第一章・角の生えた聖母~【第三節・殻を焼く】
真実を聞いた主人公は自身の身の内を明かし、そこへ二人の女性がお茶会に加わります。
しばしの団欒、しかし更なる客人が訪れ状況が変化していきます。
隠匿された史実を語り聞かせてもらった私は、自分が【地上界】に勤める【下級天使】であることや、ここから一刻程離れた街から来たこと、自分が迷い込んできたのは嘘で、知人の【悪魔】からこの場所を記した地図を貰ったことなど洗いざらい話した。
彼女らの存在そのものや話してくれた史実に比べたら、話にならないほど小さく惨めな話だが。私に対して怒り出すか、それとも呆れるかと考えると妙に緊張してしまう。しかし、意外にも二人の反応は私に対しての同情だった。
「客人……その職場辞めた方がいいっすよ。絶対ブラックっす。俺知ってるっす、やりがい搾取って奴っすよ……」
「よく十年も続けられますねぇ……いえ、教会って確かに重要な場所ですしボクも無きゃ困りますけど、聴きたくもない神頼みとかクソったれな上司に媚びへつらうのは、ボクの堪忍袋の方が穴だらけになりますよぉ……」
「ケリィってのは偽名なんすね。んでも名前と性別無いってのがまず俺信じられねぇっす。【下級悪魔】だって名前あるっす」
「ルシ公が流行らせたその【受肉】……って奴ですか? 階級制云々の前に使い捨て感が否めないというかぁ……知っててやってるんですかね、あの野郎?」
「いやいやお嬢、ルシ公に限って見て見ぬフリはないと思うっす。多分中間管理職の連中が報告とかそういうのメンドがって上に伝えてないんっすよ」
「あー、そりゃ駄目になりますねぇ。真ん中から腐っていく組織は今はよくても長続きしません」
「【味覚】と【嗅覚】無いって、それ食ってて楽しいっすか?……は? 酒とつまみだけで何とかなる?」
「この焼き菓子も紅茶も美味しいんですけどねぇ……折角ローグメルクが張り切って作ってくれたのにぃ……」
「面目ないっ!! 客人用にクッソ濃い味の奴今度用意しときますんでっ!!」
「それ多分意味ないし、ボクのに混ぜられたら酷いことになるからやらないでくださいね?」
感情の起伏が激しい二人だが、何故か私の話すこと一つ一つに、聖書で頭を叩かれたかのように表情が固まる。私からしてみれば、二人の口から語られたことの方がよほど衝撃的であるのは明らかなのだが。森の外との交流もかなり限定的だとも言っていたし、よほど外の話は新鮮で珍しいのだろうと、私の中では処理することにした。
「でもルシ公がまだ現役みたいでよかったっす。ここ数年は音沙汰なしだったっすもん」
話を聞き終えて、若干疲れたような様子でローグメルクが言う。私ばかりが話し過ぎて聞き疲れたのだろうか。
「んー、まあ彼に憧れたお兄さんのような【天使】が実在しているってのも、ボクにとっては嬉しいことです。むしろそうでもなきゃ困ります」
スピカは焼き菓子を口に加えながら私の空いたカップに紅茶を注ぐ。
自分で注ぐと言っても「客人ですから」と二度も断られたので、もう彼女に任せることにしている。彼女の芯の強さは、先ほどのやり取りで学習済みだ。
「お兄さんにこの場所を教えた悪魔って、どんな方なんです?」とスピカは質問をしながら、注いだカップを私に差し出す。
「ペントラさんですか? 私の住む街で便利屋として働いている方ですね。本人曰く、【簡易契約・中級悪魔】だそうです。酒場で飲食を共にする程度しか交流する機会はないですが、悪い方ではないですよ」
「ふむ、ペントラさん……ペントラさんですかぁ……」
「お知り合いではないのですか?」
「いやぁ、ボクは直接面識ないんですけど。この場に不在のシスターが聞いたら泣いて喜ぶと思いまして」
スピカは切られていない角の付け根を擦りながら不敵に笑う。面識がなくとも名前だけは知っていたようで、シスターと何やらつながりがあるらしい。そのような話をペントラ本人から聞いたことはないため、普段の武勇伝を延々と語る彼女を思い浮かべると、私に話せないようなことがあるのかとさえ思えてしまう。
