響と下水道
厚い雲の切れ間から、月明かりが射しこんでくる。
淡い光が男を照らす。じわじわと朱に染まっていく体。
流れ出る血潮を洗い流していた雫。天をひっくり返したような雨は、何時の間にやら止んでいた。
男の後ろを数人の人影が追っていた。暗くてはっきり見えないが、手にした鉈が月光を反射しているのを見て、男には自分に向けられた追手だと正しく理解できた。
幾つもの角を曲がっても、追いかけてくる。この町に逃げ込んで以来、追手の足が途絶えたのを感じて油断した結果がこの様だった。
追手の鼻が鈍くなっているのは確かだった。この町に逃げ込むまではどこまでも正確に自分達の居場所を嗅ぎつけたものだったが、今はこうして物陰に潜んだだけでも奴らの目を欺く事ができる。
だが、それも時間の問題だろう。奴らの執念は凄まじかった。鼻で追えぬなら目で追うまでとばかりに、この街の隅々を調べ上げたに違いない。
少しずつ、包囲網が狭まっている。やがて自分は捕まるだろう。そして奴らの神に逆らった罰として惨たらしく殺されるのだ。
覚悟はできていた。この逃避行の最中、散って行った仲間達も同じだった事だろう。人間の世界を破滅させかねない奴らの目論見を潰す。その為に、今まで命を燃やし続けてきたのだ。
重要なのは。残された命の灯火を別の誰かに繋ぐ事。例えここで自身の命が潰えても、その燃殻を受け取ってくれる誰かがきっと現れてくれるはず。
その為には、奴らの目論見を出来るだけ長く成就させぬようにしなければならない。
男の目の前。地面にぽっかりと穴が広がっていた。隣にはマンホールがひっくり返っている。先程までの豪雨で下水が逆流でもしたのだろうか、それとも善き神の思し召しか。深々とした下水道への入り口に、男は懐に抱いていた物を投げ入れた。
これでいい。これで時間が稼げるはずだ。しかしもっと……もっと時間を稼がなければならない。奴らがアレを探し始めるまでの時間を、可能な限り引き延ばさなくては。
男がどれほど足搔こうとも、終わりはやってくる。
月明かりの照らす濡れたアスファルトに組み伏せられた男は、抵抗の意志を眼に宿して追手の顔を睨みつけた。
手拭いで頭をすっぽりと覆い、顔を白い面で隠した奇怪な連中だった。
「……どこにやった?」
忌々し気なしゃがれ声に、しかし男は答えない。
白面達の拳が男を襲う。
「……どこにやった?」
再び同じ問答。結果は変わらない。
口を割らせる為の暴行。血反吐を吐き、骨が砕ける音を聞く。
されど、男の眼に宿った反抗の光は決して失われる事はなかった。
幾度繰り返しても埒が明かない。
死に体の男を見て、追手達は苦々しい顔を露わにした。
今、この男を殺す訳にはいかない。この男が盗み出した物が無ければ、自分達の目的を達成できないのだ。
捕えた際に調べたが、男は目的物を有していなかった。
どこに隠したのか。それを知るまで、この男には生きていてもらわねばならない。
「……そこで何をしている?」
血生臭い現場には不釣り合いな、透き通るような女の声が夜道に響いた。
倒れ伏し朦朧とした意識の中、声の方向を見上げる男。追手達も振り返る。
そこにいたのは、黄色いレインコートを着た女の姿だった。月明かりに映える美貌。白面の男を前に眉一つ動かす気配がない。
追手の口角が面の奥で吊り上がった。
目配せをするや否や、追手達は鉈を手に女を取り囲む。
「……この女を殺す。それが嫌ならばアレの場所を吐け」
女を取り囲む追手達。無辜の女を人質にとれば、男も口を割るだろうとの算段だったが。
「犯すなら犯せ。殺すなら殺せ。お前達の手にアレが戻れば、遅かれ早かれそいつも生きてはいけなくなる」
「……正気か? 無関係の女がお前の為に死ぬのだぞ?」
「俺も馬鹿じゃない。ここで俺がお前らの条件を飲んだ所で、最終的に目撃者は全員消すつもりなんだろ?」
「……お見通しという訳か。だが、口では強がっていても心まではどうかな。果たしてこの女が目の前で物言わぬ肉塊なる現実に耐えられるかどうか……そう言う訳だ、女。残念ながら我々を見た以上お前を生かして帰す訳にはいかない。恨むならこの男を恨むのだな」
