第一章 first impact ―木島翔子―
空は快晴、咲き始めの桜、校庭に響く笑い声。
「はぁ……」
その笑い声を聞きながら、俺、井上正輝はひとりゴミ捨て場の前で突っ立ったままため息をついていた。
今日も負けた。ゴミ捨てじゃんけんに。
丘留都高校に入学して四日が経つ。俺の席がある一番廊下に近い列は今週の教室掃除の当番に割り当てられた。そして入学式のあった月曜日を除く火曜日から木曜日までの三日間、俺は教室のゴミ捨役を決めるじゃんけんに三連敗している。
かと言って誰かがゴミ捨てを代わってくれることもなく、今日もひとり寂しくゴミ捨て場まで満杯のゴミ袋を運んでいた。きっと他のクラスメイトはとっくに友達と部活動見学にでも行っている頃だろう。
まあいい。かく言う自分は見学に行きたい部活もないし、友達と遊ぶ予定もない。どうせゴミ捨てが終わったらまっすぐ帰るだけなんだ。
ちらりと遠くに見えるサッカー部を眺める。楽しそうにはしゃぐ生徒の中には、知っている顔もいる。しばらくぼーっとその光景を眺めていたが、ふと視線をそらす。
――違う。違うんだ。うらやましいわけじゃない。
別に誰も何も言っていないけれど、急いで心の中で否定を繰り返した。
入部届けの期限まで二週間を切っている。それまでにはどこか無難な部活動を見つけなければ。
「……ん?」
サッカー部の見学をしている一年生の列に自分とよく似た顔があった。一瞬だけだったが、それでも驚くほどよく似ていた。
よく見ようとして、目を凝らしたが、特に視力が良いわけでもないし、後から来た見学希望の一年生と合流してどれが誰だかわからなくなってしまい無駄な努力に終わった。よく見ると同じクラスの人も何人かいるようだ。
みんな部活動見学を始めている。さらにはもう仮入部している人もいるというのだから、俺もさっさと適当な部を見つけないと。
校舎の裏手に山積みになっているゴミ袋の前に自分が持ってきたふたつのゴミ袋を軽く放る。もう一度ため息をつきながら振り返ると、いつからいたのか、人ひとり分の間もないほどすぐ後ろに両手にゴミ袋を持った眠そうな目をした少女が並んでいた。
上靴の色が違う。上級生だ。
「すっ……すみません!」
彼女は無表情のまま俺の横を素通りすると、何も言わずにゴミ山のてっぺんに袋を放り投げた。 校庭をじっと見ていたのも見られていたのだろうか。
なんだか気まずい。さっさとその場を去ろうと体の向きを変えたとき、
「おい」
「……はい」
ゴミ袋を捨てた手を払いながら、背の低い華奢な少女が振り返った。セミロングの黒髪がさらさらと揺れる。黒めの瞳をもつ丸く大きい目が気だるそうに少し閉じていて、長いまつげが良く見えた。さっきは驚いてあまり顔を見なかったが、よく見るとすごくかわいい。思わず見とれてしまうほどの美少女だった。ただし彼女はそんなこと非常にどうでもよさそうな表情をしているが。
「今、何か見えたか?」
「はい?」
「だから、今何か見えたかって」
「何かって……どれのことですか?」
「校庭。見てただろ」
面倒くさそうな口調で端的に伝える。何か見えたかと言われたら、自分に似ているかもしれない人と同じクラスの人くらいだが、そんなのは他人にとってどうでもいいことだろうし。
「……サッカー部、見てました。まだ部活決めてないから」
「それだけ?」
「それだけですけど……何かありましたか?」
「本当に? 他には?」
間髪いれずに言葉を返す彼女。こちらの質問には答えず、次から次へと聞いてくる。どうでもよさそうな表情の割にはどうでもよくなさそうな問い方だった。しかし結局のところ彼女が何を聞きたいのかわからず、どう答えるのが正解なのか考えを巡らせるしかなかった。
「他には?」
追撃。
「すみません、他には特に何も」
「……ふーん」
彼女は少々不満そうな声をもらすと、一瞬ものすごくつまらなそうな顔してから俺を無視し、何か考え込んでいるような表情のまま校舎の方へ歩いて行ってしまった。
一体なんだったんだ。あっけにとられたまま、彼女の後ろ姿をしばらく見つめていた。
「お前もう決めたー?」
「俺バスケ部。中学からバスケやってたからさー」
「まじかよ、俺サッカーにするかな。もう陸上はやりたくないんだよなぁ……おい、井上! お前は何部に入んの?」
「えっ俺? 俺まだなにも決めてなくて……」
体育館の前方真ん中、一年三組の列。前に座っていた川原から急に話を振られたことに驚いて、若干どもりながらとっさに当たり障りのない返事をしてしまった。嘘ではないが。
大体いつも和気あいあいとした会話の輪から微妙にはみ出ているから、まさか話しかけられるとは思わなかった。
