第八話 帝の使い方
弘農城。それはつい先日、新たに曹操の版図に加えられた城である。
城内に設けられた臨時の本営には、曹操と彼の信頼する将帥達が集っていたが… 洛陽と長安を繋ぐ要衝を得たにも関わらず、そこには祝賀の空気など欠片も感じられはしなかった。
「長安は既に張繍軍が制圧中」
先行して長安方面に向かっていた曹純がもたらした伝令。
「張繍の使者が『李傕討滅の表』を上奏」
次いで許都の留守を預かる荀彧がもたらした急使。
その両者による知らせが並み居る諸将に与えた衝撃は、それ程のものであった…
弘農侵攻は、概ね予定通りであった。
『14万の大軍で一気に弘農を制圧。その際、長安から来るであろう李傕の援軍を邀撃し、追撃戦の形で速やかに同地へも侵攻。張繍に手出しを許す間を与える事無く雍州全土を席捲する』
そんな方針の元、わしは順調に攻略を進めていたのだ。
守将・郭汜の抵抗は予想よりも頑強だったが、想定内の期間で本城は落とせた。
長安からの援軍が来なかったのが誤算と言えば誤算だが、先行させた子和の騎兵に国境を突破させ、長安侵攻の先鞭とすれば問題無いと思っていた。
だが… 当初の想定を根底から覆されてしまっている現状には、どう対処すべきか。
子和の報告のみであれば、偶々張繍と侵攻時期が重なってしまったか、と不運を嘆く手もあったかも知れぬ。
なにしろ奴が長安攻略を目論み、盛んに蠢動していたのも間違い無いのだから。
だが文若の書簡を見れば、そんな甘い逃避が許される筈も無い。
『殿が許都を発った7日後に、張繍の急使が参内。彼の者より「李傕を討ち滅ぼさねば、二度と宛の地は踏まぬ覚悟」という悲壮な決意を示した上奏がなされ、帝は急遽、短慮を戒める慰留の勅使をお出しになりました。
まだ張繍の意図は解りませんが、この上奏が何らかの策動の一環であるのはまず間違い無き事。くれぐれも彼の者の動きにはご注意の程を』
運を天に任せた決死の出撃、という話もいかがわしいが、そんな奴の決意とわしの侵攻が偶々重なった? それこそ冗談だろう。
わしの弘農侵攻を事前に察知した上で、「偶々」を装う為の工作、としか考えられぬ話だ。
だが、問題は…
わしは居並ぶ諸将をぐるりと見廻してみた。
誰も彼も、うまく利用されて「最上の獲物」を横から掻っ攫われた形となった現状に、困惑と忌々しさを隠し切れぬ様だが…
いや、わしの隣の者だけは無表情に目を閉じ、沈思しているか。
その者… すなわち奉孝は、わしの視線を感じたのかゆっくりと目を開け頷くと、場の沈黙を叩き壊す様に、皆が思えど言いたくはなかったであろう提案を無造作に口にした。
「かくなる上は、この地に長居は無用。兵をまとめて許都へ帰還すべきでしょう」
「…っ! 張繍の長安領有を認めよと言うのか! この様な見え透いた小細工など…」
予想通りか、真っ先に激発したのは妙才だ。奴の良く響く怒声は、慣れたわしでも思わず怯みを覚える程の迫力がある。
だが、それを正面から浴びた形の奉孝は顔色一つ変えず、妙才へと顔を向けた。
「然り。張繍の小細工は明白ですが、帝の行動を介して、その行動を起こした日付が公的な裏付けを得てしまったのもまた事実。見え透こうとも『偶然』の形は整ってしまっているのです。
今殿が下手に長安に干渉すれば、それは『権勢をかさに忠臣の功を盗もうとしている』という非難の口実に
されかねませぬぞ」
そう言うと奉孝は、唸りながらも沈黙した妙才からあらためてわしの方に向き直ると、言葉を継いだ。
「長安は当面、張繍の手に委ねるしかないでしょう。ですがむしろこれを奇貨とし、奴に西方の問題を押し付けてしまえば良いのではありませんか?
涼・益の勢力は、殿の目前の脅威では無くとも、放置して置けばいずれ災いの種となる者達。厄介な者は厄介な者同士、噛み合わせて置けば宜しいかと」
「…もし、張繍が周りを喰らってしまえばどうなる? その時は『厄介』で済むのか?」
次に静かに、隻眼を怒らして言葉を発したのは元譲。
だがその威圧すら感じる言葉にも、やはり奉孝は動じない。
「張繍が周囲を喰らえば、豺狼ぐらいにはなるやも知れません。
ですが犬に拘泥し、今都を窺う龍と狼に隙を見せるのは、本末転倒というものではありませんか?」
場の流れは決した。
わしは奉孝の舌鋒に沈黙した諸将を見廻すと、あらためて命を下した。
「異論のあるものはおるか? 無ければ奉孝の言を是とする。
子廉! 其方に1万預ける故、この弘農の鎮撫に当たれ。洛陽と長安、東西どちらに何時なりとも『支援』が出来るよう、街道と物資の整備を怠るな。
他の者は急ぎ帰還の準備だ、掛かれ!」
そして我が令と共に皆が陣へと駆けだしていく中、わしは傍らの奉孝に軽く謝した。
「すまぬな」
「何の。これも参謀の役目なれば、造作も無き事。それに現状では、彼の者の絵図に乗るしか手が無いのも事実ですので。ですが…」
「解っておる。わし等が許都に戻る頃には、仲徳も濮陽より戻っていよう。奴に徹底的に領内を洗わせる故、二度と同じ手は食わぬ。
しかし、此度と言い同盟の件と言い… 見事な手口よな」
帝を擁しているのはわしの強みの筈なのだが、それをこうも利用してくるとは。
思わず「帝の使い方」の上手さに呆れと感心のない交ぜになった呟きを漏らすと、奉孝も頷きで応じた。
「御意。そして彼の者は予想通り、文若殿では無く私の輩と見て間違い無いでしょう。
此度の策は、帝への忠義の延長線では生まれますまい」
わしは頷くと、あらためて西の方、長安の方を見やった。
大魚を逸したのは残念だが、その住処ははっきりしているのだ。焦るまい。
「まあ此度は、西の安定を確保した事で良しとしておこう。まずは本初と決着をつけ、中原を制さねばな。
…全てはその後の事よ」
そう。先に伸びただけの事。
わしと参謀達に見事一杯食わせた男。あやつを我が為に働かせる日が… 実に愉しみだ。
今回、曹操視点のため字呼びが多かったので、一応注記を。
子和=曹純 文若=荀彧 奉孝=郭嘉 妙才=夏侯淵 元譲=夏侯惇 子廉=曹洪 仲徳=程昱 本初=袁紹
となります。