男にはどうしようもできなかった。そもそも動きたくとも痛みで体が動かない。
だからせめて。自分の我儘を貫く責任として、不運な女の最後だけは瞼に焼き付けなければならない。
失われて行く血潮と共に霞む視界を無理やり見開く。
鈍色の鉈が振りかぶられ……銀閃と共に首が宙を舞った。
冷え冷えとした空気を、太陽が温め始めた早朝。
堅洲町の女子高生、宮辺響は友人達と共に星の智慧派教会に集まっていた。
借金返済と見習い魔術師として修業を兼ねた、怪しげなアルバイト。それをここの牧師から紹介されるのも何度目か。
仕事内容は一通り牧師から聞き終えていた。今は資料を頭の中に叩き込んでいる最中である。
最も、事前に資料を読み込んでおこうなどという殊勝な心構えの持ち主は、肩を寄せて覗き込んで来る鮮やかな金髪と青眼の少女、滋野妃だけだった。
来栖遼についてはまだいい。緑の瞳にくすんだ金髪のこの少女は調子の悪くなったラジオを弄っているが、これは牧師直々に頼まれたものである。何より、アルバイトの開始までには治せそうだと言っているのだから、多少の寄り道は認めるべきだろう。
問題なのは加藤環の方だった。響と同い年にも関わらず、小学校低学年にしか見えないこの少女は、牧師の使い魔である黒猫のオスカーと戯れていた。
何とも不真面目に思えたが、かと言ってそれを口に出すのもどうかと響は考え直す。
そもそもこの孤児の少女は純然たる堅洲育ち。それも魔術師やオカルティストが頻繁に厄介事を持ち込んでくるこの教会で育ったのだ。
まだ堅洲で生活するようになって一年も経っていない響と違って心に余裕があっても不思議ではなかろう。
「すみません、響さん。ちょっといいですか?」
電話に呼び出され、奥の部屋に引っ込んでいた牧師が戻ってくる。
柔和そうな顔の年齢不詳の青年だ。
いつも穏やかな笑みを浮かべているが、今の彼の顔には困ったような表情が見て取れた。
「なんだ、クソ牧師」
「ちょっと緊急の用事ができまして。もう一つの教会の方から力を貸して欲しいと」
「宗派が違うけどいいのか? もう一つの教会って、カトリックの方だろ?」
「今更ですよ。宗派はおろか宗教すら違う方々の集会所ですよ、この教会は」
「あ~……確かに。で、私達にも手伝ってほしいって訳か?」
牧師は首を横に振る。
「今の貴女方が関わるのは危険な仕事です。そうではなくて、伝言を頼みたいのですよ」
「伝言だあ?」
「もうそろそろ、この教会を訪ねてくる方がいるのです。私が戻るまで、教会で寛いでいて欲しいと伝えて下さい」
「了解」
「それでは、行ってきます。オスカー、行きますよ」
黒い子猫がにゃあと鳴き、牧師の肩へと飛び乗った。
「せんせー、オスカー、がんばってね~!」
環の見送りに笑顔で答え、牧師は慌ただしく教会の外へと去っていった。
「グッモーニン! おはよ~タマちゃん!」
「ハ~ッハッハッハ! 今日もいい天気だな、ブラザー!」
扉を開けて入るな否や、静かな教会内に賑やかさを振りまく二人の来訪者。
牧師の言う尋ね人が来たのだろうと、資料を読み込んでいた響達は顔を上げる。
顔を見れば流暢な日本語から想像したのとは違う、異郷の人物。
その内の一人に、響は見覚えがあった。
健康的な褐色に眩いばかりの笑顔を浮かべているエキゾチックな美女。
直接出会った事はなかったが、見慣れた顔だ。
魔術の師である魔女、ロビン行きつけの古書店。そこに飾られた写真に写っていた女性である。
確か名前はティナ・アーチャーだったか。ロビンと古書店の店長である王飛龍、そしてまだ見ぬもう一人と共にミスカトニック大学の四馬鹿として名を馳せていた女性であった。
「ティナちゃんおはよ~……あれれ? ティナちゃんのおとーさんは?」
「それが急用ができちゃってさ~。うちの教会がある場所って色んな意味で治安が悪いでしょ? その対処に追われているんだよね~」
「そこで私が代わりに来たという訳だ、環君」
「そ~なんだ~……モンドさんは忙しくないの?」
