第三章 言いたくない話、言えない話
「おはよう!」
朝、席について鞄から机の中に教科書を移していると、見慣れない女の子に声を掛けられた。知らないわけではない、「見慣れない」女の子だ。
「……あ、逢坂さん?」
俺に声をかけてきた女の子、逢坂雫は同じオカルト研究部の部員で、学校にいる日は毎日顔を合わせている。密度の濃いまつげに縁取られた大きな猫目をもつ端正な顔立ちや、透き通った声から彼女だということはわかるのだが……決定的に違うものがあった。
「どうしたの、その髪。まるで――」
「まるで翔子先輩みたいみたいな髪型だよなぁ?」
隣の席から川原がにやにやしながら会話に参加してきた。
今の逢坂さんはいつものゆるく巻かれた栗色の髪ではなく、くせひとつないまっすぐなつやのある黒髪だった。確かに、翔子先輩の髪型にそっくりだ。
「ちょっと黙ってて」
逢坂さんが軽く睨む。川原は肩をすくめて「はいはい」とからかうような返事をするとにやにやした視線をこっちに向けたまま口を閉じた。なんなんだ一体。
「……どう? 変、かな?」
「ううん、そんなことは。ただ、いつもとあんまり違うからびっくりして。どうかしたの?」
「あれ、井上くん知らなかったの? 今日は頭髪検査の日だよ」
「ああ、そっか」
そういえば昨日の帰りのホームルームでそんなことを言っていたような気もする。どうがんばったとしても頭髪検査にひっかかりそうもない髪だからまったく気にしていなかった。
「でもそれだけが理由じゃないよなー?」
「うるさい!」
横から口を出した川原を一喝する。入学から三週間、いつもクラスの中心にいる逢坂さんと川原はだいぶ仲良くなっている。そして俺はそれに引きずられるようにしてどうにかクラスに溶け込みかけている、気がする。女子は逢坂さん以外とは事務的な話しすらほとんどすることはないが。
ただ、幸か不幸かオカルト研究部には完全に溶け込ませられているようで、すっかり翔子先輩たちに活動人員として認められてしまっていた。
その原因は無駄に真面目で部活をサボるという行動をできない俺の性格にあるんだろう。別に行かなかったとしても顧問の先生にさえとがめられることもない部だが、それでも入部してしまったからには毎日通うことが俺の意識の中では半ば強制化されていた。
「と、いうわけで……今日は部活を休む」
そんなわけで今日も非常に無駄に律儀に部室を訪れると、ドアの前にマスク越しにも顔色が良くないのがよくわかる翔子先輩がいた。元からかなり色が白い方なのだろうが、今日はそれ以上に真っ白な顔をしている。
「……大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃない、だから帰る。今日はお前ら好きにしろ」
基本的にいつも好きにさせてもらっているわけなのだが、今はそんなことをつっこんでいる場合ではないらしい。
「翔子先輩どうしちゃったの?」
逢坂さんが部室の中で読書にふけっていた二階堂先輩にたずねる。
「変人もたまには風邪をひくんだよ・・・・・・って、誰!?」
「逢坂ですってば。わかってて言ってますよねぇ?」
面倒くさそうに二階堂先輩に言い返すとさらさらのストレートヘアになった自慢の髪をなびかせながら当たり前のように部室に入っていったので、それにならって俺も一緒に部室に入っていった。
「でも翔子先輩、昨日まではぴんぴんしてまたよね?」
部室の真ん中に鎮座している机のまわりにぺたんと座りながら不思議そうに小首を傾げる逢坂さんの言うとおり、昨日は全く具合が悪そうな様子はなかったので確かに少し心配ではある。
しかし、二階堂先輩はその言葉に一瞬顔をしかめ、逡巡したあと、いつもよりちょっと真面目に言葉をつないだ。
「たまにあるんだよ。翔子がああいう風に急に体調崩したりすること」
「・・・・・・翔子先輩って意外と体弱い?」
逢坂さんがすごくうさんくさそうな目をした。それをみて二階堂先輩が苦笑する。確かに翔子先輩が実は体が弱いとは意外だ。
まぁでも言われてみれば女子の中でもかなり小柄な方だろうし、肌も白い。そういえば低血圧で貧血だといっていたので、そういうのを含んで考えるとなんとなく納得できるような気もする。
「いや、違うんだよ。特別体が弱いとか、そういうわけじゃないんだけどさ。翔子の体調が悪くなるってときはだいたいーー」
二階堂先輩がすっと俺の方に視線をよこす。
「なにかオカルト関係の面倒なことに首をつっこでるときなんだよ」
静まりかえる部室。
二階堂先輩は真面目な顔をしたままそれ以上言葉を続けようとはせず、逢坂さんはぽかんとしている。
なにかオカルト関係の面倒なことって、まさかこの間まで俺に起こってたことなのかーー。
