第二章・四人の【天使】~【第三節・魚人族の誇り~前~】~
この話は戻りポラリス司祭一行へ。
魚人族との交渉に向けて、話が進みます。
時刻は十六時十一分。スピカ達が日頃交易を行っているという馴染みの人間の街で昼食を済ませ、僕達は近くの【魚人族】が仕切る港町へと向かっている。ただし、港町へ行く人選は司祭である僕、丸眼鏡の新人【天使】、スピカ、ローグメルクだ。三つ編みの【天使】、ティルレット、シスターとは、食事をした人間の街で別行動をとっている。
港町へは本来行く予定ではなかったのだが、スピカから提案されてこの人選分けがなされた。三つ編みの彼はシスターの顔を見て酷く怯えていたが、彼女と共に行動していて大丈夫だろうか。
道中は平原。視界を遮る物もなく、遠くには青い海が見え、風に乗って鼻の奥へすんとした妙な感覚がする。これが話に聞く【潮風の匂い】か。以前なら海に興味すら覚えなかったが、こうして嗅覚や味覚がわかるようになった今ならわかる。陸では呼吸もままならない生き物達が住まう、尽きることを知らない命の水。共に育った【魚人族】なら、この広大な存在を【母なる海】と崇めるだろう。
僕の後ろを続くローグメルクが険しい表情で顎を擦りながら、隣を歩くスピカへ話しかける。
「お嬢、本当に大丈夫すか? 【魚人族】は俺らに対してめっちゃ親切っすけど、【天使】のお二人連れてったらブチギレ案件なんじゃ……」
「わかってないですねぇ、ローグメルク。人間なら即追い返されますが、【天使】ならまだ話し合いで通れる可能性はあります。それに【魚人族】側も、ボクらと縁を切ってしまうと陸地の食料や日用品、薬、備品その他諸々を、交易で手に入れるカードを失ってしまうんですよ。人間の商人は論外ですし、いくら彼らだってそこまで馬鹿では……ないと思いたい」
「特に関所の警備兵は血の気の多い奴っす。話し合いで折れなければ、荒事になるかもしれやせん」
「……あの……でも、どうして危険を冒してまで、向かおうだなんて……」
新人【天使】が小さな声で二人の会話へ入る。それもそうだ。彼女達にとって、僕らが同行している利点も利益も無い。港町へ立ち入る交渉が上手くいかなければ、彼女ら自身にも不利益を被りかねないだろう。
「彼らを上手く口説き落とせれば、周辺地域の交易窓口が開かれる可能性はあります。一般人は無理でも、商人の出入りの許可が下りれば、皆さんの街へも海産物の流通経路ができるでしょうし、手頃な値段で買うことができる日もいずれ来るやもしれません。ボクらの得られる利益はまず無いとしても、閉鎖的な交易ではなくなった【魚人族】側に得られる利益はあります。お二人には、是非その布石となっていただきたいのですよ」
スピカは鼻で笑いながら質問に答える。
【天使】は人間以外の種族に対しては、【階級制度】による干渉制限はない。僕としては新人の彼女より、弁の立つ三つ編みの彼が同行してくれた方が助かったのだが。スピカは、彼が僕を上司として快く思っていないのを見抜いたらしく、交渉中に敵対的な言動をされても困るとして、やや強引に引き離されることとなった。
【魚人族】側の交易窓口が広がれば、人間達との関係回復に繋がる可能性はある。無理をするつもりはないが、彼らもまた退屈していた神々に狂わされた種族だ。出来ることなら救いたい。
「難しいことかもしれませんが、彼らの為に頑張ってみます」
「んー……ポーラ司祭も言うんなら、俺は必要以上口挟まないでおくっす。ただ、お二人やお嬢が危ない目に遭いそうならブッ込むつもりでいるんで、安心してくだせぇっ!!」と、自身の胸を叩き、頼もしげにローグメルクが励ましてくれる。