ふと、ここでシスターについて話題が出たので、私の方から切り出してみることにする。
「あちらの教会がルシの建てた教会だとは理解しました。しかし、そのよく話に出てくるシスターという方は教会関連の方ですか? それとも在中の【天使】の方ですか?」
私の質問に対し、二人は「あー……」と声をだしながらお互いの顔を見合わせる。
「「骸骨?」っす?」
疑問形で返答をされてしまったが、冗談を言っているようにも見えない。骸骨…死霊術師…祈祷師の類だろうか?いずれにしろ、人間や【天使】ではないと考えた方がいいだろう。
それもそうか、仮にこの存在しえない領地で【在中天使】がいるのなら、間違いなくルシ以外の【天使】の耳にも話は入ってくるはずだ。ニーズヘルグのように昇級欲が高く、粗探しを半ば仕事にしている【中級天使】などいくらでもいる。私もあまり悪く言えた身ではないが。
シスターの人物像について思考していると、背後の蹄跡がまだ残る扉をノックする音が聞こえた。
「お嬢様。不肖ティルレット、シスターと共に街より帰還致しました」
「お邪魔してますわスピカ嬢。中に入ってもよろしくて?」
二つとも女性の声である。【ティルレット】、ローグメルクが言っていたもう一人の【契約悪魔】の名前だ。彼女が不在だったのはシスターと共に交流のある街へ出かけていたからだろう。件のシスターも扉の向こうにいるようだ。
「空いてるのでどうぞー、お客さんと焼き菓子もありますよー」とスピカは答えた。
「失礼」
「失礼しますわ」
扉を開けて入ってきたのは、頭部左右に渦を巻いた角を生やした肌の白いメイドと、シスターの修道着を身に纏った骸骨だった。
***
私達は暖炉の前からテーブルを少しずらして紅茶と焼き菓子を囲んでいる。私から時計回りでスピカ、ローグメルク、ティルレット、シスターだ。
椅子はローグメルクが自分の座るものと同様に二人の分を追加で用意し、継続的に魔力を送り続けて形成維持をしているらしい。辛くはないかと私は聞いたが「ヨユーっすっ!!」と、親指を立てながらにこやかに答えた。
新しく茶会の席に入ってきた二人だが、ティルレットはふわりとした白い巻き髪に青い瞳、頭部には左右の渦巻いた特徴的な角と……カチューシャといったか? に白のフリルがあしらわれた黒いメイド服と白い手袋、黒いブーツの肌の白い物静かな女性だ。彼女もまたローグメルク同様、スピカに仕える【契約悪魔】である。
そして私の隣にいるシスターは……スピカとローグメルクが口をそろえて骸骨と言ったように、近くで見ても人骨が教会の修道着を着ているようにしか見えない。【天使】ではないのは明らかだが、その格好で大鎌でも持とうものなら、大部分の人間は【死神】を想像するだろう。
彼女は私達と何ら変わらぬ調子で焼き菓子を食べ、紅茶をすすっている。口に入った後の液体や固形物がどうなっているのか、修道着のせいで全くわからないが、こぼしたり修道着の中へ落下しているいる様子はない。何らかの方法で飲食できているようだ。不思議である。
私の視線に気が付いたのか、シスターはカップを丁寧にテーブルに置き、私の方へ顔を向ける。眼球が無いので、どう私を捉えているのかわからない。
「まあ。【天使】様でも骸骨がお茶を飲むのが珍しいのですね」
シスターは顎を動かしながら女性の声を発した。
「……すみません、つい……不快に思われたのなら申し訳ありません」
「とんでもないっ!! ああ私ったら神に仕えると誓った身でありながら【天使】様をからかうなど……」
シスターは嘆きながら両手で顔を覆う。表情が変わらないので、声の抑揚で彼女の感情を察するしかない。
