第四章 彼女ノ見ル世界
「・・・・・・誰?」
「逢坂です。わかってて言ってますよね? っていうか二階堂先輩とまったく同じ反応やめてくれませんか?」
「はわわ・・・・・・これはオカルトだな・・・・・・!」
「怒りますよ?」
部室のドアを開けた姿のままで驚きのあまり固まった翔子先輩にむかって憮然とした表情の逢坂さんが答える。
そういえば翔子先輩は昨日、部活に参加せずに帰ってしまったからほとんど逢坂さんを見ていないんだった。
「うちのクラスでも話題になってたじゃん」
手元の文庫本から顔を上げた二階堂先輩が補足するが、当の翔子先輩はいまいちぴんとこないようすで首をひねっていた。
そんな翔子先輩をよそに上靴を脱いで部室にあがりこむ。どこからどうみてもすっかり普段の生活に戻っていた。
「もうやだ、なんでそんなことが二年生にまで伝わってるの・・・・・・」
「雫は有名人だからね」
「有名じゃなくて結構。そんなにこの髪おかしいですか」
「全然。俺はすごく似合ってる思うけど。なあ、翔子」
「んあ? あー、うん。かわいいと思う」
ぼーっと入り口に立っていた翔子先輩が返事をする。
翔子先輩はお世辞を言うようなタイプではない。それは逢坂さんもわかっている。真っ黒のストレートになった髪を片手でもてあそぶ逢坂さんが不満そうな顔をほぐして照れ笑いした。確かにかわいい。
「なっ井上」
どうして俺にふるんだ。
「えっ・・・・・・あ、うん、はい」
「・・・・・・井上くんはあんまり好きじゃない?」
逢坂さんがとまどい気味に上目遣いで聞いてくる。そんな顔されたら困ってしまうじゃないか。全員の視線が集中しているのを感じる。そんなにプレッシャーかけないでください。
「えっと・・・・・・そういうわけじゃないんだけど、こう・・・・・・なんていうか、逢坂さんらしくないなって思って」
「そう?」
「あっいや、すごく良いと思うんだけど、逢坂さんのイメージとはちょっと違うかなって」
翔子先輩と二階堂先輩が同時にため息をつく。なら最初から話をふらないでほしい。
「で、翔子。おまえは井上とふたりでなにしてたんだよ?」
「別に。平行世界の扉を探すのを手伝ってもらってたんだ」
「おまえって都合悪くなるといつもそう言うよな・・・・・・まあいいや。どうせ聞いても無駄なんだろ」
「うん? 別になにも嘘はついてないぞ?」
「はいはい。んじゃ今日UNOやる人いる?」
「ああ、それなんだけどさ。今日は外に行くぞ」
翔子先輩が人差し指を立てながらいつものようににやりと笑った。上靴も脱がず部室にあがってこなかったのはそういうわけか。
「外? なにするんですか?」
引き続きすっかり様変わりした髪をいじっていた逢坂さんが不思議そうに声をあげた。
「影送り」
「影送り? なんですか、それ」
「確か、晴れた日にまばたきをしないで自分の影をしばらく見てから空を見ると残像が空にうつるってやつですよね?」
俺の説明を聞いても逢坂さんはきょとんとしていた。一方の翔子先輩は非常に満足したらしく、片方の口の端をさらにもちあげてにやりとする。
「陰性残像か。長い間同じ色を見続けると色の刺激でその補色が見えるっていう。しかし影送りを部活でするなんて小学生みたいだな」
「確かに。小学生みたい」
逢坂さんが同意する。
「そう、陰性残像だ。だから今から校庭に行く」
翔子の先輩は二階堂先輩の後半の言葉を無視すると、さっさと昇降口へと駆けていってしまった。
外に出ると雲ひとつない真っ青な空が広がっていた。確かに影送りをするには絶好の天気だ。若干下校途中の生徒に不審がられながら校庭の手前に四人して立つ。
「いいか? 十秒間まばたきするなよ。それじゃあ、せーのっ! いーち、にーい、さーん」
翔子先輩が大声で数を数え始める。みんななんだかんだ言って結局おとなしく影送りに参加していた。
「きゅーう、じゅーう!」
その声を合図にぱっと空を見上げる。春の青い空にぽっかりと白い影が浮かんでいた。
「おおー!」
ほかの三人から歓声があがる。本当に小学生みたいだ。