【魚人族】の事は書物で得た知識程度しかないが、血気盛んで武勇を重んじ、約束事に厳しく誇り高い。滑かな鱗に覆われた肌は乾燥に弱いので、水場から長時間離れられないが、水中でも呼吸をすることができる気管を持ち、海中には彼らの巨大な住処があるとされている。【狂王】による侵略前は人間を含めた他種族に対し中立的で、地上の道具や食料、文化に興味を持った彼らも交易を盛んに行っていたそうだ。
戦前、各地の港は商人の街として栄えたが、戦争が始まると人間を含めた様々な種族が、【魚人族】の地上拠点を強奪しようと押し寄せ乱戦。種族の血筋を絶つ訳にもいかず、族長同士の判断で戦える者以外は海中へ身を潜め、耐え過ごした。
戦争が終わり、【勇者】と【ルシ】がクーデターを起こしている隙を突いて、【魚人族】は人間側から各地の拠点を奪還。しかし、地上へそれ以上攻めることもできずクーデター騒ぎも収まり、【勇者】が王になった人間側と停戦協定を結んだ。彼らからしてみれば、それ以外の選択肢がなかったのだったであろう。以降の他種族との関係は、現在に至る。
港町へ着くまで、この関係をどう修復するかと考えていたが……できれば事を荒立てず、平和的に済ませたい。スピカやローグメルクらと友好関係であるならば、僕が【天使】だと説明しても即座に荒事へ発展することはないだろうが。
だが疑問がある。先に立ち寄った街や目的地の港町、どちらもスピカ達と友好関係だが、最初の接触はどのような形だったのだろう? 改変された歴史通りなら【魚人族】はまだしも、人間側には敵と認識とされたはずだ。一切の支障や問題なく、交易を結ぶまで交渉することができたとは思えない。参考程度に尋ねてみるか。
「スピカさん。先に立ち寄った人間の街や港町の【魚人族】とは、どういった機会があって交易を行えるまでの関係を構築できたのですか? こういった交渉を行う側へ立ったのは初めてでして、参考にさせて欲しいのです」
「ううん……実は、ボクが直接交渉の席に立ったわけじゃなくて、ボクの領地に拠点構えてる方のお陰なんですよねぇ。魔物混じりの方なのですが、冒険家としていろんな種族の街や村、遺跡や地図に無い秘境を旅しててかなり人脈が広く、彼が『不便が無いように』と自分の買い物ついでに、代理交渉を行ってくれていたそうです」
「扉の無い酒場に住んでる、シルクハットの蜘蛛男っす。お嬢がまだ小さかった頃にふらりと来て、『この場所は居心地がいい、旅の拠点とさせてもらってもいいか?』って、そのまま居ついちまいやした。旅へ出るとしばらく帰ってこなくてよく留守にしてるんすけど、話すと面白い奴っすよ。昨日夜遅くに帰って来てたはずっすけど、司祭はまだ会ったことありやせんでした?」
あの建物の住人か。いつ来ても誰も居らず、留守中に無断で入るのも失礼だと思い、立ち寄らなかった酒場。今日入口から覗いた時も内部に誰もいないように見えたが、外からでは見えない場所に居たのだろうか。
魔物混じりの蜘蛛男。……偏見を持つ人間が多いこの【地上界】で、それを恐れず冒険家として人間や他種族と接し、逞しく生きている彼は一体何者なのだろうか。代理交渉も自分の買い物ついでに? もはや相手の弱みを何かしら握っていたのではと勘繰ってしまう。
「え? アラネアさん、帰ってきてたんです? ボク何にも聞いてないんですけど?」
スピカが眉間にしわを寄せてローグメルクの方を見て、彼はきょとんとした顔で質問へ答えた。
「あれ? 言ってなかったっす? 昨日はお嬢すぐ寝ちゃいやしたし、夜中に眠そうな顔して城まで来て、俺とティルレットに買い物をお願いしてったんっすよ。つっても港町じゃなくて、さっきの街で全部揃えられる食材ばっかっすけど」
「………………」
「お嬢?」
