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第五章 殻破り戦記

 長所は、と聞かれたら「真面目なところ」と答えるだろう。短所は、と聞かれたら「真面目すぎるところ」と答えるだろう。

 だから俺は次の日も休まずに学校へ行った。正直にいうとさぼってしまいたかった。しかしそんな柔軟性もなく無駄にくそ真面目なため休むことなどできなかった。

 それでも思うように自転車は進まず、学校に着いたのは朝のホームルームの始まる十分前だった。いつもより数倍重い足取りで階段を上り、のろのろと廊下を進んでいく。

 通り過ぎていく人々の視線が刺さる。実際には俺のことを気にしている奴なんてほとんどいないだろう。俺は元モデルでもなければ生徒会副会長でもないし、ましてや思わず見とれてしまうほどの小柄な黒髪美少女でもない。自意識過剰だ。

 誰も俺のことなんか気にしているわけなんてないのに、それでもみんながこっちを見ているように感じてしまう。微かに聞こえてくる言葉のすべてが自分の悪口のように感じてしまう。そんなふうに感じてしまう自分自身のことが一番嫌だった。やっぱり休めば良かった。どうせ明日から連休なのだし。

 歩いていくと、ふと三組の教室が騒がしいことに気がついた。なんだ? ドアはしまっていてなにをそんなに騒いでいるのかは外からはわからない。

 取っ手に手をかけ横にひく。

「いい加減にしなさいよ!」

 激しく机を叩く音と同時に逢坂さんの怒声が教室中に響きわたった。俺はあまりの驚きにドアの前で立ち尽くすしかなかった。

 自分の席から立ち上がりクラスメイトたちの方に顔を向けている逢坂さん、逢坂さんの方を見て動きを止めているクラスメイト、どうしていいかわからない俺。声を発するものはいなかった。

 いったいなにがあったのか、どうしてこんなことになっているのか事態を把握しかねる。けれどこのままドアの前に突っ立っているわけにもいかないので静かに教室に入り、逢坂さんの横を通って自分の席に着く。

 俺が教室に入ってきたのに気づいた逢坂さんが一瞬肩をびくっとさせつつも、静かに席に座り直しながら無理矢理ぎこちない笑顔を浮かべて挨拶してくれた。

「お、おはよう。今日遅かったね」

「あ・・・・・・ああ、うん。・・・・・・それより、なにかあったの?」

 クラスメイトたちの視線がこっちに集中するのを感じる。なんだか居心地が悪い。

「あ、いや、別になんでもいいんだけどさ」

 しんとした空気に耐えきれず言葉を継ぎだしたが、逢坂さんはとまどいを隠しきれない無理矢理な笑顔のまま、「うん・・・・・・」と言ったきり黙ってしまった。

 助けを求めて隣の川原の方を見るが、気まずそうな顔で黙っていた。いったいなにがどうしたんだと言うんだ。

 いつも朝はあちこちでふざけあっていて楽しげな笑い声が聞こえる教室内が、今日は重苦しい空気に包まれていた。

 困って教室内を見渡したが、話す人はいない。

 そのとき、教室のドアが勢いよく開いた。

「おい、これ見たかよ!」

 遅刻ぎりぎりで急いできたのか、息を切らしながら教室に入ってきたクラスメイトが大声をあげながら教室に入ってきた。

「なぁなぁ島田ーおまえの下駄箱にも変な写真入ってた? あれなんなの? 写真を使った新手のギャグ? 斬新だな」

 ――写真?

 教室の空気がいっきに動き出す。あちこちでざわざわと小声でやりとりがかわされ、教室はいっきに喧噪に包まれた。

「おまっ、空気読めよ!」

「は? なあ、あれって井上だよな? そんな面白い奴だったんだな!」

「おい馬鹿!」

 ・・・・・・俺?

「今日さ、学校に来たら、」

 ぽつりと川原が話し出した。

「川原!」

 逢坂さんが制止する。しかし、川原は話すのをやめない。

「どうせわかることだろ。このまま黙ってたって気まずいだけだ」

 逢坂さんと川原が一時にらみ合う。一拍おいて逢坂さんがため息をついた。

「・・・・・・そうよね。わかった、任せる」

「なあ井上。落ち着いて聞いてほしいんだが最近誰かとケンカしたとか、恨まれるようなことをした覚えはないよな?」

「・・・・・・なんで?」

「誤解がないように言っておくと、俺も雫もおまえのことは友達だと思ってるし、それはこれからも変わらない。面白がってるわけでもないからな」

「なんで、そんなこと言うんだよ?」

 なんだよ、どうしたんだよ。川原がこんな神妙な顔で話すなんてらしくない。やめてくれよ。

「今朝、学校に来たら下駄箱の中にお前の写真が入ってたんだ。ほかの奴にも入ってたらしい」

「なにそれ?」

 一体なんのことだ?

「たぶん、中学のときのだとおもう」

 ーー中学。

「最初は誰のだかわからなかったんだけどさ、教室に入ったら、文集のお前のページまで落ちてたらしくて」

 川原は、今、なんて言った? 本当は耳に入ってきているはずなのに、川原の言葉を脳が理解するのを拒む。

 それでも、川原の言葉は続く。

「みんなもなにが起きたのかわからなくて、でも面白がった奴の噂がひとり歩きして。それで、雫が怒ってたってわけなんだけど・・・・・・」

 心臓が激しく脈打つ。昨日のコンビニ前での光景がフラッシュバックした。

 嘘だ。どうして、こんなことに?

「その写真って・・・・・・」

「これ、なんだけどさ」

 川原がポケットから取り出した紙を広げると、少し躊躇してから俺に渡した。

「・・・・・・っ」

 間違いなかった。それは、中学二年生のときの野外活動のときの写真だった。鮮明に覚えている。あれが、最後の中学での思い出だった。

「なあ、これなんかの合成とかか? 文集だって、いくらでも偽装できるし・・・・・・」

「川原」

 逢坂さんが静かに諭す。

「で、でもさ……」

 当たり前だろ。

 そう即答できたら、どんなに楽になれただろう。その言葉自体が嘘であっても、そう軽く返せたらどんなによかっただろう。そうしたらきっと、このこともギャグで終わらせられたのかもしれない。

 残念ながら写真は間違いなく俺の中学のときの写真で。文集はきっと一年生のときのクラス文集だろう。それも、おそらくは偽装でもなんでもなくーー。

「こんなたちの悪いイタズラ、馬鹿のすることよ。人の写真をばらまくなんて。井上くんが気にすることない」

 そうだ。これはたちの悪いイタズラで、気にすることじゃなくて。みんなも面白がっているだけで。

 ーーでも、そのたちの悪い馬鹿のイタズラは、俺の心を折るには十分すぎた。

「ごめん、俺、ちょっと……」

 川原に写真を返しのろのろと立ち上がると、そのまま教室を出た。廊下に出ると同時に一目散に駆けだした。

「井上くん!」

 後ろから逢坂さんの叫び声が追ってきたが、立ち止まることはできなかった。

 俺の高校での目標は「普通に、平和に、目立たず過ごすこと」。ただ、それだけでよかったのに。



 行くあてなどなかった。保健室に行くつもりもなかった。ただ、とにかく逃げ出したかった。いっそのこと帰ってしまおうかと思ったが、カバンを持ってきていない。

 気がついたらオカ研の部室の前に来ていた。俺が、最初に助けを求めた場所。最初に助けを求めた人がいつもいた場所。今は誰もいるはずのない場所。

 携帯電話がひっきりなしに震えて電話の着信やメールの受信を伝えている。おそらく逢坂さんと川原だろう。

 朝のホームルームの始まりを告げるチャイムが構内に響きわたった。生徒たちがばたばたと教室に戻っていく。ここにいたらいずれ誰かに見つかってしまう。遅刻になるまいと教室へ走っていく生徒に紛れて昇降口を出て中庭へ向かった。