「うわぁ久しぶりにやったなぁ! もう一回やろう、もう一回! そうだ、おい二階堂、おまえなんか変なポーズしろ」
「ほらほら、二階堂先輩はやく!」
「フッ、そう焦るな。例え影であったとしても少しでも長く俺の姿を見つめたいという気持ちはわからなくもないが……」
大仰なしぐさでわけのわからないことをのたまわりはじめた二階堂先輩を翔子先輩が無視してこちらに向き直った。
「やっぱ二階堂はいいや、井上、おまえがやれ」
「えっ!?」
「そうですね。井上くんお願いしまーす」
「おいお前ら、どうして俺を無視するんだ?」
不服そうな二階堂先輩の言葉を無視して、翔子先輩と逢坂さんはすっかりその気になってしまった。どうにもできない状況に、仕方がなくポーズをとることになってしまった。
「ええと・・・・・・じゃあ、目」
両腕を顔の横で曲げて三角をつくり、顔を目玉に見立てる。
「おいおい、もうちょっとなにかないのかよ。やはりこの俺が……」
「二階堂先輩はもういいですー」
「えっ」
逢坂さんがさらりと言う。なんだかかわいそうにすらなってくる。まあそういえポジションなので仕方がない。
「まあなんでもいいよ、じゃあ目玉人間を送るぞー。いーち・・・・・・」
同じように翔子先輩が数を数え始め、十秒経ったところで空を見上げる。やはり空には白い目玉人間がうつっていた。
「おーいた!」
翔子先輩が楽しげな声をあげる。それにつられてふたりもうれしそうにはしゃぐ。
それから四人して何度も色々な形の影を空に送った。案の定、校庭で練習をしているサッカー部にはかなり不審そうな目で見られていたが。
まさか高校生にもなって放課後に影送りをしてみんなとさわぐことになるなんて想像もしていなかった。今さらこんな風に放課後にこどもみたいなことをして遊べるとは。
青空は端から徐々に茜に染まり、夕方の訪れを告げていた。それでも俺たちは校庭の端で遊び回っていた。こんなの、何年ぶりだろう。
「あー疲れた。休憩休憩」
遊びはいつの間にかかくれんぼに移り、いち早く捕まって花壇の縁で休んでいた俺の横に鬼役の翔子先輩が座る。
「二階堂先輩と逢坂さん、まだ見つかりませんか」
「うん。あいつらどこ行ったのかなぁ。中庭の方まで探しに行ったんだけどいないんだよ。井上とちがって隠れるのがうまいな」
「意外と近くにいるんじゃないですか」
「そうかもなぁ」
夕方の少し涼しい風が翔子先輩の髪をさらさらと揺らしていく。遠くからはサッカー部のかけ声が聞こえている。中途半端な時間のため今頃昇降口から出てくる生徒はほとんどいなかった。
「なあ、井上」
「なんですか」
少しの沈黙。どこからともなくへたくそな吹奏楽部のトランペットの音が届く。
「井上には今この世界はどういう風に見えてるんだろうな」
「・・・・・・なんですか、それ」
「お前が見ている世界と、私が見ている世界が同じ世界だと言う保障はどこにも無い。自分が見ているものが世界の全てである保証もない」
翔子先輩がぽつりと静かに話し始めた。
「同じものを見ていたとしても、井上と私では全く違う光景に見えているのかもしれない。写真であっても同じ。写しているものはひとつでも、その写真が同じように見えているかどうかなんて誰にもわからない」
「なんですか、それ」
言っている意味がよくわからず同じ言葉を繰り返してしまった。けれど翔子先輩は気を悪くすることもなくただ淡々と続けた。
「そうだな。例えば、普通に見た時と青いセロハンを通して見た時とじゃ、見え方が違うだろ? そういうことが個人単位で起こっている可能性もないとは言えないってことさ」
「でも、たぶん同じなんじゃないですか」
「たぶんね。でも、それが絶対に同じかって言われたら、井上はどうやって証明する?」
「俺にはできないですけど・・・・・・科学とかに詳しい人なら、できるんじゃないですか?」
「どうなんだろうね」
翔子先輩が茜に染まろうとしている空を見上げて答える。
「知らないんですか」
「うん、知らない」
あっさりと笑いながら言った。わかっていて話しているわけではないのか。