「お気になさらず、シスター。私も【天使】としては最低の【下級天使】。あまり変にお気遣いされてしまってはそういった待遇に慣れてない私も、あなたとお話ししにくくなってしまいます」
「すみませんすみませんすみません……」
カタカタと顎の骨を鳴らしながらシスターは何度も私に頭を下げる。なんだこの光景は。
「シスター、シスター、客人困ってるっすよ?」とローグメルクがなだめる。
「【天使】にぺこぺこする骸骨、すごい光景ですねぇ」
「お嬢様、不肖ティルレット、是非この情熱を形にして残しとうございます」
「んー、ちょっと待ってくださいね。お兄さん、彼女の絵のモデルになってもらってもいいですか?」
スピカはティルレットの提案を許可する前に、私の許可が欲しいらしい。
「私は構いませんけど……シスターもよろしいですか?」
「すみませんすみませんすみません……」
彼女に私達の会話は耳に入っていないようだ。シスターの終わらぬ謝罪を前に困った私は、スピカに目をやる。
「ティルレット、許可しましょう」
「感謝」
そう短く述べた彼女は左手袋をおもむろに取ると、真っ白な顔の肌の色とは似ても似つかぬ真っ黒な手が出てきた。いや違う。黒い文字のようなものが、びっちりと彼女の本来白い左手を覆っているのだ。
呪詛的な文字なのか聖印なのか、あまりに密度が濃すぎて判読することは出来ない。
彼女はその手で空中に【縁】を描き、纏わりつく謎の黒を手のひらや指を器用に使い、縁の中に描き込んでゆく。時折黒いそれは水面に浮かんだ油や絵の具のようにジワリと広がり、彼女が指で引くと線に、くるりと回すと曲線に、平手でこすると模様へと変化していく。彼女の表情は先ほどの慎ましやか無表情とではなく、どこか楽しんでいるような、猟奇的な表情を浮かべている。
あの表情を私は知っている。一心不乱に筆を振るう、飢えた芸術家の目だ。
彼女の青い目に映り揺らぐ黒いそれは、彼女の目に炎を灯しているようにも見えた。
「完成」
美しいとも思えた彼女のデッサン作業は、彼女の未だ黒いままの手が白い手袋に収められたところで終わった。
空中に浮いた【絵】は彼女の完成の合図とともに、ふわりと彼女の膝へ落下する。ティルレットは完成した絵をスピカに手渡し、私とローグメルクも横から彼女の描いた絵を覗き込んだ。
薄く、半透明で白い硝子のような板に黒のみで描かれたそれは翼の生えた【天使】と、捧げるように両手で十字架を持ち、頭を垂らす骸骨の修道女の絵であった。驚くべきことに、絵に使われた黒いそれは未だ板の上で揺らぎ続けている。
「素晴らしいですわティルレットさんっ!! あなたのデッサンする光景も完成した作品も美しいっ!!」
いつの間にか頭を下げることをやめたシスターも、彼女の作業に魅入っていたようである。
私も一度水彩画に挑んでみたことがあり、出来は納得できるものではなかったが、無我夢中に描いているときはただただ楽しんでいたのを覚えている。鏡に映る使い込まれたパレットのようになった自分を見て、ようやく我に返ったほどだ。
彼女の場合は更に情熱的に作業する光景が、すでに芸術の域に達している。感情の乏しい私だが、恐怖や緊張以外で身震いをするのは初めてだった。なるほど、これが感動か。
「ふーむ、なるほど、あの光景が君にはこう見えたかー……」
「……俺アホっすから、芸術的なもんはわからねえっす。ただ漠然とスゲってのはわかるんすけど」
「そういうのでもいいんですよローグメルク。真に迫った芸術は常人には理解しえないものですからねぇ」
「お嬢ならわかるっすか? ティルレットの今まで描いた絵の意味とか」
「いやぁ、模写とかならまだしも抽象的な絵はちょっと……ボクも常人ってことです」
スピカは感心しながら、ローグメルクは顎を擦って考えながら感想を呟いている。当の作者のティルレットはそんな私達を見ながら無表情で紅茶を飲んでいた。
熱しやすく冷めやすい、その言葉がよく似合う女性だった。