「おまああああぁっ!? なんでそういう大事なことボクに言わないんですかあああぁっ!?」
「はっ!? ハイスンマセンっ!?」
スピカはローグメルクの報告を聞いて、自分の頭をわしゃわしゃしながら叫ぶ。一方、ローグメルクはなぜ主に突然怒鳴られたのか、よく理解できていない様子だ。
それもそうだ。スピカからの班分けの提案は、僕が彼女に城の廊下へと呼び出され、先に寄る人間の街へ着くまでは誰にも言わない前提で行われたものだからだ。交渉が得意な蜘蛛男が帰ってきていたとスピカが知っていれば、同行してもらい、魚人族達との交渉の席へ着いてもらうこともできただろう。ローグメルクは気を利かせたつもりかもしれないが、ティルレットは基本的に無口だ。彼女も尋ねられれば答えるだろうが、報告までには至るまいと判断したのだろう。
即戦力になりそうな人物が同行していないのは非常に痛手だが、スピカの話に乗った僕も三人を責める気にはなれない。やはり僕がやるしかない……か。
「あああもおおおおぉっ!! 【ホウレンソウノオヒタシ】は大事だってボクいっつも言ってましたよねぇっ!? これまともに守れない組織は職務怠慢する輩がのさばって腐ってくって言ったじゃないですかぁあああおまええええぇっ!!」
「め……面目ねぇっす。……返す言葉も、ございやせぇん……」
ローグメルクは道の真ん中でスピカへ五体投地し、彼女は叫びながら、髪を後ろへ綺麗にまとめた彼の頭を両手でわしゃわしゃと掻く。一連の状況が分からない新人【天使】は震えて僕のコートの袖を掴み、困惑してこちらとスピカらを交互に見比べる。
魔王と呼ばれた、偉大なヴォルガード氏の娘と【契約悪魔】の部下は、領地の外でもこうなのか。
「……スピカさんと、ローグメルクさん……ポラリス司祭と部下である私と、上下関係は同じ……ですよね?」
「……ええ。僕も上司としての経験が浅いので、彼女のようにありたいとは常々思いますが、ああいった行為は真似無いよう、反面教師として学ばせていただいています」
見てますか偉大なる英雄ヴォルガード・アーヴェイン氏。あなたの愛する娘と【契約悪魔】は、今日も元気です。
***
十六時三十六分。遠くに白い煉瓦の高い壁と、大きな両開き門が一ヶ所、その周囲に複数の武装した人影が見える。二人の話に聞く関所だろうか、壁は森の中まで続いていて端が確認できない。また攻め込まれることのないよう、警備にはかなり力を入れていることがわかる。壁の上には櫓が点々と設置され、弓と矢筒を背負った人影が動いているのも見えた。
「いつ見ても、関所っつーより要塞っすね。槍兵に弓兵、魔術師も常に入り口を固めるときた。あんなん見せられちゃ、盗賊も寄り付きやしないっす」
乱れた髪を【生成術】で作った櫛で整えながら、ローグメルクが呟く。
港町……いや、一つの国家ととらえた方がいいだろう。独自の掟を敷き、壁を築き、人間と干渉することなく十五年間を生きてきた彼らだ。人間や【天使】が知らないような技術を一つや二つ、身に着けていたとしてもおかしくはない。
「壁の向こうは穏やかな海と丸い建物が沢山並んでいて、他種族が入れない以外は活気溢れたいい所なんですよ? 彼らは海さえあれば生きていけますが、ボクらと同じであの場所から離れることができず、時代の流れに取り残されてしまっています。【魚人族】ならではの技術革新は勿論ありますが、世界の進化の方が数段上でしょう。だからこそ、彼らは地上の物に興味を抱くのです」
厳重に警備された門の周囲を眺め、スピカは語る。
僕も、自身の住んでいる街と、書物で得た知識程度しか、技術の進歩を知らない。けれど世界は広大で、【勇者】が住まう王国は今尚発展し続けていると聞く。【ルシ】が介入しているとも噂があるが、戦争時の急成長に比べればとても緩やかな発展だ。優秀な魔術師や研究者の絶え間ない努力によって、人の手でもたらされた技術と僕は考えている。
