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第五章 約束

――鹿児島・鹿屋、昭和二十年四月五日


春の陽は柔らかく、町の桜並木が満開になり始めていた。


美桜は勤労奉仕の作業を終え、麦畑の道をゆっくりと歩いていた。


足元に敷き詰められた土の匂いと、麦の青々とした香りが、春の訪れを告げる。


しかし、胸の奥はざわめきでいっぱいだった。


――今日、会えるだろうか。


その思いは昨日から美桜の心を支えていた。


作業の間中、麦の波に目を落としながらも、ふと風に揺れる麦の穂に湊の姿を重ねてしまう。


町外れの桜並木に差しかかると、風が花びらを一枚、美桜の肩に落とした。


そのひらひら舞う花びらに胸が高鳴る。


前方に、青褐色の第三種軍装を着た青年の姿が見えた。略帽を深くかぶり、陽光を受けて青褐色の布が鈍く光る。


湊だった。


「……湊さん」


美桜の声はかすかに震え、風に溶けるように小さく漏れた。


湊は微笑み、ゆっくりと美桜の方へ歩み寄る。


歩幅は穏やかでありながら、背筋の伸びた立ち姿には戦場の兵士の凛々しさがあった。


美桜の胸は、熱く、そして切なくなる。


「美桜さん……」


湊は立ち止まり、視線を落として言葉を探すように黙った。


やがて、低く静かに口を開く。


「出撃命令が出ました。……明後日です」


美桜の心臓が激しく音を立てて落ちる。


耳の奥で血の音が響くようだ。


言葉が出ない。


二人の間には、桜の枝を揺らす風の音だけが満ちていた。


「……そんな」


ようやく絞り出した声は震えていた。


湊は微笑む。


その笑顔が、かえって美桜の胸を締めつける。


「……来年の春のことを約束できなくなりました」


美桜の視線が揺れる。


湊は続けた。


「でも、今こうして二人で桜を見ていることは、忘れません。この幸せな時間があったことを」


湊は桜の枝を見上げ、静かに言葉を紡ぐ。


「この景色を胸に刻んで、飛びます」


美桜は唇を噛み、涙をこらえた。


「絶対に……忘れないでください」


湊は深くうなずく。


しばし沈黙が続く。


風に舞う桜の花びらが二人の間に静かに漂う。


湊はふと略帽を外し、胸に抱え、美桜の目をまっすぐに見つめる。


「美桜さん……一つ、話しておきたいことがあります」


その声は、風よりも低く、重みを帯びていた。


「僕の本当の名前は……キム・ヨンファです」


美桜は息を呑む。湊の瞳が揺れている。


「朝鮮から来ました。……この国で生きるために、日本名を名乗っています」


言葉の一つ一つが美桜の胸に深く刺さる。


しかし美桜は首を振った。


「そんなこと……どうでもいいです」


声が震える。


「湊さんは、湊さんです」


その瞬間、湊の瞳に光が宿り、微笑みが戻る。


「ありがとう……美桜さん」


湊は桜の枝を見上げ、低く口ずさむ。


나의(ナエ) 살던(サルドン) 고향은(コヒャンウン) 꽃피는(コッピヌン) 산골(サンゴル)

복숭아꽃(ポクスンアコッ) 살구꽃(サルグコッ) 아기(アギ) 진달래(チンダルレ)


美桜には意味はわからなかった。けれど、その旋律は遠い山里の春を運んでくるようで、胸が締めつけられた。


「故郷の歌です。……春になると、山に花が咲くんです」


湊は桜の枝を見上げ、静かに言葉を続ける。


「十死零生――僕らの作戦は、生きて帰る望みがない」


美桜の胸がきゅっと締めつけられる。


湊はさらに言う。


「でも、約束します。たとえ命を落としても、魂となってこの桜に宿り、必ず戻ります」


その言葉に、美桜の頬を涙が伝う。


湊は懐から小さな紙片を取り出し、万年筆で短歌をしたためた。


>散る命

花に宿りて 君待たん

春の桜に 風となりても


美桜は震える手でそれを受け取り、胸に抱きしめる。紙越しに湊の想いが伝わってくるようで、息が詰まった。


「……絶対に、来てくださいね」


声はかすれ、祈りにも似ていた。


湊は黙ってうなずき、そっと美桜の手を握る。


その温もりが、言葉以上に強い約束だった。


美桜は唇を噛み、絞り出すように言った。


「ご武運を……」


その言葉は、胸の奥で拒絶していた。


戦場に送り出す言葉など、本当は言いたくない。


――生きて、帰ってきてほしい。


ただそれだけを願っているのに、声にできるのは武運を祈る言葉だけ。


美桜の目に涙がにじみ、湊の手を離したくない衝動に駆られる。


けれど、彼の背中はもう決意をまとっていた。


二人は夕暮れの桜の下で、言葉を重ね続けた。


故郷の話、幼い頃の思い出、戦時下の町のこと、日常の些細な出来事。


美桜の胸の奥にある不安は、湊の言葉と笑顔に少しずつ和らいでいく。


二人は無言の間にも、心を寄せ合い、


手を握り合った。短い時間ではあったが、美桜にとっては永遠のひとときのように感じられた。


やがて、湊は略帽をかぶり直し、背を向けて歩き出す。


その背中は夕陽に染まり、金色と朱色に包まれていた。


美桜は立ち尽くし、桜の花を握りしめる。


風が吹き、花びらが舞う。


その中で、美桜は心の中で叫んだ。


――どうか、生きて帰ってきて。


――どうか、来年の春、この桜の下で。


湊の姿が遠ざかり、やがて見えなくなる。


美桜は空を見上げた。桜の花が夕陽に染まっていた。その色は涙ににじみ、ぼやけていた。


そして美桜は、湊と交わした約束を胸に刻み、春の夕暮れに立ち尽くすのだった。


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