「大変美しいものを拝見させていただきました。ありがとうございます」
私は彼女に向って礼を述べる。表情は全く変わらなかったが、彼女も小さく頭を下げる。
「彼女の手から出てきた黒い物は、【火を呼び寄せる呪詛】ですの」
シスターが自身のカップへ紅茶を注ぎながら私に語る。
「手だけではありませんわ。彼女の頭部以外、体全身を覆いつくすように呪詛が何重にも書かれていて、それが常に書き足され続けているのです。彼女は本来冷気や水……そういったものを扱う方面に長けていたそうなんですけども、侵略戦争の時に人間の魔術師に呪詛を撃ち込まれて以来、上手く扱えないようになってしまって。……定期的に呪詛を体の表面から外へ逃がしてあげないと、彼女自身が発火して燃え尽きてしまいますわ」
「やはり呪詛の類でしたか。聖印ならば恐らく封印の類ですし、私のような【下級天使】でも時間を頂ければ解読して剥がす方法がわかるのですが……」
【火の呪詛】か。簡単ではあるが、それ故に扱いが難しい物だと聞いたことがある。刻めば火を出す魔術の代用にもできるが、抑えきれないと簡単に我が身を焼くといわれている。
しかし、ティルレットに撃ち込まれたものは、遅行毒のようにじわじわと広がるものだ。相性の合わない彼女にとって、現在も抑えるのが精一杯なのかもしれない。
「ああっ!! でもそんなに真剣に悩まれることはありませんわ【天使】様っ!!」と考え込む私の様子を見て、シスターが慌てて話す。
「と、言われますと?」
「呪詛自体は私が解読していて、彼女の体に書き足され続ける原因となっている呪詛の位置も判明していますわっ!! やろうと思えばすぐにでも消せましてよっ!!」
「は……ではなぜ消されないのです? 彼女の身が危険なのでは?」
「客人。不肖ティルレット、是非情熱的に解説しとうございます」
私とシスターのやり取りを聞いてか、ティルレットが間に割って入って来た。怒っているとも悲しんでいるともわからない青い瞳と無表情な顔が、私の顔のすぐ横にある。いつの間に移動してきたのだろうか?
「許可を」
彼女はそれだけを私に要求してきた。
「ちょっ!? お嬢あれマズくないっすかっ!?客人にメンチ切ってるし怒ってませんかっ!?」
「うーん……ボクはもうちょっとだけ彼女がどうするか見てみたい気もしますなぁ」
「ええぇ……」
視界の外で、スピカとローグメルクのそんなやり取りが聞こえる。シスターは……恐らく彼女の背後で慌てふためいてるかもしれない。
私は彼女から視線を逸らせない。彼女も私から目を逸らさない。
「許可を」
彼女は再び変わらぬ抑揚で私に許可を求める。
恐らく私が彼女の情熱的解説を望まなければ、彼女は大人しく引き下がるだろう。まるで冷気に熱を奪われた金属のように。ああ、私は自分の身分も弁えられない愚か者だ。探求心を抑えきれず、身の危険を冒してまで何かを知ろうとしている。だから今こうしてここにいる。
好奇心は猫をも殺すとは、よくできた言葉だ。
「よろしくお願いします」
「感謝。お手を拝借」
短い言葉のやり取りが終わり、いつの間にか左手袋を脱いでいたティルレットが、呪詛によって黒ずんだ手で私の左手を強く握る。
「――――っ!?」
熱い、激痛、痛みが鈍くなり、熱に変わる、再び激痛が襲う。
例えるなら熱されて柔らかくなった鉄板の間に挟まれ、焼かれていると表現すべきなのだろうか? それとも火の点いた木炭の山に手を入れているようだと考えるべきか? どちらも経験したことのない私が【天使】として言葉を選ぶのなら、地獄の業火に左手だけを入れ、決して燃え尽きることのできない苦しみを味わっているようだ。
異常を感じて全身から汗が噴き出す。彼女に握られた手から火は出ていない。彼女の顔が私に近づき、青い瞳の中に炎が揺らいでいるのが見えた。否、私が今燃えているのを彼女が見ているのだろうか?