「ハ~ッハッハッハ! 中々痛い所を突くな、お嬢さん!」
楽し気に笑うスキンヘッドの大男。環がモンドと呼んだこの男を、響はついまじまじと見てしまう。
黒い。圧倒的に黒い。まるで闇そのものを凝縮したかのような肌の黒さだ。彼が身に着けた黒衣ですら、これほどの黒さではないだろう。
堅洲町には……鯖江道には国から溢れた様々な人種の魔術師達が集って暮らしている。
牧師からのアルバイトで知り合った魔術師の中には黒人も少なくなかった。
だが、残念な性格のはぐれ魔術師連中達とは言え、彼らにはしかと共通点があった。
明暗の差はあれ、その黒い肌には奥に赤い血潮が流れている事を感じさせる生の温かみがあった。
ところが、目の前のモンドとか言うこの男からはその温かみをまるで感じない。
果たして人間が……否、生物がしていていい黒さなのだろうか。
もしやこの男、黒人ではなく別のナニカなのかもしれないと思える程度に、モンドの黒さは異様であった。
「おや、どうしたね見知らぬお嬢さん? 私の超絶イケメンフェイスに惚れたかね?」
「あー、いや。アンタがクソ牧師……西浄の言っていた客人か?」
「その通りだお嬢さん。私はレイモンド・フランシス。アメ~リカの教会で牧師をしている。環君みたいにモンドとでも呼んでくれたまえ。して、ブラザー西浄は今何処?」
「その事なんだがな」
軽い自己紹介を含めて、響達は牧師が急用で出かけた事を説明した。
「ふ~む……まあ、この地も人ならざる者が多いからね。了承了承。それではブラザーのお言葉に甘えてのんびりするとしよう。ティナ君はどうするね?」
「じゃあブラザー、私はロビンの所に顔を出してきますね。何かあったら連絡して下さいな」
「うむうむ。旧友と存分に語らってきたまえ。私が持たせた土産も忘れずにな」
「了解です。それじゃタマちゃん、また後でね~」
そう言って、大きな手提げ鞄を手にした褐色の美女は教会の外へと出ていった。
「さて、と。私はどうしたものかな。手持無沙汰也……ところで環君達は何を見ているのかね? そんなに肩を寄せ合って」
「ちずだよ」
「地図?」
「はい、下水道の地図ですわ。今日のアルバイトに必要でして」
「下水道? ペットの鰐でも逃げ込んだのかね?」
今回響達が引き受けたアルバイト。それは、下水道内に現れる謎の人影の正体を追う事であった。
ここ数日、下水道のメンテナンスに訪れていた技術スタッフ達が怪しい人影に遭遇したらしい。
人間を歪めたかのような体格の怪しい影。怪異と言えば怪異だが、この人影、急に現れては姿を消すだけで、何か危害を加えてくるような事は無かったそうな。
とは言え、不気味と言えば不気味な訳で、出来る事なら解決して欲しいと星の智慧派教会に依頼があったのである。
「奇妙な人影か……他にも何か、情報は無かったのかね」
「あ~……何だか微かな虹色の光を纏っているように見えたって言ってたな」
「何か心当たりは有るのかね?」
「ん~……」
虹色。下水道。響にも思い当たるものが無い訳ではない。
この下水道、かつて知性の芽生えたショゴス達が勝手に住み着いていた場所であった。
あの時のショゴス達は人の姿に化けていたが、本来のショゴスが玉虫色に光るという事を響は文献で知っている。
だが、件のショゴス達は現在、ロビンの所属している魔女の秘密結社である車輪党にて働いているはずだ。
彼女達からは下水道に同胞が取り残されているとは聞いていない。
野良ショゴスの可能性も考えたが、知性の備わっていない野生種が正体ならば、下水道にやってきた技術スタッフ達の命は失われていたはずである。
そう考えてみると、はぐれショゴスが下水道に住み着いている可能性は無に等しかった。
「ふ~む……中々に興味深い。響君」
「なんだ、モンド?」
「私も同行して構わんかね? なに、報酬はいらんさ」
「は?」
「一人きりで教会に籠っていても退屈なのだよ。それに、これでも私は星の智慧派教会の牧師。ティナ君や環君のように魔女ではないが、魔術の心得も多少はある。邪魔にはならんと思うよ?」
