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第三章 手紙

――鹿児島・鹿屋、昭和二十年四月三日。


春の光は日ごとに柔らかさを増し、畑の麦は少しずつ穂を伸ばしていた。


朝露に濡れた緑が眩しく、風が吹くたびに麦の葉がさわさわと音を立てる。


美桜は鍬を手にしながら、胸の奥がそわそわしていた。


――今日も、来てくれるだろうか。


作業の合間に交わした短い言葉が、美桜の一日の支えになっていた。


彼の姿を思い浮かべるだけで、胸の奥が温かくなる。


美桜は鍬を握る手を強く握りしめ、土の感触を確かめるように指先で感じながらも、心は落ち着かずにいた。


けれど、今日は姿が見えない。


風が頬を撫でるたび、胸の奥に小さな不安が芽を出す。


麦の香りや土の匂い、春の光の柔らかさすらも、美桜の目にはぼんやりとしか映らない。


遠くの空には白い雲が流れ、町の方角からは人々の生活音が微かに届く。


それでも、耳に届くのは心の鼓動だけのように思えた。


戦況が厳しいことは、町の誰もが感じていた。


出撃の準備が進んでいる――そんな噂も耳にする。


確かにここ数日は、毎日基地から零戦が飛び立っている。


美桜は胸の奥でざわめく不安を押さえつけ、鍬を握る手に力を込めたが、心は定まらない。


目の前の麦の穂が揺れるたび、あの人の姿を思い浮かべずにはいられなかった。


昼過ぎ、作業を終えて家に戻ると、美桜は机に向かった。


薄暗い部屋に灯した行灯の光が、紙の上に淡い影を落とす。


墨の匂いがかすかに鼻腔をくすぐる。筆をとり、何度も書きかけては紙を丸める。


(あの人に、何を伝えればいいの……)


胸の奥にあるのは、言葉にならない想い。


会いたい――ただそれだけの願い。


しかし、その想いをどう表せばいいのか、美桜には分からなかった。


筆先を止め、窓の外の桜の枝を見上げる。


柔らかく揺れる花びらに、あの青年の黒い瞳の光を重ねてしまう。


再び筆を持ち、短歌に託した。


>港路に

咲き待つ桜 春の風

君を迎えむ 波に祈りて


墨の香りが部屋に広がり、書き上げた歌を見つめると、胸の奥のざわめきが少しだけ落ち着いた気がした。


美桜はその歌を便箋にしたため、折り畳んで小さな封筒に入れる。


宛名の代わりに、ただ「湊さんへ」とだけ書く。


その文字を見つめるたび、胸が熱くなる。


夕暮れを待たず、美桜は胸元に封筒を忍ばせ、静かに基地の門へ歩みを進めた。


道端には菜の花が咲き、風に揺れる黄色が春を告げている。


けれど、その鮮やかさは美桜の瞳に映らなかった。


鼓動は速まり、足取りは重くなる。


門の前には兵が立ち、湊の姿はどこにもなかった。


(どうしよう……)


引き返したい気持ちが何度も胸をよぎる。


恐怖よりも、胸の奥にあるのは会いたいという衝動だった。


けれど、ここで戻ったら、きっと後悔する。


美桜は深く息を吸い、震える手で封筒を差し出した。


「すみません……」


兵士が怪訝そうに振り向く。美桜はさらに小さな声で続ける。


「村瀬少尉に、これを……お渡しいただけませんか」


封筒には、ただ「湊さんへ」とだけ書かれている。


兵士は一瞬、美桜の目をじっと見つめたが、やがて無言でそれを受け取った。


「……確かに預かりました」


その言葉に、美桜は深く頭を下げた。胸の奥に小さな灯がともる。


(届いてほしい。どうか、あの人の手に)


夕暮れの道を帰る美桜の耳に、遠くから飛行機のエンジン音が響いた。


空を見上げると、雲間に一筋の飛行機雲が伸び、夕陽に照らされて白く輝く。


その光景が、なぜか胸にしみた。


夜、美桜は障子を閉め、机に向かった。


風が障子を揺らすたび、湊の声が聞こえるような気がした。


窓の外で桜の枝がかすかに揺れ、花びらが舞う。


遠くの戦場で、誰かの命が風に乗って運ばれているように思える。


(あの人は、今どんな気持ちでいるのだろう)


不安と祈りが胸を満たす。


美桜は再び筆をとり、心の中で湊に語りかけるように書いた。


>春の宵

港に寄せる 桜花(さくらばな)

君を待ちわび 風に祈りぬ


墨を含んだ筆先が震える。


その震えは、美桜の心そのものだった。


心の中で、美桜はそっとつぶやく。


「どうか、読んでくれますように……」


その夜、美桜は筆を置いても眠れなかった。


窓の外の夜風の音、遠くの空の飛行機の音、そして、胸に渦巻く想いの余韻。


春の夜は優しくも、どこか切なく、美桜の心を静かに揺らし続けた。


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