視界が徐々に青くなる、青い、青い炎――――
意識を失いかけた直前、右手が何かに触れた。それは彼女の顔の頬だった。
冷たい、冷気、冷水、氷。徐々に右手を通じて全身の痛覚が消え、正常に肉体が作用し始める。視界の青みも引き、彼女に握られたままの左手の熱が引くころには全身の汗も止まっていた。
「情熱とは好奇心、好奇心は死に近づく。死生の狭間。燃え盛る炎の中ならば冷気が生。凍える吹雪の中ならば炎が生。どちらも正しく、どちらも危ういものにございます。本来交わらぬものが均衡し合う、しかして決して混ざり合えぬ情熱。不肖ティルレット、そこに生を見出したものにございます」
ゆっくりとした口調で抑揚はない。だが彼女の顔は再びあの狂気ともとれる表情を浮かべて私を見ている。右手は彼女の顔の白い頬に、左手は彼女の黒い手に拘束され続けている。
もう私の体には熱さも冷たさもない。あの業火の中で、彼女は彼女の生を見出し続けているのだろうか。
「……ティルレットさん。あなたにとって今の主であるスピカさんや同僚のローグメルクさん、シスターさん、侵略戦争で亡くなった魔王――いえ、ヴォルガード・アーヴェイン氏は、あなたの生きる理由に足り得る存在なのでしょうか」
「無論。スピカお嬢様、ローグメルク、シスター、ヴォルガード王、お嬢様の治めるこの土地の皆、不肖にはもったいなき輝きにございます。しかして輝きが曇れば情熱も湧きあがりませぬ。不肖は輝きが曇らぬよう、努める次第にございます。客人、あなた様はよい情熱をお持ちであります。僭越ながら、不肖に近き情熱にございます。互いに燃え尽きぬよう、しかして情熱を忘れることのないよう、不肖ティルレットは願っております」
「……ありがとうございます」
感謝の言葉を聞くと、彼女は左手を放して私を開放した。そして何事もなかったかのように自分の元居た椅子にまで戻り、カップに残った紅茶に口をつける。その顔はやはり無表情であった。
「ティルレット……初対面の相手にあんな喋るの俺初めて見たっす……」
しばしの沈黙を破り、ローグメルクが目を見開いてティルレットを見たまま呟く。
「似た者同士は魅かれ合うってよく言うじゃないですか? 多分お兄さんと感性が近いんだと思います。冒険心が強いというかぁ……危ないって思っても手足頭突っ込んじゃったりとかぁ……」
スピカは自分の斬られていない角の付け根を擦り、にやにやしながら私を見る。思い当たる節しかない。
「でもよかったですわっ!! 【天使】様とティルレットさんが仲良くなれてっ!! ああ、美しい光景のあまりに涙が……」
シスターは安堵の声と共に顔を覆う。驚くべきことに目が有ったであろう部位の近くから水のようなものがこぼれ、顔を覆った手を伝って流れている。どうなっているのだあなたの体は。
「ボクも久しぶりにティルレットがみんなを、どれほど大切に思っているかが聞けて嬉しかったです。ありがとうございます、お兄さん」
「いえ、私も一度だけ水彩画を日が暮れるまで一心不乱に描いてたことがありまして……なんとなく、わかる気がしただけです」
「お兄さん……それって日頃のストレスじゃないです……?」
「やっぱ辞めた方がいいっすってそこの教会っ!!」
***
「失礼、しばしご静粛に」
和やかな時間が過ぎる中、ティルレットが突然唇に指を当て、沈黙を促す。
「血の臭いと、獣の唸り声が外より聴こえます」
「ん? 野犬っすかね……?」
「静粛に」
「あ、すんません」
ティルレットに注意されローグメルクは再び口を閉ざす。
周囲はあれだけ深い森だ、野生動物や魔物が出てもおかしくはないだろう。私も獣道を通ってきたが、それらに遭遇しなかったのは単純に運がよかっただけなのかもしれない。