「まあ、もし見ている世界が違ったとして、見ているものが同じで単に見え方が違うのか、そもそも見ているものが違うのか私にはわからないけど。でも、目に見えないということは存在しないということじゃないと思うんだ」
そう言ったきり、翔子先輩は空を見上げたまま黙り込んでしまった。同じようにして隣で空を見上げながら翔子先輩の言葉を頭のなかで反芻する。
「翔子先輩は、どう思うんですか」
そしてようやく返事をした俺に、翔子先輩は笑いながら言った。
「難しくてわからないよ。でも、人が見ている世界はひとつじゃないと思う」
世界はひとつじゃない。
その言葉に自然と今日の放課後のできごとが思い起こされていた。
「平行世界、ですか」
「うん、まあそういうことかな」
平行世界。その言葉だけを聞くと荒唐無稽としか思えない。だが、俺たちは確かにそうとしか考えられないような空間にさっきまでいたのだ。
「あれはなんだったんですか」
「前にも言ったことあるだろ? 疲れてるとたまにああいうことが起きるのさ」
「それだけじゃわからないです」
視線を空から地面へと移してつぶやく。今俺のまわりでなにが起きているのか、俺はまったくわからない。
ふたりして黙り込むと、風に乗って相変わらず下手なトランペットの音色がまた微かに聞こえた。
「・・・・・・これは私の仮説なんだけどさ。だから、話半分くらいの気持ちで聞いてほしい」
翔子先輩も空から視線をはずし、どこか遠くの方を見つめながらそっと口を開いた。
「井上には三つの世界の話はもうしたと思う。ほら、現実世界と境界世界と、影世界の話」
「はい。ひとつづきになっているのが境界世界で、そうじゃないのが影世界っていうのは」
「うん、それだ。その三つの中で自然に存在できる世界を基本世界って私は呼んでいる。人の基本世界は現実世界だ。でも、人はちょっとしたことですぐに境界世界が見えたり、影世界に足をつっこんでしまったりもする」
「そのちょっとしたことって言うのはその、精神的な……負荷?」
地面に向けた視線を、翔子先輩の横顔にうつす。翔子先輩は小さくうなずいていた。彼女のまっすぐな瞳は、今なにを映しているのだろう。今も俺とおなじ景色が見えているのだろうか。
自分が体験したことだけに翔子先輩は嘘を言っているわけではないのだろうが、やはりにわかには信じられない。
「それでその、さっきの黒い人は・・・・・・」
「あれは・・・・・・私にもよくわからない。でもひとつ考えならある。ただ、ここからはさらに信憑性のない話になるんだけどさ。影世界はもうひとりの自分が住む世界だと思うんだ」
それでも翔子先輩は俺に向かって真剣に話し続けた。
「それってつまり……ドッペルゲンガーですか?」
「うん、私はそう思ってる。精神的な弱りから境界世界とか影世界に入り込んだ場合、自分と、「自分」の世界が入れ替わるんだと思う。自分が影世界に行くと同時に現実世界に行ってしまった「自分」が他人に目撃される。ごくまれに境界世界にふたりが共存することもあるみたいだし、それがドッペルゲンガーという現象の正体なんじゃないかな、とね」
「そのふたりは見分けつかないんで すか?」
「普通はつかないと思う。もうひとりも「自分」だから」
「もうひとりも、自分・・・・・・?」
「井上、私たちが初めてあったときのことを覚えてるか?」
初めてあったときーーああ、教室掃除で毎日じゃんけんに負けてまるで日課のようにゴミ捨て場に足を運んでいたときのことか。
「はい、覚えてますけど」
「じゃあ話は早い。井上は私に『昨日も同じことを聞いた』と言ってたよな」
そういえばそうだ。それで変な人に目をつけられた・・・・・・と思ったんだ。
「私はそのときのことしか知らない。あの前の日、私は井上と話していた記憶がないんだ。つまり、たぶん『井上にとって私と初めて話した日』に会った相手は、私のドッペルゲンガーなんだよ。その日井上がいたのは境界世界だと思うけど。まあ慣れれば井上にも見分けがつくようにもなるかもしれない」
「まさか・・・・・・」
確かに、二回目に会ったときにそのことを話したら翔子先輩はきょとんとしていたけれど。