 校舎の裏手にある中庭はひっそりと静まりかえっている。ここは普段から人気がない。真ん中の池をふちどる春の花もそろそろ終わろうとしていた。

 足を止めベンチに座ると自分の足音が消え、ひっそりと静まりかえり、今朝の教室の重苦しいものとはまったく違う自然の静けさに満ちていった。

 生まれて二度目のさぼりだ。どうせ俺ひとりがいなくなったところでなにも起きないのだ。それどころか、今日はきっと俺がいない方がみんな楽に過ごせるに違いない。

 ポケットの中からは相変わらず振動が伝わってきていた。

 どうしてこんなことになってしまったんだろう。あんなに勉強して、毎日自転車でこんな遠くの高校まできて、どうにか友達もつくってそれなりに楽しくやっていた。俺が、なにをしたんだよ。

 けれど、本当はわかっていた。俺のせいだ。俺がもっと早く気づいていたのなら。俺があのときどうするべきかちゃんと気づいていられたら。

 今日も空は晴れ渡っていて余計に俺の気持ちを曇らせた。嫌な動悸はなかなか収まらない。

「はぁ・・・・・・」

「なーにため息ついてんだよ」

 急に降ってきた声に驚いて振り向くと、そこには翔子先輩の姿があった。

「・・・・・・音もなく現れるのやめてくださいよ」

 どうにか平静を装う。

「さぼりか?」

「翔子先輩こそさぼりじゃないですか」

「うん。しかしめずらしいなぁ、井上がさぼりなんて」

「・・・・・・逢坂さんから聞いたんでしょ」

「うん」

 翔子先輩はためらいなくあっけらかんと答えた。

「さっき一年の教室いったら騒がしくてさ。雫に聞いたら井上が出て行ったって言われた」

「なんで一年の教室になんか来たんですか」

「んー、なんとなく。ただの気まぐれだよ」

「・・・・・・昨日、すみませんでした」

 昨日の帰り道、翔子先輩は俺と同じ中学だった杉田と相沢に会っている。なにも聞かなくても察したのだろう。

「いい天気だなぁ」

 俺の隣に腰掛けながら翔子先輩がつぶやく。翔子先輩が空を見上げている間、俺は地面を見つめていた。

「なあ、井上」

「・・・・・・なんですか」

「おまえが心配することないよ。みんなちゃんとわかってくれてる。少なくとも、雫は。あと、川原とかいう奴も」

 その言葉をどんな意味で言ったのか、俺にはわからない。翔子先輩はなにも知らないのかもしれないし、なにもかも知っているのかもしれない。けれど俺はその言葉に素直にうなずくことができなかった。

「翔子先輩になにがわかるって言うんですか」

「わからないよ、今の私には。でも雫や、井上の友達が本気で心配してるのはわかる。ちょっとその他が表面的に面白がりすぎてはいたがな」

 翔子先輩は励まそうとしてくれている。それを、脳が理解することはできるのに。

「……なにも知らないくせに、勝手なこと言わないでくださいよ!」

 世界がぐにゃりと歪み出す。

「井上――ッ!」

 いつの間にか、微かな風の音も、鳥のさえずりも聞こえなくなっていた。目の前にあった雑草の放置された地面も、緑豊かな草花も、声を上げた翔子先輩も、すべてが歪み、消えていく。

 気がついたときには俺はひとりぼっちで中庭のベンチに座っていた。いつもよりも薄暗くさえ感じる。

 しかもその中庭はさっきまでの風景とは異なり、真ん中の池をふちどる春の花は枯れ、あちこちに生えていた雑草すらない荒れ果てた場所になっていた。

 そこは完全に誰もいない静かな世界になっていた。自分以外に誰もいない世界。ここには杉田も相沢もいない。誰にも邪魔されることのない世界。誰も、助けてはくれない世界。それでも、今の俺にはその世界が心地よくすら感じた。

 しばらくの間そのままベンチの背もたれに体をあずけ目を閉じていた。いっさい音はなく、静寂が耳をつんざく。少しずつ動悸がおさまっていく。

 完全な静けさの中、誰かの足音が聞こえた。

 自分の息の音すら聞こえる世界だ。すぐに気がついたが、そいつはなかなか姿を現さなかった。

「・・・・・・翔子先輩?」

 身を起こし、おそるおそる音のする方へ呼びかけたが返事はない。

「誰か、いるんですか?」

 人がいるのだろうか。だが、やはり返事はない。音はどんどん近づいてくる。立ち上がり身構えていると、そいつはついに校舎の影から姿を現した。

「・・・・・・え?」

 俺はそいつをとてもよく知っていた。しかしそいつがどうして今目の前にいるのか、まったくわからなかった。そいつはここにいるはずの奴ではなかったから。

「なんで・・・・・・」

 そこにいたのは、紛れもなく「俺」だった。さえない顔も、無難な黒髪も、高くもなく低くもない身長も、すべて俺だ。

 そいつはゆっくりと無表情で一歩一歩近づいてくる。俺の言葉に応える様子はない。

「誰だよ、おまえ……」

 そいつとはもう一メートルほどの距離しかない。あとずさありしようとして、ひざにベンチが当たる。慌ててベンチから離れ距離をとる。いつのまにか鼓動は激しさを取り戻し、息は荒くなっていた。

 ――ドッペルゲンガー。

 翔子先輩が言うには、影世界というのはもうひとりの自分が住む世界。俺が影世界に行った場合、影世界の俺は現実世界へ行くはずだ。ある瞬間に入れ替わるのだと。ごくまれに境界世界にふたりが共存することもある、とは言っていたが影世界についてはなにも言っていなかった。