「なーんて、そんなにしょっちゅうオカルトなことが起きててたまるかよ! 今日のはただの風邪だって。昨日久しぶりに寒かったのにアイス三つも食べる馬鹿が悪い」
真剣に話に聞き入っていた俺たちのアホ面に満足したのか、二階堂先輩が吹き出して俺の背中をばんばんと叩いてきた。
「なによっもうっ! こっちは真剣に心配してるっていうのに!」
からかわれたことに憤慨した逢坂さんの右ストレートを軽くあしらいながら二階堂先輩が続ける。
「まあまあ、半分は本当。半分は嘘だけど。あんまりオカルトに首突っ込みすぎると体調崩すぞって話」
「そういうことがあったっていうことですか?」
なおもくってかかろうとしている逢坂さんをなだめつつ尋ねると、二階堂先輩は懐かしそうに目を細めた。
「そう、中学のときの話だけどね」
そういうと、ぶつぶつとなにかつぶやきながらおもむろに壁際の本の山を漁りだした。
「おー、あったあった!」
本の山からひっぱりだされたのは一冊の古びた本だった。西洋のファンタジー児童書のような荘厳なイラストの表紙には『降霊術のすべて』とある。
「・・・・・・なにこのうさんくさい本。これ二階堂先輩の?」
逢坂さんが若干身を引きながら言う。まあ確かにうさんくさい。
「うん。いや、本当は違うんだけどさ、人から記念にもらったやつ。うさんくさいのは同意。ただ、このうさんくさい本があったせいで俺は今ここにいるんだよねぇ。ほら、こっくりさんって知ってるか?」
「こっくりさん、ですか? 知ってますけど、それがなにか?」
二階堂先輩が本を片手に掲げてひらひらと振る。
「そう、こっくりさん。あれのちょっと変わったやり方がこの本に書いてあってさ。俺が中学二年のとき悪友に誘われるがままやっちゃったわけさ。この本に載ってたやり方で」
「それが、なにか?」
いまいち話が見えてこない。
「そのときの俺は幽霊だのなんだのってものは非科学的でまったくそんなことを信じてるやつは馬鹿じゃないかって思ってたわけ。そんなものは小学生のうちに卒業しておけって言う感じでさ。そのときは生徒会長になったばかりってのもあってとにかく万年学年二位を挽回しようと勉強ばっかりしてたから、なおさらそういうことに頭と時間を使うのを馬鹿らしく思ってて」
「二階堂先輩って中学のときから生徒会入ってたんだ?」
「そう、クールで知的でみんなの憧れっていうのがあのときの俺の目指す全てだったからね。当時はなにがなんでも学年一位をとりたかったわけさ」
クールで知的でみんなの憧れ……いかにも二階堂先輩が目指しそうなキャラクター像な気がする。というかおそらく今もそれを若干引きずっている気がする。
「でも心霊否定派なんてきどってたらさ、そんなこと言って本当は幽霊がこわいだけなんだろって言われて、ついカッとなって……」
「それでやったわけですか、こっくりさん」
「そ。こっくりさんって『はい』、『いいえ』と、『鳥居』と『あいうえお表』を書いた紙を使うだろ? まあ説によっていろいろだけどさ。あれを習字で使う半紙に、参加する全員の血を混ぜた墨汁で書くっていう方法でやったわけ」
「えっ血ですか!?」
俺と逢坂さんの言葉がかぶった。
「って言っても指の逆剥け引っ張ったりしただけ程度なんだけどさ」
驚いて声をあげたが、二階堂先輩は大したことないような口ぶりで答えた。だけ、と言われても実際の血を混ぜたとは、中学生の悪ふざけにしても度が過ぎているような気がする。
そんな俺とかなり引いてる逢坂さんをしり目に、二階堂先輩が部室の机の上に転がっていたプリントの裏にすらすらと文字と鳥居を書いていった。
「ほら、こんな感じの」
「それで……どうなったの?」
二階堂先輩はおそるおそる尋ねた逢坂さんの言葉にはすぐに答えなかった。
「出たんですね、こっくりさん」
「……まあ、そういうことになるのかな。俺もいまだに出たのかどうかはよくわからないんだけど、とにかく動いたんだよ、紙の上に置いた十円玉が。それで周りの友達といろいろ質問したりしていってさ、答えがわかってる質問もしていろいろ試したんだけど全部当たってるわけ。それだけならよかったんだけど、そのうち質問してないのに勝手に十円玉が動きはじめてめちゃくちゃな文字列を示し始めて――」
そういってさっき書いた紙の上で十円玉をするすると動かした。
「う、嘘だぁ。そんなことあるわけないじゃない」
逢坂さんが二階堂先輩の話を遮って笑ったが、顔はこわばっている。本当は怖いのかもしれない。かく言う自分も気味の悪いなにかを感じていたのは確かだ。
「本当本当。なんなら今度翔子に確認してもらってもかまわないよ? まあもちろん当時がきんちょな俺たちはパニックになって、とにかくこっくりさんを帰そうしたんだけど帰ってくれないわけ。まあお約束だよね」
翔子先輩に?