じゃあ、もしかしてあのあと俺を追いかけ回したのは俺が境界世界に迷い込んだとわかったからなのか。それでわざわざ毎日教室に来ていたというのか。
うつむいて考え込んでしまった俺を心配したのか、心持ち明るめの口調でおどけたように付け加える。
「まあ、今話した世界自体、本当に存在しているのか、私や井上の中にしかないものなのかすらわからないんだけどね。それが今の私の限界。つまり、今のはそれだけの話さ」
「・・・・・・俺はどうしたらいいんですか?」
「井上の中に突っかかっているなにかを取り除く必要があるだろうね。まあ心配するな。どうにかしてやるからっ」
困り果てて翔子先輩の方を見ると、いつものようににやりと笑いながら背中をばんばんと叩かれた。ちょっとだけ痛い。それでも、すこしだけ救われた気がした。
そこでふと、ひとつの疑問が湧いてきた。そういえばまだ答えてもらっていなかった質問がある。
「でも翔子先輩はどうしてそんなことを?」
しばらくの沈黙。途切れ途切れの下手なトランペットの音はまだ続いている。行き交う下校途中の生徒の声がにぎやかに通り過ぎていく。
その音に紛れるようにして、翔子先輩が再び口を開いた。
「私が生きているのは、たぶん境界世界なんだ」
「えっ?」
驚いて再び翔子先輩の方に顔を向ける。言っている意味がさらにわからなくなってきた。いつものサッカー部のかけ声がどこか非現実的に聞こえていた。
「笑っちゃうだろ? 普通こんな話されたら。いったいどんな妄想垂れ流してるんだって」
そう言って軽く笑うと、翔子先輩も遠くの方にやっていた視線を俺の方に合わす。なんとなくそのまっすぐな瞳をみるのがこわくて、また視線を地面に落とした。
俺が視線をずらしたのを見ると、翔子先輩も苦笑しながらまた遠くの方に視線をやった。
「でも、私の中ではそれが現実なんだ。ずっと不思議だった。自分の見えている世界と、人の見えている世界が違うっていうことが。みんながいる基本世界は現実世界だけど、私の中の基本世界は境界世界なんだ」
翔子先輩の語り口調はそれこそ軽かったが、ちらりとみたその横顔はめずらしくどこか寂しげだった。
だからこそ翔子先輩は別に俺をからかうわけでも、妄想を垂れ流しているわけでもないことがひしひしと感じられて、俺はただ黙って聞いていることしかできなかった。
真っ黒な人。誰もいない静寂の世界。あんな世界を、翔子先輩はもっと幼い頃に体験していたのだろうか。
いつもより少し冷たい春の風が俺と翔子先輩の間を吹き抜けていく。トランペットの音色はいつの間にか止んでしまっていた。
ちょうどそのとき、遠くの方からよく通る澄んだ声が聞こえてきた。
「ちょっと翔子せんぱーいっ!」
見ると逢坂さんが校舎の裏手から走ってくるところだった。後ろに二階堂先輩の姿も見える。
すっかり忘れていたが、そういえばかくれんぼの途中だった。
「あ、忘れてた」
翔子先輩もすっかり忘れていたらしく、げんなりした声でつぶやいた。
「もうっ! ふたりでなにしてたんですか!?」
「ごめんごめん、あんまり見つからないから休憩してたんだけど・・・・・・」
「で、忘れちゃったんですね」
「うん」
逢坂さんががっくりとため息をつく。まあ確かに隠れていた方としてはたまったものじゃないだろう。
「まあ、翔子のことだからそんなことだろうと思ったけどね。よし、じゃあ俺はそろそろ生徒会室行ってくるわ」
「じゃあ今日はこれで解散っ」
翔子先輩の号令を合図に四人してぞろぞろと部室へ戻っていった。
すっかり茜に染まった空の下、雑草が最近抜かれたばかりで地面がよく見えるようのなった駐輪場から自転車を引っ張り出す。二階堂先輩は生徒会室に、逢坂さんは忘れ物をとりに教室へと戻り、翔子先輩はのんびりと帰り支度をしていたので置いてきた。
「井上ぇー」
と思っていたのだが、どうやら追いつかれたらしい。用件は聞かなくてもわかる。
「翔子先輩、俺タクシーじゃないんですけど」
「今日くらい乗せたって罰は当たらないだろ。ほら、今からパフェ食べに行かなくちゃいけないんだから」
・・・・・・パフェ?