広い体育館の中は大勢の生徒で賑わっている。前方に一年生、後方に二、三年生が部活動ごとに並んでいる。ステージの上の方には「祝入学! 部活動紹介」と書かれた横断幕がかけられていた。
丘留都高校は必ず部活動に所属しなければならないという校則がある。誰がこんな決まりつくったのか、こんなふざけた校則をつくるのならば帰宅部は常設してもらわなければ困る。非常に困る。ところが丘留都高校の部活動一覧には何度目を通しても「帰宅部」という文字は見つけられなかった。ふざけるな。
スピーカーから軽いノイズが吐き出されたあと、司会者のアナウンスが聞こえてきた。
『それでは次……オカルト研究部さんお願いします』
オカルト研究部……。
「お、帰宅部きたぜ」
「え? 帰宅部?」
川原のつぶやきに反応して声をあげたが、川原はにやりと口の端をあげて「見てればわかるさ」と言ったまま黙ってしまった。
見るとひとりの少女がのろのろとステージ上にあがっていくところだった。ブレザーのボタンを開け、学校指定のリボンもしていない。決して華やかではないが、どことなく可憐な雰囲気がある。
・・・・・・あの人。
眠そうな大きな目、長い黒髪。昨日ゴミ捨て場で会った上級生に間違いない。
「あれが噂の? かわいいじゃん。なんだっけ? 翔子先輩?」
川原の前に座っているクラスメイトがひそひそ声で尋ねる。
「そう、木島翔子。容姿端麗、成績優秀、ただし変人。うちの兄貴によると入学後すぐにたったひとりで無理矢理人数揃えてオカ研なんてわけのわからない部を立ち上げてだいぶ好き勝手やってるらしいぜ」
「あー、俺も聞いた。あれだろ、そのオカ研に入部した奴のほとんどを部室から追い出した人だ」
「なんだそれ?」
「部成立のために名簿の人数はほしかったけど、実際の人はいらないとかなんとか? よくわかんねぇけど」
前に座っているクラスメイトの会話を方耳で聞きながら、黙ってステージ上の翔子先輩をながめる。
――木島翔子。有名な人なのか。確かにひとつ年上なだけとは思えない独特の雰囲気をもった人だとは思ったけど。
翔子先輩はステージの中央までくると少し高い位置にあったスタンドからマイクをひったくるようにして取ると非常に面倒くさそうに話し始めた。
「えー、オカルト研究部です。オカ研では今年も幽霊部員を募集しています。一年に一度百円の部費さえ支払っていただければ後はどうでもいいです。活動には全く参加しなくて大丈夫です。むしろ来ないで下さい。一応オカルトに興味ある人も同時に募集しています。でも馬鹿はいりません。馬鹿といっても成績の話ではありません。部室はC棟二階の奥の方にあります。放課後は多分いると思うので、何かあったら来てください。以上です」
『……ありがとうございました。次は写真部さんお願いします』
翔子先輩は一息でまくしたてるように話すと、司会者が言葉を発するよりも前にさっさと歩きはじめていた。
翔子先輩の話が終わると、前に座っていたクラスメイトたちがまたすぐに雑談をはじめた。
「あの人が本当に例の翔子先輩なのかよ! すごいかわいいじゃん、なんかとっつきにくそうだけど。俺オカ研にでも入ろうかなぁ」
「まぁ籍置くくらいならいいんじゃない? 確かにかわいいし。顔だけは」
「でもまあ確かにちょっと変わってるよなぁ。なんかもう、雰囲気からしてちょっと違うし」
「井上、お前部活動興味ないんならオカ研入ったらいいんじゃね?」
「え、俺はオカ研はちょっと……」
オカルト研究部なんて冗談にならない、やめてくれ。と思ったがその言葉は腹の底に沈めて、とりあえず愛想笑いでごまかしておいた。
確かに特に入りたい部活はない。だが、オカルト研究部だけはごめんだ。たとえ幽霊部員であったとしても「オカルト研究部」なんて部活には入るわけにいかないのだ。絶対に。
また負けた。
金曜日。ゴミ捨てじゃんけんの連敗記録は今日も更新され、ついに最終日までひとりでゴミを捨てに行かなければならなくなった。ついていない。むしろそろそろ誰か代わろうとしてくれる人が出てきてもいいと思うのだが。
空は快晴、咲き始めの桜、校庭に響く笑い声。どれも自分には縁遠い。
「……ま、いいか」
今日は昨日までとは違う。この仕事が終わったらついに部活動見学に行くのだ。部活動紹介の時に前に座っていた川原に誘われ、いろいろな部活を見てまわるのに一緒について行くことになっていた。川原が気さくな性格で助かった。この部活動見学で仲良くなれるかもしれない。