「お約束だよねって……そのあとどうしたんですか?」
「これもお約束、もちろん俺は手を離しちゃったわけだ。そのせいでさらにまわりは大パニックになって、ぶつけようのない怒りと恐怖にまかせて紙とか使った道具一式全部ゴミ箱にぐちゃぐちゃにつっこんで先に帰ってやった」
「か、帰っちゃったの? 大丈夫なの、それ」
「大丈夫じゃないよ。主に精神的に。俺は強がってたけど、次の日からみんなすっかり怯えちゃって。何人かが軽いけがをしたり、授業中に突然泣き出す奴とか幻覚なのか幽霊なのか、とにかくそういうの見たりする奴が続出して。でも先生には学校でそんなことしてたとか言えないし、どうせ相手にされないだろうしね。そこで俺たちが相談したのがーー」
「翔子先輩、ですか」
なるほど。ここで二階堂先輩と翔子先輩がつながるわけか。
「そうそう! 一番嫌いなクラスメイトだったんだけどね。なんてったって俺を差し置いて定期テストで万年学年一位を取っていたのが木島翔子、あいつだったから」
二階堂先輩がずっと学年二位だったって、翔子先輩に負けていたからなのか。普段ぼーっとしている翔子先輩がそんなに頭がよかったとは正直にわかには信じられない。
「それでも当時から翔子は有名だったからね、まあ、主に悪い意味で。それでも話すだけ話してみようと」
「それで、翔子先輩はなんて言われたの?」
「なにも言わずに、殴られた」
「えっちょっ! 殴られた?」
翔子先輩が? 殴った? 本当にあの人がそんなことをしたのだろうか。
その気持ちが顔に出ていたらしく、二階堂先輩はにやりと笑った。
「あいつも前はもっとあからさまに血気盛んだったからね。それもあって昔から孤立してたんだ。まあそれでもさすがに素手じゃなかったけどね。竹刀で。翔子、剣道部だったから。武士道精神皆無のくせして。ほら、この部室にもいつも竹刀がおいてあるだろ? あれも翔子の。それで『あほか、こっくりさんなんているわけないだろ。そんなつまらんこと気にしてたのか』って言われたよ」
そう言って二階堂先輩は盛大に笑った。逢坂さんと俺はあっけにとられてぽかんとしていた。
さすがに素手じゃなかったって、よけいに質が悪いように聞こえてしまうのは気のせいだろうか。といっても翔子先輩がそんなことをするくらいなのだから、きっとなにか理由があったのだろうとは思うけれど。
しかし翔子先輩が「こっくりさんなんているわけがない」などと言うとは、ちょっと意外だ。そんな話題なら率先して飛び付きそうなものを。
「実際ケガした奴もいたから俺たちも食い下がったけど、思いすごしだのあほだの馬鹿だの冷めた目で散々言われた。それは一種の集団催眠で実際はなんでもない偶然を全員がこっくりさんに結び付けてるだけだって」
「それで、納得したんですか」
「しなかったよ、もちろん。だからあのとき捨てた道具をごみの集積所から拾ってきて、次の日もう一回こっくりさんをやってちゃんと帰ってもらおうってことになったわけ」
「よくやりましたね……」
翔子先輩のことを血気盛んだと言っていたが、二階堂先輩も人のことは言えないように聞こえる。今のふたりはこれでもだいぶ落ち着いたということなのだろう。
「俺もそう思う。でももう他になにも浮かばなかったんだよ。でもそのこっくりさんの最中に翔子が教室に入ってきて『お前らはあほか!』って怒鳴られたよ。そのあともぶつぶつと文句言いながら俺たちの近くに寄ってくると、十円玉の上に自分の人差し指乗せて、俺の指を十円玉から離させて……そのまま突き飛ばされた。『ここからは全部私が引き受ける。それならいいだろ。さっさと帰れあほ』ってさ。ひどい話だよ」
「翔子先輩はその後どうしたんですか? そのこっくりさん」
「すぐに指離してたよ」
「えっ」
二階堂先輩が紙の上に置いた十円玉からぱっと指を話してにやりと笑って見せる。まあ翔子先輩のやりそうなことだが。
「俺たちはもうかなりビビってたけどね。翔子はそんなのお構いなしに十円玉はポケットに、紙は校舎裏の焼却炉の中に放り込みに行ったよ。で、全員にお守り配って終了。あとから聞いた話だと近くの神社で一個百円で買ってきただけのものらしいけどさ。俺たちを安心させるためだけの形だけのサービスだったそうだ。もちろん後できっちり料金分徴収された。
それからはみんな徐々に落ち着いていって、幻覚とか幽霊とかをみることもなくなっていった。それで騒ぎはあっという間におさまったんだけど……そのときは事件が収束してきたのに浮かれてすぐには気付かなかったんだけどさ、だんだん翔子が体調崩していったんだ。まあ騒ぎが完全に収束するころにはまた元通り元気になったんだけどね」
事件の収束と翔子先輩の体調の悪化……事件解決の裏で翔子先輩がなにか動いていたということなのだろうか。二階堂先輩の確信的な話し方からすると、おそらくその一件以外にもなにか思い当たることがあったのだろうか。
思考を巡らせている間に二階堂先輩が十円玉をポケットにしまった。
「ま、そんな感じでなにかやっかいなことに首つっこんでるときはたまーに体調崩すみたいなんだ。誰かが変なことで困ってたりするといつもすぐ首つっこんじまうんだ、翔子は。自分から首つっこむくせに絶対文句言うんだけどな」
俺たちを安心させるようにあっけらかんと笑いながら言うと、説明に使ったプリントをくしゃくしゃと丸めるとゴミ箱に放り投げ、見事ホールインワンした。
「それで、もしかしてそれ以来翔子先輩ストーカーをしてるんですか?」
逢坂さんがまさかの疑問をぶつける。それは言っちゃいけないことなんじゃないかとはらはらして見守っていたが、二階堂先輩はまったく気分を害した様子もなくさらりと答える。
「うん、ストーカーじゃないけどな」
「ストーカーでしょ。高校も同じ、部活も同じ。心霊否定派なのにオカルト研究部に入るなんて」
逢坂さんが二階堂先輩を白い目で見ている。相変わらずこのふたりは仲が良いんだか悪いんだかわからない。たぶん、本当はすごく仲が良いんだろうけど。