「うん、パフェ」
翔子先輩はさも当然のように言う。意味が分からない。当の翔子先輩は非常にうれしそうに自転車の後部をつかんでいる。それはもう、がっちりと。
「えーと、パフェっていうのは・・・・・・」
「今日のお礼にパフェおごってもらいたいんだ」
「ああ、なるほどそういうことですか。それならそうと言ってくださいよ。なにかと思ったじゃないですか」
「わからなかったか?」
意外そうに目を丸くして小首を傾げながらこっちを見つめてくる。
「そんな顔してもだめです。わからないですよ。第一体調はもういいんですか?」
「うん、大丈夫。今日は気分がいい。じゃあわかったところでさっさと行こうじゃないか」
「はいはい」
まあ助けてもらったのは事実なのだから別に異存はない。というか、実際お礼はしなければならない立場だ。あんなわけのわからない状況でひとりでいたら絶対に戻ってこられなかった自信がある。
翔子先輩を自転車の後ろに乗せ丘留都駅に向かって自転車を走らせる。翔子先輩のリクエストで駅前にあるファミリーレストランのパフェをおごることになった。
「そんなにパフェが好きなんですか」
「うん、好き」
部室でいつもなにかしらお菓子をほおばっている翔子先輩らしく、パフェをおごってもらうのが相当楽しみらしく、終始上機嫌で彼女にしてはめずらしく割とおとなしく自転車に乗っていた。
「チョコレートパフェじゃないとだめだからな。あそこのパフェにはブラウニーが入ってるんだ。だから好きなんだ」
翔子先輩のパフェに関するよくわからないこだわりをはいはいと聞き流しつつ、ブレーキをかけながら緩やかな坂を下っていく。涼しい風が通り抜ける。
坂を下り終えると駅が見えてきた。翔子先輩はパフェに関する話を全部し尽くしたのか、今は黙って俺の腰につかまっている。
自転車の後ろでわあわあと騒がれるのも困るが、いつもと違ってそんなふうに静かに乗られていると変にどきどきしてしまって困る。非常に困る。不本意である。
横の道路を部活帰りの丘留都高生を満載したバスが通り過ぎ、少し先のバス停にとまった。もうそんな時間か、とその様子を横目で見ながら抜き去ると、後ろからよく通る澄んだ声が聞こえてきた。
「井上くん!」
あわてて自転車を止めようとすると、翔子先輩が後ろから「だめだ、止まるなって!」と叫んだ。しかし反射的に止まってしまったものは仕方がない。
振り返って見ると、バスから降りた逢坂さんと二階堂先輩がこっちに向かって走ってきていた。本日二度目の光景だ。
「もうっ! ふたりでなにしてたんですか!?」
本日二度目のお叱り。
「まったく油断も隙もないな」
二階堂先輩がにやにやしながらこっちを見てくる。いや、たぶん二階堂先輩が期待するようなことはなにもなかったのだが。
「いや、翔子先輩にせがまれてパフェをおごりに行く途中です。って二階堂先輩は生徒会室に行ったんじゃないんですか?」
「帰りにふたりが自転車に乗って帰るの見つけたからあたしが引っ張ってきたの。ふたりで抜け駆けなんてずるいですよ、翔子先輩っ」
「あー・・・・・・はいはい」
くちびるをとがらせて怒る逢坂さんをどこからどうみても非常に面倒そうな顔で翔子先輩があしらう。そして俺がふたりの追及に負け、事情をぼかしながら白状したところで二階堂先輩がにやりと不吉な笑みを浮かべた。
「まあそういうことなら俺たちにもおごってもらわないとなぁ? 井上」
「えっなんでですか!?」
「見つかったおまえが悪い。あきらめろ」
「えぇー・・・・・・」
「くそ・・・・・・だから止まるなって言ったのに・・・・・・」
そんな俺たちの横を楽しそうな丘留都高生が次々と通り過ぎていく。うらやましい。
結局全員分のパフェをおごるのは貧乏学生の俺の財力ではどう考えても無理なので、コンビニでアイスをおごることになってしまった。
こんなことなら翔子先輩の言うことを聞いておくのだった。というか本来、翔子先輩以外にアイスをおごる理由もなにもないのだが、その理由を当たり障りのない内容で説明する方が難しいのでそこについては黙っておくことにした。
「ぱふぇ・・・・・・」
翔子先輩が両手で握ったカップアイスをじっと見つめながらしょんぼりと座っている。なんだか申し訳なくなってくる。いや、決して俺が悪いわけではないのだが。決して。
駅から少し離れた公園のベンチに四人して腰掛けながらアイスをほおばる。