暗黒の男は不釣り合いなまでに白い歯を見せて笑っていた。
「それじゃあ詳しく話を聞かせてもらおうか、神保さん」
たった一人の病室に尋ねてきたその男は、看護師の気配が感じられないと見るやベットの上で休息していた男……神保に率直に質問してきた。
神保は包帯で体を覆われた体をどうにか起こす。酷く痛みを感じるものの、それが自分が生きているという現実を教えてくれるのならば、嫌悪すべきではないのかもしれない。
「森田、とか言ったか。一応言っとくがな。事の始まりに関しては俺も詳しくないんだ。俺があの事件に関わってから今に至るまでの情報しか出せんが、それでもいいか?」
森田は静かに頷くと、肩にかけた黄色い鞄から帳面とペン、そしてカセットテープ式のボイスレコーダーを取り出す。
何ともアナクロな、と笑う事は神保にはできなかった。電波は通じず充電もできず……一度でもそんな環境で怪異に遭遇して見れば、アナログ機器のありがたみが嫌という程分かるだろう。
神保は思い出す事を拒否しそうになる頭脳を抵抗をねじ伏せながら、今回の悍ましい事件の顛末を語りだした。
イヌナキ村。世間にその名が知られるようになって大分経つ。
日本の法が通用しない、異質な文化の担い手達が暮らす森の中の村。訪れた者は生きて出る事ができない村と噂されていた。
排他的な村人達に殺されるのだとか、森に潜む目に見えない化け物に襲われるのだとか、様々な噂が独り歩きしている。
その村を見つけるには犬を同行させればいいらしい。村の方向に向かって犬が鳴き喚くから、あるいはその領域に踏み込んだ犬が泡を吹いて亡くなるからイヌナキ村という……そんな話だ。
よくあるオカルト話のはずだった。それが実在するという事実を神保が知ったのは、一月程前に送られてきたメールによるものだった。
送り主は松尾という腐れ縁の男。彼を含む財団職員達が複数の女性の不可解な失踪事件を追う最中、迷い込んだ場所がそのイヌナキ村だったのだ。
松尾からのメールには備品の補充ついでに手を貸して欲しいと書かれており、神保は二つ返事で指定された場所へと赴いた。
足を踏み入れた森の中は鬱蒼としており昼間だというのに薄暗い。目に見えない化け物がいるという噂話を軽々しく信じた訳ではなかったのだが、それでも神保には何かに見られているような感覚が付きまとっているように感じた。
やがて開けた場所に出る。『ゐぬなき』と粗雑に書かれた立て札の先、茅葺屋根の屋敷が立ち並ぶ村へと辿り着いたのだ。
うらぶれた集落を予想していた神保にとっては意外であったが、連なる大きな屋敷の数々は古々しさこそ感じるものの、決して寂れた印象を受けなかった。紛れもなく感じる、生の気配に神保も拍子抜けしたものだ。
松尾達は住人が不在の屋敷の一つを借りて滞在していた。意外な事に、村にはしかと電気が通っていたようで、電子機器の充電に関しても頭を悩ませる事は無かった。
とは言え、不便な事も無いでは無い。この村はどういう訳か電波が通じない。その為、松尾が神保にメールを送る際には村を出て森の外まで足を運ばなければならなかったらしい。
この村で使われていた古い型の電話は村内にしか繋がらない。唯一、松尾達の寝泊まりしている屋敷には外に繋がる黒電話があったのだが、村人達がさして外部との連絡を必要としていなかった為か、大分前から電話線が切れたままで放置されている始末。神保に割り当てられた部屋でも、デジタル化に伴って無用の長物と化したブラウン管型のテレビが埃を被っていた。
村人達は噂話で聞いたように排他的という訳ではなかった。少なくとも、松尾達が空き家を借りるのを拒否したり、情報の収集や行方不明者の探索を邪魔したりはしなかった。
何より、村外れにある多々良家には近づかない方がいいと常々忠告してくるあたり、余所者である財団職員達を心配してくれている様子ですらあった。
イヌナキ村が地図に載っていない事に関しては当の村人達も不思議がっている様子であった。ただ、それには多々良家が関わっているらしい事に関しては彼らも察する事ができたようだ。