 けれども、こいつは今ここにいる。目の前にいる。同じ「俺」という存在が、同じ世界にふたりいる。

 今いったいどういう状況に置かれているのかわからない。この前はこんなことなかったはずだ。

 ・・・・・・本当にこんなことなかったのか? どこかで俺は俺を見ていたような気がする。

 俺が考えている間もそいつはじりじりと距離をつめてきた。いっさい言葉を発さず、ぼんやりとした無表情をいっさい崩さず近寄ってくる。

「な、なんだよ」

 気味が悪い。自分と完全に一致する個体が静かににじりよってくる。

 足になにかが当たった。食堂の建物だ。これ以上後ろには下がれない。

「なんか言えよ・・・・・・」

 もう一メートルもない。変わらず無表情のそいつが俺に向かって手を伸ばそうとして――

「井上っ!」

 真横に吹っ飛んでいった。

 驚きのあまり食堂の壁に張り付いたまま固まっていた俺の視界に映ったのは、竹刀を持った翔子先輩の姿だった。

「翔子先輩!? なんで・・・・・・」

 俺の言葉を遮り、竹刀を持っていない方の手で食堂の壁から俺を乱暴にひきはがして自分の背に追いやった。

「ようやくお出ましか」

「ようやくって・・・・・・どういう意味ですか? なんなんですかこれ!?」

 翔子先輩が両手で竹刀を構え直す。その小さな肩越しに前を見ると「俺」が殴られた方の腰に片手を当てながら立ち上がるところだった。

 その光景を俺はただ見ていることしかできない。

『翔子先輩、ひどいじゃないですか』

 そいつが初めて口を開いた。俺と全く同じ声。背筋に冷たいものが走る。

「悪いな井上。話はあとだ」

 動揺を隠しきれない俺とは対照的に翔子先輩は毅然としていた。

「おまえに先輩呼ばわりされる覚えはない。悪いがうちの部員は返してもらうよ」

 立ち上がったそいつはさっきまでのぼんやりとした無表情とは違い、奇妙にゆがんだ笑いを浮かべていた。

 とまどいを隠せない俺をよそに翔子先輩はそいつと対峙する。迷いはみじんも感じられない。

 俺はなにが起きているのかまったく理解できないまま、翔子先輩の後ろにいるしかない。なにもできない。

『なに言ってるんですか。俺だってオカ研の部員じゃないですか。どうしてそんなひどいこと言うんですか。翔子先輩が誘ってくれたのに』

「黙れ」

 いつもより低い声で静かに、けれどもはっきりと言う。

「私をなめるなよ。何年この世界を見てきたと思ってる。おまえと井上の見分けくらい簡単につく」

 奇妙な笑顔を浮かべたまますり寄ってくるそいつに対し翔子先輩が少しずつ後ずさりをする。それにならって俺も一歩、また一歩と歩を進める。

『俺は井上正輝ですよ』

「ああ、そうだな。でも残念だが私はおまえまで助けてやれるほど優しくはないし、そんなことができるほどの力もない」

『早く俺をここから出してくださいよ』

「断る」

『助けてください、翔子先輩』

 もはや俺がいるのを忘れているかのようにそいつは翔子先輩に話しかけ続けた。そいつも、翔子先輩も、いったいなんの話をしているのか俺にはわからない。

 それでも翔子先輩のただならない雰囲気に俺も身を固くするしかない。

「井上」

 そいつから目を離さずに翔子先輩がつぶやいた。

「な、なんですか」

「次の合図でここから校門まで走れ。私もすぐに追う。いいな」

「え!?」

「大丈夫だ、こいつに喝を入れたら私もすぐに行く」

「・・・・・・わかりました」

 有無を言わさない迫力にうなずくより他なかった。その間にもそいつはじりじりと距離をつめてくる。翔子先輩が竹刀を再び握り直し、ひとつ大きく息を吐いた。

「行け!」

 その言葉が発せられると同時に俺は身を翻して校門へ向かった。

 顔だけを後ろに向けると、俺を追おうと走り出したそいつの腹に容赦ない突きが決められていた。前を向いて走り出す自分の息づかいと足音の合間になにかが叩きつけられる音が何度か聞こえた。

 食堂からまっすぐ走り、一年生の校舎の脇を抜け、さらに曲がって校門へと向かう。

 校門は柵が閉まっていた。

「くそっなんなんだよ!」

「井上っ」

 後ろから翔子先輩が追ってきた。校門を見て事態を理解したらしい。地面に落ちていた石を拾って振りかぶると柵の上へと投げつけた。

 石は柵の上空で跳ね返り、敷地内へと戻ってきた。危なくぶつかるところだった。

「やっぱりだめか・・・・・・」

「なっ……なにするんですか!?」

「今は外に出られない。しかたないから校内に逃げるぞ」

 素早く俺の手を握ると翔子先輩は昇降口へととって返した。

 土のついた上靴のまま校内へあがる。中に人の気配はなかった。しかし少し廊下を進んだところでそれは間違いだとわかった。

「なんですかこれ!?」

「騒ぐな。気づかれる」

 廊下という廊下に大量の黒い影のような人型のもやがいる。それぞれがなにかをぶつぶつとつぶやいているが、一斉に話しているのでそれぞれがなにを言っているのかを認識することはできない。そういう不快な雑音だった。

 翔子先輩に手を引かれるままに走る。そのまま三棟ある校舎の真ん中、B棟にある音楽室へと逃げ込んだ。ドアを閉めると同時に大きなグランドピアノの影に駆け込んで座り込む。

「ここは物が多いし、いざとなれば準備室からでも逃げられる」

「はぁ、はぁ・・・・・・」

 情けないことに俺は息も絶え絶えだ。翔子先輩も呼吸が乱れているものの全身の緊張感は変わらない。

「説明してくださいよ、なんなんですか・・・・・・」

 息を整えながら横を見ると、翔子先輩は真剣な顔のまま出入り口をにらんでいた。俺の手を握っている手にきゅっと力がこもる。

「翔子先輩・・・・・・?」

「え? あ、ああ。ごめん」

 ぱっと手を離すと、前方を見つめたまま苦笑した。

「いったいなにが起きてるんですか。知っていること、今度こそ全部教えて下さい」

「うん、そうだよな・・・・・・」

 息をひそめて翔子先輩を見守るが、出入り口を一心に見つめているままだ。額から汗がしたたっている。ぱっと見たところ疲れていないようにさえ見えたが、そんなことはなかったのか。

「この間、影世界とドッペルゲンガーの話はしたよな」

「はい」

 出入り口から目を離さずに翔子先輩が静かにうなずく。

「さっき中庭で会ったのは井上のドッペルゲンガーだ」

「やっぱりそうなんですか。でもこの前は俺とドッペルゲンガーは別の世界にいるって……おれが影世界にいる場合はドッペルゲンガーは現実世界にいるんじゃないんですか?」

「うん、そうなんだ。……基本的には」

「基本的、にはっていうと?」

「うん・・・・・・」

「翔子先輩」

「・・・・・・うん」

「答えてください」

 翔子先輩の瞳が泳ぐ。やがて小さく息を吸ってから俺に伝わりやすい言葉を探すように、ところどころつまりながらもゆっくりと話し始めた。

「精神的な負荷が大きくなると境界世界や影世界に迷い込んでしまうっていう話はしたと思う。そして今、井上が言ったように基本的にドッペルゲンガーは私たちと対照的な世界に存在する。でも精神的な負荷がさらに大きくなると、ドッペルゲンガーは私たちオリジナルのいる世界と対になっている世界以外にも自由にいけるようになる・・・・・・んだと思う」

「どうしてドッペルゲンガーから逃げるんですか? あいつ、なにかしてくるんですか?」

 目の前の小さな手が震えていた。

「……単刀直入に言う。自分のドッペルゲンガーに触れられると影世界から出られなくなる」

 一瞬の沈黙。

「ど、どういうことですか!? ちゃんと説明してください!」

「ドッペルゲンガーに触れるとオリジナルとドッペルゲンガーの役割が、基本世界が反転するんだ」

「そうなったらどうなるんですか……?」

「この世界は人を狂わせる。オリジナルが影世界で生きていくことは・・・・・・難しい」

 なにを言ってるんだ……この人は?

「それは、つまり、いずれ死ぬってことですか?」

「すぐ死ぬようなことない。・・・・・・が、良くない結果が待っていることは、間違いない」

 翔子先輩は小さく、けれどはっきりと告げた。

「どうして・・・・・・」

 翔子先輩は音楽室の出入り口から目を離さない。

「どうしてそんな大事なこと最初に言ってくれなかったんですか!?」

「ごめん」

「ごめんで済む話じゃないでしょう!? どうしてそんなこと知っていながら黙っていたんですか!?」

 こんなこと、あるわけがない。

「・・・・・・ごめん。ここまで進行してるとは思わなかったんだ」

「思わなくても、こういうことはちゃんと教えておいてくださいよ! 第一、こんなことになったのはもとはといえば翔子先輩のせいじゃないですか!」

 どうして俺なんだ。納得できるわけがない。でも、

「ごめん」

 わかっているんだ、本当は。たとえ翔子先輩と出会っていなくても、俺はきっとこうなっていた。

 翔子先輩はなにも悪くないなんて、そんなことは誰に言われなくともとっくにわかっているんだ。

「言えなかったんだ」

 わかっているのに、俺はなにをやっているんだ。

「こんな気味の悪い世界にいるなんて、伝えたら、井上にまで嫌われるんじゃないかって。そうして・・・・・・また、助けられないんじゃないかって」

 固く手を握り、下唇をかみしめる翔子先輩の姿に、俺はもうなにも言えなかった。

 俺はまた、翔子先輩を傷つけてしまった。昨日あんなことに巻き込んでしまったのに、俺なんかを心配して、励まそうとして、さらにはこんなところまで追いかけてきてくれたのに。

 わかっている。わかっている。この人はそういう人なのだ。俺がやっていることは八つ当たりでしかない。

 俺は、最低な奴だ。

「俺は、どうすればいいんですか・・・・・・?」

 それでも、そのときの俺にはそうつぶやくのが精一杯だった。

「この間と同じだ。とりあえずはドッペルゲンガーに触れられる前にここから出なくちゃいけない。……でもそれは根本的な解決にはならない」

 俺たちが話すのをやめた音楽室は静まりかえっていて、非常に居心地が悪かった。

 翔子先輩は俺にすべてを話してくれた。ここがどこなのか、なにが起きているのか、ドッペルゲンガーに触れるとどうなるのか、翔子先輩が、どんな世界で生きてきていたのか。

 翔子先輩は俺を助けようとしてくれている。それなのに、俺はなにをした?