少しの間の後、どこか懐かしそうに目を細めて言った。
「その一件以来、俺はあいつの関わるオカルトとやらの真相を確かめるべく奔走しているというわけだ。それと同時に木島翔子はいったいどんな人間なのか、あのときなにをしてたのかっていうのがすごく気になって、そして――今こうしてここにいるわけさ」
「ふーん。で、その後から今まで二階堂先輩は翔子先輩にテストでは勝てたの?」
「……秘密」
翔子先輩と二階堂先輩の中学時代の思い出話を聞いたり、三人でUNOをやっているうちにあっという間に遅くなってきてしまった。
「あっもう六時過ぎてるじゃない! あたし今日塾だから先に帰りますっ」
壁掛け時計を見た逢坂さんがばたばたと荷物をまとめはじめる。すでに六時を十分ほど過ぎていた。
「うわっ本当だ。俺も帰ろうかな。二階堂先輩は今日も生徒会寄るんですか?」
「いや、今日はいいかな。みんな帰るなら俺もそろそろ帰るよ」
テーブルの上を片づけながら尋ねると、二階堂先輩は伸びをしながら答えた。その間に素早く身支度を整えた逢坂さんが立ち上がる。
「それじゃ、お先させてもらいます。井上くん、また明日ね」
にっこりと笑って手を振ると、昇降口へ向けてぱたぱたと駆けて行った。特別することもないので、俺と二階堂先輩も適当に部室を片付けてから荷物をまとめはじめた。
「明日、翔子先輩の体調良くなってるといいですね」
「んーそうだね。まあただの風邪なら栄養と休息さえしっかりとればすぐ良くなるでしょ」
「それもそうですね」
今日は陽が落ちるよりも先に帰宅できているはずだ。数日もすればよくなるだろう。
部室に忘れ物がないかどうか見渡していると、二階堂先輩がぽつりとつぶやいた。
「でもさ……井上」
「なんですか?」
二階堂先輩が荷物をまとめる手を止めていた。そう言えば、二階堂先輩とふたりきりでちゃんと話す機会は今までほとんどなかったように思える。
「お前、初めてここにきたとき相談したいことがあるって言ってたよな」
「・・・・・・そうですけど」
「俺はそんなに頼りないかな」
「えっ?」
二階堂先輩の言おうとしていることがつかめず、俺はただ次の言葉を待った。いつもと違う真剣な雰囲気になんと言っていいかわからなかったのかもしれない。
「相談なら、俺や雫にだってしてくれたって構わないんだよ。翔子もそうだけど、お前もひとりで抱え込みそうな奴だからさ。・・・・・・いや、その、次期生徒会長だからな、俺は! 一地味生徒の悩みまで心配してやるなんて、やはり器が違う!」
そう言いながら急に天に拳をつきあげた。
「・・・・・・そうですねぇ、地味生徒とか言っちゃうあたりさすが次期生徒会長です」
「なにか言ったか?」
「いえ、なにも」
口調こそいつもの通りだったが、二階堂先輩は二階堂先輩で俺のことを見ていてくれていたらしい。今まで自分のことでいっぱいいっぱいでまったく気がついていかなかった。
「……話せるときがきたら、ちゃんと話します」
「そうか」
「はい」
「なぁ、井上」
「なんですか」
「翔子――今、変なことに首つっこんでないよな」
そのときうつむいていた二階堂先輩がどんな表情をしていたのか、俺にはわからなかった。
頭髪検査から一日たっても逢坂さんは相変わらず黒髪ストレートのままだった。それはそれですごく似合っていて、けれどやっぱり雰囲気はどこか翔子先輩を思い起こさせるもので、つまりどこか逢坂さんらしさに欠けている気がする。
本人としてもどこか違和感を覚えるらしく、後ろの席からは朝からしょっちゅう指で髪をいじる姿を見てとれた。
「しかし、びっくりだよなぁ」
そんな逢坂さんをぼーっとながめながら隣の席の川原が昼休みに声をかけてきた。
「なにが?」
「雫だよ。ちょっと前まではやたら黒に染めなおすの嫌がってたのにあんなに真っ黒にしてくるんだから。相当な翔子先輩効果だな」
「なんで翔子先輩?」
「んー、いや。こっちの話」
「なんだよそれ」
客観的に見ればどう考えても十分に自信を持てる容姿である逢坂さんがわざわざ、それも翔子先輩になんて似せる必要なんてないだろうに。方向性が違いすぎる。
「まあ、いろいろあるんじゃないの。雫にも」
確かに翔子先輩への対抗心はあるのだろうけど。結局よくわからなかった。
「うわっ本当だ!」
そのとき、突然教室のドアの方から驚きの声が上がった。
「まーた来たよ。みんな熱心だねぇ」
川原に言われて声のした方を見ると、知らない顔がいくつかドアの外にかたまっていた。おそらく「逢坂雫視察団」の一行だろう。
逢坂さんは「元モデル・逢坂雫」として全校生徒から常に注目を浴びているためによくこういった集団がうちのクラスに訪れることがある。それも入学当初と比べるとその数はだいぶ減っていたのだが、どうやら髪型を変えたことがいつの間にか広まってしまったらしく、今日は久しぶりに多くの視察団がやってきていた。
「逢坂さんは相変わらず人気者だね」
「まあ俺らとは比にならない有名人だからな。校内で知らない奴はいないくらいだし」
当の本人はそんなまわりの様子には我関せずとばかりに受け流し、騒ぎから逃れるように友達の席の方へと向かって行ってしまった。「逢坂」という名字が災いして、廊下側の一番前の席になってしまったからだ。
逢坂さんも大変だな。最初に来た一団が帰ったかと思うと、あとから来たまた別のクラス、もしくは学年の視察団がどうにか逢坂さんの姿を確認しようとドア付近で押し合いになっていた。
確かにかわいそうではあるが、自分にはどうしようもないことだ。本人も席を立ってしまったわけだし。そう思って川原と次の授業で出されていた宿題の答え合わせをしようとドアから顔をそむけた瞬間、めずらしい言葉が耳に入った。
「井上正輝って、どの人?」
井上正輝? 同姓同名なんて学校内にもおそらくいないし、ましてやこのクラスに井上の姓は俺ひとりだ。
