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第六章 前夜

――鹿児島・鹿屋、昭和二十年四月六日


鹿屋基地の空は、春の気配を(はら)みながらも、どこか重苦しい雲に覆われていた。


湊は制服の裾を整えながら、ゆっくりと歩き出した。


胸の中で何度も言葉を繰り返す――「美桜さんに伝えなければ、後悔を残さないように」


その思いが、足取りを自然に早める。


美桜の家にたどり着くと、障子越しに灯る柔らかな明かりが、湊を迎える。


薄く漏れる光の向こうに、縁側に座る美桜の姿が見えた。


彼女は湊の気配に気づき、驚きと喜びが入り混じった笑みを浮かべる。


「湊さん……こんな時間に?」


湊は深く頭を下げ、懐から小さな封筒を取り出した。


「これ……遺書です。軍規に反するかもしれません。しかし、美桜さんに託したい。僕の代わりに、母に届けてほしい」


美桜の指が震えながら封筒を受け取る。


湊の瞳には、何か決意と悲しみが混ざった光が宿っていた。


さらに、もう一通の手紙を差し出す。


「これは美桜さんへの手紙です。読まなくても構いません。ただ、僕の気持ちを残したくて」


美桜の目に、自然と涙が滲む。言葉が出ない。


胸の奥が、押しつぶされそうになる。湊は少し照れたように視線を逸らしながら言った。


「……美桜さんの写真が欲しい。最後に、持って行きたい」


美桜は言葉なく立ち上がり、箪笥の奥から一枚の写真を取り出す。


そこには、春の日差しの下で微笑む美桜の姿が写っていた。


柔らかい光に包まれたその笑顔は、湊の心に深く刻まれる。


湊はその写真を胸に抱き、そっとポケットから小さな封筒を取り出す。


「これは、僕の写真です。美桜さんに、残していきたい。」


美桜は目を見開き、頬にかすかな熱を感じながら、震える指で封筒を大切そうに受け取った。


封筒の中には、一枚の写真――真っ白な第二種軍装に身を包み、日本刀を両手で前に持って立つ湊の姿。


「帰ってきて……お願い、湊さん。魂じゃなく、本当に帰ってきて」


美桜の声は震えていた。


必死に湊を引き留めようとする思いが伝わる。


しかし湊は答えられず、ただ静かに微笑むだけだった。


彼の目には、美桜のために勇気を振り絞る覚悟が映し出されていた。


美桜は涙を拭い、震える指で短歌を詠む。


>港路に

散らぬ桜の 祈りあり

君を待ちつつ 春は暮れぬる


その声は細く、しかし澄んでいた。


湊は胸が締めつけられるのを感じ、黙って美桜の母に頭を下げる。


母は静かに湊を座敷に招き、湯気の立つ味噌汁と漬物を差し出した。


「米があったらよかですが、せめて最後のもてなしを」


その言葉に、湊は故郷の母を思い出す。


台所で忙しく働く母の背中、春の畑、菜の花の匂い。


幼い頃の思い出が一瞬にして胸に広がり、湊の目から静かに涙がこぼれた。


「……帰りたい。死にたくない」


その呟きは、誰の耳にも届かないほど小さかった。


しかし次の瞬間、湊は顔を上げ、笑顔を作る。


美桜とその母に、感謝と安心を与えるための微笑みだった。


「美桜さん、お母さん……ありがとう。本当に、ありがとう」


湊の笑顔は、美桜の胸に深く刺さった。


胸の奥が熱く、息が止まるような感覚。


彼の背筋は、微かに震えながらも凛としていた。


湊は写真を懐にしまい、静かに玄関を出た。


夜風が頬を撫でる。遠くで、基地の灯りが瞬き、戦の匂いを漂わせていた。


美桜は縁側に座り込み、湊の背中が闇に溶けていくのを見送る。


涙が頬を伝い、声にならない叫びが胸を突き上げる。


遠くで軍靴の音がリズムを刻むたび、現実の重さを痛感する。


美桜は震える指で筆を取り、もう一句を詠んだ。


>君去りて

春の夜風に 咲く花は

散りてなお我 君を待ちけり


その歌は静かな夜に溶け、基地の灯火に混ざって遠くの戦場まで届くようだった。


美桜の胸は波立ち、言葉にならない祈りが溢れる。


目を閉じると、湊がまだそこにいるような気がして、心臓の鼓動が早まる。


春の風が障子を揺らし、桜の枝も微かにざわめく。


湊が去ったあとの静けさの中で、美桜は写真と手紙を抱きしめた。


彼の言葉、笑顔、すべてが胸に刻まれ、永遠に失いたくないものとして心に残った。


美桜はもう一度、短歌を口ずさむ。


>君去りて

春の夜風に 咲く花は

散りてなお我 君を待ちけり


心の中で、彼女は小さく呟いた。


「どうか、帰ってきて……あの桜の下でまた会えますように」


美桜の祈りと湊の覚悟が交錯する中、夜は深まり、前夜は静かに過ぎていった。


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