第七章 君がため
――昭和二十年四月七日、鹿屋基地。
桜が風に舞っていた。
勤労奉仕隊の女学生たちが滑走路の脇に並び、桜の枝を振っている。
「頑張ってください!」
「万歳」
「ご武運を!」
誰かの声が風に乗って響く。
美桜も枝を握りしめ、必死に笑顔を作った。
けれど、胸の奥は張り裂けそうだった。
神風特別攻撃隊 第二神剣隊出撃の日――湊が乗る零戦もそこにあった。
滑走路の向こうに、深緑の機体が並んでいる。
操縦席のガラスが朝陽を反射し、まぶしく光った。
その中の一機に、湊がいる。
美桜は目を凝らした。
報国の鉢巻きが、風に揺れているのが見えた。
胸の奥が熱くなる。
湊は操縦席に身を沈め、報国鉢巻きを締めた。
胸には、二枚の写真。
母の笑顔と、美桜の微笑み。
それを操縦席の前面に貼り付け、指先でそっとなぞる。
「母さん……美桜さん……」
胸の奥で名前を呼ぶ。
風が頬を撫でる。
湊は深く息を吸い、操縦桿を握った。
(十死零生――生きて帰る望みはない。それでも、約束は果たす)
彼は心の中で一昨日詠んだ短歌を繰り返した。
>散る命
花に宿りて 君待たん
春の桜に 風となりても
滑走路に号令が響く。
「発進準備!」
地上員が 大きく腕を振り降ろす手旗信号を始めた。
プロペラが唸りを上げ、湊の機体が震えた。
整備兵たちが車輪止めを引っ張って機体から一斉に離れる。
美桜は桜の枝を振りながら、必死に湊を探した。
けれど、涙で視界がにじむ。
美桜は、声を張り上げた。
「湊さん!」
けれど、エンジンの音にかき消される。
涙が視界を曇らせ、湊の姿が見えない。
「いや……いや……!」
美桜は枝を落とし、滑走路へ駆け出した。
風が髪を乱し、桜の花びらが舞う。
湊の機が加速する。
美桜は必死に走った。
「湊さん!」
声は届かない。
ただ、轟音が空を裂いていた。
湊は操縦席から、身を乗り出した。
滑走路の端で、美桜が走っている。
その姿が、涙に濡れた瞳に焼き付いた。
湊は大声で叫んだ。
「美桜さん!大好きでした!ありがとう。さようなら!미오 씨! 정말 좋아했어요! 고마워요. 안녕!」
だが、轟音がその声を奪った。
美桜には届かない。
ただ、唇の動きだけが見えた。
胸が裂けるように痛んだ。
湊の機が離陸し、青空へ舞い上がる。
その後を、直掩機が追う。
―― 約二時間半後
直掩隊隊長の平田大尉が、湊機の隣に並んで海を指す合図を送った。
湊を含む八名の特攻隊員は、互いに視線を交わし、無言で操縦桿を押し込む。
雲を抜けた瞬間、視界が一気に開けた。
陽光を反射する海が、銀色の刃のように広がっている。
その遥か彼方、灰色の巨影――敵空母が、静かに獲物を待つ猛獣のように並んでいた。
甲板には無数の艦載機が並び、黒い煙が空へと立ち昇っている。
その光景を見た瞬間、湊の胸に熱が走った。
「……見えた」
だが、その刹那。
鋭い影が視界を裂いた。
味方機の一機が火を噴いて墜ちていく。
P-51マスタング――敵直掩機だ。
機銃の閃光が空を切り裂き、弾丸が湊の機体をかすめる。
金属片が弾け、風防に火花が散った。
「くそっ!」
操縦桿を引き、機体を急旋回させる。
遠心力で視界が暗転しそうになる。
背後で機銃音――敵機が後ろに食らいついてきた。
「くっ、振り切れるか.....」
しかし中々振り切ることが出来ない。
と、その時、直掩隊の一機が、湊の後ろにいたP-51に突っ込んだ。
炎の中で、直掩機の操縦席から最後の敬礼が見えた。
湊の喉が詰まる。
「村瀬、行け!俺たちが盾になる!」
直掩隊隊長の平田大尉が空母を何度も指さす。
湊は頷き操縦桿を押し込む。
黒い弾幕が空を覆い、爆風が機体を揺さぶる。
湊はさらに操縦桿を押し込み、機体を海面すれすれまで落とす。
波頭が風防のガラスに映り、潮の匂いが鼻を刺した。
さらに別の敵機が背後に迫る。
機銃の音が耳を裂き、弾丸が海面に白い筋を描く。
湊は急上昇し、雲へ飛び込む。
視界が真っ白に染まり、機体が震える。
どうやら敵機を振り切ったようだ。
その中で、彼は無線機に手を伸ばした。
指が震える。
「ホタホタホタ」――我、空母ニ体当タリ。
電鍵を握り、長音を送る。
「ツー」
その音が、鹿屋基地第一電信室に届く。
「村瀬少尉殿、ホタ三連、長音確認!」
電信兵の声が緊迫を帯びる。
長音が続く――突入の瞬間まで。
湊は、操縦席の前に貼った母と美桜の写真を、胸に強く抱きしめた。
「엄마......미오씨.....(母さん……美桜さん……)」
空母の甲板が迫る。
甲板の兵士たちが、豆粒のように走り回っているのが見えた。
「村瀬少尉殿、長音続行中!」
対空砲火が再び唸りを上げ、黒い煙が空を裂く。
湊は深く息を吸い、操縦桿を前に押し込む。
「約束は果たす。たとえ命が散っても――桜に宿り、君を待つ」
その瞬間、空が白く弾けた。
「長音……途切れました!」
電信兵が叫ぶ。
「村瀬少尉殿!突入!」
その声が、地下壕に響いた。
波間に漂っている二枚の写真が、ゆっくりと海の底へ沈んでいく。
母の笑顔と美桜の微笑みが、青い深みへと消える瞬間、海はすべてを呑み込んでいった。
滑走路。
美桜は空を見上げていた。
青空に、白い飛行機雲が一本、消えかけている。
風が桜を揺らし、花びらが舞った。
その一片が、美桜の頬に触れる。
まるで、湊の指先のように。
美桜は目を閉じ、涙をこぼした。
「……来てくれたんですね」
風が答えるように吹き抜け、桜が空に舞った。
美桜はその場に膝をつき、そっと頬に触れた花びらを手のひらに包んだ。
温もりなどあるはずもないのに、不思議と心が満たされていく。
まるで湊の想いが、風に乗って届いたかのようだった。
「ありがとう、湊さん……」
彼の最後の言葉は聞こえなかった。
でも、唇の動きと、あのまなざしだけで、すべてが伝わった気がした。
美桜は空を見上げ、消えかけた飛行機雲を目で追っていた。