いつものように不安定に積まれたゴミ山の脇に持ってきたゴミ袋を置く。ちらりと校庭の方を見ると、今日もサッカー部が練習に励んでいた。そういえば川原はサッカー部を見たいと言っていたな。
「おい」
振り返ると、今日もすぐ後ろに両手にゴミ袋を持った眠そうな大きな目の上級生が並んでいた。
オカルト研究部部長、木島翔子だ。
「あ、すみません」
彼女もまた負けたのか。そんなことを頭の隅で考えながらもすぐに場所を譲る。翔子先輩が無表情のまま、何も言わずにゴミ山のてっぺんへと豪快に袋を放り投げた。
「おい、お前」
ゴミ袋を捨てた手を払いながら、翔子先輩が振り返った。
「……なんですか?」
「今、何か見えたか?」
またか。改めて見てもかわいいが、やっぱり変わっている。オカルト研究部なんて部の部長をしているくらいだし。
「別に何も。ちょっと校庭見てただけです」
「それだけ?」
「それだけですよ。昨日も同じこと聞きましたよね? どうかしたんですか?」
げんなりして答えると、翔子先輩はきょとんとしたあと一瞬丸く大きな目を見開いて驚いた表情をし、見つめてきた。それから一拍置いて怪訝な表情をつくる。
「昨日? 本当に私が聞いたのか?」
「そうですよ。昨日もここでまったく同じことを聞かれましたけど」
「……本当か?」
翔子先輩が小首をかしげて上目づかいで少し困ったようにこっちを見つめる。見た目がかわいいだけに不本意ながらどきどきしてしまう。相手はオカルト少女なのに。
「ほ、本当ですよ。確かに昨日もここで同じやりとりしましたよ」
「お前、名前は?」
「……井上、正輝です」
「そうか、井上。一年だよな? 部活は?」
「まだ決めてませんけど……なんなんですか?」
翔子先輩の口がにやりと歪む。昨日のようなどうでもよさそうな表情はどこかにひっこんでしまい、目がらんらんと輝いている。
その瞬間に自分の置かれている状況を理解したがすでにおそかった。
「いや、でも写真部とかっ! あ、あと友達とサッカー部に入ってもいいかなって……」
正直サッカーなんてほぼやったことがないに等しいし、練習についていけるわけがないので入部なんてこれっぽっちも考えていないかったが、とにかく話をはぐらかしたかった。
しかしそんな抵抗も虚しく、俺の手があたたかな柔らかいものに包まれた。ひとまわり以上小さな翔子先輩の両の手が、俺の手をしっかりと握っている。
いきなりのできごとにとまどい固まってしまった。女の子に手を握られるなんて初めてだ。しかもかわいい。変人と言えど、かわいい。急激に鼓動が早まるのを感じる。
しかし、次の言葉であっという間に現実に引き戻されることとなる。
「ようこそ、オカルト研究部へ」
翔子先輩は満面の笑みを浮かべた。
「え? ちょっ……俺オカルト研究部になんて入る気ありませんよ!?」
慌てて翔子先輩の手を振りほどこうとしたががっちりとつかまれている。完全にホールドされてしまっている。しかも相手が小柄な少女なだけに全力でふりほどくのも気が引けるので、結局彼女につかまれたままになってしまった。
「別にオカルトに興味なくてもいいよ。うちの部はほとんどが幽霊部員だし」
「そういう問題じゃなくて! 俺、本当にオカルト研究部には入る気なんてないですから……」
「籍を置くだけでいいんだって、人数いないと部活として成立しないし」
「ほぼ帰宅部状態なんですから人数集まらないわけないじゃないですか、俺がいなくても別に大丈夫ですよ」
「少しでも多い方がいいだろ?」
「知りませんよ!」
「本当、幽霊部員でいいのに? うちの学校でオカ研より楽な部活ってないけど?」
「本当にいいですって!」
「ふーん……」
残念そうに上目づかいで見つめてくる。決心が揺らぎかけたが、どうにか踏みとどまる。
「……入りませんよ」
「うん、そうか。わかった。でも、」
翔子先輩がそっと手を放す。
「でも、もし、何かおかしなことが起きたらすぐにオカ研に来るように」
口の端をあげてにやりとする。俺の顔を再度一瞥するとスカートを翻して校舎の方へ歩いていってしまった。
何かおかしなことって、この人はいったい何を考えているんだ。
結局、翔子先輩は意味深な言葉を残して去っていっただけだった。
俺は、絶対に、オカルトなんかとは関わらない。
最初が肝心なんだ。ここで川原と仲良くなって、部活も決めて、部活仲間もつくって、俺は平和な高校生活を送るんだ。派手じゃなくても人気者じゃなくてもいい、とにかく平和で、でも良い思い出になるような青春をして、大人になって振り返ったときに「ああ、楽しかったな」ってちょっと懐かしく思えるような高校生活を送るんだ。
「おい、井上ー。なんか呼ばれてるぞ―」
「え?」
呼ばれてるって?