 ――俺は、なにもしていない。

 小さく息を吸い込んだ。俺が今すべきことを考える。鼓動の音が次第に自分の中で大きくなっていく感覚にとらわれる。それでもここで逃げるわけにはいかない。波に揺られているようなめまいを無視して、ようやく言葉を絞り出す。

「……きっかけは・・・・・・中学生に入ったばかりのときです」

 俺が口を開くと、翔子先輩がこっちに驚いた顔を向けた。しかしすぐに出入り口の方へ視線を戻し、黙って聞いていてくれた。

「昔からテレビの心霊番組が好きで、よく見てたんです。そういう奴はまわりにもたくさんいました。でも、俺はそれだけじゃ足りなくなった……」

 言葉が、口から出まいと抵抗する。

「中学生とか、そのくらいの時期によくあるじゃないですか。異能力や特別な存在への、あこがれ。俺は友達も少なくて、なんの特技も、才能もなかったから、なおさらです」

 そこで一度言葉を区切る。小さく深呼吸していやに激しい動悸を落ち着かせる。

「最初は幽霊が見えるって嘘をついたんです」

 なにもない床に目を落としたまま話し続けた。翔子先輩の方は向けなかった。

「部活が同じで仲の良かった杉田、昨日会った奴なんですけど、あいつにそう言ったんです。両親も祖父母も幽霊が見えて、そういう家系なんだって。あいつは否定せずに聞いてくれました。今思えば、最初から嘘だってわかってたんだと思います。

 そのときの俺はそんなこともわからないで、調子に乗って学校でもあそこに幽霊がいるだの、あそこは変な気がたまっているから近づきたくないだの、あれに触るとよくないだの、霊が憑いているだの……わけのわからないことを言いふらしました」

 きっと翔子先輩は実際にそういう特殊な世界を生きてきたのだろうけど。

 翔子先輩はどんな顔をしているのだろう。ずっとうつむいて、目を見て話すことのできなかった俺にはわかるわけもない。

「もちろんなにも感じてませんでしたよ。幽霊なんか見えないし、ましてや憑き物をはらうことなんてできるわけないし。余計な物を見たくないとか意味分からないことを言って片目が隠れるくらいの無駄に長い前髪にしたり。でも杉田はいつも話を聞いてくれて、一緒に遊んでくれて」

 ああ、そうだ。そうだった。杉田は、友達だった。あの頃の記憶が鮮明に蘇ってくるような気がした。

「でも本当はちがったんです。おもしろがってからかっていただけで、みんなに俺が送ったメールや手紙を回し読みしたりして影で笑ってたんです。……あいつ、気持ち悪いって。

 そんなことにさえ気づかなかった馬鹿な俺は、調子に乗って学校でこれみよがしにこっくりさんをしたり、自作の魔法陣を書いて雑貨屋で買っただけの勾玉でダウジングごっこしてみせて当たるわけもない予言をしてみたりもしましたし、文化祭でお化け屋敷をクラスでやるってなったときなわんて、無駄に大声で反対したりもしましたし、」

「もういい、わかった」

 一気にまくしたてる俺の言葉を静かな声で翔子先輩が遮る。あたたかいなにかが頬を流れた。みっともなさすぎて、顔をあげることさえできない。全部全部全部、俺の自業自得だ。

「・・・・・・俺がそのことに気がついたのはだいぶ後になってからです。俺はだんだんとからかいの対象から無視の対象になって、挨拶さえ誰も返してくれなくなった頃、ようやく気づいたんです。俺、嫌われてるんだって。いつの間にかみんな友達じゃなくなってたんだって。最初から、俺が勝手に友達だと思っていただけなのかもせれませんけど……」

 いまならわかる。どうしてそんなことになったのか。けれどそのときの俺にはまだわからなかった。

「杉田たちがからかうのをやめると、ほかのクラスメイトも俺を無視し始めました。俺はいない存在として扱われて、でも俺によく聞こえるように大声で悪口をいう人も少なくなかった。

 でも俺、どうしていいかわからなくて。つらくて悔しくてしかたがないのに、やっぱりどこかでみんなと友達に戻りたがってる自分もいて。なんどもなんども友達だった頃の夢を見て。でも普通に戻りたくても、みんなと友達に戻りたくても、俺どうしていいかわからなくて――」

「もういい!」

 突然、背中にあたたかいぬくもりが伝わってきた。

 みっともなくむなしい涙をこぼしてうつむいている俺の体を、うしろから翔子先輩が抱きしめていた。ほのかに甘い香りが鼻をくすぐる。

「・・・・・・もう大丈夫だから。もう誰も井上のことをひとりにしないから」

「翔子、先輩・・・・・・」

「私も二階堂も雫も、みんなおまえのことをひとりになんてしない。絶対に。馬鹿なことやったって、お前やっぱり馬鹿だなぁって、みんなで笑って受け止めるから」

 ぎゅっと翔子先輩の腕に力がこもる。やわらかな体から直に体温が伝わってくる。

 俺の背中に顔をうずめたまま、翔子先輩はしばらく俺を離さなかった。

「私も、ずっとひとりだったから」

 翔子先輩が小さな声でつぶやいた。

「だから嬉しかった。みんなが一緒にいてくれて。だからこそ、言いたくなかったんだ。こんな世界にいること。嫌われたく、なかった」

 両腕が微かに震えている。翔子先輩は俺なんかの自業自得とは比べものにならない本当の孤独を知っているのだろう。翔子先輩は俺とは違ってなにかをしたわけではないのに。

「でも井上が境界世界に迷い込んで悩んでいることを知ったとき・・・・・・本当は嬉しかったんだ」

「嬉しかった・・・・・・?」

「うん。この薄暗い世界に、私以外の人間がいることが。もしかしたら、私のことを理解してくれるかもしれないって」

「翔子先輩・・・・・・」

 するりと翔子先輩の腕がほどける。振り向くと、どこかすっきりとした翔子先輩の顔があった。

「でも心配するな。必ず私が元の世界に戻してやる。こっちにひっぱりこませたりなんてさせないよ。あの日、校門で言っただろ? もしなにか困ったことがあったら相談しにこいって。絶対に、助けてやるって」

 そう言っていつものように口の端をあげてにやりと笑って見せた。

 そんな翔子先輩の姿を見て俺も無理矢理笑ってみせようとしたとき、入口の外で物音がした。

「翔子先輩、」

「今のうちに準備室に移動しよう」

 翔子先輩が鋭い目つきに戻り、片手で竹刀を拾い上げると視線は入口に向けたまま数歩移動し、音を立てないように準備室のドアを開ける。ふたりそろって準備室の中へ滑り込むと同時に音楽室のドアが開いた。

『おかしいな、ここでもないのか』

 紛れもない俺の声だ。心臓が再び激しく動き出す。

 準備室のドア越しに足音がしたかと思うと、突然なにかを引きずり倒す激しい物音が聞こえてきた。並べてあったイスか。なにかを強く床にたたきつける音もする。驚いて身をすくめているうちに窓ガラスが次々と割られていく音まで聞こえてきた。

『どこに行ったんだよおおおおおおッッ!』

 咆哮をあげる。自分でさえも聞いたことのないような低いうなり声。けれど、それは確かに自分の声だ。

「出よう」

 腰を抜かしかけていた俺を引き起こしながら翔子先輩が立ち上がる。音楽室からはまだ激しく暴れる物音がしている。

 翔子先輩に手を引かれるままに音楽準備室を飛び出し、そのまま走り出した。

 いったいどこへ向かえば戻れるのだろう。右も左もわからない俺はただ翔子先輩のあとをついていくことしかできない。

 廊下は相変わらずぶつぶつとつぶやき続ける黒い人で埋め尽くされていた。翔子先輩はそれを完全に無視して突っ切っていく。実体を持たない黒い人がぶつかるたびに霧散していった。