国のお偉いさんと通じている等という信憑性に乏しい噂も流れるくらいには、周辺地域に対する多々良家の影響力には謎が多いのである。
その多々良家が失踪事件に関わっているのではないかと村人達は暗に仄めかす。その上で、できる事なら多々良家とは関わり合いにならない方がいいと口を揃えて言うのであった。
如何に村人達に心配されようと、怪奇事件の解決こそが財団職員の仕事である。村人達も忠告しても無駄だと悟ったらしく、一応の協力はしてくれたらしい。神保が村に着いた時、松尾達は多々良家についての情報をある程度収集できていた。
多々良家の血筋に生まれた子供達の異常さが、僅かな調査だけで次々と明らかになったのだ。
彼らは軒並み齢四つ程になる頃には大人並みの体躯に育つ。知能もまた非常に高く、記録に残された子供は生まれて一年程で漢文を正しく読み上げる事ができたようだ。容姿こそ醜怪であったものの、その比類なき優秀さから、かつては神童として崇められていたらしい。
多々良家の面々については普通の村民と容易く区別がつくようだ。彼らは外出時には手拭いで隈なく頭を覆い、白い面で顔を隠しているのである。
村に残された記録には、獣じみた顔を恥じての事と書かれていたようだが、余りにも徹底している為か今の村人達の中に多々良家の人間の顔を見た者はいないとの事だった。
大らかな村人達と違って多々良家の面々は随分と閉鎖的で、日用品等の買い出しの他には、村外れの屋敷に籠って滅多に外に出てこない。
村に記録が残されているように、かつては産婆等が屋敷に呼ばれた事もあったようだったが、今では外から嫁を娶る以外、外部の人間を受け入れようとはしていないようだ。
多々良家において村人達が特に不思議がっていたのは、彼らの父親についてであった。
金の力によるものか、それとも別の何かなのか。常に外部から一族の嫁を迎える割には、村人達は今日に至るまで父親の姿を見た事がない。
奇妙な容姿だと伝わる神童の噂話から、近親婚でも行っているのかと松尾も考えたようだが、神童達には体格と容姿以外には近親婚の弊害らしきものを認める事はできなかった。
一族の……神童達の誰かが妻を娶ったという話も聞かない。彼らは一生を独身で過ごすらしい。
しかも神童達は気が付いたら何時の間にかいなくなっている事が普通であった。多々良家からは妻を含め外から来た人間の仏は出るのだが、神童に関しては墓一つ見つかっていない。
奇妙な多々良家。しかし、こんな奇怪な一族に対して、村人達は不思議がりながらも決して排除しようとはしないのだ。
何でも、多々良家と村人達との間には一種の契約が結ばれているらしい。
はるか昔、多々良家がこの隠れ里に住みついた時の事だった。何時の間にやら森に奇妙な怪異が棲み付くようになったらしい。人さえも食らうそれに恐れをなした村人達は、村一番の識者である神童の知恵を借りようとしたのだ。
神童は困ったような顔で自分達では怪異を追い払う事は出来ないと言いつつも、一つの条件を呑んでくれさえすれば、村人達が怪異に襲われなくなるようにする事は出来ると答えたのである。
その条件とは、犬や狼をこの村に近付けさせないでくれとのものであった。当初は畑が害獣に狙われるようになると渋っていた村人達だったが、見えない怪異が番犬の代わりに畑の作物や村民の安全の守りを引き受けてくれるとの神童の説得に、結局同意した。
犬や狼が村の内外から一掃されて以来、この契約は守られ続けている。神童が約束したように、村人達が怪異に襲われる事も、畑が害獣に荒らされる事もなくなった。
胡散臭い連中ではあるものの、村人達は多々良家が村の守護者だという認識は持ち続けていた。交流こそ殆どないが、それでも彼らが祖先との契約を律儀に守り続けていると思われる以上、この村に犬が棲み付く事は許されない。故にこの村は狗無村なのだ。
神保が村に滞在して二日後の夜。事態が急転した。
松尾達が滞在する屋敷に夜中に飛び込んで来たのは、鉈を手にした血塗れの女だった。
鬼気迫った女の表情に戦慄する一同だったが、女はただ一言、休ませてほしいと語るだけだった。