ゴミ捨て場から教室へ戻った俺は、帰り仕度をする手を止めて川原の声がしたドアの方に目を向けた。
「よぉー」
「翔子先輩……」
にやにやと笑いながら翔子先輩が教室に入ってくる。肩から鞄を下げている。さっきいなくなったのは帰り支度をしに行っただけだったのか。
翔子先輩が教室に入ってきたのを見ながら川原もにやにやしている。一体何を聞かされたんだ。聞きたくもないが。
「なんだよ、お前オカ研入るんだって?」
ほらやっぱり聞きたくないことだった。
「入らない。その人の話を真に受けるなよ……」
「どうする? お前がオカ研入るなら今日他の部活見学行く必要ないんじゃね?」
「行くよ! っていうかオカ研には入らないって!」
面白がってからかう川原の言葉を必死に否定する。当の翔子先輩はなにやら興味深そうな顔をしながら一年三組の教室を見回していた。
「翔子先輩も、俺オカ研には入らないってついさっき言ったじゃないですか。教室までこないでくださいよ」
「別に勧誘に来たわけじゃないよ。何かおかしなことは?」
「何もないですから帰ってください」
「ふーん、そうか」
それだけ言うと、意外にあっさりと納得してどこかへ行ってしまった。
「なになに? お前木島翔子と知り合いなの?」
最悪だ。
「違うよ。さっきゴミ捨て場で会って勧誘されただけ」
「へぇー? でもオカ研なんて黙ってても部員集まるのに、わざわざ勧誘なんてめずらしいよなぁ」
「あの人変わってるし、ただの気まぐれだよ。それより早く行こう」
「じゃあオカ研から見に行くか!」
「オカ研だけは絶っ対行かない!」
教室にいたのが川原と自分だけでまだよかった。他のクラスメイトがいたらこれからどんな目で見られたことか。
高校での目標、それは「普通に、平和に、目立たずに過ごすこと」。
決して目立ってはいけない。地味でも良い。むしろ、地味が良い。友達だってそんなに多くなくたって良い。少数でも一緒に楽しく過ごせる友達ができればそれだけで満足だ。
仲の良い友達をつくるにはやはり活気ある部活に入るのが手っとり早い。オカ研になんて入ってもほとんどが幽霊部員だ。部活仲間ができるなんてとても思えない。
第一、「オカルト」なんかに興味があると思われたらたまったものじゃない。
陽も傾きかけた頃、俺はひとり満足しながら自転車をこいでいた。
今日一日、川原に振りまわされるようにして学校中のほぼ全ての部活を見て回った。そして結局、川原のすすめもあって未経験者の多い弓道部か写真部のどちらかにしよう、というところまでは決めることができた。これでどうにか来週末の入部届けの期限までには決められそうだ。
それになにより、川原とも結構仲良くなれた気がする。これまでクラスメイトとはなんとなく心理的な距離を感じていたが、この調子ならこれからどうにかなりそうだ。正直このままクラスに溶け込めないままだったらどうしようかと思っていた。
それにしても自転車で片道一時間半近くもかかる通学はきつい。無理を言って遠くの高校へ来たため多少気は引けるが、やっぱりお金がかかってもバスと地下鉄を乗り継いで通学することを本気で考えようかなどと思いつつ、疲れてきたから少し自転車をこぐ速度を落とした時、コンビニの前から聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「まじで? お前、『オカルト高校』に行ってたんだ?」
「そうそう、『オカルト高校』。ちょっと遠いけどうちの県の中じゃそこそこの進学校だし、女子は毎年かわいい子が多いし」
ひとりは中学のときの同級生だ。もうひとりはよく知らないが、多分同じ中学だった奴だろう。
気づかれないように何気なく自転車の速度を上げて通り過ぎる。本当に最近は運が悪い。わざわざこんな遠くの高校に進んだのに、同じ中学の奴がいるなんて。
それにしても「オカルト高校」なんて一体どこの高校だろう。そんな名前聞いたことがない。制服はどことなく丘留都高校に似ていたような――。
そこまで考えて、ようやく重大な事実に気がついた。あいつらなんて言っていた?「オカルト高校」だって?