「翔子先輩、食べないと溶けちゃいますよ」
そんな翔子先輩と入れ替わりですっかり機嫌の良くなった逢坂さんが忠告し、ようやくうらめしげに見つめていたカップアイスに口をつけた。
「・・・・・・おいしい」
「でしょ? それこの間出た新商品なんですよ」
笑顔で話す逢坂さんに、自然と翔子先輩の表情も柔らかくなっていった。
そうしてアイスの味に満足したのか翔子先輩はあっという間にぺろりとたいらげてしまった。
「あー・・・・・・楽しかったなぁ」
空になったアイスカップの空を握りしめながら翔子先輩が大きく伸びをする。
「なんですか急に」
「へへー」
「うわっ急に笑い出した。気持ち悪うっ!」
二階堂先輩がわざとらしく声をあげる。
「今日もみんなで遊んだなぁって思ってさ。なんかそういうの楽しいじゃん」
「今日のは本当に小学生の放課後みたいだったしなぁ。まあ翔子はいつまでもこどもみたいなものだもんな」
「うん。変わらないよ私は」
「翔子先輩って昔からこんな感じなんですか?」
俺の横から顔を出した逢坂さんが翔子先輩の方をのぞきこむようにして尋ねる。
「んー、どうかなぁ。今よりももっとおとなしかったかな、友達もあんまりいなかったし。まあ基本的には変わらないよ、ずっと。まあまわりはどんどん変わっていっちゃうからさ、たまにちょっとだけ寂しくもなるけど」
なんとなく、わかる気がする。
「友達あんまりいなかったって、今もじゃん? っていうか翔子は中学生のときは大人しくなんかしてなかっただろ、もっとこう、どちらかというと血気盛んだったはずじゃ……」
からかうように二階堂先輩が笑い、翔子先輩にどつかれそうになって逃げていった。
「あー・・・・・・楽しかったなぁ」
「確かに今日は久しぶりに遊んだ! って感じでしたよねぇ」
「うん、楽しかった」
楽しそうに話す翔子先輩と逢坂さんの横で静かにうなずいて同意した。公園を無駄に走り回っていた二階堂先輩がようやく帰ってきた。
「またみんなでああやって遊べるといいな」
「やりましょうよ! またみんなで」
みんなのアイスのごみをコンビニ袋に集めながら逢坂さんが笑った。つられて俺も口を開いていた。
「そうですよ、またそのうちやればいいじゃないですか。どうせオカ研がまともな活動することなんて少ないわけですし」
いろいろあって疲れた日ではあったが、それでもみんなではしゃぎまわったのが楽しかったのも事実だったので同意した。翔子先輩の方に顔を向けると、どこか遠くを見るような目で空を見つめていた。
「うん、そうだな。ありがとう」
「うわっ!」
週が開けて部室へ行くと、ドアを開けた目の前のところに翔子先輩が正座していた。
いつもなら机の奥のあたりに転がっているので面を食らった。というよりも、ドアをあけたすぐのところに人がいたら驚くに決まっている。
「な、なにしてるんですか?」
「よし、来たか井上、雫。特別にいいものを見せてやろう」
そう言うと自分の横に置いてあった不自然に膨らんだカバンの中からなにやら仰々しく小さめのダンボール箱を取り出して、まだ上靴も脱がずにドア付近に突っ立っている逢坂さんと俺の顔を得意げに見上げた。
「で、それはなんなんですか?」
「わからないか? そうか、じゃあ開けるぞ」
楽しそうににやにやと笑いながら翔子先輩が箱を開ける。逢坂さんが「えっ、本当ですか?」とつぶやきつつ箱をのぞきこむようにして見ていた。
「あれ、それついに開けるんだ」
部室の中で二階堂先輩が机に肘をつきながら注視している。いったいなんなんだ。
「じゃーんっ! みろ、携帯電話だ!」
「おおーっ!」
部員一同から歓声が上がる。
「つ、ついに翔子もケータイを持つようになったのか!」
「翔子先輩、おめでとうございます!」
二階堂先輩が驚き、逢坂さんは本当に嬉しそうにしている。かく言う俺はなんだかさらに面食らってしまった。
「えっ翔子先輩あれだけ買うの渋ってたじゃないですか」
「へへー。そうなんだけどさ、ついに買ってみたんだ! どうだ? いいだろう?」
箱の中には黒色の携帯電話が買ったままの状態で透明のビニール袋にいれられていた。画面についている保護シートもそのままで、底には説明書がしまわれているようだ。おそらく本当に買ったまま持ってきたのだろう。
各々の反応に満足して翔子先輩が箱のふたを閉めた。
「え? 出さないんですか? 翔子先輩の番号教えてくださいよ」
