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反映

作者: 鶴切 命

小学校時代の思い出話です。

尚、当方「男の子になりたい女の子」につき、一人称は僕でも外味は女です。悪しからず。

溺れたことがあるとわかるが、水というのは実に怖い。

第一に掴めない。当たり前のようだが、これは溺れて初めて実感できることでもある。

第二に呼吸いきができない。人間、呼吸ができないと思うと必死に呼吸しようとする。そして水を飲み、益々苦しくなる悪循環。



一度、足の立つところで溺れたことがあった。小学生の時分のこれが、僕の人生初の水難である。水深1mくらいのプールで小学4年生が溺れるはずもなく、泳げなかった僕ですらまさか溺れるとは思っていなかった。

今思えば、不安要素は幾つもあった。周りはロクデナシのいじめっ子でいっぱいだったし、僕は彼女達のお気に入りだった。だけども、当時の僕は彼女達の無邪気な残酷さ、想像力の無さを過小評価していたから、まさかプールで何かされるなんて思ってもみなかった。子供時代の僕から大人達に何か警告するとすれば、子供は大人よりずっと、そして大人が想像するよりもずっと、無邪気ゆえに残酷であり、無垢ゆえに狡猾であり、無知ゆえに奔放である、これに尽きる。

僕はきっと、周りより多少なり大人だった。これは子供社会では褒められたことでもなければ、優れている証にもならない。ただ愚かしさと適応力の無さを示すのみだった。


よく覚えている。

気温も天候も申し分ないと、体育の授業はプール授業になった。真夏の暑い日。飛び込んだプールは期待したより生温くて、文句を言うクラスメイトも多かった。一時間丸々自由遊泳ということだったが、男友達しか居なかった僕は遊ぶ相手も居らず暇を持て余した。男子連中はどこかよそでバスケットボールでもやっているのだろう。開放された3列分のレーンでは、女子生徒達が思い思いに戯れ合っている。僕はその中ほどで、独りぼーっと突っ立っていた。空が青い、夏の色だ。夏空の青さはまるで空色の原液のようで、ストレートジュースを連想する。他の季節よりずっと濃く、飲み口の甘い重さと生命感に、ともすればこちらが負けてしまいそうだった。


───息も心も調える間の無いまま、僕は水中に倒された。

驚いて呼吸が詰まったが、息を継ごうにも気付くと全身水の中だった。頭が真っ白になるだの、何も考えられなくなるだの良く聞くが、あれは正確ではない。いっぺんに色んな情報が頭の中を飛び交って、どちらかというと黒く塗りつぶされて行く感覚に近い。

なんだ、どうなった。もがこうとして初めて、左脚に誰かがしがみついているのに気が付いた。そちらを見ている余裕は無かった。水中ここから出なくては、あらゆる方向に両手をばたつかせた。掴む物が無い、手に触れる物が無い──水しか。暴れるものだから余計に呼吸が苦しくなる。本能がそうさせるらしく、身体が勝手に空気を吸おうとする。代わりにいっぱいの水を呑み込んだ。せ返りそうになるが、それに必要な酸素すらない。


殺される。

生きることに別段執着を持っているつもりはなかったし、これだけ嫌われているなら早いうちに死んだ方が世の為人の為かもしれない──普段そんなことを考えてはいても、いざ危機に瀕すると身体は死に物狂いと来る。苦しむ自分を俯瞰ふかんして眺める冷静な自分が、ふとそこに思い至った。そう考えると、今こうしてもがき苦しむ自分が滑稽でならない。僕は生きようとする動物の本能を意志でねじ伏せ、もがくのをめた。

抵抗を諦めてみると、僕を水中に引きずり込んだクラスメイト、彼女の心理が今更になって恐ろしく思えて来た。彼女の殺意に怯えたのではない。殺意を感じないことが、何より恐ろしかった。気配として伝わってくる心の動きは実に奇怪で、無邪気な好奇心と悪戯心、そこにひとつまみの悪意──僕は戦慄した。明らかに、彼女に殺意は無かった。憎悪も悪意もほとんど感じない。楽しみ、これは遊びなのだ。僕がここで死んで彼女はどう思うだろうか。賭けてもいい、なんとも思わないだろう。とんぼに紐を括り付けて、好奇心から羽をむしり取って挙句に死なせてしまっても、子供はなんとも思わない。僕はとんぼと同じだった。


その時、僕の脚を捕えていた両腕が離れた。虚を突かれながらも、僕はすぐにプールの底に両足を着け、水面に顔を出した。どれくらい沈んでいたんだろうか、日の光が嘘のように眩しくて、目を焼かれた。思わず目を覆って初めて、ゴーグルがどこかに行ってしまった所為だと気が付いた。心身に多少の余裕が戻り、僕は辺りを見回した。周りでクラスメイト達が笑っている。嘲笑ではない。まるで良い見世物をみせてもらった、というような楽しげな雰囲気だった。プールサイドに目を上げると、教師も一緒になって笑っている。

