第四章 微笑
――鹿児島・鹿屋、昭和二十年四月四日。
朝の光が麦畑を照らし、美桜は鍬を握りながら空を見上げた。
空は淡い青に染まり、柔らかな光が麦の穂先を黄金色に輝かせている。
微かに香る土の匂いが、美桜の心を優しく包んだ。
(湊さん……)
春の風が麦の穂を揺らし、ざわざわと音を立てる。その音に紛れて、朝の記憶が胸に蘇る。
――郵便受けに、白い封筒がひとつ。
冷たい朝の空気の中、指先が震えた。湊さんからだと、すぐにわかった。
封を切ると、丁寧な筆跡で短い言葉が綴られていた。
>春の丘
港に咲ける 桜花
君を想えば 風に微笑む
最後に、小さく「湊」とだけ記されていた。
その文字をなぞったとき、胸の奥で何かが静かに灯った。
美桜はその場に立ち尽くし、目を閉じて風に頬をなでられるまま涙をひとすじこぼした。
麦の穂に落ちる雫は、まるで春の光を受けた小さな露のように煌めいた。
風が封筒をそっと揺らすたび、まるで湊の声が耳元でささやくように思えた。
午後、美桜は作業を終えた後、制服のまま町外れの桜並木へ向かった。
湊が「行ってみたい」と言ったのは、一昨日のことだ。
昨日も作業の帰りに立ち寄ったが、姿を見ることはできなかった。
(今日こそ……)
桜並木の下に立ち尽くすと、遠くから一人の青年が歩いてくるのが見えた。
胸の鼓動が早まる。歩みはゆっくりで、略帽を深くかぶり、陽光を受けた青褐色の軍服が鈍く光っている。
その姿は、日常から切り離された世界の人のようで、美桜の胸に淡い痛みを残した。
「湊さん……!」
思わず声をかけると、湊は少し驚いたように目を見開き、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「美桜さん……来てくれてたんですね」
「はい……麦畑の帰りです」
二人は並木道の端に腰を下ろした。
足元には舞い落ちた桜の花びらがふんわりと積もり、風が吹くたびに舞い上がる。
美桜はそっと湊の顔を見つめる。
少し疲れたように見える顔。目の奥に、言葉にできない何かが宿っている。
「昨日見かけなかったので……心配してました」
湊は少し黙った後、ぽつりと口を開いた。
「……訓練が、厳しくなってきていて。出撃の話も、ちらほら出てるんです」
美桜の胸がきゅっと締めつけられる。
出撃――その言葉の重さが、美桜の心を締め上げた。湊の視線は空に向かっていて、そこに目を合わせられない。
「僕たちの部隊は、特攻隊です。……でも、まだ命令は出ていません」
現実を知っていたはずの美桜も、本人の口から聞くと、その重みが一層のしかかってくる。
「……怖くないんですか?」
美桜の問いに、湊は少しだけ笑った。
「怖くないと言えば嘘になります。でも……僕たちは、志願兵です。そういう覚悟でここに来ていますから」
その言葉に、美桜は息を呑んだ。
言葉にならない感情が胸の奥で渦巻く。
行かないで――生きていてほしい――そう心の中で叫びながらも、それは言ってはいけない、口にしてはいけない想いのように思えた。
沈黙の後、湊の声が再び美桜の心を現実に引き戻す。
「……また、来てくれますか?」
「え?」
「明日も、ここで。少しだけでも、話せたら嬉しいです」
美桜は湊の瞳を見つめる。
そこには、静かな決意と、ほんの少しの寂しさが宿っていた。胸が熱くなる。
「……はい。来ます。絶対に」
湊はほっとしたように微笑んだ。その笑顔は美桜の胸に深く刻まれ、まぶたの裏で何度も反芻されるだろう。
小一時間ほど、二人は並木道に座り、桜の花びらが風に舞う音と、遠くの町の喧騒の中で、静かに心を通わせた。
「じゃあ、また明日」
湊は立ち上がり、略帽を軽く指で押さえながら、敬礼するように手を挙げ、並木道を歩き去った。
その背中が遠ざかるにつれて、桜の花びらが舞う空が一層輝いて見えた。
(明日も、会える。そう信じたい)
けれど、心の奥では別れの予感が静かに芽吹いていた。春の光の下で、幸福と不安が混ざり合う。
夜、美桜は机に向かい、湊の短歌をそっと広げる。
>春の丘
港に咲ける 桜花
君を想えば 風に微笑む
墨の香りが胸にしみる。
美桜は目を閉じ、短歌の言葉を心に刻む。
障子の向こうで夜風が桜の枝を揺らし、花びらがひらりひらりと散る。
まるで、遠い戦場へも思いが届くかのように。胸の奥に、小さな温もりと切なさが同時に広がった。
美桜はそっとつぶやいた。
「この言葉を、ずっと覚えていたい……」
夜の静寂の中、桜の花びらは風に舞い、二人を結ぶかすかな絆のように、夜空に溶けていった。




