静寂の部屋
『たけちゃん、たけちゃん』
栞音の声がする。
『遅刻するよ』
……遅刻?
「先に行ってるからね」
「!」
その単語に一気に目が覚めた。
「遅刻、今何時だ? やべぇ、弁当、作る暇もないのか……」
飛び起きて目覚まし時計を捜そうとした俺は、いつもの部屋ではない事に気づいた。
「ホテル…」
自分の漏らした言葉が、昨日の記憶を呼び出す。
「ホテル、ドーベルと栞音を探して…泊まって…隣……」
記憶が甦った。
真っ赤に染まった腕を振り上げて、為す術もない瞬間を待つ自分と
その先にいる幼なじみが、叫びながらチェーンソーを振り下ろそうとする姿を。
「!」
衝撃に体が震え、慌てて周りを見回す。
「……」
部屋はしぃんとしていた。
壁も日差しを遮ってくれているカーテンも白くて、腕もかすり傷1つない。
「生きている…のか?」
脳に昨日の騒動を検索してみるが『該当する項目はありません』とエラーメッセージが返ってきた。
それでも諦めずにアクセスしてみたが、さっきの画像以外は、騒動が起きる直前、部屋にカードみたいな物からガスが吹き出した辺りまでしか出てこない。
「ガス…あれは、何だったんだ?
そして何が起こったんだ?」
声は部屋に響くが、答えてくれる人はいない。全員の名前を呼んでみるが、声も姿を現すこともなかった。
「……外に誰かいないのかな」
ベッドから降りるため、体の向きを変えると、見覚えのあるボディバッグが視界に入ってきた。
昨日、カジュマルから貰った木製武器のせいでぱんぱんに膨れた私物。
「バッグがあるってことは、隣の部屋」
ベッドから降りて、自分の服装に気づく。血に染まっていないが、昨日 着ていた服ではない。
記憶に残っている。これは昨日、買った服だ。
3日連続で同じ服を着る気になれず、ドーベルの帽子とバッグと一緒に購入した。
それを今着ている。
「誰か着替えさせてくれたって事? やっぱり生きているよな、俺」
念のため頬を強く引っ張ると、力を入れた分だけの痛みが返ってきた。
「夢ではない。夢じゃないんだな…滅亡も」
ボディバッグを背負い、ドアを開ける。
人類滅亡最後の日を1人でスタートした。
「やっぱ、夢かもしれない」
ドア外の光景に前言撤回するしかなかった。
白い壁に淡い灰色のじゅうたんが敷き詰められ、焦げ茶色のドアが定期的に取り付けられていたハズなのに。
床は灰色に近い細い木の枝が幾十に絡み合い、それが壁や天井にまで張り巡らされていた。
というよりドアを開けたら、木の枝でつくられた空間になっていた。
「は? え? ホテルは?」
振り返ると焦げ茶色のドアは原形をとどめているが、周辺の壁は蔓のような枝が元の色がわからなくなるほど占領していた。
「どうなっているんだ?」
照明器具のない薄暗い空間は、左右に伸びていて左側、ホテルだった時に非常階段があった方向は上り坂のようになっている。
「……」
上り坂の先に差し込む光に、自然と足は進む。
「この枝、どう見てもガジュマルだよな…」
落ち着いてきてから蔓のような枝の記憶が出てきた。昨日、ドアを開かないように張り巡らせたカジュマル製の蔓と同じもの。
「ホテル全体をカジュマルの蔓が覆っている…ホテル全体を覆っているのか?
まさか、寝ている間に3日目が過ぎたって事はないな」
不安が足を早める。
非常階段だった所も、灰色の細い枝が幾十にも絡み合っていた。
しかし、近付いてくる音に足が止まる。
「何だ?」
大きな音ではない。カツカツカツと乾いたような、それが小刻みにリズム良く、そして少しずつ大きくなっていく。
階上から、何かが来ると分かった時にはもう、目の前に落ちようとしていた。
黒と茶色の物体、毛の短い大型犬ドーベルマンが
「!」
足場の悪い階段に滑らせ体勢を崩し、そのまま落ちてきた、俺の真上に
助けるというより、下敷きになった。
「いたたたた」
俺がクッションになり、ドーベルマンは無事なのだが…
ドーベルマンなのである。
「もしかして、お前、ドーベルなのか?」
「わん」
一匹のドーベルマンは、俺の言葉に犬語で返し、短い尻尾をちぎれるほど振って喜びを表してくれた。
そして顔を舐めまくる。
「わ、まった、ドーベル待った」
これが人間の時だったらな、と頭の隅で虚しく思いながら何とか立ち上がる。
「わっふ、わん」
ドーベルは尻尾を振りながら跳びはね、周囲をぐるぐる回り『嬉しい』を体全体で表してくれた。
「わん」
それから、大きめに一吠えすると階段を上り始め、半分位の所で振り返る。
まるで『ついてきて』と言っているように。
「足元に気をつけて」
注意してから、ドーベルの後に続いた。
3階から蔓が絡みついているが、かろうじて存在する手すりを命綱代わりにつかみ、慎重に上がる。今度はどちらが滑ってもけがは免れないだろう。
「光は窓からか」
ビジネスホテルにしては大きめの窓ガラスから差し込まれる光は、蔓に占領された非常階段を、弱々しく照らす。
絡み合い幾十に張りめぐらされた蔓は、まるで廃墟のようで、天才アーティストが創り出した至高の作品のような、不思議で気味の悪い空間に思えた。
『ケチをつけるような思考してないで、さっさと上がってこい』
聞き覚えのある生意気な声が背中から聞こえた。
「え? 何で背中から?」
答えは数段先の屋上にあった。