 左右をせわしく見渡し、ときどき立ち止まりあたりをよく観察してからまた走り出す。

「しょ、翔子先輩、どこに向かってるんですか」

「・・・・・・わからない」

 荒い呼吸を繰り返しながら翔子先輩が答える。

「わ、わからないって。どういうことですか?」

「どこが井上の出口かは私にもまだわからない。どこかに切れ目があるはずなんだ。そこに行けば、井上は出られる」

「この間と同じ場所とかじゃないんですか?」

「それもわからない」

 また立ち止まり、あたりを見回す。初めて影世界に足をふみいれた一組の近くのトイレ前まできていた。翔子先輩が竹刀を持っている方の手で額の汗をぬぐう。

「出口は時によって違うんだ。今この瞬間にも出口は移動しているかもしれないし、していないかもしれない」

「そんな・・・・・・」

 それじゃあ八方塞がりじゃないか。

「心配するなって。ちゃんと見つける方法はある」

 俺のいかにも心配そうな顔を見て察したのか、翔子先輩が明るめの声で言う。それから階段の上を指さした。

「この世界は少しだけ全体的に薄暗いのはわかるか? その中で少しだけ明るく見えるところがある。ここで言うなら、上の階だな」

 いそいであたりを見回すと、確かによく注意して見ると階上のほうがほのかに明るくなっているような気がする。

「そこに向かえばいい。そこまでたどりつけば、あとは井上に戻る意志があるかどうかだ」

「・・・・・・どういうことですか?」

「境界世界なら私が返すことができるけど……この影世界は井上の意志でここに現れた。意図せずして井上は現実世界から逃げてきてしまったんだ。だから、井上が本当に戻りたいと思っていなければ出られない」

「そんなの、戻りたいに決まってるじゃないですか」

「現実世界がいくら辛いものだとしても? 『ここにいたくない』じゃなくて、『現実世界に戻りたい』と思わなくちゃいけない。それは意図的にそう思ってもだめなんだ。でも難しいことじゃない。ちょっとしたきっかけがあればいいんだ」

「そんな・・・・・・じゃあこの間の俺はどうして戻れたんですか」

「簡単だよ、雫からの電話を受けただろう?」

 そう言えば、あのときは逢坂さんからの電話を受け取った瞬間に戻ってきたんだ。

「雫が教室でずっと待ってることを井上は知っていた。だから早く戻らなくちゃいけないと思った。違うか?」

「……たしかにそうですけど」

「そういうことだよ。そんなちょっとしたことでもいいんだ。ただ影世界に長くいればいるほど戻るのは難しくなる。だからなるべく早く戻らないと。さあ、行こう。ここは音楽室と違って防音もなにもされてないからな」

 再び俺の手を取ると翔子先輩は階上に向かって走り出した。

 しかし三階に上り端から端まで走ったところで光を見失ってしまった。影世界の切れ目が移動してしまったらしい。

「はぁ、はぁ、はぁ・・・・・・」

 翔子先輩の息づかいが荒くなっている。音楽室まで走ったときは俺よりも疲れが少ないように見えたが、今はあきらかに俺より疲労していた。

「翔子先輩、大丈夫ですか」

「ああ、悪い。気づかなかった」

 それだけ言うと俺の手を離しブラウスで雑に手のひらの汗をふいた。

「あ、いや、別にそういうわけじゃないんですけど……だいぶ疲れてるんじゃないですか?」

「いや、大丈夫……けど、ちょっと歩こうか」

 それ以上はなにも言わずに、今しがた走ってきた廊下を引き返してしまった。先をいく翔子先輩を追って、今度は渡り廊下の方へ曲がった。

「なんだこれ・・・・・・」

 渡り廊下の大きなガラス窓はすべて粉々に割られていた。翔子先輩は立ち止まらずにどんどんと奥へ進んでいく。

「やっぱり急ごう。あいつはだいぶ気が立ってるみたいだな」

 翔子先輩がまた走り出した。

 さっきの音楽室で暴れていた音が思い起こされた。渡り廊下の窓をすべて割り、音楽室に来て暴れ回るもうひとりの自分。いったいなにを考えているのか。

 B棟を突っ切りC棟へ入る。あたりはどこも薄暗く、出口となる世界の切れ目の手がかりはありそうにない。しかたなく階段を下りようと廊下の端へと向かう。

 だが翔子先輩は階段の前で急に立ち止まり、竹刀を両手で構えた。

「どうしたん・・・・・」

「井上、逃げろ。部室で落ち合おう」

 翔子先輩が小声で早口に言う。

 意味が分からずにいると目の前の視聴覚室から「俺」が出てくるところだった。

『どうして逃げるんですか、翔子先輩』

 のろのろと歩み寄ってくるそいつの腕は血で真っ赤に染まっていた。凶器はなにももっていない。まさか、素手で窓を割って歩いていたというのか。

「行け」

 翔子先輩の声が聞こえる。けれども俺の足は動かない。

「行けッ!」

 翔子先輩が叫ぶと同時に目の前のそいつが襲いかかってくる。そこでようやく俺の足は動きだし、転びそうになりながら無理矢理足を動かした。

『逃げるなあああああああ――ッ』

 すさまじいうなり声が途中でかき消される。振り返ると翔子先輩の竹刀が思い切りそいつの腹にヒットし、よろめいていた。

 続けざまに低い体制になって膝を打って足をすくう――しかし、そいつは転ぶ拍子に翔子先輩の制服をわしづかみにしていっしょくたに階段の方へと消えていった。

「翔子先輩!?」

 すでに廊下を引き返していた俺からは階下の様子がまったく見えなかったため、あわてて階段まで駆け寄り勢いで数段駆け降りてしまった。

 すぐ下には血塗れのそいつが立っていた。翔子先輩と「俺」は数段転げ落ちただけだった。

『逃げるなって言っただろ?』

「う・・・・・・あ・・・・・・」

「逃げろって言っただろ!」

 階下からの怒鳴り声で我に返る。その声で翔子先輩の無事を確認し、元来た道へ向かってじりじりとあとずさりする。

 ぼろぼろの体のまま、やっぱりそいつは俺を追ってきた。こいつの狙いは俺との基本世界の入れ替わりでしかなくて翔子先輩は関係ない。俺が翔子先輩から離れればこいつは翔子先輩には手を出さないはずだ。

『・・・・・・どうしてだよ』

 低い声でうなる。意味はわからない。

「来るならこっちに来いよ。お前が追っているのは俺だろ」

「なに言ってるんだ馬鹿ッ!」

 階下から翔子先輩の声が聞こえた。

 手すりをつかんだままゆっくりと後ろ向きに階段を上る。階段を上りきったことを横目で確認すると、体の向きを百八十度変えて走り出す。

「追うならちゃんと俺を追えよ!」

 気持ちが焦ってうまく足が動かない。普段だったらもっと速く走れるはずなのに。それでも走るしかない。少しでも速く、少しでも翔子先輩から遠くに。

『あああああああああああッッ!』

 そいつの声はもはや言葉になっていなかった。

 渡り廊下の隅にある掃除用具のロッカーを乱暴に開けホウキを手にして渡り廊下でまた体の向きを百八十度回転させて対峙する。

『…………どうして・・・・・・どうして・・・・・・』

「うるさい!」

 ぶつぶつとつぶやきながらにじりよってくる。そいつが通るとあたりの黒い人が次から次へとどこかへ逃げ出していく。

「誰がおまえなんかと入れ替わるもんか!」

『あああああああ!』

 ホウキの柄を持ちめちゃくちゃに振りまわして、飛びかかってきたそいつの身体を押し返す。よろめいたのを見計らって思いっきり前へホウキをつきだして押し倒そうとして――避けられた。

 代わりに勢いづいた俺が床に滑りこむかたちで倒れ、ホウキが手から離れてしまった。

「くっ!」

 腹を打った。息がつまる。

『どうしてだよ・・・・・・』

 今日何度目になるかわからない問いを繰り返しながらそいつが倒れ込んだ俺に近づいてくる。

 早く立たないと。早く走らないと。早く、早く!