反射的にドアに顔を向けると、ちょうど教室を出ようとしていたクラスメイトが俺を指で指し示しているところだった。ドアの近くに立っていたのは特徴のない顔立ちの男。たぶん同い年だろう。
「なに、友達? お前に? めずらしいじゃん」
「いや、知らない。誰だろう」
川原がさらりと不思議そうに失礼なことを言うが、俺も誰だかまったくわからなかった。相手が特に特徴のないことが特徴のようなすごく平凡な顔をしているとしても、いくらんでも友達なら忘れるわけもないだろうし。逢坂さんのような有名人なら知らない人がクラスまでたずねてくることもあるだろうが、いたって地味でクラスメイトの全員にさえまだ名前を覚えてもらっているかあやしい程度の知名度の俺をわざわざたずねてくるなんて一体誰なんだろう。
「おーい井上っ……」
「いや、呼ばなくていいや。ありがとう」
話しかけられていたクラスメイトが俺を呼び出そうとした瞬間、特徴のない顔の男は足早に立ち去ってしまった。
クラスメイトは茫然としている俺と川原の近くにやってきて、
「井上、なんかお前五組の相沢に呼ばれてたぞ。なんかしたの?」
とだけ不思議そうに言ってから自分の席へと戻って行ってしまった。
結局、なんだかわからないままそのあとすぐに次の授業がはじまる合図である予鈴が鳴った。
さっきの奴、なんだったんだろう。
今日もひととおり適当に授業を終えてから、そんなことを考えながら一年生が使っているA棟の端にある階段をほうきで掃除していた。
もともと友達が少ないので忘れるということはないだろうし、「どの人?」と聞くくらいなのでお互いに見知った顔ではないのかもしれない。けれどどこかで見たことがあるような気もする。
「井上くん?」
「あっごめん。ちゃんとやります」
ふいに逢坂さんからこえをかけられて意識を現実に引き戻す。考え事をしていてついほうきを動かす手が止まってしまっていた。
「それはいいんだけど、どうかしたの?」
「いや、ちょっと。昼に俺のことを探しに教室まできた人がいたんだけどなんだったんだろうって思って」
「友達?」
「たぶん知らない人だと思う。五組の相沢とかいう人」
「知らない人かぁ、どうしたんだろうね。あたし五組の子に聞いてみようか?」
「あっいや、いいんだ。ちょっと気になっただけだし」
「おーい、そろそろ終わりにしようぜ」
階段の下でちりとりを構えていたクラスメイトが声をかけてきたので逢坂さんとの話はそこで打ち切りとなった。
手早くゴミを集め、後かたづけをする。その間にもあちこちで若干控えめな歓声が上がった。
「あっ本当に黒髪になってる!」
「黒髪もかわいいよねぇー!」
「でもあたしは茶髪のときの方が好きかなぁ?」
そっと逢坂さんの方に顔を向けると、「もう慣れたから大丈夫」と言いながら苦笑した。
そうは言ったものの、やはりあんまりあちこちで自分のことが話題にあがるとなると疲れてしまうらしく、先に教室へと避難していった。
階段掃除が終わり、トイレに寄ってから荷物を取って部活に行くことにした。
人気者というのも大変だな。と俺にはまったく経験のない苦労について少し同情しつつトイレから出ると、どこかで聞いた声が聞こえてきた。
「うん、そうなんだよ。いやぁ、しかし本当にうちの学校に入ってるとは思わなかったな! 俺も名前は覚えてたんだけど顔は覚えてなかったから全然わかんなかったわ」
階段とトイレの間にある壁をはさんだ向こう側で五組の相沢とかいう特徴のない顔をした男が誰かと携帯電話で話しているところだった。
「そうそう、うけるよな! うちの中学からから結構遠いのにわざわざ『オカルト高校』に入るとか。いやぁ、ほかの奴なら別になんとも思わないけどさ、あいつだろ? マジないわー」
なんだ、なんなんだこいつは。名前は覚えてた? うちの中学? オカルト高校ーー?
まさか、と思い少し離れたところから相沢の顔を見てピンときた。そうだ、こいつ、思い出した。
高校からの帰り道にコンビニの前で話していた中学のクラスメイトと一緒にいた奴だ。同じクラスになったことがなかったからわからなかったが、話の感じからしておそらく相沢も同じ中学出身のはずだ。ということはーー。
どくん。
心臓が、一度大きく跳ね返ったのを感じた。自分の鼓動が拡大されて聞こえる。まさか。そんな。なんで、あいつの友達なんかがいるんだよ。
ふらふらとよろめくようにその場から後ずさりし、壁にもたれかかりうなだれる。
それじゃあ、俺はなんのためにあんなに勉強してこんな遠くの高校に来たっていうんだ。
「わっ、マジで? じゃあ今から行くわ! いや、俺が行くまで待っててよ。うん、じゃあすぐ行くから。じゃあまたあとでー」
いつの間にか全く違う話題になっていたらしい相沢と誰かの話が終わったらしく、足早に通り過ぎていく。俺がいたことにはまったく気がつかなかったようだ。
俺もクラスに戻ろう。そして早く部室に行って、みんなとどうでもいいことを話して気を紛らわそう。俺はもうあのときとは違うんだ。あんな奴らにかまっている暇はない。
まわりに変に思われないように小さく息を吸い込み、乱れた呼吸を整える。鼓動は相変わらず拡大されたようにはっきりと聞こえてくるがどうしようもない。
ああ、そうだ。教室で逢坂さんが待っているはずだ。先に部室に行っていいと言ってもいつも必ず俺が行くまで待っていてくれるのだ。
よし、行こう。
顔をあげ、まるでなにごともなかったかのように平然と歩き出すーーはずだった。
「・・・・・・え?」
誰もいない。
なにも聞こえない。
まるで最初からそこに自分以外の誰もいなかったかのように静まりかえっていた。さっきまですぐそこにいた談笑していた人たちも、部活に行く準備をしていた人たちも、廊下でボール遊びをしていた生徒に説教をしていた教師も、誰もいない。
ただ、静まりかえった校舎がそこにあるだけだった。
「そんな・・・・・・」
最近はなにもなかったのに。ようやく高校生活が楽しくなってきたところなのに。