入浴を済ませ、こびり付いた血を落した女は、用意された寝床で泥のように眠り込む。
整えられたその顔を見て、松尾達は漸く気付く。この女が失踪者の一人である事実に。
朝になって財団職達は警察に連絡すべく、町に帰還する事を提案した。一方で、女をこの様な状況に追いやった何かについても、しっかりと調べる必要がある。
結局、村に残って探索を続行する職員と、警察を呼ぶべく町に向かう職員の二手に分かれる事となった。
神保は松尾と共に村に残ったらしい。
町に向かった面々とは、これが今生の別れとなった。
その日の探索はこれまでとは異なっていた。別に村人達がよそよそしくなったりはしていない。ただ、手拭いで頭を覆った白い面を付けた男達をあちらこちらで見かけたのだ。
村人達も多々良家の面々が騒がしい事には気付いていたものの、それを詳しく詮索しようとはしなかった。
日が落ちて、屋敷に戻った神保達を迎えたのは赤黒さを想起させる錆び付いた匂い。
浴室にて、昨日助けた女が死んでいた。台所から持ち出した包丁で手首を掻き切ったらしい。
自殺のようにも思えるが、奇妙な事に、死体の腹には何度も包丁を突き刺した跡があった。
一同は事件現場を出来る限り記録し、女の屍を寝室に移した。
寝室には書置きが残されていた。見知らぬ包みと共に置かれたそれは、女の遺書のようだった。
ざわつく気持ちを抑えつつ、一同は書置きを検める。そこには、失踪事件の詳細が記されていた。
多々良家は『くなどさま』という奇怪な存在を神として信仰していたようである。
『くなどさま』は虹の光と共に現れ、多々良家に嫁入りした人間と契りを結ぶらしい。
神童とは言い得て妙な話であった。多々良家の一族は、『くなどさま』との間に生まれた神の子であるのだ。
では、何の為にこの奇妙な交配を繰り返してきたのだろうか。現世での繫栄か、それとも単なる信仰心か。
多々良家の現当主が女に語った真実は悍ましいものであった。人間に成り代わり、『くなどさま』の一族が地球の支配者となるという神の預言の実現。それこそが彼らの目的であったのだ。
とは言え、今の勢力では支配者に成り代わるのは夢のまた夢。幸い彼らには寿命の概念が無かった。故に、自分達が立ち上がるその時が告げられるまで、可能な限り同胞を増やさねばならない。
彼らは齢を重ねれば重ねる程、父親たる『くなどさま』の姿に近付き、人間としての姿を保てなくなる。
中には、『くなどさま』の血が強すぎて初めから人を外れた姿で生まれる者も少なからずいるようだ。
人の姿を大きく外れた彼らは、人目の付かない森の中で密かに育てられる。
異界の理で構成された彼らの肉体は、人間では確認する事ができない。
見えざる怪物の正体は、先祖返りした神童達の成れの果てであった。
自殺した彼女も、『くなどさま』と契ったらしい。
胎に宿った異界の種は、この世に生れ落ちていないのにも拘らず、女の意識を支配しようと干渉してきたらしい。
こんなモノを世に解き放ってはならない。そう決心した彼女は、神との情事で息も絶え絶えだった他の失踪者達の腹と頭をかち割り、見張りをしていた数名の神童を殺害して多々良の屋敷を逃げ出したのである。
彼女は自分が狂っていたのならどれだけ幸せだったかと書き記していた。自ら手にかけた神童達の遺体が、奇怪な粘液状に変わり、やがて気化して消滅するその様を幾度となく目にしたという。
彼女は初めから胎の子と共に死ぬつもりであった。しかし、このままでは自分が死んでも新たな犠牲者が出るだけだと理解していた彼女は、多々良の屋敷から『くなどさま』を呼び寄せる為の儀式に必要な呪物を盗み出してきたのである。
この呪物をどうにかして処分してほしい。遺書の最後にはそう記されていた。
遺書を読み終えた後、神保達は包みを解いてみた。そこにあったのは、遮光器型土偶を思わせる奇怪な小像だった。
手に取ってみると、思っていた以上に軽い。軽く小突くと高い音がする。それ程頑丈そうには見えないが、試しに金槌で叩いても傷一つつかない。
