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第二章 名前

――鹿児島・鹿屋、昭和二十年四月二日。


昨日と同じように、春の風が吹いていた。


美桜は再び、勤労奉仕の作業で麦畑に立っていた。


手にする鍬の重みよりも、胸の鼓動の方が気になる。


あれから、あの青年の姿が何度も心に浮かんでいたのだ。


朝の光に照らされた麦の穂先は金色に輝き、風に揺れるたびにささやくような音を立てる。


遠くで小鳥がさえずり、土の匂いと麦の香りが混ざる。


平和な春の光景だというのに、胸の奥には、昨日の出会いのざわめきがまだ残っていた。


ふと、風の向こうに影が揺れた。顔を上げると、そこに立っていたのは――あの軍服の青年、村瀬湊だった。


彼は海軍第三種軍装に身を包み、青褐色の略帽をかぶっている。


背広型のジャケットには胸と腰に四つのポケット。


襟元にはグレーのシャツが覗き、ネクタイを締め、少尉の徽章が光っている。


軍服というより、どこか作業着に近い質感だ。


それでも、彼の立ち姿には不思議な凛々しさがあった。


湊は麦畑の道をゆっくりと歩いてくる。


陽光が略帽の庇に反射し、影が彼の瞳を隠すたび、美桜の胸の奥がざわめいた。


心臓が早鐘のように打ち、手元の鍬が少し揺れる。


「お手伝いしましょうか」


低く穏やかな声だった。美桜は驚いて鍬を持つ手を止める。


「いえ……大丈夫です。慣れていますから」


湊は少し笑った。その笑顔は、戦争の影に閉ざされた日常の中で、不意に差し込む光のように柔らかかった。


「そうですか。ですが、見ているだけというのも、落ち着きませんね」


その言葉に、美桜の頬がわずかに緩む。


軍人らしい厳しさではなく、人としての温もりを感じた。


視線を下ろした先で、麦束が風に揺れる。


その動きに合わせ、湊も静かに立ち止まり、見守っている。


互いに言葉は少ないが、沈黙の中に確かな呼吸のリズムが流れていた。


やがて、風がまた吹いた。


美桜の髪が頬にかかる。


湊は無意識に手を伸ばしかけて――途中で止めた。


彼女の黒髪に触れることが、あまりにも許されないことのように思えたからだ。


戦地で任務を背負った自分が、ここで一瞬の安らぎを得ることの罪深さを、心のどこかで感じていた。


「……お名前を、うかがっても?」


沈黙を破ったのは湊だった。美桜は少し迷ってから、微笑みながら、胸元の名札をそっと指先で示した。


「白石美桜です。美しい桜で“みお”と読みます」


その響きに、湊の瞳が柔らかく揺れた。


「いい名前ですね」


湊の声には、どこか懐かしさが滲んでいた。


遠く京城で過ごした日々、母の手仕事、友と語り合った春の光景――それらの記憶が美桜の名とともに胸をかすかにくすぐる。


「私の名は――村瀬湊。……“湊”は港の湊です」


美桜は瞬きした。


「港……?」


湊は微笑む。


「ええ、人や船が集まる場所。あなたの“美桜”も、人を惹きつける花の名前でしょう。どちらも、誰かを迎える名前だと思いませんか?」


「でも、僕の字は”港”ではないですが....」


ふたりは顔を見合わせ、初めて笑い合った。


その笑顔の中に、昨日の緊張感や戦争の影は一瞬消えたように感じられた。


麦の穂が金色の波を描き、光がふたりを包む。


「村瀬さんは……鹿屋の方ではないのですか」


「ええ。京城から来ました」


「京城……遠いところですね」


湊の瞳が、ほんの少しだけ翳った。遠く離れた故郷、そして会えない母のこと。


胸の奥に押し込めた孤独が、春の光の中でほんのかすかに顔を出した。


「ええ、遠い。でも、似ています。春の匂いも、風のやわらかさも」


「……ご家族は?」


「母がひとり。もう会えないかもしれませんが、それでも……この空の下で同じ季節を感じられれば、それで十分です」


その言葉に、美桜の胸が熱くなった。


言葉では表せない、言葉にしたくない温度が、心の奥にじんわりと広がる。


何かを言いたかったが、言葉は出なかった。代わりに、そっと短歌帳を取り出す。


少し迷ってから、一枚の紙を破り、湊に差し出した。


「昨日、詠んだ歌です」


>春風に

麦の波立つ 丘の上

名も知らぬ人の 瞳思へり


湊は紙を両手で受け取り、しばらく黙って見つめた。


やがて穏やかな笑みを浮かべる。


「……名も知らぬ、ですか。もう、知ってしまいましたね」


美桜の頬が赤く染まった。


風に揺れる麦の穂と同じように、ふたりの影が寄り添う。


その瞬間――


「ウーッ! ウーッ!」


空襲警報のサイレンが町に響き渡った。


美桜は息を呑み、麦束を落とした。


遠くの空に黒い影。


編隊を組んだ爆撃機が、ゆっくりと近づいてくる。


「伏せて!」


湊の声が鋭く響いた。


次の瞬間、彼の腕が美桜の肩を強く引き寄せ、地面に押し倒すように伏せた。


耳に爆音が轟き、土が跳ね、風が唸り、空が裂ける。


湊の体温がすぐそばにある。軍服の硬さと腕の力強さ。


「動かないで」


低く、震える声。


美桜は目を閉じ、恐怖よりも胸の奥で別の熱が広がるのを感じた。


爆撃の音が遠ざかり、サイレンがやがて消えると、湊はゆっくり体を起こし、美桜に手を差し出した。


「……お怪我はないですか」


美桜は小さく首を振る。


彼女の瞳に映る湊の顔は、汗に濡れながらも穏やかな光を宿していた。


その瞬間、美桜の胸に芽生えたもの――それは、名前のない想いだった。


――その夜、美桜は眠れなかった。


湊――その名前を口の中でそっとつぶやくたび、胸の奥がくすぐったくなる。


昼間の笑顔や声が、まぶたの裏で何度もよみがえる。


ただ名前を知っただけなのに、世界が少し違って見える。


春の夜風さえ、どこか優しく感じられた。


麦の香りも、土の匂いも、すべてが昨日と今日の記憶の間で静かに揺れていた。


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