背筋がすっと冷たくなるのを感じる。そんな馬鹿な。でも絶対そうだ。あれは丘留都高校の制服じゃないか。くるつ、丘留都、おか・る・と、オカルト――。
「いのうえー」
能天気な声がどこからか降ってきた。五時間目の体育に備えて少し早めに昇降口から校庭へ向かっていた俺は足を止めてまわりを見渡した。まわりの川原たちも何事かとこっちを見ている。
「こっちだよ、上だ、上」
頭上を仰ぐと昇降口のすぐ上に翔子先輩の姿があった。川原たちから驚いた声が漏れる。おそらく渡り廊下の窓から降りたのだろう。
「なにやってるんですか、危ないですよ」
「昨日さーここで変なもの見たっていう話聞いたから、調査ぁー」
「多分なにも出てこないと思いますよ」
「うん、多分そうなんだ。でもいいんだ。楽しいからー」
にやにやと笑いながら購買で買ったであろうパンを片手に昇降口の屋根を歩いている。そんなところにスカートで上って大丈夫なのかと思ったが、実に楽しそうにしているので余計なことは言わないでおいた。
「楽しい、ですか?」
「うん! お前も来いよー」
「だめです、次体育ですから。そもそもそんなとこに上ってたら怒られますよ」
「そうか、こないのか。残念だなぁ」
「そうですね」
翔子先輩を適当にあしらって、まわりでこれまたにやついて見ている川原たちをうんざりと一瞥してから足早に校庭へと向かった。結局体育の時間中そのことでいじられるはめになった。
あの手を握られた時以来、一体自分のなにをそんなに気に入ったのか、翔子先輩は校内で俺を見かける度に声をかけてきた。オカルトが関係あることをのぞけば、ちょっとだけ嬉しかったことは本人には絶対に秘密だ。
週が開けたことによりついにゴミ捨てじゃんけん、もとい教室掃除から解放された。その上、今日も川原が部活見学に付き合ってくれることになった。
これで翔子先輩からも解放されたら言うことなんてないのに。
「知ってるか井上、校庭の桜の木の下には黒猫の幽霊がでるらしいぞ」
興味なんて示さない。
「それにまつわる話がこの学校の七不思議にあるんだが、ああ、そういえばそのひとつに校舎内で異世界に迷い込むことがあるっていう話もあるんだ。おもしろいだろ?」
絶対に興味を示してやるものか。
「七不思議なんてのは大抵まったくのでたらめだったり、ちょっとした勘違いだったり、思い込みだったりするわけだ。でも、中には本物も混じっている。オカ研に相談に来た人の例でいうと、ちょっとだけ現実世界とズレた世界で一日授業を受けてしまったがために他のクラスメイトが聞いていた授業の内容と話が噛み合わなかったり、だいたい同じ内容の授業を二回受けたことがあったり、とか」
「えっ?」
「興味あるか?」
「ないです」
絶対に、興味を示してやるものか。
「同じ時間にまったく別の二か所で昼食を食べているのを目撃されたっていうドッペルゲンガー的な話もあるのに。そうか、興味がないなら仕方ないな。それで、今日も何もなかったのか? 部室にも来ないのか?」
目の前には机に顎をついてまたいつもの眠そうな目をしながらも、どこか楽しそうに見上げてくる翔子先輩の顔があった。残念ながら彼女も教室掃除から解放されてしまったらしく、まだ教室に他のクラスメイトがわんさかいるにも関わらず、ずかずかと教室に入り込むと一直線に廊下側の前から二番目の席に座っている俺の元へやってきていた。
「俺の家はじいちゃんの代からオカルトに関わると悪いことが起きるって迷信があるんです」
「……へぇ。それはオカルトだな」
うあっ……しまった。
「いや、今のはその、適当につくった嘘ですけど、つまり、そう、部室には行きません! ていうかそもそも教室まで来ないで下さいってこの間も言いましたよね?」
「そうか、なるほど」
翔子先輩が相変わらずにやにやしながらもあっさりと納得したらしい。
彼女は基本的ににやりとした含みのある笑い方をする。普通に笑うことができないのだろうか。はじめてオカ研に誘われた時の満面の笑みは幻だったのかと思ってしまう。
「今日も翔子先輩が期待するようなおかしなことは何もないですから、帰ってください」
「うん、じゃあ帰る。またなー」
それだけ言うとぱっと立ち上がり、体を翻す。そしてそのままあっという間にいなくなってしまった。しつこいのかあっさりしているのかどっちかにしてほしい。
「ごめんごめん、他のクラスの奴と話しこんじゃってさ。それより、また翔子先輩きてたのか?」
トイレに行っていた川原が翔子先輩と入れ違いで教室に戻ってきた。
「……うん。まあ長くても入部届けの期限が過ぎるまでの我慢だと思うけど」
「それもそうだな。でも井上も部活見学くらい行ってやればいいのに。行くなら付き合うぜ?」
「行かないってば!」
むきになって反論するのを見て、川原が「冗談だよ」と笑いながら荷物を鞄につめこむために隣の席でごそごそやり出した。あんまりむきになるとおもちゃにされてしまうのは目に見えているので、あえてその後の川原の言葉は聞こえないふりをした。
「でもさ、お前翔子先輩と話してるとき楽しそうだよな」
ただでさえ翔子先輩と話してるだけでまわりの生徒がざわつくのに、オカ研に入ったらますますクラスメイトと距離ができるに決まっている。第一幽霊部員でいいなんて、自分に対してだけは絶対に嘘だ。わざわざ毎日勧誘と称して、何かなかったか聞いてまわっているくらいなのに。
ため息をつきながら、うつむていた顔をあげると、目の前に川原が立っていた。
「あ、ごめん。気付かなかった」
「いやいや。待たせて悪い。他のクラスの奴と話しこんじゃってさ。それより、また翔子先輩きてたのか」
「……え?」
「あれ、さっき翔子先輩の話し声が聞こえたからさ。井上に会いに来てたんじゃないのか?」
……なんだ?
「さっきその話しただろ……?」
まただ。また、同じ会話。
「え?」
どうして?