 倒れ込んだままの四つん這いの格好で手をのばし、どうにかホウキの柄をつかむ。しかし振り上げて反転攻勢に出ようと仰ぎ見たすぐ先には、すでにそいつの姿があった。

 そこにあったのは、怒りでも喜びでもない、苦悶の表情。

 足はすくみ手は震え言うことを聞いてはくれない。俺の視界の中でゆっくりとそいつの腕が動き、俺の体に触れようとしているのが見える。

 だめだ、間に合わない――。

「井上っ!」

 突然降ってきた名前を呼ぶ声で視界はスピード感を取り戻す。

 廊下に倒れ込んだまま半身をひねって仰ぎ見ている俺の上をなにかが飛び越えていく。

「翔子先輩!?」

 俺の上を飛び越えながら翔子先輩が竹刀を思いっきり横に引きそいつの横っ腹を打った。

 吹き飛ばされたそいつは窓際まで吹き飛び、翔子先輩は反動で俺の足下に倒れた。しかしいち早く起きあがると窓枠を頼りに立ち上がろうとするそいつの元へと歩いていった。

 割れた窓ガラスに手がくいこみ、そいつの手からは鮮血が流れ出している。映画に出てくる化け物のような青い血でも緑の血でもない、俺たちと同じ赤い血だった。

 よろめきながら立ち上がり、なにか言いたげに翔子先輩を見つめるそいつを翔子先輩は正面から見つめていた。

「ごめん」

 そして、そうつぶやくとそいつの体を窓の外に向けて押した。



 しばらくの間、俺は呆然と固まって窓際に立っている翔子先輩を見つめることしかできなかった。

「はぁ、はぁ・・・・・・」

 翔子先輩の息は荒い。それが疲れからなのか、ほかのことからくるのか。俺にはわからなかった。

「・・・・・・翔子先輩」

 ようやく立ち上がった俺に出せた言葉はそれだけで、それだけ言えばどうにかなるかと思ったけれど、やっぱり言葉は続かなかった。

 俺が後ろでしどろもどろしていると、翔子先輩はひとつ大きく深呼吸をして言った。

「行こうか」

「・・・・・・はい」

 そう言って歩きだそうとした瞬間、翔子先輩が膝からがくんと崩れ落ちた。

「大丈夫ですか!?」

「ごめん。大丈夫」

 あわてて駆け寄ると、ただでさえ白い顔からさらに血の気が引いて真っ青になっていた。呼吸も荒いままだ。

「大丈夫じゃないじゃないですか! 少し休みましょう」

「大丈夫だって。いつものことなんだ。戻ればすぐに治る」

「・・・・・・戻ればって・・・・・・翔子先輩!?」

 翔子先輩が落ちているガラスの破片で自分の左手に小さな傷を付けた。

「大丈夫だって。こうしてないと意識が集中できない。だめなんだ、集中してないと、戻ってしまう……」

「と、とにかくちょっと休みましょう」

 隣にしゃがみこんでいる俺の肩につかまらせて、立ち上がろうとするのを支える。渡り廊下を渡りきり、一番近い教室まで連れて行き一番手近な椅子に座らせる。

 いつものことって、どういうことだ。戻れば治るって、つまりそれは――。

「翔子先輩、さっき俺に言いましたよね」

 前にひざまずいて話しかける。翔子先輩はうつむいたままなにも言わなかった。薄暗い教室の中では翔子先輩の表情は読み取れない。

「この世界は人を狂わせる。オリジナルが影世界で生きていくことは難しいって。それはもしかして、ドッペルゲンガーに触れられた場合だけじゃなくて、こうしている今も同じなんじゃないですか?」

 小さくうなずく。

「翔子先輩は俺を助けるために影世界まで追ってきてくれたんですよね。だから、意識を集中させていないと元の世界に戻ってしまうんですよね?」

 返事はない。

「もう俺は大丈夫です。だから翔子先輩は先に戻って待っていてください」

「なっ!? 馬鹿を言うな! 井上ひとりを置いて戻れるわけないだろ!」

 素早く顔をあげて反論する。けれどその顔にはいくつもの汗が筋となって流れていた。このままここにいて大丈夫なわけがない。

「信じてください」

「信じられるかあほっ!」

 驚くほどの即答だった。

「ちょっ・・・・・・ひどくないですか?」

「おまえなんかを信用できると思ってるのか! あほっ! ばかっ! まぬけっ! ふざけんなっ!」

 勢い込んでまくしたててくる。しかしその瞳は不安でいっぱいで、今にも泣き出しそうなくらいだった。

「いいか、おまえみたいな馬鹿をひとりでこんなとこに置いておいたらな、ひとりで泣き出すかなんかするに決まってる! 私がいなければな、おまえなんか・・・・・・」

「翔子先輩」

 翔子先輩の小さな背中に手をまわして抱きしめる。

「えっ・・・・・・」

「大丈夫です。必ず戻ります」

 鼓動が聞こえるほどの近い距離。俺はしばらく黙ってそのままでいた。

「・・・・・・パフェ」

「・・・・・・はい?」

 少し落ち着きを取り戻した翔子先輩の最初の一言はそれだった。

「パフェ、まだ食べに行ってないぞ」

「そうでしたね」

「約束したんだからな。おごってもらうって」

「・・・・・・そうでした」

「おまけに、またこんなことになりやがって・・・・・・パフェだけじゃだめだからな。えっと・・・・・・クレープも、ケーキも、おごってもらわなきゃ割に合わないんだからな」

「はい」

 話を遮らないように静かに答える。翔子先輩の紡ぐ一言一言を決して聞き漏らすことがないように。

「だから、戻ってこなかったら承知しないからな。わかってるな。食べ物の恨みは恐ろしいんだぞ」

「わかりました。戻ったらちゃんと、今度こそ連れて行きますから」

「・・・・・・うん」

「すぐに戻ります」

「・・・・・・うん、わかった」

 ゆっくりと腕をほどき、翔子先輩に目線をあわせる。涙を溜めた瞳に胸が締めつけられる。

「じゃあ、先に戻って休んでてくださいね」

 俺は今、うまく笑えているだろうか。

「約束だからな。必ず、必ず戻ってこないとだめだからな」

「わかってますよ」

 なんどもなんども念押しする翔子先輩を不安にさせないように、できるだけ明るく答えた。

 ようやく納得した翔子先輩がゆっくりと息を吐き、俺の目をまっすぐに見つめて言った。

「これ一応持ってけ。お守りだ。それと、この世界を制するのは意志の力だ。忘れるな」

 右手に持っていた竹刀をむんずと差しだした。それを受け取ると、少し満足したのか微かに笑った。今にも泣き出しそうな笑顔だった。

「……待ってる」

「はい」

 俺が静かにうなずくと、翔子先輩は徐々に輪郭が薄れ、色彩を欠いていく。

「約束だからな! 必ず、必ず――」

 翔子先輩が言い終わるより早く、俺はまたこの世界にひとりになった。



 薄暗い、静かな世界をたったひとりで歩いていた。

 いつの間にか、黒い人たちさえひとりもいなくなっていた。あたりはぶつぶつとつぶやく声も聞こえず、しんと静まりかえっていて自分の歩く足音だけがいやに響きわたっていた。

 翔子先輩は無事だろうか。俺はこの世界にくわしくない。だから彼女が今どこでどうしているのか、現実世界にもう戻れたのかどうかすら知るすべはない。ただどこかがずきずきと痛む体を引っ張るように歩き続けるしかないのだ。

 なにひとつとして刺激のない世界で、そんなことをぐるぐるとひたすら考えながら歩き続ける。

 ふと、通りかかった一年三組の教室のドアをあける。

 中は無人。特になにか変わった様子があったわけでもなく、ほかの教室同様、ただただ静寂がひろがるばかりだった。その姿はまるで部活帰りに忘れ物を取りに来たときの夕方の教室のようだった。いつも通りの、教室。

