困惑
「岳春の体は面白い。ドキドキという内蔵の音が、聞こえる」
ママさんの行動を読み取った時に、キッチンから逃げ出せば良かったと、後悔した時にはもう、揺れる黒い髪と白いワンピースが視界に入り込んできた。
もう逃げ場がない。青い目に捕らえられた俺は、冷蔵庫に背中をつけ、伸ばしてきたママさんの白く細い腕に絡みつくのを待つ事しかできないでいた。
「ママは人間が大好きなの。だから、人間の男である岳春の色々な事を知りたい。この体から読み取りたい」
吐息が首をくすぐり、前半身の至る部分にママさんの柔らかい感触が密着する。大きなマシュマロのような感触が胸部に当たり、理性が薄れていく。
「……………………」
ピンポンピンポンピンポンと凄まじく連打するチャイムがなければ、理性は完全に消えていたかもしれない。
「栞音が帰ってきたみたい、開けないと」
ママさんから急いで離れ玄関に向かう。
昨日の帰宅時間と照らし合わせるとかなり早い気がする。
まさか、この様子をどこかで見てたんじゃないだろうな。ピンポンのタイミングがあまりにも良すぎる。
「はいはいはい。今開けるからチャイム連打しない」
ドアを開けるまでうるさく鳴っていた。
「……………」
ドアを開けた先にいたのは、鬼の形相をした栞音……ではなかった。
「どちらさん?」
もふもふした耳と尻尾がつてはいたので、どちら側の者か見当がついたが。
「ママと一緒にいる人間。用がある。来てもらう」
『来てもらう』と、言った時にはもう手首をつかまれ引っ張られていた。
抵抗できるレベルを超えた力に足が地面から離れる。体が簡単に宙を舞い。気がついたときには、腹部が犬耳女性の肩にあった。
「じゃあね、ママ」
俺を肩に担いだ犬耳女性は、ママさんに挨拶してから、玄関に背を向けると人間の域を超えたスピードで民泊のマンションを離れていった。
体が痛い。
肩に担がれたまま、高速で走り、時には跳んで行くのだが、自由がきかない体は衝撃を受けるたびに、至るところにダメージがくる。
頭は犬耳女性の背中側になるので建物が遠ざかっていくのをただ眺める。
見知らぬ地の建物なのでどこを通っているのか見当もつかない。
「今回は迷わずに済んだ。もうちょっと待ってて」
待っててと言われても……
たどり着いた先は時代遅れの理髪店、サンポールと呼ばれるクルクル回る3色看板はなかったが『ナナベ理髪店』看板がガラスにあった。
犬耳女性の背中側にいてなぜわかるかと言えば、半身を左にずらして状況を確認できたからである。
因みにさっきは少し体を反らした。
「開かない」
店をたたんで何年もたっている感じなので、施錠してあるガラスドアが開くわけがない。人がいても困るが。
「開かない。大丈夫、脱走した時を思い出すから」
「それは『大丈夫』とは言わない」
「思い出した。あの時は足を使って強行突破したんだ、せーのっ」
俺のツッコミは耳に入っていない犬耳女性は、右 足を踏み上げ、人間離れした蹴りをガラスドアに当てる。
「あれ?」
足がガラスドアに触れる直前で自ら開いた。
担がれたままの俺は、この後に来る衝撃にどう耐えれば良いのか混乱するしかなかった。