「ああ、そうか」
逢坂さんが当然の疑問をぶつけると、翔子先輩はカバンの中から小さな紙切れをとりだしてみんなに見えるようにおいた。どうやら電話番号のようだ。
まあ確かに電話番号を教えてほしいと頼まれた訳なのだからそれで合っているといえば合っているのだが。
「翔子先輩、それじゃああたしたちの番号登録できないじゃないですか。ちゃんと箱から端末出してください、みんなの分登録してあげますから。あとメールアドレスも教えてくださいよー」
「ええっ開けちゃうのか? もったいない!」
「ケータイは使うものなんですっほら、はやく!」
「あぁっ!」
あわてふためく翔子先輩の腕の中から逢坂さんが携帯電話の入った箱を奪い取る。
操作方法もなにもまったくわかっていない様子の翔子先輩を尻目に、入口付近に腰を下ろしたままの逢坂さんが部員の連絡先を手際よくどんどん登録していく。買ったときのめちゃくちゃな文字列のままだったメールアドレスも変えられていく。
「ほら、ここを押せば自分の番号が見られますから。みんなのはこっち」
「おぉー・・・・・・なんかよくわからないけど・・・・・・・」
「まあすぐに慣れますよ」
「うんっありがとう」
大切そうに携帯電話を抱えて翔子先輩がいつもより自然に笑った。
みゃーお。
二階堂先輩がいつものように生徒会室に顔を出しに行くのを合図に部室を出て校門に向かい歩いていると、ポケットの中の携帯電話が鳴った。
『着信 木島翔子先輩』
「もしもし?」
『おぉーつながった! おい、井上まだ帰ってないよな?』
「まだ昇降口出たばかりですよ。どうしたんですか?」
『パフェ、食べに行くぞっ』
ああ、なるほど。
『雫は塾があるみたいだし今日こそ大丈夫だろ。駐輪場で待っててくれないか。すぐに行くから』 なんとなくそんな予感はしていたがやはりカップアイスだけではだめだったらしい。翔子先輩はすっかりパフェを食べる気満々になっていたのでむげにすることもできずおとなしく従うことにした。
「わかりました。待ってます」
自転車の後ろに少しの重さを感じながらゆるやかな登り坂をのぼっていく。風に乗って桜の花びらが散っていく。そろそろ見頃も終わりだろう。
いつもより少し早い時間の下校なのでほかの部活動はまだ活動中なのか丘留都高校の生徒はあまりいなかった。
「井上」
「なんですか」
「私のわがままにつきあってくれてありがとうな」
「別に、俺は助けてもらったんですからこのくらいでお礼ができるのなら全然かまわないですよ」
「ううん、それもあるんだけどさ、」
背中にあたたかな感触を感じる。翔子先輩が俺の背中にあたまをつけて言った。
「いつも部活とかで私のわがままにつきあってくれるじゃないか。オカ研立ち上げてからたくさんの人が入部してくれて、嬉しくていろいろなことやったんだけどさ。どうもうまくいかなくて。どんどん部室に来る人いなくなってちゃって。あげくのはてに自分から追い出すような真似して……。だから去年はほとんど二階堂と部室にふたりっきりだったんだ。だから、昨日みたいにみんなでばかみたいに騒いで遊んだり、アイス食べたり。すごく楽しかったんだ」
俺の腰につかまっている小さな手に少しだけ力がこもるのを感じる。いつになく殊勝な様子にとまどってしまう。
「な、なに言ってるんですか、それをいうならあのふたりに感謝するべきじゃないですか。二階堂先輩はなんだかんた言って去年からずっといるわけですし、逢坂さんがいるから部室が明るくなるわけだし」
「うん、みんなに感謝してる。でも、あのふたりは自分からオカ研に来たけど……井上は本当は違うだろ? それでも一緒に楽しくしてくれてくれてるから。ありがとう」
「翔子先輩・・・・・・」
俺はそれ以上言葉を続けられなかった。本当はここでなにか気の利いた言葉をかけるのが正しいのだろうが、残念ながら俺の頭の中にはこういうときに言うべき言葉が見つからなかった。
自転車に乗っているときでよかったと思ってしまった。正直どんな顔をして翔子先輩を見ればいいのかわからない。今、後ろで翔子先輩はどんな顔をしているのだろう。
そのまま俺は黙ったまま、翔子先輩は俺の背中にあたまをつけたまま、どんどん坂を上っていく。道路を車が走る音だけが鼓膜に響いていく。
高校と駅の間にあるコンビニ近くにある信号につかまりペダルをこぐ足を止めた。コンビニの前にほかの高校生がいるのをみつけると翔子先輩は俺の背中からぱっとあたまをはなした。