「……そんなに他の種族と、関わりたくないのなら……海だけあればいいのなら、地上へわざわざ拠点を構える意味は、あまりないのではないのでしょうか。……こうして警備を固めたとしても、定期的に渇きを潤わさなければ生きられない。……なぜ非効率的な生き方を選んだのか、私にはわかりません」
新人【天使】が手帳へ書き込みながら、ぼそぼそと呟いている。それはそうだが、彼らは誇り高い種族。自分達の築いた街や村を、奪われるのは気分の良いものではないだろう。停戦協定が結ばれたとはいえ、彼らの中ではまだ戦争は終わっていないのだから。
「いやぁ、そう簡単に割り切れるもんじゃないんすよ眼鏡さん。自分の生まれ育った場所や、ご先祖さんが頑張って建てた自分の帰る場所、ご祖先さんの墓。……他にも、ダチと馬鹿やったくだらない思い出とか、いろんなものが詰まってるんす。そいつら諸々全部捨てる覚悟ができて、初めてそこを棄てることができるんすよ。……あいつらは取り戻せただけマシっす。俺らなんて国ごと吹っ飛ばされて、草も生えない【死の地】になっちまったんすから」
「ボクは全然覚えてないんですけどね。父が残した遺産はあれど、皆が築き上げた物は、あの森の領地しか知りません。ボクの帰る場所は小さな城ですが、生まれた場所が無いってのも少し虚しく感じるものです」
ローグメルクの言葉にスピカも、切られた方の角の付け根を擦りながら言葉を続けた。
僕ら【天使】には故郷を懐かしむ気持ちや、生まれた場所である【天界】へ帰りたいと思う感情が二人よりも薄いのだろう。神々が住む【天界】が滅びることなどありえはしないし、十年勤め続けた教会が解体されていく光景を見ても、特別抱く感情は僕には無かった。
しかし、万が一だ。スピカの領地があの【死の地】のように、何もなくなってしまったとしたら? ルシが新しく建てた教会が、理不尽な何かによって壊されてしまったら? 僕も二人のように、哀しみを抱くのだろうか。
関所の門の前まで来ると、赤や青い鎧に身を包んだ、蜥蜴のような顔立ちをした屈強な体躯の警備兵が五人、駆け寄ってくる。
肌は青や銀色の鱗のようなもので覆われ、鼻が無い。耳があるべき部分には……ヒレといったか、魚のそれと似たような物がついている。彼らはこちらの前で並んで通さぬと言わんばかりに立ち塞がり、中央のリーダー格と思われる赤い鎧の魚人が叫ぶ。
「止まれっ!! これより先は我々の国であるっ!! 余所者を通すわけにはいかんっ!! 即刻立ち去るがいいっ!!」
「一週間前に会ったボクに対して、余所者呼ばわりって酷くないです?」
「知らぬっ!! 人間と同行している者など我々は知らぬっ!! 貴様らが警告に従わぬのであれば掟に従い、我々も実力行使をさせてもらうっ!!」
リーダー格の魚人が右手で合図をすると、左右の魚人達が各々の武器をこちらに構えて威嚇する。敵意を示されるのは想定していたが、リーダー格の魚人の目には怒りや憎悪に限りなく近い感情を感じる。
これは……話し合いで、交易の交渉をするどころではないのだろうか。魚人達の威圧に気圧されたのか、新人【天使】は僕の後ろへ隠れて不安げに様子を窺う。隣のローグメルクは構えることなく、やれやれといったように困った表情をしながら左手で顎を擦っていた。
「俺達は話し合いに来ただけっすよ。それとこの二人は人間じゃなくて【天使】。戦争の真実を知ったうえで、お嬢を導くと誓ってくれたマジで大事な仲間っす」