「ねえ、なんで暴れるのやめちゃったの?」

振り向くと、加害者張本人が立っていた。いじめの中心人物というわけではない、グループの外縁に近いクラスメイトだった。彼女はうそ寒い微笑みを浮かべながら、口惜くちおしそうに言ってのけた。

「せっかく面白かったのに」

その時、色々な事が解った気がした。

そうか、別に僕をいじめたいわけではないのか。いじめの目的は、僕をいじめることではないのか。

うつむくと、プールの水面みなもはゆらゆらと、冷たく光っている。水が怖くなった。



六年生になった年には、卒業年ということで「思い出を作る」趣旨の遠足が決定していた。雨ならいいと思っていたが、梅雨はもう明けてしまって、空は重苦しい青色に晴れ上がっていた。

真夏の暑い日。僕達は学校にあるよりずっと大きいプールに居た。流れるプールだの、波の立つプールだの、大掛かりな滑り台のあるプールだの──クラスメイトがわあわあ騒いではしゃぐ中、僕はやる事も無く暇を持て余した。一番大きなプールの隅で、背を壁面に着けて独りぼーっと突っ立っていた。見上げれば空が青い、夏の色だ。水は適度に冷たく心地良かったが、独特の感触は空の青さと相俟あいまって、否応無く嫌な思い出を蘇らせた。水に入ると身体がすくむ、足が立たねばパニックになる。あれしきの事がトラウマのようになるなんて癪だった。ましてや加害者本人は大した事をしたつもりはないのだ、それでここまで僕がダメージを受けたと知ったら、クラスメイト達はどんなに喜ぶことか。


──誰かに足を掴まれた。

あの時よりも深いプールの中に、僕は半ば倒れるようにして引き込まれた。驚いて呼吸が詰まったが、息を継ごうにも気付くと全身水の中だった。全身金縛りあったように、勝手に力が入って動かなくなる。死ぬ、殺される──何故かふと、水面を仰ぎ見た。


瞬きの間ほどの光景だったが、一曲の音楽のように感じられた。

見上げた水面みなもは人波に揺らめき、日の光に照らされ輝いていた。今の今まであんなにも騒がしかったはずなのに、水中ここは時間が停まったかのように静寂で満たされている。どこからか舞い落ちた木の葉が、陽炎にかれているかのように揺らめいて見えた。美しかった。

衝撃的な感動とは違う、少しずつ何かが氷解して行くような心の揺れが、金縛りをじわりじわりと解いて行った。身体から余計な力が抜ける。不思議と妙な余裕があった。足首を捕まえている手の主に、心当たりがあったからかもしれない。悪意も敵意も無い──悪戯心に、ほんの少しの「信頼」の加わった気配。


手が離れるのを感じた。僕はもう一度、水面で陽光が砕ける光景を見据えてから浮上した。

「お前か、れん

振り向いてゴーグルを外すと、案の定目の前には友人の蓮が立っていた。他人ひとを小馬鹿にしたような笑みを浮かべて腕組みしている。

「こんなでっけえプールに来といて何壁際で突っ立ってんだよ、馬鹿じゃねえの。なあ勇馬ゆうま

目を遣ると、いつもの面子の内の一人が見事な平泳ぎで泳ぎ着いたところだった。常の如く、勇馬はにやにやしながら悪口を並べる。

「もったいねーぞ、せめてお前らしく本読んどけ」

「馬鹿、それじゃほぼ一緒だよ」

「勇馬の頭は私らの中でトップクラスのひどさだからな」

呆れる蓮に、僕も乗っかる。異界のようだった水辺に、慣れ親しんだ空気が流れ込んで来たようだった。

「勇馬、みこととは水中鬼ごっこやったことなかったよな」

「男女で体育別だからな。よし、やろうぜ。あっちに智裕ともひろ達が居んだ」

決まったとばかりに、二人はざぶざふと歩き出す。僕は思わずちょっと笑った。泳いだ方が速いだろ、このお節介共。



今でも、僕はあまり泳げない。水中にとっぷりと潜った時、決まって蘇るのが文字通り掴み所の無かったあの恐怖感だ。

しかし一瞬の金縛りののち、ふとある記憶がざわめく。光る水面みなも、それを砕く揺らめき、そして彼の信頼──...彼の持つ、僕が自分に敵愾心てきがいしんを疑う事は有り得ないという、絶対の信頼。


そこでいつも僕は目を醒ます。水のやわらかな冷たさ、心地良い浮遊感に気が付くと、大丈夫だという確信がじわりと湧いて来る。怖いのは、怖かったのは、水じゃない。そして水以外の怖さになら、僕には味方が居るじゃないか。

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