「なのに、なんで、俺だけこんなことになるんだよ!」
近くにあった他のクラスのロッカーをけ飛ばす。ガコン、という金属音がむなしく響く。ようやく自分の声以外の音が聞こえた。自分の耳がイかれたわけではないらしい。
すぐそこにあった一組の教室をのぞいてみたが誰もいない。どうしていいのかわからず、とりあえず自分のクラスまで戻ることにした。
ぱたぱたと自分の歩く音だけがやけに廊下に響く。誰もいない校舎はやけに広々と感じられた。
「誰かいませんか?」
三組の教室をおそるおそるのぞきこみながらたずねたが、予想通り誰の姿も見えない。
「・・・・・・なんで、誰もいないんだよ」
俺が戻ってくるのを待っていてくれるだろう逢坂さんの席をみたが、やっぱりそこは空っぽのままで。
わけのわからない状況に混乱しつつ、けれどどこかでほっとしている自分もいた。もっと取り乱したっていいはずなのに、その割にはどこか冷静だった。何回も同じような状況を経験したせいもあるだろうけど、それよりも――今は自分を知っている人がいないことに、そして相沢の言葉に対して動揺している自分を見られないことに安心していたのかもしれない。
それでも気味が悪いのは変わらない。
「となると、次は……」
しばらく無人の教室を見つめたあと、ふっと息を吐き出してつぶやいた。
自分が音を出さなければまったくの無音になってしまうので、それが怖くていつもよりも無意識にひとりごとが多くなっていた。
「誰か、いたら返事してください!」
大声を張り上げて廊下を進む。人のいる気配は相変わらずしなかった。誰か、と言ったが、自分でもわかっている。多分、この世界には誰もいない。あの人を除いて。
そしてやがて目的の場所が目に入った。
『オカルト研究部』
書道部とかかれた標識の上から無理矢理はられた紙にくせのある丸文字で書かれている。すでに見慣れてきたその文字を見てひとつ大きく深呼吸し、ドアをあけた。
「誰かいますか!?」
旧書道部らしい畳の部屋、部屋の中央にある丸テーブル、あちこちに散らばった座布団、隅に山積みにされた本、なぜかある冷蔵庫。いつものオカ研の部室だった。けれどそこには誰もいない。
もしかしたら、翔子先輩ならここにいるんじゃないか。あの人なら、こんなときでも普通に部室にいて、いつもみたいに机の上にお菓子の袋をひろげているような、そんな気がしていた。
しかしやっぱり誰もいなかった。
「はぁ・・・・・・」
どうしたらいいのかわからず、上がり框に腰をかけてひっそりと静まりかえった部室を見まわした。
「翔子先輩・・・・・・」
「なるほどな。これはオカルトだな」
「ひっ!」
突如降ってきた自分以外の声に裏返った悲鳴が漏れ出る。あわてて前を向くととそこにはさっきまであれほど探していた翔子先輩の姿があった。
竹刀を片手で杖にようにして立っている。
「なにぼーっとしてんだよ。ほら、行くぞっ井上!」
翔子先輩はいつものようににやりと口の端をあげて笑うと、俺に向かって手を差し出してきた。
いつもと同じようでまったく違う世界に突然現れ、いつもと全く変わらない翔子先輩の姿に俺はすっかりあっけにとられていた。
「ほ、本当に翔子先輩ですよね?」
「なーに言ってんだよ、あほー」
そう言って笑い、俺を殴るふりをする。ああ、間違いなく翔子先輩だ。
安堵と驚きと混乱でわけがわからなくなって座り込んだままの俺の腕をむんずとつかんで引き起こす。
「さあ、さっさと戻って部活やるぞ。みんな待ってるからな!」
「しょ、翔子先輩、どういうことなんですか? ここはどこなんですか? 俺、普通に学校の廊下にいたはずなんです! そしたら、いつの間にか誰もいなくなってて、なにが起きたのか、どうしてこんなことになっているのか全然わからなくて・・・・・・」
翔子先輩を見つけて安心したのか、今頃になって急に疑問と不安が噴出してくる。それでも翔子先輩はいつものようににやりと笑っていた。
「心配いらないよ。すぐに元に戻れる。ただどうしてこうなんなことになっているのか、今の私にはわからない」
「そんな・・・・・・」
「だーから、心配いらないって。ただちょっとだけ教えてほしいんだ。廊下でなにかいつもと違うことがなかったか?」
「・・・・・・」
いつもと違うこと。きっと、あれだ。五組の相沢とかいう奴の電話の内容を、どうして昼休みにわざわざ俺の顔を見に教室まできたのかを知ってしまったことだろう。
でもーー。
「言いたくないか?」
「・・・・・・」
「うん、なら別に言わなくていいよ。じゃあ行こうか」
別になんでもないような口振りで言うとすたすたと歩き始めてしまったのであわてて後を追った。相変わらずあっさりしている。
「翔子先輩、どうして竹刀なんて持ってるんですか」
「ん? 護身用」
「護身用って、なにから身を守るつもりなんですか? なにかいるんですか?」
「たぶんここには私と井上以外誰もいないと思う」
「誰も、いないんですか」
改めてまわりを見回す。やっぱり、さっきからまったく人の気配を感じない。ちょうど横を通り過ぎている教室をのぞいたが、人の姿はなかった。
「井上はどう思う? 誰かいると思うか?」
「そんなこと、俺にはわかりません」
「どう思う?」
「・・・・・・いない、と思います」
「うん、じゃあそうなんだと思う。だからたぶんこれを使うことはないだろうけど。まあ一応、念のためってことで」
「どういうことですか?」
言っている意味がまったく見えてこない。ひとりで歩いていたときよりもますます混乱してきた。やはりひとりではないという安心感でようやく脳が働き始めたらしい。
前を行く翔子先輩が、ふと足を止めて振り返った。
「ここは井上の心を映した平行世界、『影世界』だからさ」
そう言った翔子先輩は、静かな微笑みを浮かべていた。働き始めた脳が再び活動を停止しようとする。思考が強制的にストップさせられそうになる。
平行世界、だって?