「【天使】は【地上界】ではなく、元々は【天界】に住まう方達です。【天界】にはクソったれな神々と【天使】しかいませんし、神々に創られた【天使】は種族と呼べるかも怪しい。余所者は余所者でも、【魚人族】の皆さんの掟に記載されている【他種族】の定義に抵触しないと思われるのですが、どなたかわかる方いらっしゃいませんか?」
「黙れっ!! 何を吹き込まれたか知らないが、誇り高き我らの国へ踏み入れることを許すわけにはいかないっ!!」
二人の言葉を聞いても、依然リーダー格の態度は変わらない。だが、並んでいた左端の二本の細い髭が生えた魚人は、何かを思い出したかのように構えていた剣を鞘へ納め、鎧の懐から取り出した手帳のようなものをめくり始める。スピカは説得を続ける。
「あの誇り高いことで有名な【魚人族】の皆さんが、非武装の少年少女を実力行使で捻じ伏せるってのも、ボクどうかと思うんですけどぉ。……確かにローグメルクは【生成術】や武術の心得は多少なりともありますが、この通り手ぶらで争う気も無いですし。ボクや【天使】のお二人だって、まともに戦える術を持っていません。ボクらが皆さんのように鎧や武器を身に着け、侵略してきたのなら正当な防衛ではありますが。敵意も無い、ただ話し合いをしに来ただけの非武装のボクらを、この場で一方的に虐殺するのは、戦争時にあなたたちがやられたことを、そのままやってるだけじゃないですか。それって、あなた達の掟にある誇り高い生き方と呼べるのかどうか、ボクはどーも疑問なんですがねぇ。……どうなんですか、警備隊隊長の【イシュ】さん?」
彼女に尋ねられたリーダー格の魚人――【イシュ】は歯ぎしりをしている。彼の僕らを見る目は変わらなかったが、彼以外の警備兵達は武器の矛先がやや下がり、お互いに顔を見合わせて動揺しているように見えた。
彼らにとって掟や誇りは何よりも大切であるらしく、僕や後ろで隠れている彼女のような【天使】に対してどういった対応をすべきか判断しかねているのかもしれない。張りつめていた緊張がやや緩むのを感じ、左端の手帳をめくっていた髭の生えた魚人が口を開いた。
「隊長……掟四項には【他種族】としか書かれていません。スピカ殿が言うように、【天使】が【他種族】の枠組みに入らないのであれば、僕らは掟八項の<弱者へ無慈悲に手を下すことは禁ず>に従わないことになります。この場で僕らが判断するには難しいかと……」
「ぬぅ……余所者を追い返すことを、我らの掟に反すると言うかっ!! それでは掟一項の〈【魚人族】として誇り高く生きよ〉に反するぞっ!?」
イシュも部下から告げられた掟の内容と矛盾していることに動揺しているらしく、僕らと部下達に目が泳ぐ。
「そもそも、関所から中へ入れないなら構いませんし、ボクらここで待ってますので族長呼んできてください。掟に反しているかどうかわからないのであれば、彼の判断を仰げばよいでしょう。今日は交易でも侵略でもなく、ただ話し合いをしに来ただけですから」
スピカの一押しに、魚人達は武器を納め始める。しかし、イシュだけが納得のいかない様子で部下に向かい叫ぶ。
「ば、馬鹿者っ!! 誰が武器を納めろと命令したっ!? 隊長命令だっ!! 余所者達をここから追い返せっ!! 我々の誇りはどうしたっ!? 一方的に蹂躙され続けた、あの屈辱的な日々を忘れたのかっ!? 俺は忘れていないぞっ!! 勇敢な父や母を殺し、家を焼き、幼かった兄弟達まで殺されたっ!! 国王となった愚かな【勇者】率いる人間に獣人、鳥人、ドワーフ、エルフ、【悪魔】っ!! 奴らに復讐するその日まで、俺達の戦争はまだ終わっていないのだっ!!」
彼は青い顔を赤らめて怒りに震えるが、彼の部下である四人の警備兵も困惑した様子で隊長を見つめているだけだった。皆わかっているのだ。彼の言うことは正しい、だがその怒りの矛先を僕らに向けるのは違うと。