 俺は今まで学校にはあまり良い思い出がなかったが、それでもここでなら学校も好きになれそうな気がしていた。実際、昨日まではこの教室に来るのが少しだけ楽しみだった。

 暗がりにたたずむ教室の中に足を踏み入れる。ぱたり、と床を踏む音が響いた。

 廊下側の一番の前の席を通り過ぎ、二番目に並ぶ自分の席の椅子を引いて腰を下ろす。目を閉じて、ふう、と一息吐いたそのとき、

『おはよう、井上くん!』

『よぉー、なあお前って本当に翔子先輩となんにもないわけ?』

 川原の言葉の後に少しの間が空いた。まるで誰かの返事を聞いているように。

『えーでもさぁ、昨日一緒に帰ってるの見ちまったんだよなぁ?』

『・・・・・・川原、殴るわよ?』

『なんで俺が殴られるんだよ!?』

 はっとして目を開けると、前の席と隣の席に黒い人が座っていた。

 姿形は廊下にいたものと同じ。けれど今度ははっきりと言葉を捉えることができた。その声を、言葉として捉えることができた。

 そのふたりの黒い人は、確かに逢坂さんと川原だった。

 いつか朝にした、たわいもない会話。

 そのなんでもない会話に言葉を失う。

 思い出した。俺はこうやってみんなと会話していたんだ。こうやって、普通の会話ができていたんだ。あのとき俺はいったいなんて返したんだっけ。

 息を飲んだままふたりを見つめていると、ふいにそのふたりは空気に溶けるようにして消えた。周りを見渡すと、入れ替わりに別の影が後方のドアの近くに現れた。

『なぁなぁ島田ーおまえの下駄箱にも変な写真入ってた? あれなんなの? 写真を使った新手のギャグ? 斬新だな』

 顔が強ばるのを自分でもはっきりと感じた。心臓がわしづかみされたかのようにきゅっとしまる。

『なあ、これなんかの合成とかか? 文集だって、いくらでも偽装できるし・・・・・・』

 違うよ。正真正銘の本物だ。それが俺なんだよ、川原。

 知らないうちに隣の席に黒い人が現れ、また消えた。

 耐えきれなくなって席を立つ。いつの間にか現れた黒いクラスメイトがしきりにひそひそと噂話をしていた。

 連休があけて学校が始まるとき、俺はどんな顔をして教室に入ればいい? クラスメイトとどうやって接すればいい?

『おまえ今でも幽霊が見えるとか馬鹿なこと言ってんのかよ!』

 どこからか杉田の声まで聞こえてきていた。それとも、俺の頭の中で杉田の声が再生されているだけなのだろうか。

『俺、中学のとき一番井上と仲良くしてやってたんですよ。こいつ友達いなくて』

 震える手でドア引く。

『井上くん、部活行こう?』

 唐突にかけられた言葉に反射的に振り返ると、少し後ろにひとりの黒い人が立っていた。

『じゃあな井上、また明日なー』

 横に現れた黒い人が手を振っている。

 俺はしばらくの間、その黒い人たちを見つめていた。

 正体不明の黒い人。けれどもう、彼らに怖さはなくなっていた。

 彼らは、俺の記憶だ。



 B棟二階へ向かって階段を上る。

 もうどのくらい歩いただろう? いくつかの教室をのぞいて壁掛け時計に目を向けたが、それぞれにでたらめな時刻を示していてまったく役に立たなかった。なんの刺激もない、常に薄暗いこの世界には時間という概念が存在しないのだろうか。

 目的地へはなかなかたどり着かない。そもそも目的地がどこなのかすらもわかっていない。ひとりで歩く無人の校舎は思っていたよりも狭く、ひとりきりで何度も同じ場所をさまよい続けるのはひどく退屈で、歩くのをやめたくなってしまうほどだった。

 俺が生きていたのは、こんなちっぽけな世界。あっという間にまわりきってしまえるほどの。けれどそのちっぽけな世界が俺を苦しめ、そして支えていた。

 慎重にあたりを見比べる。まだ光は見失っていない。あちこちまわってもう疲れ切っていたが、足を止めるわけにはいかない。翔子先輩から預かった竹刀を握りしめ、それを支えに歩を進めていた。彼女の託してくれた想いだけが俺を支えていた。

 上へ行ったり下へ行ったり光は気まぐれに動きまわり、そこになにがあるのかもわからないまま俺は歩き続ける。それでも光はどんどんと近づいてきていた。

 みゃーお。

 突然、まったくもってこの場にふさわしくない音があたりに鳴り響く。あまりに場違いな音に思わず足を止める。

 久しぶりに聞いたその音に、俺はしばらくなんの音だったのかさえ思い出せないでいた。しかし微かに記憶をたどってのろのろとポケットから携帯電話を取り出してあわてて通話ボタンを押し耳に当てる。いつの間にかマナーモードではなくなっていた。この携帯電話も俺の記憶で構成されているのだろうか。

「・・・・・・もしもし?」

『おい、井上どこにいるっ!』

 紛れもない翔子先輩の声だった。

「翔子先輩!? えっまさかこっちに戻ってきたんじゃないですよね!?」

『ちがう! あんまり戻ってこないから心配・・・・・・心配した訳じゃないが電話してやったんだ!』

 ほっと胸をなで下ろす。翔子先輩ならやりかねない。

『ちょっと井上くん!? 今どこにいるのよ! 翔子先輩に聞いたって答えてくれないし!』

「えっ? 逢坂さん?」

『おいおい、生徒会副会長のこの俺の部活の後輩という立場でありながら授業をさぼるとはいい度胸だなぁっ!』

「・・・・・・二階堂先輩」

『おい、おまえら返せっ! それは私のだ!』

『ちょっと翔子先輩やめてくださいよ! あっもう二階堂先輩はじゃま!』

 受話器の向こう側から騒々しい音が聞こえてくる。激しい雑音とともに一斉にしゃべり散らかすものだから誰がなにを言っているのか定かではない。

「なにやってるんですか、まったく・・・・・・」

『ゴールデンウィーク明けには学校きてくれるよね? クラスの馬鹿にはあたしがガツンと言っておいたから大丈夫! 川原も授業さぼって一緒に井上くんのこと探してくれてたんだよ』

『なあ井上、ゴールデンウィークにどっか行こうって翔子がうるさいんだが、おまえはどう思う?』

『どう思うもなにも部長命令だ! 行くことは決定してるんだよ! どこに行くかは決まってないけど!』

「あーもう、なんの話してるんだかよくわからないですってば」

 思わず苦笑した。受話器の向こうはいつもと変わらないくだらないやりとりだ。そんなに長くいたわけでもないのに、なんだかすごくなつかしく聞こえる。俺を不安にさせまいとするみんなの気持ちが素直に嬉しかった。

「・・・・・・ありがとうございます」

『ん? 井上なんか言ったか?』

「なんでもないです。あと少ししたら戻りますから――」

 あたたかなぬくもりに聞き入っていた耳に、唐突にに打撃音が聞こえた。

 あわてて振り返ると、すぐ後ろの教室から「俺」が這って出てこようとしていた。うつろな目は俺をまっすぐに見つめている。俺を視界にとらえるとドアを握りしめ立ち上がろうとした。けれど、やはり立ち上がれずに床に倒れ込む。

「すみません、またあとで」

 早口で言うとそのまま携帯電話をポケットに放り入れる。三階から落ちたのに、まさか追ってくるなんて。普通の人間ならもう生きていないほどなのに、まともに立てないほどぼろぼろになりながらもそいつは俺を追ってきていたのだ。

 あたりはどんどん明るくなっていく。光の元はもうすぐそこまできているはずなのに。

『どうして・・・・・・だよ・・・・・・』

 そいつがうなるようにさっきと同じ言葉をつぶやく。

 けれどその言葉に、走りだそうとしていた俺は足を止めて振り返った。

 「俺」は泣いていた。

 震える言葉を、どうにか振り絞っていた。

『俺はどうしたらいいんだよ』

 まさか。

『俺は、どうしたらいい?』

 そうか、だから「俺」はずっと助けを求めていたんだ。

『どうしたら友達に戻れるんだよ?』

 ようやくわかった気がした。

『ごめん。もうしないから』

 つまり、そういうことだったんだ。

『ごめん・・・・・・』

 もういいよ。もうわかったよ。

 「俺」は床に這いつくばったまま謝り続けていた。

 わかったんだ。俺は「俺」を救えない。救うことはもう誰にもできない。

 誰も過去には戻れないのだから。

 今ここで俺が救えるのは、俺だけだ。

『みんなずっと心の中で気味悪がってたんだからな、今まで仲良くしてもらえただけありがたいと思えよ!』

 音もなく俺と「俺」の間に現れた黒い人が「俺」に向かって罵声を浴びせ、耳障りの悪い笑い声をたてた。

 中学のときの杉田の言葉。

 俺は高校の廊下にいるのに。ここは中学よりもいくらか新しい校舎で、B棟で、一年生にはちょっと立ち入りにくい二年生の縄張りで。けれどこれは、確かに中学二年生の野外活動でやった肝試しの後の場面だ。