「翔子先輩、あのーー」
「おい、井上」
沈黙を破ろうと口を開いた矢先、どこからか俺の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。あたりを見回すとちょうどコンビニを出たところにふたりの男が立っていたーー中学のときの同級生、杉田と五組の相沢だった。
「へぇーおまえ彼女いんの?」
杉田がにやにやしながら近寄ってくる。顔も見たくないので視界に入れないように無理矢理前方を向く。最悪だ。どうしてよりによってこいつがいるんだ。
「おい返事しろよ。久しぶりに会ったんだからよ」
杉田が肩をどつく。信号はまだ赤のまま。
俺が無視していると、杉田は翔子先輩に向かって話始めた。
「いやぁ、仲良く下校中にすいません。俺と井上、中学の同級生なんですよ」
「・・・・・・はぁ」
翔子先輩のとまどった声が聞こえる。それでも俺はうつむいて黙っていることしかできない。どうしてこんなときに限って信号は長く感じるんだ。早く変わってくれ。
「俺、中学のとき一番井上と仲良くしてやってたんですよ。こいつ友達いなくて。それにしても井上にこんなかわいい彼女がいるとは思いませんでしたよぉ。なあ、おまえ前髪切ったんだな。いいのか?」
手のひらにじっとりとした汗を感じる。微かに震えているのを気づかれないように力一杯ハンドルを握った。相変わらず杉田はへらへらと話し続けている。相沢は杉田の後ろで同じようにへらへらと笑っているだけでなにも言ってこない……気持ち悪い奴め。
信号が青に変わると同時に力を込めて思い切りペダルを押し出した。
「おい待てよ。なんだよその態度」
しかしその瞬間きつく肩をつかまれ自転車は止まった。杉田が一段低い声で言う。動悸が激しくなっていく。
「それにしても井上にはこんなかわいい人もったいないよなぁ、相沢。彼女さん、知ってますー? こいつ中学でなんて呼ばれてたか」
どうしてよりによって今日なんだ。せめて、せめてひとりのときなら良かったのに。なにも言わなくてもわかる。俺の腰をつかむ翔子先輩の手の力が少し強くなった。
「行こう、井上」
「聞いてくださいよ。こいつね、みんなにーーなにすんだよッ!」
力をこめて杉田の手を振り払い、無理矢理ペダルをこいで自転車を前に進める。急に動き出したので翔子先輩が小さな声をあげてあわてて俺の腰をつかみなおした。
「おまえ今でも幽霊が見えるとか馬鹿なこと言ってんのかよ!」
後ろから杉田の怒鳴り声が聞こえてきたが、俺は逃げることしか頭になかった。逃げることしか、できなかった。
「はぁ、はぁ、はぁ・・・・・・」
無我夢中でペダルをこぎつづけ、今までに出したことのないほどの速度で自転車を転がした。とにかくあの場所から離れたかった。とにかくあいつらと一緒にいたくなかった。とにかくそんな姿を、見られたくなかった。
翔子先輩はずっとなにも言わないで俺の背中につかまっていてくれた。
手のふるえがおさまらないのは吹き付けてくる風が強くて手が冷えるからだ。動悸がおさまらないのはきっとこんなに早く二人乗りで自転車をこいでいるからで、決してあいつらがこわかったからじゃない。
駅に着く頃には俺の息は完全にあがっていた。自転車の速度も、もうのろのろ運転にしかならなかった。もうなにも考えたくなかった。そういえばいつだかにもこんなことがあったような気がする。
駅の入口の少し手前で自転車のブレーキをかける。ぎゅっといつもより重い音がして止まった。
そのまま振り返らず地面を見つめたままつぶやいた。どんな顔をして翔子先輩の方を向けばいいのかわからなかった。
「翔子先輩、すみません。俺ちょっと疲れてるんで今日は帰らせてもらいます。本当、楽しみにしてくれてたのに・・・・・・すみません」
「なーに言ってんだよっ」
背中を平手打ちされた。いつもの楽しげな声だった。
「じゃあまた今度にしようっ! 約束だからなー?」
「・・・・・・はい」
翔子先輩が地面に飛び降りる。自転車が少し揺れて軽さを取り戻す。
「じゃあまた明日なっ。部活こいよー?」
俺の肩に優しく触れるとその楽しげな声を残して駅への階段を下っていった。
すっかり冷えてきた夕方の空の下、肩に残ったぬくもりを頼りに再びペダルをこいで家に向かった。それでも胸の内に巣くう不安はおさまらなかった。