今この場で僕らに敵意を持っているであろう者は、とうとう彼だけになってしまった。スピカも呆れた様子でため息をついている。見かねたのか、先ほどの掟を確認していた髭の生えた魚人が、帯刀していた鞘に収まった状態の剣を彼の前へ突き出す。
「どうぞ、納得されないのであれば。俺らは隊長命令よりも掟を守ります。……あんたがやっているのは、【魚人族】の誇りを守る行為でも何でもない。弱者への個人的な憂さ晴らしだ。もう混沌の時代は終わった、戦争も終わった。俺らだってあんな目に遭うのはもう御免だ。だが逆の立場に成り下がったら、それこそ【魚人族】の恥。この剣を抜いた瞬間、あんたはもう俺達の隊長でもなんでもなくなる。それでもよろしければ、どうぞ」
「な……貴様ら……っ!?」
遠くで周囲を警備していた【魚人族】の警備兵もこちらの異変に気が付いたようで、何人かが集まって来ているのが見える。部下の言動に、イシュは行き場のない憤怒に歯ぎしりをしながら、更に顔が赤くなっていく。肌に含んだ水分が蒸発しているのだろうか、若干白い湯気が身体から立ち昇っていた。
一先ず八対一、なんとか魚人族の族長と話すことは出来そうだ。あとは警備兵の誰かが、族長を呼びに行くのをここで待――
「そうかっ!! なら望み通りにしてやるっ!!」
とうとう自制が利かなくなるほど怒りが頂点に達したイシュは、差し出された剣の柄を掴んで鞘から引き抜き、左右の部下を払いのけ斬りかかる。「あぶねぇっ!!」と、とっさにローグメルクは隣のスピカを庇うが、イシュの狂剣の矛先は僕だった。
後ろにいる新人【天使】が小さく悲鳴を上げ、僕に抱きつく。避け――られない。
体感の時間の流れが変わる。イシュの剣がこちらへ、ゆっくりと振り下ろされるのが見える。何もしなければ、彼に一太刀で頭から斬られるだろう。
だが今は違う。あの日から、ローグメルクやティルレットと【信仰の力】を使いこなせるよう、少しだけ訓練をしてきた。手合わせの時にローグメルクは加減をしてくれるが、ティルレットは加減を知らない。彼女に何度か喉元や胴体へレイピアを刺されそうになって気付いたことだが、どうやら僕が【死ぬと自覚した時だけ】このような現象が稀に起こるらしい。残念ながら必ず起きるという訳でも、自分の意志で引き起こしている訳でもないが、この僅かな瞬間だけ、僕に守るか死ぬかの猶予が与えられる。
脳が尋常ならざる速さで、情報を処理しているのだろうか? わからない。ただわかるのは、自身の生き死にの選択を強要されるくらいだ。無論、死ぬ気はない。
振り下ろされる剣の前に熱を帯びた両腕を出し、信仰を形にして、半透明な二枚の翼が僕と背後の彼女を守るようにして現れる。翼が実体化すると同時に――――振り下ろされる剣は加速した。
重い金属音とひびが大きく入る音が同時に聞こえ、一瞬だけ彼の剣の重さを体で感じた。イシュの剣は僕に届くことなく弾かれ、彼の手から放れた剣は後方へ回転しながら飛んでいく。
なんとか耐えきれた、これも二人の訓練のお陰か。
「――まだだっ!!」
そう叫ぶと素早く体勢を立て直したイシュは、自分の腰に帯刀していた剣を鞘から素早く抜刀し、腰の回転の勢いに任せ、亀裂の入った翼へと斬りかかる。時間の流れは変わらないが、僕は吹き飛ばされないよう重心を低く意識する。新人の彼女は僕にしがみついたままだ。
接触――半透明の翼はあっけなく、硝子のように砕けた――が、直後に斬られる痛みではなく強い衝撃を身体に感じ、浮き上がりそうになる。堪える為に思わず細めた目の先では、見事な抜刀を決めたイシュが錐揉み回転をしながら宙を舞っている。