 謝り続ける「俺」。笑い続ける「杉田」。

 その光景を今の俺はどんな表情で見ていたのだろう。

 「俺」は這いつくばったまま泣き続けている。

『はあ? お前馬鹿? お前に友達なんかいるわけねぇだろ。全員に馬鹿にされてるのまだわかんねぇの?』

「ーーそうだったんだろうね」

 泣き続ける「俺」と「杉田」を見つめながら、俺は静かにつぶやいていた。気がついたときには言葉が口をついていた。

「俺たちは最初から友達じゃなかったのかもしれない。俺には、友達がいなかった」

 自分の頭で、自分の言葉で、それを認めるのが怖かった。苦しかった。だから見て見ぬ振りをした。友達であり続けようとしていた。無意味だと知りながら、知らないふりを続けていた。

 ーーそれでも。

『こんなたちの悪いイタズラ、馬鹿のすることよ。人の写真をばらまくなんて。井上くんが気にすることない』

 俺の横に音もなく現れた黒い人が不機嫌そうに言う。

『誤解がないように言っておくと、俺も雫もおまえのことは友達だと思ってるし、それはこれからも変わらない。面白がってるわけでもないからな』

 さらにその隣に現れた黒い人が、真剣な声で言う。

『んじゃ今日UNOやる人いる?』

 後ろからも声が聞こえた。振り返るとまたひとり、場違いに陽気な声で手をあげている黒い影が増えた。片手にはカードの束。

 そして、

『でも、もしなにか困ったことがあったら相談しにこいよ――絶対に、助けてやるから』

 最後にもうひとり。俺と杉田の間に割って入るようにしてひとりの髪の長い黒い人が現れた。

 ふと、昨日の翔子先輩の言葉が浮かんできた。

 ーー『どうにかしてやるから』

 そうか。翔子先輩のしようとしてくれていたことがわかったような気がした。

 人はきっと、たったひとりでも見ていてくれる人がいれば生きていける。

 一度目を閉じ、ゆっくりとあける。

 今し方現れた四人はもういなくなっていた。

 記憶の中の「杉田」は「俺」を罵倒し続けたまま。

『友達とか気持ち悪りぃこと言ってんじゃねぇよ!』

 吐き気さえもよおす記憶。

 でも、もう大丈夫。

 あのときの「杉田」が、まるで今の俺までも攻撃するかのように叫ぶ。「俺」は動かない。動けない。そうだよ、俺はあのときから一歩も動けずにいたんだ。

 だから代わりに今の俺が言い返す。

「それでも、俺には高校に入って友達ができた!」

 もう、逃げない。

『みんな心の中ではどう思ってるんだかなぁ!?』

「みんなはお前とは違う。ふたりが今朝のできごとを本当はどう思ったかは俺にはわからない。翔子先輩が本当はどういう想いで俺を追いかけてきたのかも。もしかしたら杉田が言ったように、心の中で気味悪がってたのかもしれない。面白がっていたのかも知れない。それを俺が知ることはできない」

 もう一度小さく息を吸い込む。

 俺は「俺」と戦わなきゃいけなかったんだ。

「けれど、そんなのどうでもいい! 俺はみんなを信じてる。川原も、逢坂さんも、二階堂先輩も、翔子先輩のことも。俺は俺の信じた人たちを信じ続ける!」

 一瞬の静寂。俺も「杉田」も「俺」も、誰も動かなかった。

 けれど次の瞬間、なんの前触れもなく「杉田」がまるで針で突かれた風船のように音を立てて破裂した。

 それを俺と「俺」は静かに見つめていた。

 この世界には再び俺と「俺」だけが残った。

『助けてくれよ・・・・・・』

 「俺」が懇願する。どんな気持ちでその言葉を絞り出し、どんな気持ちで耐えているのか。今ならわかる。

 だからこそ言った。

「ごめん」

 俺には帰る場所がある。帰らなければならない場所がある。翔子先輩のために、俺のために、それからーー「俺」のために。

 そして、世界は崩壊を始めた。

「う、うわっ!」

 まるで地震のように足下が揺れる。驚いて手をつこうとした教室側の壁がぼろぼろと崩れ始め、しりもちをついた。

「なんなんだ!?」

 どうにか立ち上がり、さらに崩れてきた壁をどうにか避けた。今にも切れそうに点滅していた蛍光灯が落ち、急に窓ガラスが割れる。頭を庇おうと掲げた腕やかばいきれなかった顔に容赦なくガラスの破片が突き刺さった。

「・・・・・・ッ!」

 声にならない叫びをあげて痛みに耐える。この瞬間に翔子先輩がいなくて良かった。

 秩序なき不協和音はとどまることなく響き続けていた。

「そうだ、光ーーっ!」

 首をまわして急いで光を探す。正面の奥にある階段じゃない、左の教室でもない、右にある渡り廊下じゃない、後ろの――オカ研の部室だった。

 転びそうになりながら、それでも揺れに耐えて確実に歩を進める。

 廊下に備え付けられていたロッカーが倒れて進路を塞いだが、それを踏みつけてさらに先へ。

「こんなところでっ、こんなところで負けるわけにはいかないんだ!」

 ここからなんだ。ここから、もう一度やり直すんだ。やり直さなくちゃいけないんだ。

 ロッカーを転がるようにして越え、再び廊下に降り立った。

 振り向くと、「俺」はまだ先ほどと同じ場所に這いつくばっていた。崩れゆく世界の中で、まるでそこだけがぽっかりと穴が空いたかのようになにも落ちてきていなかった。

 目が、合ったような気がした。

「さよなら」

 それだけ言うと俺はまた前を向いた。

 世界はまだ激しく揺れているが、そんなことには構わずガラスを上靴の底で踏みつけながら最後の距離を走り抜ける。

 部室のドアを片手で開け放ち、誰もいない部室に飛び込んだ。

 方で激しく呼吸をしながら、首をまわして様子を探る。

 そこはいつもの部室だった。

 校舎のあちこちが悲鳴をあげながら崩壊していく中で、オカ研の部室はまるで何事もなかったかのように緩慢な空気を漂わせていた。

 だが、部室に入っても世界の崩壊は続く。難を逃れた部室を除いて、すべてが崩れ落ちていく。

 「俺」の姿ももう見えなかった。

 畳の上に倒れ込み、目を閉じる。

 もうだめなのか? 俺はたったひとりでこんな世界に残されて死ぬのか?

 脳内を楽しかった日々が駆け巡る。あぁ、これが走馬灯とかいうやつか。あまりの幸せな感覚に、全てを委ねてしまいたくなる。

 そのうち俺の脳に蓄積された記憶は、ひとりの少女の今にも泣き出しそうな笑顔を映し出した。

 ――待ってる。

 ああ、そうだ。俺、まだちゃんと謝ってなかった。

 翔子先輩の消え入りそうな声が脳内をかすめ、俺の意識は真っ白になった。



 目をあける。

 ぼんやりとした視界にオカ研の天井が映った。

「井上」

 どこか、なつかしい声がする。

「井上」

 これは、なんなんだろう。

「井上ってば」

 これは夢なのか、幻覚なのか、天国なのか。

「返事しろあほーっ!」

 視界に突然現れた翔子先輩に大声で怒鳴りつけられ反射的に飛び起き――案の定お互いに頭をぶつけた。

「ふっっっざけんなおまえ! いきなり起きあがる奴がいるか!」

「痛っ・・・・・・なんなんですかもう!」

 翔子先輩の方に顔を向け文句を言い、はっとしてあたりを見まわす。わめく翔子先輩の後ろに二階堂先輩と逢坂さんの姿もあった。

「二階堂先輩・・・・・・逢坂さん・・・・・・?」

「びっくりしたぁ。井上くんってば、急に部室に飛び込んできたかと思うとそのまま倒れちゃうんだもん」

「ああ、ついに壊れたかと思ったぜ」

 これは、いったい・・・・・・?

 いまいち理解がおいつかずに翔子先輩の顔を見る。

「翔子先輩・・・・・・これ・・・・・・」

「井上」

「はい」

 きょとんとしている俺に向かって、翔子先輩は普段は絶対に見せない満面の笑みで言った。

「おかえり」

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