エピローグ 7日間の春
――鹿児島・鹿屋、令和七年四月初旬。
丘の上の桜は、今年も変わらず花を咲かせていた。
淡い風が花びらを揺らし、陽の光が枝の隙間からこぼれている。
ゆっくりと坂を上ってくるひとりの老女がいた。
背中は少し曲がり、歩みはおぼつかない。
けれどその目だけは、昔と同じように澄んでいた。
彼女の名は、美桜。
かつてこの丘のふもとで麦を育て、若き海軍少尉――村瀬湊と出会った少女である。
八十年という歳月が流れ、戦火に焼かれた村も、今では新しい家々が並ぶ静かな町となった。
けれどこの丘だけは、あの春の日と変わらない。
美桜は桜の根元まで辿り着くと、そっと腰を下ろした。
膝の上には、古びた写真と封筒、そして一冊の詩集。
写真は油紙に守られ、時の流れを拒むように凛とした美しさを保っていた。
その傍らの封筒は、黄ばみを帯び、角は擦り切れ、幾度もの指先の記憶を刻んでいる。
けれど、その古びた痕跡こそが、彼女にとってかけがえのない証であり、胸に抱く宝だった。
封筒の中には、湊の筆跡で綴られた短い手紙が入っていた。
それは、出撃の前夜、彼が直接美桜に手渡したものだった。
美桜の家で最後の持て成しをした夜、夕闇の中、光に染まる彼の横顔を、美桜は今も忘れない。
手紙にはこう記されていた。
『美桜さんへ
明日、僕は出撃します。
恐れはありません。ただ、君を想う心が、胸を締めつけます。
君に出会った瞬間から、ずっと君が好きでした。
七日間――君と過ごした春は、僕の一生でいちばん美しい季節でした。
もっと語りたかった。もっと君の笑顔を見たかった。
そして、生きて君の元へ帰りたかった。
もし戦争がなければ、君に出会うことはなかったと思うと、その矛盾が、僕の心を深く締めつけます。
明日、僕は魂となって必ず君のそばへ帰ります。
もし叶わぬなら、桜になって、風になって、君を守ります。
どうかお元気で。
>散りし身は
港にとどめ 花と咲き
君を守らむ 風のまにまに
金 永華』
美桜はその手紙と写真を一度も手放さなかった。
八十年の間、毎年この丘に来て、桜の下で彼に語りかけてきた。
結婚もせず、子を持たず、人は「頑固」と言ったけれど、美桜にとっては誓いだった。
――あの春に約束した「桜に宿る」という言葉を、ずっと胸に抱いて。
桜の花びらが一枚、写真の上に舞い落ちた。
美桜はその花びらを指でそっと掬い上げ、静かに微笑んだ。
「……湊さん。今年も、桜が咲きましたよ」
老いた声が、風に溶けていく。
その瞬間、ふと耳の奥で懐かしい声がした気がした。
――「……来てくれたんですね」
美桜は驚いて顔を上げた。
丘の向こう、春霞のなかに、濃紺の第一種軍装に身を包んだ青年が立っているように見えた。
背筋を伸ばし、穏やかな笑みを浮かべて。
あの春の日、麦畑の風の中で見た姿のままで。
けれど、次の瞬間にはもう誰もいなかった。
ただ、花びらが舞い、風が吹き抜けるだけ。
美桜は目を閉じ、胸の奥で静かに呟いた。
「ずっと……待っていました」
詩集の表紙を開くと、若い頃の自分の筆跡が見えた。
「風の文」と題された短い詩。
そこには、湊と過ごした七日間の記憶が綴られていた。
麦畑の香り、春の陽ざし、笑い声。
そして、彼の瞳に映った空の色。
ページをなぞる指が、わずかに震える。
美桜は空を仰いだ。桜が、まるで雪のように降り注いでいる。
「湊さん……あなたの見た春と、同じ色ですよ」
頬をなでる風が、やさしく彼女の白髪を揺らした。
その風の中に、確かに彼の声が混じっていた。
――ありがとう。
――もう、泣かないで。
美桜の唇がかすかに動いた。
目尻に浮かんだ涙をぬぐうと、彼女は穏やかに笑った。
やがて、風がひときわ強く吹いた。
桜の花びらが舞い上がり、白い光の粒が空へと昇っていく。
美桜は両手で写真と手紙を胸に抱きしめ、静かに目を閉じた。
丘の上には、花びらの絨毯。
その中に、小さな詩集がそっと残されていた。
表紙には、手書きの文字でこう記されている。
――『七日間の春』
空には雲ひとつなく、春の青が広がっていた。
そして風の中で、遠い昔の声がもう一度、やさしく響いた。
――「ありがとう。あなたと過ごした春を、僕は忘れません」
桜の枝が揺れ、花が舞う。
丘を包む風は、まるで再会の祝福のようにあたたかかった。
『七日間の春』を最後まで読んでくださり、心から感謝いたします。
この物語は、一人の若き海軍少尉と、一人の女学生が過ごしたわずかな時間――七日間の春を描きました。
戦争という避けられない現実の中で、二人が出会い、心を通わせ、そして永遠の別れを迎えるまでの物語です。
書き進める中で、私は何度も問いかけました。
「もし戦争がなければ、彼らはどんな未来を歩んでいたのだろう」と。
しかし、その答えはどこにもありません。
ただ、彼らが過ごした七日間が、誰にも奪えない輝きであったことだけは、確かです。
湊と美桜の想いは、時を超えて桜に宿り、風に溶けて、今も誰かの心に届いている――そう信じています。彼らの純粋な愛と、散りゆく命の尊さを、少しでも感じていただけたなら、作者としてこれ以上の幸せはありません。
戦争の悲劇を忘れないこと。そして、今を生きる私たちが、愛する人と過ごす一瞬を大切にすること。その願いを、この物語に込めました。
最後に、ここまでお付き合いくださったあなたに、深くお礼を申し上げます。
どうか、あなたの春が、やさしい光に包まれますように。
――ありがとうございました。東雲 碧




