第一章・角の生えた聖母~【第五節・ルシ】~
目の前に立ちふさがる新たな影。
ある意味地番厄介な人物が、スピカ達に一方的な交渉をしてきます。
「そこまでですよぉっ!! 【悪魔】の皆さんっ!!」
森の中から出てくる影がある。傷だらけの顔に分厚い唇、袖から出ている傷だらけの手、【教会印】の入った装束を身にまとった巨体の男が、のしのしとこちらに向かって歩いてくる。
一目見て分かった、お兄さんのクソったれ上司です。追ってきたのでしょうか?
「……どちら様です?」
ボクらの近くまで来て歩みを止める。深々と一礼をした後、分厚い唇を開く。
「近くの街で教会の司祭をしております、ニーズヘルグという者です。身分は……話しても構いませんか。【中級天使】という、向こうで倒れている子の上司に当たります。ところでぇ……お嬢さん達のお名前は?」
「ス~ピ~カ~・ア~ヴェ~イぃンでぇすぅ~。あとあなたが何しでかしたかは、根掘り葉掘り聞いていますよぉ?」
「ペントラ、くたばれクソ野郎」
「お嬢様、不肖ティルレット。是非情熱的粛清をしとうございます。許可を」
クソったれ上司――ニーズヘルグはわざとらしく両手を広げて見せ、ボクらの実に淑女的な挨拶に対してにやにや
と笑う。自分の置かれている状況を分かって出てきてます?
「何のことかわかりかねますが……まあ気のせいということにしておきましょう。平和の象徴である【天使】として、私は争いを好みません。いえね、私の愛すべき部下と街の子供達が獣人共にさらわれたと聞きましてぇ……もしやと思い森の中を探してみれば小さな村や教会、お城まであるじゃないですかぁ? 何かあるに違いないと考えた聡明な私は果敢に獣人達に立ち向かい、森を抜けると倒れこむ部下と街の少女、そしてお嬢さんたちがいらっしゃる……あなた方もただの人間には見えませんねぇ?」
全部見ていたのか。ああ、面倒です。目の前の男は、どうやらそういうことにしたいらしい。それだけ揺する強みでもあるんですかね。
「最初に自分で【悪魔】の皆さんって言ったの忘れてしまわれたのですか? 臭い芝居はいいんで、要件だけ述べてくださいませ」
その言葉にふむ、と言ったニーズヘルグは懐から一本の【教会印】の入った金色の書簡筒を出す。それが交渉材料です?
「この書簡筒の中には、私がこの森で発見した【悪魔】の隠れ家のことや【悪魔】たちが獣人達を従えて街の子供らを攫い、あろうことか私の部下である【天使】も傷つけ、瀕死に追い込んだと書かれた報告書が入っております。私が望めば今すぐにでも【天界】へ転送できる、実に素晴らしい道具です。古い史実を覆す大発見、本来ならば【悪魔】のあなた方も無慈悲に裁くべきことなのですがぁ……私は平和を愛する【天使】。あとはぁ……わかりますかねぇ? 賢そうなお嬢さん?」
そういうことか。このにやにやと笑うクソったれはボクらの事をネタにして、いいように隠蔽しようとしている。汚職だらけの上司とは聞いていましたが、手慣れてるってレベルじゃないですねぇ。あらゆる手段に対してガッツリ釘刺してきやがります。
ティルレットに命令すれば、クソったれは火だるまになって簡単に仕留められるだろう。でも奴が持つあの書簡筒が本物だとしたら話は変わる。迂闊に手は出せない。
「そんなデタラメ信じると思ってるのかよ? そこまで【天使】って腐ってるのか」
「【悪魔】のあなた達よりは信じられると思っていますよぉ? 歴史的敗北者、欲望の権化、それからぁ――」
ペントラの挑発も奴には意味をなさない。
歴史に隠蔽されたボクらや【悪魔】にとって、正義という言葉は何一つ意味をなさない。正しいのは常に勝者。民衆も【天使】も、誰もが盲目的に信じ切っている。魔王が悪だと言われて、何故だれも疑うことをしないのか。切られた角が痛む感覚がして、ボクは角の付け根を擦る。
「――まあ、言い始めたらきりがないです。私の要求は一つ。私の部下を返していただきたいのです」
「…………は? この子はいいのです?」
「あなた方が攫った。その事実を示すためには物的証拠がいるでしょう? あー、いえいえ、無理強いは致しませんがねぇ……?」
「お嬢様、許可を」
ボクの苛立ちを察してティルレットが許可を求める。してあげたいですが、【天界】に中途半端な真実を流布させることになると、勇者である現国王やルシの立場の怪しくなる。混沌とした時代を眺めて楽しんでやがったクソ神達の耳に届いてみろ、また狂王のようなロクでもない奴が生まれてくるに違いない。
だが…打つ手がないわけじゃない。この場を切り抜ける為の選択だ。お兄さんがどこまで施術が完了したか不安ですが――
「……わかりました。その取引に応じましょう」
ニヤニヤする奴の目を睨んでボクは言う。
