第一章 出会い
――鹿児島・鹿屋、昭和二十年四月一日。
春の風が、麦畑をやさしく撫でていた。
陽は高く、空はどこまでも澄み渡り、遠く桜並木の枝先には、ほのかに色づいた花が揺れている。
戦の影が町を覆っていても、季節は確かに巡っていた。
鹿屋の春は、静かに、そして確かにそこにあった。
白石美桜は、麦束を抱えて畑の端に立っていた。
鹿屋生まれ鹿屋育ちの彼女は、女学校に通いながら勤労奉仕隊に志願し、毎日農作業に励んでいる。
父は出征中、兄は戦地で命を落とし、母と祖母と三人で暮らしていた。
それでも、美桜は笑顔を忘れなかった。心の奥底で抱える孤独や不安を、決して表には出さなかった。
三つ編みに結った黒髪が肩に揺れ、大きな瞳は春の陽ざしを映している。
セーラー服の上着の左胸には、白い布に墨で書かれた住所と名前が縫い付けられ、下は紺のモンペ姿。
袖口からのぞく手は、麦の香りをまとった束をしっかりと抱えていた。
遠くで風が吹き、麦畑が波のように揺れる。美桜はその中で、まっすぐ前を見つめていた。
麦の香り、土の温もり、風の音――それらを胸に刻みながら、彼女は短歌を詠んだ。
短歌帳は、制服の胸ポケットにいつも入っている。
>春風に
麦の波立ち 君を待つ
声なき想い 空にとけゆく
小さく口ずさむ声は、風に紛れて消えていった。
その時、美桜の視界の片隅に、商店街から歩いてくる青年の姿が入った。
彼は軍服を着ていた。
襟章には帝国海軍少尉の印。
濃紺の詰襟に、きっちりと折り目のついた濃紺のズボン、黒革の革靴が陽の光を受けて鈍く光っている。
制帽の庇の下からのぞく瞳は鋭く、それでいてどこか哀しげだった。春の風が、彼の軍服の裾をかすかに揺らす。
その姿は、戦場へ赴く若き将校というより、風に溶けてしまいそうな儚い影のようでもあった。
彼の歩みは静かで、しかし一歩一歩に重みがあった。
村瀬湊――本名はキム・ヨンファ。
京城帝国大学から学徒出陣し、筑波教育航空隊で半年の訓練を経て、鹿屋基地に配属されたばかりの特攻隊員だった。
彼の瞳は、どこか遠くを見ていた。
この町に初めて降り立ったはずなのに、風景に懐かしさを感じていた。
それは、故郷の春を思い出していたからかもしれない。
――京城の春。
漢江のほとりに並ぶ柳の若葉、石畳の路地に差し込む淡い陽光、母が縫ってくれた学生服の匂い。
大学の講堂で聞いた哲学の講義、友と語り合った未来。
そのすべてが、遠い幻のように胸をよぎる。
美桜は、麦束を胸に抱えたまま、動けずにいた。
青年の姿に、なぜか目が離せなかった。
その瞳の奥には、言葉にならない哀しみと覚悟が宿っているように見えた。
美桜は、自分でも理解できない胸のざわめきを感じた。
戦時下で生きる者たちの背負う重荷に、ふと共鳴したのかもしれない。
湊は、美桜の存在に気づくと、足を止めた。
二人の目が合う。
時が止まったかのような瞬間だった。
風の音、遠くで鳴く鳥の声、遠くの子供の笑い声――それらすべてが静かに重なり合い、二人だけの世界を形作っていた。
美桜は、軽く会釈をした。
湊は一瞬目を見開き、そして唇の端をわずかに上げた。
その仕草だけで、美桜の胸は不思議なほど高鳴った。
麦束の重さも、土の匂いも、すべてが遠くなっていくようだった。
美桜は、目の前の青年がただの訪問者ではなく、何か特別な存在であることを直感していた。
湊もまた、美桜の清らかな佇まいに、戦場で忘れかけた何か温かい感情を思い出していた。
彼女は歩き出す。湊もまた、静かに背を向け歩き始める。
振り返ることはなかった。
けれど、二人の心には、確かに何かが芽吹いていた。
戦争という影の下で、芽吹いた小さな光。
それは、誰にも壊されない、確かな希望の予感だった。
その日の夕方、麦畑に残る風の匂いは、日常の中のほんの一瞬の安らぎを運んでいた。
遠くで揺れる桜の枝先も、戦時下の町のざわめきも、すべてが春の光に溶けていくようだった。