「川原、さっき教室に鞄取りに入ってきたよな?」
「は? 何言ってんだよ、俺今トイレから帰ってきたばっかだよ」
どうして、話が噛み合わないんだ。
話の内容も、話し方も、シチュエーションも、さっきとまったく同じ。
川原は不思議そうな顔で井上を見ていた。嘘をついているようには思えない。嘘をついているのだとしたら、サッカー部などやめて絶対に演劇部に入った方が良い。
「……ごめん、俺の勘違いだったみたい。さっき川原が教室に戻ってきたような気がしてさ。たぶん誰かと間違えたんだ」
「なんだ、驚かせんなよ! すぐ荷物片づけるからちょっと待ってて」
川原が隣の席で鞄に荷物をつめていく。今日、二度目の光景。
勘違いなんかじゃない。さっき話したのも確かに川原だった。
まわりを見渡すが、今の会話を変に思っている様子のクラスメイトはいない。みんなこちらの会話になど聞いていなかっただけなのか、本当になにもなかったのか。
ーー待てよ。
それとも、川原は俺をオカ研に入れるように翔子先輩から頼まれたのか?
何かおかしなことが起きたらって、こういうことだったのだろうか。それなら合点がいく。川原は毎日のように翔子先輩が勧誘に来るのを面白がっていたのだし。演技がうますぎることは置いておくとして。
川原は調子の良い性格だ。翔子先輩にそんな話をもちかけられたら間違いなく乗るだろう。
気にしたら負けだ。俺は決意を新たにする。
俺は、絶対に、オカルト研究部になんて入らない!
「俺はオカ研には入らないからな!」
次の日の朝。教室に入って席に着くやいなやそう宣言した俺に、川原は思いっきり「不審」と書かれた顔を向けた。
「・・・・・・どうしたの、お前」
「いいか、俺はなにがあってもオカ研にだけは絶っっっ対に入らない!」
「うん、知ってるわ」
「そうか・・・・・・うぇ?」
思わず変な声が漏れた。平然とした顔で川原がうなずいた。知っているとはどういうことだ。単に面白がっているだけということか。特にオカ研に入部させる意志はないと?
「なに、どうかしたの?」
「い、いや・・・・・・わかっているならいいんだけど、さ・・・・・・」
「井上、お前今日はいつにも増して変な奴だなぁ」
もはや川原は驚きと不審を、さらには呆れを通り越して心配そうな顔を向けていた。
川原は帰りになっても心配そうな様子で、今日は早く帰って休めと言っていた。一日中翔子先輩の襲撃を心配していた俺は、どうやら端から見てもよほど様子がおかしいらしい。
帰りのホームルームが終わったのを見計らって、すぐさま誰よりも早く教室を飛び出した。
絶対につかまってなるものか!
窓の外をちらりと振り返り校庭を見やると、今日も様々な部活の準備をする生徒の姿が見てとれた。そういえば川原は今日はサッカー部の練習に参加すると言っていたのを思い出す。オカ研に入らないと決めたのは言ったのはいいものの・・・・・・部活、早く決めないとな。
下駄箱に向かいながら今までまわった部活を思い出していると、唐突に頭上から声が降ってきた。
「井上ぇーっ! おい! お前だ井上っ! 今行くからちょっとそこで待ってろ!」
「……翔子先輩」
反射的に声がした方に顔を向けると、今降りてきた階段の上から翔子が息を切らしながら走ってくるのが見えた。なので、とりあえず全力で逃げることにした。
「なんで逃げるんだ! 勧誘じゃないから! 本当だって! 逃げるなっ!」
「嫌です!」
上靴をはき替える時間がもったいなかったので下駄箱の横を通り過ぎ、校舎の奥へ向かう。後ろからはまだなにかを叫ぶ翔子先輩の声が聞こえているが聞こえないふりをしてとにかく走った。運動神経はそれほど良いわけではないが女子に負けるほどではない。
叫び声は少しずつ小さくなっていく。それでもさらに廊下を突っ切って普段三年生が使っている一番奥のC棟まで行き、階段を上り、渡り廊下を通って二年生が使っている真ん中のB棟でまた階段を上り、A棟に向かって渡り廊下を突き進みーーつまり校舎内をありとあらゆる人に迷惑をかけつつ走り抜けていった。もちろん心の中と言葉で謝罪を繰り返しながら。
そうして走り回った後、階段をなるべく静かに降りて一年三組の教室の前まで戻ってくる頃には翔子先輩の声は聞こえなくなっていた。
「疲れた……」
ひとつ大きく息を吐き、教室のドアに寄りかかりながら肩で呼吸をする。本当になんだってこんなことになってしまったんだ。女子に追いかけられたことなどこれまでの十五年間で一度もなかった。ましてや美少女に追いかけられるなんて。これでオカルトなんてものが関係していなければ願ったりかなったりなのに。
息を整え、しばらくドアにもたれかかったままあたりの音を聞いていた。吹奏楽部が練習しているのだろう、様々な楽器の音が遠くから聞こえてくる。野球部が練習している掛け声も微かに聞こえる。
それからどこからも翔子先輩の声が聞こえないことを確認すると、ゆっくりと体を起こして下駄箱に向かった。
自分の下駄箱に手を掛け、靴を履き替える。ため息をつきながら昇降口から出ようとした瞬間、ふいに肩をつかまれた。
「逃げるなっていっただろう」
隣の下駄箱の影から現れた翔子先輩に肩をしっかりとつかまれていた。
