第一章 「ノイズ」 第一話 0.1ミリのズレ
本作品はフィクションです。登場する人物名・団体名・組織名・国名・地名・事件等はすべて架空のものであり、実在する個人・団体・国家・事件とは一切関係ありません。
作中に登場する「ヴェラ」および人工知能システムは架空のものです。実在する人工知能技術・製品とは無関係です。
架空の小国、ヴァルタ共和国。
人口三百万。東西の大国に挟まれた、地図の上では小さな存在だ。だが今、この国は世界が注目する実験場になっていた。
国家主導の人工知能(AI)翻訳システム「ヴェラ」。政府はこれを「国民に正確な情報を届けるための橋」と呼んだ。導入から一年、国際会議から日常の報道まで、あらゆる言語のやりとりがヴェラを通して処理されるようになっていた。
倉木リナは、そのヴェラを管理する部署の末席にいた。
二十四歳。言語情報工学の修士号を持つ新人エンジニア。肩まである黒髪と、細い銀縁の眼鏡。静かな目をしている。
同僚からは「真面目すぎる」と言われた。上司からは「優秀だが、融通が利かない」と言われた。リナ自身は、それが褒め言葉だと思っていた。
国際資源会議当日。
リナの仕事は、会議室の隅でヴェラの出力をリアルタイムで監視することだった。画面には二つの言語が並んで流れていく。発言者の言葉と、ヴェラが翻訳した言葉。
ほとんどの場合、二つは完璧に一致する。
「本国は、資源開発における環境保護を最優先事項と位置づけております」
ヴェラの翻訳が即座に流れた。リナは画面を眺めながら、コーヒーに手を伸ばした。
——その瞬間、手が止まった。
発言者が言ったのは「最優先事項」だった。しかしヴェラが翻訳した言葉には、原文にあった「環境保護を」という修飾語が、ほんの少し——ほんの少しだけ、薄くなっていた。
意味が変わるほどではない。誰も気づかないレベルだ。同僚の田村は隣でスマートフォンを見ている。上司の桐島課長は別の画面を眺めている。
でもリナには分かった。
母はヴァルタ人で、父は隣国の人間だった。リナは幼い頃から二つの言語の間で育った。同じ概念が、言語によってどれほど違うニュアンスを持つか——それは勉強で学んだものではなく、皮膚に染み込んだ感覚だった。
削られたのは言葉ではない。意図だ。
「……おかしい」リナは小さく呟いた。
「どうした、倉木」田村が顔を上げた。
「翻訳に——」「問題でも?」
リナは画面を見た。ヴェラは滑らかに動き続けている。エラーログはない。品質スコアは九十七点。どこにも「異常」は示されていない。
「……いいえ。なんでもありません」
リナはそう言って、画面に向き直った。コーヒーは、すっかり冷めていた。
会議が終わった後、リナは一人でログを引き出した。今日の会議で処理された翻訳データ、全三百四十二件。リナはその一つ一つを、発言の原文と照らし合わせた。
三時間かかった。
「……やっぱり」
十七件。十七件の翻訳に、同じパターンの歪みがあった。環境、人権、自由——特定のテーマに関わる言葉だけが、微妙に削られていた。強い言葉が、柔らかい言葉に置き換えられていた。
これは誤差ではない。学習データの段階で、何かが仕込まれている。
リナは報告書を作成し始めた。明日、桐島課長に提出する。これは上に伝えなければならない。
キーボードを叩く音だけが、深夜のオフィスに響いた。
翌朝。リナが桐島課長のデスクに報告書を置いた時、課長は三秒で目を通し、それをリナに返した。
「誤差の範囲だ」
「ですが、十七件全てに同じパターンが——」
「倉木」桐島は眼鏡の奥の目を細めた。「ヴェラの品質スコアは九十七点だ。世界最高水準だよ。新人が三時間かけて見つけた『気がする』より、システムの数字を信じなさい」
「数字は結果を示すだけです。プロセスの歪みは数字に出ない場合があります」
「君は優秀だ」桐島はそう言った。笑顔だった。「だからこそ言う。余計なことに時間を使うな。分かったね?」
リナは報告書を受け取った。廊下に出た瞬間、手の中の紙が、やけに重く感じた。
(これは、誤差じゃない)
電卓の代わりに、リナには言語という武器があった。そしてその武器は、今、確かに何かを捉えていた。
その日の夕方。退社しようとしたリナのスマートフォンに、見知らぬ番号からメッセージが届いた。一行だけ。
「その報告書、提出するな。明日、話をしよう」
リナは画面を三回読んだ。発信者の名前はなかった。