「二足歩行の獣人、数は八。個々で分散し、行動しております。不肖ティルレット、迎撃することを提案いたします」
彼女の索敵結果に緊張が走る。迷い込んだ……にしては数が多い気がする。固まって行動していないのは何かを探しているか、この場所を不審がって隠れながら行動しているのだろうか。スピカは少しため息を吐いた後、手に持っていたカップをテーブルに置く。
「今日はお客さんの多い日ですねぇ。……わかりました、許可します」
「御意」
主の許可が下りるとすっと椅子から立ち上がり、速足で扉を開けたあと静かに閉め、客間を出て行った。その姿を確認したあとスピカはローグメルクに指示を出す。
「ローグメルク、あなたは城内の警備を。侵入されないとも限りません」
「了解っすっ!! あーと、シスターっ!! お嬢と客人、よろしくお願いしゃっすっ!!」
「ええ、わかりましたわ。お気をつけてローグメルクさん」
ローグメルクはシスターに私とスピカの護衛を任せ、駆け足で部屋を出る。すると魔力の供給を絶ったのであろう、ティルレットと彼の椅子がするりと消えた。シスターの椅子はまだ残ったままだ。
しかし、彼らだけで充分な戦力といえるのだろうか。主であるスピカは当然実力を推し量ったうえでの判断だろうが、外にいるであろう獣人達の装備は分からない。各個対処するとしても厳しいのではなかろうか。
スピカは再びカップを手に取り、シスターは夕焼けが差し込む窓を見つめている。
「彼らだけで大丈夫でしょうか? 獣人は身体能力が高く狂暴ですし、武器や簡単な魔術を扱えるだけの知能もあります」
「んー、確かに人間の兵士とは少し勝手が違いますし、個の能力も高いので集団で来られたら厳しいでしょうねぇ。ですが分散して行動しているのなら話は別です。ローグメルクは【賑やか】なので感知されそうですけど、ティルレットならば問題ありません。耳も鼻も利くので。お兄さんは戦い慣れ……してるようには見えませんし、ボクのお客さんなのでこの場から動かない方が賢明です」
「私も多少なりとも守護魔術の心得はありますが、攻撃面の魔術はあまり得意ではなくて……【天使】様とスピカ嬢の身は、私がお守りいたしますわ」
不安げな私を安心させようと思ったのだろうか、シスターは私の手を取り真っ直ぐと顔を見つめる。
細くコツコツとした固い感触がやはり皮膚や臓器が透けているわけではなく、本当に彼女が骨そのものだと実感させる。そもそもなぜその姿になったのか、もとより骸骨なのか私は知らない。
そのことを私が尋ねようとした時、スピカが口を開いた。
「そういえば、お兄さんは住んでいる街のペントラという【悪魔】の方から、この場所を教えてもらったそうですよ?」
「……ペントラが?」
私の手を放し、シスターはスピカの方を見る。二人が来る前に、スピカが不敵な笑みを浮かべながらシスターが泣いて喜ぶと言っていたのを思い出す。
「ええ、彼女は便利屋を営んでいて、お兄さんの飲み仲間だそうです」
「ああなんてことでしょうっ!? 彼女がっ!? そんなっ!? こんな事が許されてよいのでしょうかっ!? 神よっ!! 私まだ死にたくないですわっ!!」
シスターは椅子から立ち上がり、天高く両腕を上げ喜びを表現する。頬骨に涙が伝い、表情の分からない彼女はわざと大げさな動きをすることで感情表現してくれているのだろうか。スピカはそんな彼女を見ながら満足げに焼き菓子をかじっている。
「……彼女はお元気?」
感動表現を終え、流れる涙をハンカチで拭きながらシスターは私に尋ねる。