「現実世界と平行世界の狭間、じゃなくて?」
翔子先輩は今まで俺にそう説明してきていた。一連の現象は現実世界と平行世界の狭間に巻き込まれたためで、確かそれは『境界世界』という空間なのだと。
「うん、境界世界は現実世界とひとつづきの世界だからね。現実世界の中に、ちょっとだけ平行世界が浸食しただけというか。だから気がつかない人も多い」
確かに、最初の翔子先輩や川原と二回同じような会話をしたときは違和感はあったものの、違う世界のことのようには感じなかった。
「でもこの影世界に迷い込んだとき、きっと井上はすぐに自分がおかしな状況に置かれていることがわかったはずだ」
時間をさかのぼって思い出す。そう言われれば、壁際から離れて歩き出そうとした瞬間に異変に気がついたんだった。
「なるほど・・・・・・え、でも俺の心を映した世界っていうのは・・・・・・?」
翔子先輩の返事が聞こえるまで、しばらくの間があった。仕方がなく通り過ぎる教室の中をのぞいたりしながら翔子先輩の後ろについて歩き続けた。
「私が思うには精神的な負荷が大きくなると影世界にいくんじゃないかと考えている。私の場合は意識を集中させればどちらへも行けるけれど」
「まさか、その精神的な負荷がこの世界に影響を与える・・・・・・っていうことですか?」
「この世界を制するのは意志の力だ。井上か意志をしっかり持ちさえすれば大丈夫さ」
「意志の力……」
俺の言葉に翔子先輩は答えなかった。次の話題を考え始めた頃、翔子先輩は顔を前に向けたまま聞こえるか聞こえないかという程度の声量で独り言のようにつぶやいた。
「大丈夫だ、私が守る」
「え?」
自分の耳に入ってきた言葉に思わず聞き返したが、その話はそこで打ち切りとなってしまった。仕方がなく話題をほかにうつす。黙っているとこの静寂の世界の中では不安が増すばかりだった。
「それで、どこに行こうとしているんですか?」
翔子先輩がくるりと振り向いて言う。
「うん、とりあえず井上が最初にいた場所に戻ろうと思う」
「翔子先輩、俺が最初にどこにいたか知ってるんですか?」
「・・・・・・知らない」
校舎の端までさっさと歩いてきておいてなにを今更、とは思ったが、あまりに純粋な困惑の表情を向けられてしまい、それ以上つっこむのはなんだかかわいそうになってしまった。
今まで本当になにも気がつかなかったのか、俺の顔色をうかがうかのように恥ずかしそうにそっと上目遣いで見つめてきた。
そんなふうにして見つめられるとなんだかこっちが困惑してしまう。視線を彼女の瞳からはずして渡り廊下の方へと向ける。
「A棟2階、一組側のトイレの前です」
「うん、そうか。じゃあとりあえずそこにいこう!」
翔子先輩が表情をぱっと変え、いつものどこか自信に満ちた目でうなずいた。
肩で竹刀を支えながら翔子先輩はすたすたと歩いていく。翔子先輩と合流できたこと以外いっさい状況は変わっていないはずなのに、なぜかこの人といればどうにかなるんじゃないかと、そんな淡い期待が膨らんでくる。
誰かといることがこんなに心強いなんて。さっきまでの自分ではそんなこと考えられなかった。
右手の窓の外に昇降口の屋根を見ながら一年生が使うA棟に向かって歩いていく。
「翔子先輩、そういえば具合大丈夫なんですか?」
「うん。昨日休んだし、第一病気じゃないし」
「そうなんですか」
「そうだよ」
よくわからない。とりあえず、確かにぴんぴんしているようで安心した。
「これって外に出られるんですかね?」
「出られると思うよ。ただ、出ても同じだよ」
「そうですか・・・・・・」
「うん、たぶんだけどね」
外に誰かいないかと校庭に目をこらしたが特に人はーー。
「あれっ・・・・・・翔子先輩! あれって人じゃないですか?」
渡り廊下の大きな窓に張り付いて校庭の奥の茂みの中にある人影のようなものを指す。相手もこっちを見ているように見える。翔子先輩が少し驚いたように窓に駆け寄り、俺が指す方向に目をこらしたが「あれは違う」と言ったきりまた黙って歩き出してしまったので俺もそれにならうしかなかった。
さらに校舎を奥へと進むと、俺と翔子先輩はあっという間に最初にいた場所に戻ってきた。
「ここらへんです」
「そっか」
それだけ言うと翔子先輩は竹刀を肩からおろすとまた杖がわりにしつつ、ロッカーの上に手をついて窓の外を見たまま黙り込んでしまった。俺はどうしていいのかわからず、とりあえず翔子先輩にならって窓の外の景色を見上げるしかなかった。
『うん、そうなんだよ。いやぁ、しかし本当にうちの学校に入ってるとは思わなかったな! 俺も名前は覚えてたんだけど顔は覚えてなかったから全然わかんなかったわ』
ーーえ?
ふいに放課後ここで聞いた相沢の声が聞こえてきた。驚いて振り返るとそこにはそのとき相沢がしていたように壁にもたれ掛かって携帯電話で話をしている人型の、影のような、黒いもやのようなものがいた。
顔も、体も、すべて真っ黒。目も、鼻も、口も、凹凸があるだけですべて真っ黒。真っ黒な、人。
「なっ・・・・・・なん・・・・・・」
うまく言葉が出こない。鼓動が拡大されたように体中から聞こえる。
相沢の声で話す影のような黒い人はこっちの声などまったく気にせずに楽しげに会話を続けている。
「井上」
はっとして横を見ると黒い人をまっすぐににらんでいる翔子先輩の姿があった。翔子先輩にも見えているようだ。
「しょ、しょこ・・・・・・せんぱっ・・・・・・」
これは、いったいーー?