「姿が見えなくなったから下駄箱で待ってたんだ。帰るんだったら絶対に靴とりにくるだろ?」
ああ……俺の、馬鹿……。
「っていうかお前は人の話を聞け、本当に勧誘じゃないんだってば。井上、お前大丈夫か?」
「大丈夫って、なにがですか」
「顔真っ青だし、日に日に元気無くなってるような気がするし」
空気が止まる。
「……誰のせいだと思ってるんですか」
「ん?」
勇気を出して振り絞った声は、翔子先輩には聞こえなかったらしい。目の前で首をかしげ、心配そうな目で顔をのぞきこんでいる。
ひとつ、深呼吸。そして――
「誰のせいだと思ってるんですか! 俺はもうオカルトとかそんなことに関わりたくはないんですよ! 第一なにかあったらって具体的になんなんですか? なにか知ってるなら教えて下さいよ!」
一瞬にしてあたりがしん、と静まり返った。うつむいて歯をくいしばる。普段大声を出すことなんてほぼ皆無だったから、自分でもなんで今こんなことをしてしまったのか、こんなことをしてしまったあとどうしていいのかがわからなくて、うつむいたままでいた。
「……そか、ごめん。そんなに嫌だったか」
翔子先輩の声が静寂の中に響いている。
「俺、オカルトとか、そういうのにだけは関わりたくないんです」
「関わりたくない、か。ほら、お前、なんとなくさ、オカルトの話すると楽しそうにするから本当は興味あるんだと思って……うん、ごめん、悪かった」
「翔子先輩――」
さすがにちょっと言い過ぎたかと思い顔をあげようとすると、むんずと頭を押さえこまれた。
「え?」
なんだこの人。
「顔をあげるな」
いつもとなんら変わりない声のはずなのに、どこか、少しだけ緊張が混じっている。うまく言い表せない違和感を感じて――しばらくして、その正体に気がついた。
どうして、なにもまわりの音が聞こえないんだ?
翔子先輩が静かにいつか聞いた言葉を語りかけてきた。
「七不思議なんてのは大抵まったくのでたらめだったり、ちょっとした勘違いだったり、思い込みだったりするわけだ」
聞こえるのは、翔子先輩の声と、やけに激しい自分の鼓動。
「でも、中には本物も混じっている」
七不思議、本物ーー。その話をしたとき、翔子先輩はほかになにを言っていた?
鼓動が速まるばかりで頭の回転がまったくついていかない。翔子先輩はあのときその「本物」の話をしていた。その先が思い出せない。いや、思い出しているのかもしれない。けれどそれを言葉として認識するのを脳が拒む。
視線だけを動かしてあたりをうかがう。目の前にあるたくさんの生徒がいたはずの校庭には、誰の足も見えなかった。
翔子先輩がそっと俺の頭の上から手をどかしたかと思うと、今度は腕を掴んだ。
「いいか、そのままの状態でついてこい。このまま校門を出るぞ」
「翔子先輩、これ、一体、」
「大丈夫! 心配するなって」
翔子先輩の声から緊張が抜け、すっかり元の声に戻っている。元気づけようとしているのか、腕を掴んでいない方の手で軽く背中をぽんと叩かれた。そしてそれを合図にゆっくりと歩き出した。
校門がすごく遠く感じる。昇降口からは決して遠いわけじゃない。けれど、腕を引っ張られて歩いている時間がすごく長く感じられた。
「オカ研に入りたくないならそれはそれでいいんだ」
ふいに翔子先輩の声が聞こえた。
「でも、もしなにか困ったことがあったら相談しにこいよ――絶対に、助けてやるから」
いつになく柔らかく、けれども凛とした声だった。
その意味をはかりかねて声を出そうとした時、足元に校門のレールが見えた。
「はい、着いたぁっ!」
「うぐ……っ」
翔子先輩は両手を俺のあごにあて、ぐいっと勢いよく上に向けた。脳が急に揺さぶられて視界がぶれる。それと同時に世界に音が戻っていた。校庭からは野球部やらサッカー部やらの掛け声や、おそらく初心者だろうと思われる下手な楽器の音色や、道路を走る車の音が聞こえる。
なにもおかしくない、日常。
世界の変化に呆気にとられて、ただ突っ立っていることしかできなかった。
「入学したばっかで疲れてるんだから、今日はさっさと帰ってさっさと寝ろよ。じゃあなっ」
笑いながらそれだけ言うと、翔子先輩は校舎の方へ駆けていった。
「翔子先輩っ! 今のは、今のはなんなんですか!?」
気がついたら思わず叫んでいた。近くにいたほかの生徒が不審そうな顔でこっちを見ていた。
翔子先輩は走る足を止め、ゆっくりと振り返る。
彼女はもういつものどこか含みのある笑顔に戻っていた。彼女の表情や口調からはさっきの緊張感や真剣味はもうどこかへ吹き飛んでいて、自分がもうおかしな状況を脱したことを物語っていた。
「ーー平行世界だよ」
けれど彼女の形のいい唇から発せられた音は、俺の頭の中で言語化されるにはしばらくの時間が必要だった。
茜を帯びた空の下を全速力で自転車をこぐ。できるだけ何も考えたくなかった。
この間の翔子先輩とのゴミ捨て場でのやり取り。昨日の川原とのやり取り。今日の、翔子先輩とのやり取り。ゴミ捨て場でのことは翔子先輩が単にやり取りを覚えていないだけのことだと思っていた。けれど昨日のは違う、直前のやり取りを覚えていないわけがない。
それとも、俺をオカ研に入れるために翔子先輩から頼まれたのか?
