第四話 鼠虎の盟約
建安2(197)年・1月、許都。
槌の音、荷を運ぶ音、飛び交う様々な人の声…
私が初めて訪れた曹軍の本拠は、そんな新興の活気に溢れていた。
道中通過した洛陽とて、復興の為の様々な音には事欠かなかったのだが、こちらの方により活力を感じるのは、果たして、人の心の微妙な差異か、私自身の先入観か。
「さて… 我らの進む隘路を阻む第一の関、果たしてどのような具合ですかな」
仕込むべき種は仕込んだ。情勢からしてうまくいく自信もある。後は…
私はあらためて意を決すると、静かに一歩を踏み出した。
「宛城城主・張繍が使者、賈詡と申します。 曹司空にお目通りを願いたい!」
「…この様に同じ董家の遺臣とは申せ、張繍は天下に秩序が戻らん事を希求し、陛下にも浅からぬ敬意を抱いております。 逆賊李傕を討とうというのも、無論野心からではなく、その志の表われでございます。
つきましては皆の心を励まし、また領内の民草達を安堵させる為にも、是非とも曹公と不戦の盟を交したく、この様に参上した次第です」
前もっての根回しの甲斐あってか、曹公への目通りは滞りなく進んだ。
正面の公は興味深そうに、その傍らに侍る公の両翼とも言うべき荀彧・郭嘉は静かにこちらを観察している様だが… この場で私は小細工をする気はないし、その必要も無い。今はただ誠意を込めて、殿の「赤心」を訴えるばかりである。
「無論、張繍とて口舌で公の信を得られるとは思っておりません。ですが出来ますれば、公には張繍に衷心を示す機会をお与え頂ければと考えております。
如何でしょう、まずは一年と期を限った盟を結び、その間に心底を見定めては頂けませんでしょうか?」
「ふむ…」
私の口上を聞き、少し思案にくれる態の曹公。
その様子は迷っているというよりも、こちらの心底を推し量っているのだろう。視線も表情も興味深そうな色を湛えたまま、公は私に言葉を続けた。
「張繍殿の志については、余も聞き及んでいる。この乱世において、その心は誠に尊いものだ。共に帝に忠義を尽くす者として、不戦の盟を結ぶ事もやぶさかでは無い。
だが賈詡よ、先程の話では李傕討伐についての約定は無かったが、その辺り、張繍殿はどうお考えなのかな?」
…来た。盟約に関する前向きな言葉と、李傕への対処に対する問い掛け。勝負所だ。
私は静かに頷くと、関を越えるべく、殿の「矜持」を述べた。
「はっ。確かに張繍は自ら李傕を討伐する事が、帝への赤心を示す事と考えております。ですが、それは言わば張繍の我儘でもあり、それにより公の行動を縛る事は本意ではありません。
また、公がひとたび動けば李傕の誅滅などは掌を反す如き事。公と共同出兵を約し、その尻馬に乗るが如き行為で志を果たしたとするのも、武人としての張繍にとっては、また本意ではありません。
融通の利かぬ武辺者の意地として、ご容赦とご理解を頂けますれば幸いです」
「はっはっは。そうか、武人の意地と申すか! それでは無理に共闘を勧める事は、張繍殿に対し非礼に当たるやも知れぬな。 …良かろう。ここまで御膳立てをされて断っては、余の招賢など口先だけと笑われよう。不戦の盟を結び、李傕誅滅についてはどちらが先んじるか、張繍殿と競う事に致そうではないか!」
上機嫌に笑いながら、そう承諾の返事をする曹公。
こちらの腹など察していない筈も無いが、盟約の成立は成立。今はそれで充分だ。
「ありがたきお言葉。張繍も皆も、公のお言葉を聞けば奮い立つ事でありましょう。我ら一同、漢室を盛り立てるべく、一層の忠義と努力に励ませて頂きます」
私はまずは第一の関を超えた事に安堵し、静かに頭を下げた。
…これで、第二の関に挑む権利は手に入れた。そう、全てはこれからなのだ。