Phase.1 古き良き街を慕って
長い針葉樹林を抜けたスロープのたまりに、小指の先ほどの小さなダイナーがあった。赤い三角屋根のこぢんまりとした一軒家、私の記憶によると、これももう何十年も変わらない風景だった。ハニーチキンのグリルが名物のはずだ。
すっかり見飽きた古い映画よろしく、兎のウェイトレスが大きな耳のゴールデンレトリバーの主人と変わらず営業していた。メニューも何たる変わり映えのなさ。二人はもちろん、私の顔など憶えていないと思う。なぜならずうっと前から、かなりのご年配だったからだ。
リス・ベガスを離れ十二時間、私は州境にいる。豊かな自然に囲まれた、ここは開拓時代からの田舎町、チャーミーウッドだ。今回はなんと、休暇を取っている。例によって絶賛自転車操業中のベガスの事務所を助手のクレアに任せ、快適な長距離ドライブに身を任せてきた。
仕事を離れた天地は、やはり心地いい。砂漠のど真ん中のモーテルで飲んだ安いビールに紙粘土のようなチーズバーガーさえも、私にとってはこの上ないご馳走だった。
天候にも恵まれたし、いつもは聴き流しているラジオの専門チャンネルで、大好きな音楽をたっぷりと楽しめた。決断して良かったと思う。
都会に生まれ、都会に育ったが、この私も都会の垢を洗い流すときが来たのだ。今回ばかりはハードボイルドの看板も、開店休業である。
テック9を持ったギャングも、ポーチの中に二十五口径を忍ばせた訳あり美女も、私を追っては来れない。この国の古き良きものの面影を慕って。ただハンドルを握って、ゆっくりと、プライベートの自分に戻っていくのだ。これぞハードボイルドな男の正しい休暇である。
チキンのグリルがやってきた。そう、この皿一杯にはみ出さんばかりの胸肉、ぱりぱりに焼きあがった香ばしい鶏皮に、とろりとかけられたマスタードの利いた黄金色のハニーソースの香り。ここから何を足してもいけない、引いてもいけない。これぞ、由緒正しきメニューである。いやあ、今日も最高のランチになった。
「スクワーロウです、お久しぶりです。実は十年ほど前、『先生』とこちらにうかがったのですが…私のことを憶えてくれておりましたかね?」
「先生?」
ウェイトレスに余分にチップを弾んで感謝を示すと、私はカウンターの中に向かって話しかけた。不愛想な店主はちらりと私の顔を見ただけで、知らないねと言うように、肩をそびやかしたが、兎のウェイトレスが、その袖を引っ張る。
「あんた!ほら、『先生』って言ったら、去年新盆だったぺよお」
「ああ、保安官事務所の先生が?」
マスターはやっと、ピンと来てくれたようだ。私は頷いた。
「そうです、バーンスタインさんにお世話になったものです」
私はリス・ベガスから来た経緯と、今回の旅行の目的を話した。すると、明らかなよそ者に殻を閉じていたマスターは、急に打ち解けた。
「はー、それはこっただ遠ぐまで、墓参りに。どうも、ご苦労様で」
私は、苦笑して首を振った。ここへ足を運ぶのも十年ぶりになってしまった。新入りのクレアを直接紹介する機会もなく、先生は急逝されたのだ。
「危篤とうかがったときにはもう、遅かったものですから悔いが残っていましてね」
老夫婦は笑顔で、親切に色々と話をしてくれた。街の名士の知り合いと聞けば、田舎では話は早い。お陰で不明瞭だったお墓の場所もきちんと聞くことが出来た。
「ところで、バーンスタイン探偵事務所は今、どうなっているんでしょうか。ご子息がお仕事を引き継いでいると聞きましたが、お忙しいのか連絡が取れずじまいで…」
と、言うと、夫婦は気の毒そうに、顔を見合わせた。
「あすこさ今、行かねえ方がいいべえ。…なあ」
マスターが重い口火を切ったものの、兎の方は言葉を濁らせた。
「あの、今、事務所はやってませんから」
「休業されたのですか?ご子息は?」
フレンドリーだった夫妻は揃って、肩をすくめる。私は思わず首を傾げた。触れてはいけない話題とも思えなかったが、バーンスタイン事務所に一体、何かあったのだろうか。