応じてやるとも――ただし【天罰】を受けるのが常に敗者だけだと思うな、クソったれ。
***
「……いいのですかスピカ嬢? きっと【天使】様は――」
「そうだよっ!! なんだってあのクソ野郎の要求に従っちまうんだよっ!! そこのむっつりメイドにでも燃やさせればいいじゃねえかっ!!」
シスターによる施術で手当てを受けながら、ペントラが怒鳴り散らす。
ボクだって本当はこうしたくないんですぅ。それにまだ最上級の切り札はこっちが握っている。奴が考え得るどの最悪よりも、最悪な切り札を。
「シスター、お兄さんの怪我はどの程度まで治せました?」
「肉体の構造が人間に近いのが幸いで、滞りなく進んでいたのですが……まだ詰めの部分が終わっていませんの。止血は出来ているはずですけども、乱暴されたりした拍子にまた傷が開いてしまう可能性があります……申し訳ありませんわ」
目から涙を流しながらシスターは謝る。
あなたのせいではない、むしろあの短い時間でよくそこまでできたものだとボクは評価しますよ。医学的な知識を全く持たないボクらにとって、あなたの膨大な知識は仕事しないで人間と【悪魔】でチェスさせる神様達よりもずっとありがたい。
冒涜的だと嘆かれるので、あなたにはこの誉め言葉を使えませんがね……。
「お嬢ーっ!! ご無事でございやすかぁーっ!!」
眼鏡にひびが入り、ほぼ上裸になってしまったローグメルクが森から飛び出してくる。黒豹頭との勝負は決着がついたのだろうか……? 彼はボクの前でビタッと止まると頭を下げる。
「すいやせんっ!! またまた遅れてしまいやしたぁっ!!」
「ご苦労様ですロードメルク……というかどうしたんですその格好? 黒豹さんとは決着がついたのですか?」
「それが引き分けでございやして……殴って蹴ってギリギリの勝負だったんすけど、向こうが急に興味無くなったとか言って帰っちまったんす……」
「うーん……イライラが解消されてどうでもよくなっちゃったのかもしれませんねぇ」
「あとあいつ猫っす」
「うん? あー……」
猫だったか。いや、それはともかくローグメルクが無事で何よりです。そして奴に一泡吹かせる為の最後のピースも、今揃いました。
「ローグメルク、伝令用の通信できるアレ作ってくれません? お話したい相手がいるんですけど」
「了解っす――……ほっ。俺もあんまり魔力残ってないんで簡素な奴っすけど……」
彼が生成した即席のアレを受け取り、ボクは特定の周波数に合わせる。久しぶりに使ったが、周波数はまだ指が覚えていたのですんなり合わせることができた。
「もしもーし? ボクだけどぉ……ちょ~と君に言いたいこと色々あってぇ――」
***
森の近くに【悪魔】共が根城を作っているのは大変驚いた。奇怪な建物、小さいながら城のような建物、それから紛れもない本物の教会。
信仰心のかけらも無い低能な奴らに、正当な手順を踏んだと思われる教会など建てられるはずもない。だとすれば【上級天使】、もしくはそれ以上の権限を持つ神々が関わっていることになる。【受肉】の研究のために信仰心の高そうな子供達を獣人達に攫わせて、それを妨げられた時は嫌な汗を流しましたが、見返り相応……いえそれ以上の収穫。この情報を使って【天界】の【上級天使】を揺するもよし、私の階級引き上げの踏み台にするもよし。
ああ、神よ。やはり私は選ばれた特別な【天使】。愚かな【下級天使】の部下が犯した罪は決して許されることはありません。彼とは上手くやっていたつもりでしたが、汚れた膿は吐き出さねばなりません。
しかし、それだけでは折角の【受肉】がもったいないというもの。神々の使者である【天使】が独断で裁くなど、平和と安寧を愛する私にはできません。
彼には偉大なるルシの考案した【受肉】に関する研究の礎になっていただきましょう。
「うふふふ……早く彼にも話してあげたいですねぇ。教会をこちらの者で固めてしまえば、更に捗りますよぉ……」
私は教会地下の研究室に設置されたソファで、くつろぎながら今後の事を想像する。
嬉しくて、楽しみで、この大発見を早く彼と分かち合いたい。この書簡筒はそれからでも……いえ、あの【悪魔】達を従えて、更なる拡大を――
不意に、研究室の扉がノックされる。彼が来たか。明日の朝になるかとも思っていたが……私のこの気持ちを友と分かち合える時間が増えたと思えば悪いことでもない。それに【上級天使】にさえなれれば【堕天】や死の恐怖に怯えることなどないのだ。
私は扉を開きながら【天界】からの来訪者を歓迎する。
「今開けますよぉ、こんばんわフェルモン――」
「こんばんわ。応援の要請によりこちらの教会に派遣されてきました、【特級階級・ルシ】というものです」
――……は?