「ええ。【悪魔】の身分こそ隠していますが、街の人間の皆さんとは非常にいい関係を築けているようです。私の仕事の話も聞いてくれたりと……元気過ぎるくらいだと思います」
そう、そう、と頷きながらシスターは私の話をしみじみと聞いているが、震えて彼女のどこかの骨がカタカタと鳴る音がする。
「彼女とはお知り合いですか?」
「……はい、侵略戦争時に――」
彼女が語り始めるとと同時に、室内に硝子の割れる音が響いた。反射的に私達は椅子から飛び上がり、音源の方へ身構える。
そこからわずかに時間をおいて、窓から茶色い毛の塊のようなものが二つ室内に飛び込んでくる。二つの毛の塊は空中でくるりと回転して体制を整えた後、大きなテーブルの上に屈強な両足でずしりと着地した。
――獣人だ。一頭は大きな獅子の頭部で胴には黒い鎧を身に着け、両手には血の付いた短剣が握られている。もう一頭は兎だろうか? 長い耳の生えた大きな頭部に同じ黒い鎧を身に着け、身の丈と同じ長さの槍を一本両手で握っている。
二頭はこちらを視認すると、無事な窓硝子まで割れるかと思うほどの咆哮をあげた。あまりの声量に私は耳を抑えるが聴覚が麻痺し、音を認識できなくなる。
ふらつく視界にはテーブルを力強く蹴り、飛んでくる二頭。獅子頭は私とシスター、兎頭はスピカをそれぞれの武器で狙い、そのまま頭部へ一撃を――入れたはずだが、あと一歩というところで半透明の壁に弾かれ、衝撃でそのまま後ろへ吹き飛ぶのが見えた。
横を見るとシスターが片手を前に出し、その手から出る光で私達を包み込む半透明の壁を形成している。何やら呟いているようで顎を動かしているが、聞き取ることができない。スピカは聴覚を保護するのに間に合ったのか、何やら私に声をかけているがやはり聞き取れない。
私は聴覚が麻痺していることを彼女に伝える為、自分の耳を指す。驚いたような表情をしたあと、私のそばに来てふらつく私の肩を支える。細い指と細い腕だ、体を支えるには少し頼りないと思った私は、傍にあった椅子へ座り、聴覚が戻るのを待つ。
目の前には半透明の壁一枚を手持ちの武器や拳、蹴りで執拗に力任せな攻撃を続ける獣人が二頭。シスターは姿勢を崩さず、片手の光で壁を張るのを維持し続けている。
守護魔術のほとんどは物理的な攻撃や魔術を防ぐために使われ、攻撃に用いられる魔術以上に取得するのに時間がかかることから、高等魔術に分類されている。侵略戦争時に守護魔術専門の魔術師達が最前線に出る軍の被害を減らすために配置され、以降は損害が大きく減ったとの記録が【天界】で読んだ書物に記載されていたの覚えている。
呪術の解読も行えるシスターは相当の知識と技量を持つ女性だと分かったが、二頭の力任せな攻撃は休むことなく続いており、このままでは防戦一方で動くことができない。城内の警備に行ったローグメルクが戻ってくるまで踏みとどまるしかないか。
私の肩をとん、と叩きスピカが自分の方へ顔を向かせ読み取れるよう口を大きく動かす。
『だ、い、じょ、う、ぶ、で、す、か、ら』
流石かの魔王の一人娘、強い娘だ。私は自分のことで精一杯であるというのに。
《――かみさまっ!! てんしさまっ!! おねがいしますっ!! たすけてくださいっ!!》
声ではない、思考が聴こえる。スピカやシスター、二頭の獣人のものではない。人間の思考だ。この城の近くに助けを求める子供、少女がいる。
怯える少女の思考が私の頭に流れ込んでくる。知っている、今日教会に小包を抱えてきた少女のものだ……なぜこんな場所に? 獣人に襲われているのだろうか。もしや獣人達が固まらずに侵入してきたのは少女を探すためではないか?