何かおかしなことが起きたらって、こういうことだったのだろうか。それなら合点がいく。川原は翔子先輩が勧誘に来るのを面白がっていたのだし。演技がうますぎることは置いておくとして。
でも、今日のは――。
中学の同級生を見かけたコンビニの前で信号にひっかかった。ちらりとコンビニの方に目を向けたが、今日は中学の同級生はいない。よかった。
少し走ったところで、また信号にひっかかる。やっぱり最近ついていない。ふと視界の端でなにかをとらえた。なるべく見ないようにしようと真っ直ぐ前を向いたとき、違和感を覚えた。
「そんな……」
そこで違和感の正体をはっきりと自覚した。
信号が赤から青に変わる。同じように信号で止まっていた何人かがぞろぞろと歩きはじめる中、俺は自転車にまたがったまま動けなくなっていた。
まただ。また、コンビニがある。こんなに近くに同じコンビニはなかった。
こんなこと、あるわけない。
次の日はまったく授業に身が入らなかった。話しかけてきてくれた川原の言葉もほとんど覚えていない。
あんなことあるわけないじゃないか。きっと高校にもまだ慣れていないし、通学にも時間がかかるから疲れているんだ。
必死にそう思おうとしたが、どうしてもここ何日かの出来事が頭から離れてくれない。
川原に相談してみようかとも思ったが、こんなことを言ったらオカ研に入る以上に変人扱いされてしまうのは目に見えている。
「井上!」
「えっ? 何?」
川原に声を掛けられ、弾かれたように顔をあげる。自分の席に座ったまま固まっていた。まわりのクラスメイトは既に鞄に荷物を詰め終えて掃除のために席を後ろに寄せようとしていた。
急いで机を下げると、呆れた顔をした川原が話しかけてきた。
「もうホームルーム終わったぜ、どうしたんだよ」
「いや……なんでもないよ。川原は今日どこか部活見学行くの?」
やっぱり、川原にはこんなこと相談できない。
「俺、今日からサッカー部に仮入部するって昼に言っただろ?」
「ああ、そうだった。……あのさ、翔子先輩来てない?」
「翔子先輩? 今日はまだ来てないみたいだけど?」
「そっか、ありがとう」
最近は放課後に限らず朝だろうが昼だろうが来ていたというのに。こう言う時に限ってあの人は来ないのだ。
まあ、昨日の自分のせいなのだろうけど。
「つかまる前に教室出た方がいいぜ? じゃあ、俺行くわ」
掃除が始まってざわつき始めた教室を出て、しばらくひとりで廊下に立っていた。しかし、教室掃除が終わり、人が少なくなる頃になってもやはり翔子先輩は現れない。
ーーでも、もし何かおかしなことが起きたらすぐにオカ研に来るように。
本当は関わりたくない。けれどこんなことを相談できるのは、やっぱりひとりしかない。
「……よし」
意を決して、教室の側を離れる。目指す先はただひとつ。渡り廊下をふたつ通り抜け、曲がる。C棟二階の奥ーーオカ研の部室だ。
「書道部」と書かれた札の上から「オカ研」と書かれた紙がガムテープで雑に貼られている。
中からは誰の声も聞こえない。とりあえず深呼吸をして、ドアをノックする。返事は無い。あの人のことだ、そんなものは最初から期待してはいない。
「失礼します」
ドアを開けると、そこは旧書道部らしい畳の部屋だった。広さは十二畳ほど。部屋の中央には小さめの丸テーブル。その上には空になったお菓子の袋。あちこちに散らばった座布団。隅には山積みにされた本、本、本。ただしほとんどが漫画本。どこから持ってきたのか小さい冷蔵庫まである。ゴミ箱はお菓子の空で満杯だ。そしてなぜか竹刀が一本、壁に立てかけられていた。
つまり、活動らしい活動をしている形跡が全くない。
……なんだここは。
翔子先輩は丸テーブルの向こうに寝転がって漫画を読んでいた。そこら中に座布団があるのにひとつも使っていないのが彼女らしい。冷蔵庫の近くではもうひとり、黒髪に眼鏡のいかにも頭の良さそうな男が文庫本を読んでいる。ふたり。たったふたりしかいない。
どうやら相談する相手を間違えたらしい。一瞬でもこの人に頼ろうと考えた俺が馬鹿だった。
そっとドアを閉めて帰ろうとしたそのとき、翔子先輩が緩慢な動作で体を起こした。
そして、俺と目が合うと片方の口の端をあげてにやりと笑った。
「ようやく来たか。ようこそ、オカルト研究部へ」