「なるほど。これはこれは……ずいぶんなご趣味をお持ちのようで。いったい今まで何人の人々を攫ってきたのです? 十や二十ではないでしょう?」
誰だこの男は? 教会のローブを身にまとった銀髪の男が私の前にいる。フェルモンドは? 私は【中級天使】の応援要請を行い、申請書は何度も見返したはず。
「ああ、【中級天使】フェルモンド氏についてですが、【天界】と【地上界】の情報管理を担う立場でありながら多くの不一致な報告書、申請書の虚偽工作、一部【上級天使】や同僚への賄賂、【下級天使】への恐喝や暴行・労働過多……実に興味深い現場のお話をしていただいた後、私の権限を持って任を解き、【堕天】の処遇とさせていただきました。あなたとも大変交流が深かったそうで……」
「な、なんのことでございましょうかぁあっ!? 私は神々に仕える【天使】ですぞっ!? そんなやつのことなど知りませぬっ!! 知りませぬっ!!」
何故だ? フェルモンドが私を売ったのか? いや、弱みを握っている私に奴がそのような事をするわけがない。情報漏洩? フェルモンドが? それとも奴と関っていた【天使】か? 知らない、私は何も聞いていない、私は――
「弁解は結構。この本来あるはずのないこのお部屋の現状、それと奥の牢に幽閉されている【下級天使】……それにあなたは我々の秘匿に触れてしまった」
「ひっ、ひとくぅ!? もももしや【悪魔】共の根城にあった教会は……っ!?」
「これより【特級階級・ルシ】の名において、神々に代わり汝を【天使】の職から解き、穢れを清算させるべく【堕天】を執行するっ!!」
待て待て待て。ルシ、ルシがあの教会を建てただと。ならば……ならばこいつにとってもこの情報は【天界】に流されたくないはずだ。
私は懐から用意しておいた書簡筒を取り出す。勿論、まだ報告書は中に入っている。金色の小さな道具を片手に握ったルシと名乗る男へ、私は書簡筒を見せつけた。
「おおルシともあろうことかっ!! 残念ながらぁっ!! 私は既にその情報を取りまとめてしまいましたぁっ!! このような物が【天界】に流れてしまってはあなた様の地位っ!! 大規模な歴史改変行為っ!! 隠蔽っ!! 勇者や神々への冒涜っ!! あろうことかぁ【悪魔】に我々の誇り高き【天使】の象徴ともいえる教会を建てるな――」
「その書簡筒の使用権限は既にあなたには存在しません。部下の彼に使用権限は譲渡されています」
「――ど……お?」
私の手に握られた書簡筒をいつものように転送させようとする。書簡筒はまだ手の中にある。軽く振ってみる……報告書はまだ中にあり、内側を擦れる音をたてた。畜生、最初っからそのつもりだったのか。
私はすぐそばにあった解体用の手ノコを手に取り、ルシへ果敢に斬りかかった。奴はまだ動こうとしない。
とりあえずこいつ殺そう。私は平和を愛する【天使】、そうでなければならない。
***
何かが弾ける音と共に、目が覚めた。ここはどこだ。ペントラは、あの少女は、獣人達は……どうなっている?
暗い。状況を判断するだけの情報量が足りない。土の匂い、冷たい石の床、血の不愉快な臭い、口の中はまだ血の味がする。手足を動かすと金属が擦れる音と重みがあり、拘束されていることを理解した。捕えられたのか? もしや獣人共に僕も攫われてしまった? 最後に見た景色は狼男の毛だらけの拳だった、ありえなくもない。
なんてことだ、結局僕は二人を救えなかった。算段無しで死地へ飛び込み、変われたと思い込み僅かな力を過信した大馬鹿者だ。これでは誰も報われていない、何も変えられていない。僕はあの三人の残したものを継ぐことが――
暗闇の中、ガチリと音をたてて徐々に光が広がる。見つめていると開いたのは扉で、そこには血の付いた教会のローブを身にまとった男が一人、光に背を向け立っていた。
誰だ? ニーズヘルグではない。彼はもっと大きな体格だ。フードからは銀髪が覗いており、左手には金色の書簡筒が握られている。ニーズヘルグが同僚を呼ぶと言っていた話を思い出す。それがこの男か?