しかし、今の私達にはどうすることもできない。
《たすけてっ!! こわいっ!! いたいっ!! こわいこわいこわいこわい――》
少女の思考はとめどなく私の頭に流れ込んでくる。聴覚が麻痺したせいで余計に思考を読む力が過敏になっているのかもしれない。思考の同調を切ることができない。
二頭の猛攻はまだ続いている。壁はまだ消えない。スピカと私はその光景を見ていることしかできない。
《こわいこわいこわいこわ――いこわいこわいこわいた――すけてたすけてたすけて――――》
途切れ途切れになってきた。距離が離れて、私の関知範囲を出ようとしている。移動している。どこかにいるかもしれない、自分を助けてくれる存在の元へ。
聴覚が少しずつ戻ってきたらしく、遠くで力強く固いものを叩くような音が響く。目の前の二頭の攻撃か。
《たす――いや――お――さ――た――こわ――》
……止めてくれ。私には今なにもできないのだ。あまりにも遠すぎる。私には君を導くことは出来ないのだ。【下級天使】の私は、スピカに仕える【契約悪魔】のように戦う力も無ければ魔術師でもない、人間の思考が聴こえる人間に過ぎないのだ。
私には君を救うことは出来ない。
《こ――お――あさ――けて――なん――――》
私は無意識に食いしばっているのか、口の中に痛みを感じる。味覚がないのでわからないが、恐らく出血しているのだろう。
なんだこのもどかしさは。選択することなど慣れているだろう? 【導きのお告げ】をするか【見守る】か。信仰の薄いものは無視すればいい。お告げを無視する者も見守ればいい。都合の良い神頼みを聴き流し、ニーズヘルグの小言や上辺だけの説教にも耐えてきたじゃないか。
私を呼びかけるスピカの声が遠くで聞こえる。
《たすけて――たすけてっ!! こわいよっ!! おかあさんっ!!》
止めてくれ、その悲痛な思考に押しつぶされてしまいそうだ。
怒りや憎しみのこもった身勝手な願いではない。自分の力ではどうあがいても解決できない、救えないほどの絶望。この十年、何度となく聴いた。しかし形を成した死が、我が身に迫る者の思考を聴いたのは初めてだ。
胸の奥で、何かが焼ける痛みがする。
きりきりと音をたてて、私を塞き止めていた何かが、爆ぜようとしている。
聴覚が戻る。
揺らいでいた視界が定まり、スピカの呼びかける声が聞こえる。
《たすけてっ!! かみさまっ!! みちびきのてんしさまっ!!》
「お兄さんっ!! しっかりしてくださいっ!!」
「お嬢っ!! お待たせしやしたぁっ!!」
――――鼻の奥が痺れる感覚、舌が口の中に広がる血に触れて刺激される。頭を分厚い聖書で強く殴られた衝撃を感じ、脳が鼻の違和感と舌の刺激を判断しようと急速に働く。
――――【僕】が初めて知った《臭い》と《味》は、どちらも自分の《血》だった。
主人公の【私】と言う殻を焼き破り、【僕】という個性が生まれました。
様々な感情や感覚が一度に爆発した主人公。自分にできることをしようと、次節から大きく動き始めます。