『そうそう、うけるよな! うちの中学からから結構遠いのにわざわざ『オカルト高校』に入るとか。いやぁ、ほかの奴なら別になんとも思わないけどさ、あいつだろ? マジないわー』
放課後と同じ会話。動悸が激しくなる。
横で翔子先輩がため息をつくのが聞こえる。
たのむ、たのむ、たのむ。もうやめてくれ。たのむからもうこんなの聞かせないでくれ。もうこんなの、翔子先輩にはーー。
「井上、大丈夫だ」
柔らかい声が聞こえ、肩に翔子先輩の小さな手が触れ、離れた。それと同時に翔子先輩は竹刀を片手に影に近寄って行く。
「翔子先輩っ!?」
そのまま両手で竹刀を真上に振り上げたかと思うと、黒い人に向かって一直線に竹刀を振り下ろしていた。
校舎中に鳴り響く激しい打撃音。竹刀は嘉部に当たって止まっていた。
黒い人が翔子先輩の竹刀によって打ち消されたかのように霧散する。
「はぁはぁ・・・・・・」
動悸は相変わらず激しい。けれど、もう目の前に黒い人の姿はない。
「翔子先輩・・・・・・?」
返事はない。いつもとどこか雰囲気の違う翔子先輩の姿に言いようのない不安感が押し寄せてくる。結局翔子先輩はしばらくの間、霧散した黒い人がいた場所を伏し目がちににらんでいた。
この人はどう思っているのだろう。さっきの話を、どこまで理解してしまったのだろう。
「よしっ! それじゃあ行くか」
口の端をあげてにやりと笑う。くるりと向き直るともういつもの翔子先輩に戻っていた。
「翔子先輩、いったいなにが・・・・・・」
「・・・・・・そうだな、後でちゃんと説明しないとな」
この場では教えてくれないらしい。
「ま、とりあえずもう大丈夫だって! なーに泣きそうな顔してんだよー」
翔子先輩がからかうように言い、俺の頭を適当にくしゃくしゃとしてから廊下を駆けていく。髪がぼさぼさになった。
「なっなにするんですか! 第一泣きそうな顔なんてしてませんよ!」
楽しそうに駆けていく翔子先輩の背中に向かって叫ぶと、彼女はにやにやしながらくるくるとまわってみせた。
「そうなのか? ふーん、そうなのか?」
「……俺のこと小馬鹿にしてますよね」
「井上は私の子分だからな!」
俺の方を見てまたいやらしくにやりと笑う。まったくこの人はよくわからない。
「子分って・・・・・・、」
「子分を守るのは、親分の役目だからな」
そうつぶやいた翔子先輩の小さな後ろ姿はやっぱりどこか楽しそうで、けれど俺にとっては十分心強かった。
「翔子先輩、俺ーー」
みゃーお、みゃーお。
出し抜けにかなり場違いな間の抜けた猫の鳴き声が響きわたった。制服のポケットの中で携帯電話が振動している。
あわてて取り出した携帯電話の画面には『着信 逢坂雫』という表示。
「翔子先輩、これっ!」
「うん、出てみな」
ひとつ、大きく息を吸い込む。緊張で少し震える指で通話ボタンを押す。
「もしもし、・・・・・・ッ!」
受話器を耳に当てた瞬間、爆音が耳をつんざいた。あまりの音に携帯電話を遠ざけ耳をふさぎ目を閉じる。
どのくらいそうしていたのだろう。いつの間にか、ふさいだ耳の向こうでくぐもった様々な音が聞こえていた。おそるおそる目をあけると、目の前にはさっきと変わらない翔子先輩の姿があった。周りを見渡すとそこには制服を着た生徒や部活用のジャージを着た生徒の姿がある。まわりの生徒が一様に不審そうな目でこっちを見ている。
ゆっくりと耳をふさいでいる手を離し、助けを求めて翔子先輩の方に顔を戻すと、さも当たり前のような顔でロッカーにもたれかかって廊下を行く生徒をぼーっとながめていた。
周囲にはいつものような光景と音が戻っていた。
『もしもし? ちょっと、井上くんー?』
足下に落とした携帯電話から逢坂さんの声が漏れていることに気がつき、あわてて拾い受話器を耳に当てる。
「もしもし?」
『あっよかった、つながった! 今どこにいる? なにかあったの?』
「ご、ごめん。ちょっといろいろあって、まだ廊下に・・・・・・。先に部室に行ってて」
『そっか。それならいいんだ。あ、別に急がなくても大丈夫だからね! 先輩たちにはちょっと遅れるみたいって伝えておくから。またあとでね』
逢坂さんは気を使ったのか、今日は先に部室に行っておいてくれるようだ。
通話終了をつげる音が流れ始める。なんの変哲もない、一瞬のできごと。
「戻って、きたんだ」
誰にともなくぽつりと言った。
「だから心配いらないって言ったろー?」
隣からちょっと間延びした翔子先輩の声が聞こえる。いつのも翔子先輩だった。今はその声の背景に様々な生活音が混ざっていて、いつもは心のどこかでうるさがっていた放課後に騒ぐ生徒の声が心地よく聞こえていた。
「翔子先輩・・・・・・」
「うっし、じゃあ私たちも部活行くぞっ」
翔子先輩が俺の腕をむんずと無造作につかむ。
「部活・・・・・・」
「そう、部活!」
戻ってきたはずなのに、どこか別の世界にいるような、地に足が着いていないかのような変な感覚がする。
そんな俺の様子をまるで無視するように俺の腕をひっつかんだまま、翔子先輩はずんずんと進んでいく。まだどこか現実感のない俺をずるずると強引に引っ張っていく。
ふいに翔子先輩が振り向いて言った。
「みんな、井上のこと待ってるからな」
結局、翔子先輩はそれ以上なにも言わずに俺を部活へと強制連行していった。




