うと、その肩口に顔を埋めて安堵ともにそっと息を吐き出した。Jがぽつりと呟く。
「ありがとう……」
ありがとうございます、とは彼は言わなかった。アリスはJの背に腕を回し、「わたしも。ありがとうJくん……」と呟いた。2人はしばしそうして抱き合っていた。
常に考えていることはいくつかある。気になるものへの観察の目を緩めない性格は、この6日間で様々な違和感を見つけ出していた。手を繋ぎ、歩みを進める間も、アリスの表情が変わる瞬間にも、依頼品を探すその間にも。
アリスのことが気になっていたのは、その一つで。急激に魔物の数が減ったことや、深度が増すごとに張り詰めていく森の空気もJの気になるところだった。
第一に考えていたアリスのことについては、踏み込むか、何も触れずにおくか、多少迷いはあったものの、これから2人の時間が増えていくことを考えればこの機会に踏み込んでおくほうが判断として最良だと思えた。Jとしてもアリスと一緒にいたい気持ちは、その実強いのだ。踏み込めそうな気配があるうちに、のちを円滑に進めるために。彼女を繋ぎとめておくために。少しでも情報を入手しておきたかった。
何に怯えているんですか、と尋ねたのは、本当にアリスが何かに怯えていると感じていたからなわけではなかった。外部からそこまで感じ取れるほどには、アリスは表情に出してはこない。考えたのは、アリスの性格のほうだった。彼女は勇敢でいて、臆病な性格なのだ。アリスはJに何も話してはこないが、記憶がなくともにじみでるあの臆病さは、生きてくる過程ですでに染み付いてしまったものなのだろう。本音を話したがらない。他人と距離を取って接するあの性格は、嫌われないためのものだろうとあたりをつけていた。だとすれば。アリスが集めている記憶は、なんらかのトラウマを有している可能性があった。
だからアリスの様子が変化するならば、外部からの影響か、J自身の言動か、アリスのトラウマに迫る時。大きく分ければその3つだろうと考えていた。
それはアリスが臆病者である、という話ではない。生きるために臆病である必要があったという生き方の話だ。
今回ようやくアリスから話を聞けたことで、孤独についてや姉との関係性ついて話を知ることができたが、彼女のことを常に慮っているようでいて、些細な自分の行動が傷つけてしまっていたことにJは申し訳なさを感じていた。
「あった!あったよJくん!」アリスが笑う。
Jも周りを見回して、その数に驚いた。見える範囲だけでも4株ある。これは今まで白羽の花を探してきて、異例の数だった。
疑問を覚えたJは、すぐさま鞄の中から道具を収納した紙切れを取り出し、道具の中から依頼書の写しを取り出してそこにある写真と目の前の白羽の花を見比べた。
「どうしたのJくん?」
「アリス、触れるのも少し待ってもらえますか?」
「? うん」
Jは4株の白羽の花に一つ一つ近づいて、依頼書に添付された写真を見ながら改めて観察する。繁殖の仕方が違うのであれば、似たような別種であるか。この地域に繁殖力を高める何か要因があるのか。
「白羽の花で間違いないようですね」
葉の裏や葉脈の形、葉の違いや香りの違いも確かめてみたが、これは白羽の花だった。だとすると、繁殖力を高めたものはいったいなんだったのだろう。この森の空気の緊迫感や魔物が見当たらないことに何か関係があるのだろうか。Jは思案する。とりあえず、アリスには許可を出し、いつもどおりに2人でスコップ片手に土を掘り起こし、白羽の花を根から採取した。根にも違いはなかった。
4株すべて採り終えると、先へ進んだアリスがまた声をあげて手招きした。どうやらこのあたり一帯は群生地にであるらしかった。
しばしの間、黙々と作業をする。体感として15分くらい経っただろうか。アリスがふと顔をあげた。
「Jくん、この森……こんな変な空気してたかな……」
ポツリと呟かれたアリスの疑問に、Jは首を横に振った。
「今まで魔物の気配こそありましたが、ここまで妙な雰囲気は感じませんでした……」顔をあげる。その顔色を見て、Jは手を止めた。「……アリス、大丈夫ですか」
目を合わせたアリスは、大丈夫だ、とは言わなかった。その理由はJにもすぐにわかった。気づけば静寂があまりにも痛いくらいだったからだ。色濃くなっていた異様な雰囲気に知らず気圧されていたのだ。Jは張り詰める空気のなか、アリスに短く指示をする。
「アリス、弓を」
Jはあえて魔術を選択しなかった。この空気の中、魔術を選択することはもっとも死に近いと言えた。これはもう一触即発の気配なのだ。今からでは遅い。囲まれている。
今さら。ある一つの可能性に行き当たって、巡り会うこと自体の希少性から、気づくのに遅れたことにJは内心で舌打ちせずにいられなかった。そっと腰に履いていたカットラスを構える。
膨張していく空白。風ひとつ吹かない森の中で2人は、じっと耳をすませた。
張り裂けそうなほどの静寂。押し潰されそうなほどの空気。
それを破ったのは、あまりにも唐突な風の音だった。空を裂く鋭い音ともに周囲の樹々が音もなく上下に切り裂かれ、倒れた音でようやく、2人は事態を把握した。
やはり、とJは虚空を睨む。この張り詰めた空気の正体は、おそらく声だ。この予想が当たりならば。アリスと2人きりで生き延びれるかどうか。賭けにすらならない。最悪の事態だった。