僕が様々な可能性を巡らせる中、目の前の男が話し始める。
「この書簡筒には、君があの森で見聞きした全ての事が書かれている。混沌の時代に起こった侵略戦争の真実。魔王も、勇者も、ルシという【天使】についてもだ。これが【天界】へ流されれば、あそこに住む魔王の娘も【悪魔】共も、再び神々のチェス盤に駒として乗せられる。もし君がそれを望めば、ルシと共に【天界】での仕事を担えるだけの階級へ昇級することも叶うだろう。それだけ価値のある情報だ。クーデター以降の【地上界】はいつまで眺めても戦火は上がらず、神々は退屈で退屈で暇を持てあましているからな。再び狂王のような存在を創り、混沌の時代へ巻き返そうとするだろう。新たな戦場で名を上げれば【天使】として更なる昇級も――」
「黙ってください。僕はそんなもの望みません」
高らかに語る男に、後ろに組まれた形となり腕の自由がままならないながらも、背後の壁と足の力で立ち上がり、睨む。
男の目が見えた。緑色の二つの瞳が、僕を睨み返している。
「望まぬとは……神々に逆らうとも等しいことなのだぞ? 君は自分の立ち場を理解した上で言っているのかね?」
「わかってます。全部知りましたから。知ったうえで、望まないと言っているのです。」
男がローブの下から金色に光る小さな道具を出し、僕へ向ける。棒のような長い突起部分の先に穴が開いている。不思議な形をしているが、今まで見たことがない道具だった。
僕を殺すための道具か? それがどうした。
「確かにあなたの言うように僕はルシに憧れ、彼の共に仕事をすることを目標に、この十年【天使】として従事しました。嫌みで汚職まみれな上司の違反行為に対しても見て見ぬふりをし、信仰心の無い人々や都合のいい解釈しかできない人々を見捨て、自分を押さえつけて昇級しようと必死でした。でもそれは違った。【天使】としての在り方が間違っている。あの三人が【地上界】に残したかったものは、こんな事じゃないと気づいたんです」
「…………ほう」
「魔王と呼ばれたヴォルガード氏は家族と愛する国民を守ろうとし、人間と敵対することのない平和を望みました。勇者はその思いを引き継ぎ、彼の家族と国民を救うため、戦争で犠牲になった方々の意思を無駄にしないために、クーデターを起こしました。ルシは自分の【導きのお告げ】で奪われる命への自責の念に苛まれ、自分の罪と向き合い、それでも皆の為にあろうと努めたから今の平和があるのです。あさましく愚かしい無知な僕に対しても、魔王と烙印を押された父の娘は祈ってくれました……過去を忘れず今日生きていることに感謝し、末永く平和が続くようにと、一切の曇りのない純粋な願いが届いたからこそ、僕は今ここで生きている」
「……問おう、君は本当に望まないのだな?」
「僕が望むのは皆の平和です。偽りの上辺だけじゃない、【天使】も【悪魔】も魔王も関係なく、皆を導く【天使】として、僕は今ここにいます」
男はそうか、と呟くと持っていた小さな道具に親指を当て、ガチリと鳴らす。
「これで最後だ。何か懺悔することはあるか?」
ああ、やはり私はここで死ぬ運命らしい。懺悔……後悔だと? あるに決まっている。
僕は静かに跪き、瞼を閉じて頭を垂れた。
「懺悔します。……僕は一人の少女と【悪魔】の女性を救うことができませんでした。……あの時ああしていれば、こうしていればではなく、僕はあまりにも無力だったんです。変えられるか変えられないかの算段以上に、僕は【天使】として、少女を導きたいと思ってしまった。傷つきながらも少女を守る【悪魔】を、守りたいと思ってしまった……僕のした選択に後悔はありません。ただ二人を救えなかった――それだけが心残りです」
この十年。心の底から誰かを守りたいと思ったのは初めてだった。
二人共すみません。そしてスピカさん――祈ってくださり、ありがとうございました。
「合格だ」
最後の時を待っていた僕に対して、頭上から男の声が聞こえる。
意味がわからず、瞼を開けてローブの男を見る。彼はフードを取り、笑みを浮かべながら僕へ手を差し出していた。合格とは?
「試すような真似をしてすまない。彼女の言葉を疑っていたつもりではないが、君の本心を私は知りたかったのだ」
「……試した?」
「何も変えられなかった、救えななかったと言っていたね? そんなことはない、私にさえできなかったことを成し遂げたのだ」
「成し遂げた……二人は無事なんですかっ!?」
「君のお陰でね。私の名はルシ。君を助けに来た。そして――昇級おめでとう」
ニーズヘルグは、出来るだけサイコなキャラとして書きました。
こいつに関しては【堕天】されて当然な性格と所業だったので、ルシにやられたシーンでは清々しい気分しかしませんね……。
名前の由来ですがニーズヘルグは【邪竜・ニーズヘッグ】のもじりで、ルシは【ルシファー】から来ています。