衝撃が収まり、自分が吹き飛ばないのを確信した瞬間、彼は顔から地面へと着地し転がった。周囲の彼の部下は一瞬の出来事で何が起こったのかわからないまま、衝撃の痛みで悶絶する吹き飛んだ隊長を見ていた。
「ふぅ……大丈夫ですか?」
抱きついていた彼女へ話しかける。だが彼女も何が起きたのかわからないようで、口をパクパクさせながら僕と吹き飛んだイシュを交互に見ている。とはいえ、彼女や隣の二人が無事だったことを確認した僕は少し安堵する。
「お兄さんっ!?」
「司祭っ!! 大丈夫っすかっ!? 怪我とかどっか折れてたりしやせんかっ!?」
主に被害が及ばなかったローグメルクが心配げな表情で僕の頭や肩、腕や胴を触る。アレが起きた時は僕も大抵後ろへ大きく吹き飛ぶので、彼は怪我がないかどうかいつも触診で素早く調べてくれる。
今回は衝撃こそ感じたが、痛みはない。吹き飛ばされなかったのも、新人【天使】が必死にしがみついてくれていたからだろう。意図してではないが、結果的に重しになってくれた彼女にも助けられてしまった。
「僕は大丈夫です、ローグメルクさん。少し浮きそうになりましたけど、彼女が掴んでいてくれたおかげで怪我をせずに済みました」
「はぁ……すんません、俺が傍にいながら……」
申し訳なさそうに彼が謝罪する後ろで、スピカはほっとした表情で僕を見ていた。それよりも……。
「僕より彼の事を早く診てあげてください。落ち方が悪いとどこかを捻ったり、折ってしまっているかもしれません」
僕の言葉で髭の魚人以外の三人が我に返ったように、イシュへ駆け寄り容態を確認し始める。髭の魚人はその様子を脇目に、僕の前へ来て頭を下げる。
「……すみません、俺の独断で危険な目に合わせてしまって……。隊長があそこまで馬鹿だとは、俺も思わなかったんです……」
「いいえ、頭を上げてください。あなたの行動は……やり方はともかく、とても立派なものでした。相手が上であれ下であれ、地位に囚われず【魚人族】の誇りを守ろうとしたあなたを、僕は責めません。……代わりと言っては何ですが、イシュさんの容態を確認次第、族長様をこちらへお呼びしてもらってもよろしいでしょうか?」
「……わかりました。あなた達を関所から中へ入れることは今は出来ませんが、族長をお連れしますので少々お待ちください。……俺個人の言葉なので、聞き流してもらって構わないんですが、交渉が上手くいくことを願います」
「はい。ありがとうございます」
顔を上げた髭の魚人は振り返り、倒れた隊長の元へと駆け寄る。続いて周囲で警戒していた数人の警備兵も、彼の元へ集まってきた。悶絶していたので死んではいないようだったが、大丈夫だろうか?
「イシュさんは考え方こそあれですが、鍛え抜かれた【魚人族】の兵士です。これぐらいで怪我をするほど、やわではないでしょう。それより、なんとか族長との話し合いまで漕ぎつけられたことを喜びましょう」
僕が不安げな表情をしていたのか、スピカが近付いて笑顔で励ましてくれる。その後、僕に抱きついたままの新人【天使】に抱きつく。重い。
「ひゃぁっ!? スピカさんっ!? ……わ、私はもう、だだ大丈夫ですからっ!!」
「むふふふ~、優しい上司にガッツリ抱きつけて羨ましいですねぇ~? ボクがローグメルクに抱きつかれたりしたらドン引きするのにぃ」
「お嬢っ!? 俺そんなことしないっすからっ!! ポーラ司祭も困ってるっすよっ!?」
ローグメルクが慌ててしがみつく主人を引き離そうと、主の腰を掴んで引っ張る。スピカは離さず、新人【天使】もスピカに怯えて離さない。僕の胴が強く絞めつけられるうえ重たい、痛い。
「あの……皆さん、痛いので放してください」
イシュはうるさいですが嫌いになれなキャラです。
真っ直ぐで不器用な彼が今後主人公たちとどうかかわっていくか、私も楽しみです。