どうしたものかと唸っていると、屋敷の外から声を掛けられた。
神保は玄関に赴いて、息を飲む。
そこにいたのは手拭いで頭を覆った白い面の男であった。
身構える神保に対し、白面の男は「どうかしましたか?」とくぐもった声で問う。声の感じでは敵意らしきものを感じられなかったが、面の奥の表情は果たして。
何か用かとの神保の質問に、白面の男は落とし物を届けに来たのだと言って、風呂敷包みを差し出してきた。
手渡された包み。大きさは西瓜ほどであろうか。ずっしりとしたそれを神保に預けると、男はそのまま立ち去っていく。
皆が集まる寝室に戻り、来訪者に渡された包みを開く。
背に氷柱を押し込まれた感覚だった。風呂敷包みの中。綺麗に整えられたそれは、血の気を完全に失った生首だった。そしてその顔は、警察を呼びに森へと消えた財団員のモノで……。
それを合図として多々良家の襲撃が始まった。屋敷内に踏み込んで来たのは複数の白面達。鉈や斧、鎌等を手に、神保達を追い掛け回す。
最初の奇襲を全員が無傷で切り抜けられたのは奇跡と言ってもよかった。神保達は神像を手に無我夢中で森の中へと逃げ込んだ。
否、追い込まれたのだ。共に逃げていた財団職員の一人の肉体が、途端に千切り取られた。目には何も映らないが、確かに感じる視線と息遣い。
女の遺書に書かれていたではないか。『くなどさま』に姿が近付いた神童達が、森の中に生息しているのだと。
一人、また一人と財団職員が食われていく。
神保と共に最後まで残っていた松尾も、追って来た白面達に襲われ重傷を負いながら、彼らを先導していた当主らしき人物を道連れに崖の下へと消えて行った。松尾との揉み合いで露わになった当主の顔は今でも夢に出る。醜悪な山羊を思わせる地獄めいた顔。
残された神保は如何にか森を抜け出たが、白面達の追撃は止まなかった。彼らも当主を失った以上は後には引けないのだろう。県を跨いでの大捕り物はしかし、ここ如月市堅洲町にて終わりを迎えた。思ってもいなかった程、あっさりと。
神像を下水道に投げ込んだ後、捕らわれた神保。その口を割らせる為に、白面達は通りすがりの女性を人質にとったのだが。まさかそれが破滅の引き金となるとは彼らも想像できなかっただろう。
月夜に輝く二本の刀。何処からともなくそれを取り出した女は、瞬く間に白面を切り伏せてしまったのだ。呆気にとられた表情の首と、倒れ伏した胴体が、溶けて粘液状に変わり、やがて気化していく様を見ながら、神保の意識はそこで途切れた。
「で、目を覚ましたらこの病院って訳だ。看護師に聞いたらその女が俺をここに運んできたらしい」
「何者だ?」
「さあな。看護師達は武藤の姉姫様と呼んでいたが。何でもこの町の守手らしい。多々良の連中に襲われた経緯を話した上で医者に詳しく聞こうとしたんだが、人の世で生きていきたいならこういった事には深入りするなと釘を刺された。それ以降は事件に関してだんまりさ」
何とも不思議な話であった。
堅洲に関してはネット上でも色んな噂が飛び交っているが、狗無村同様に単なる噂ではない、という事らしい。
「とりあえず、あんたが投棄した神像を回収する必要があるな」
「俺が案内するか? 無茶すりゃ何とか動けそうだが」
「あんたはここで休んでいろ。うちはただでさえ人手不足なんでな。折角拾った命だ。その経験は財団職員として今後に生かしてもらうさ」
「狗無村に関してはどうする?」
「今は放っておくより他はない。だが、そんなに慌てる必要も無いだろう。奴らが地上の制圧に乗り出すには個体数が足りていないのだろう? 『くなどさま』とやらを呼び寄せるのに必要な神像がこの地にある以上、奴らは大きく動けんよ。それに、試したい事もある」
「何だ、その試したい事って」
「奇妙に思わないか? 何で多々良家の連中は狗無村からではなく、わざわざ世間に注目される危険性を冒してまで近隣の町で女を攫う? 多々良家の悪い噂を外部の者に教えるような村人達を、何故奴らは放っておいた? 人間の方が数で有利な現状、奴らは目的を達成するまで手の内を晒したくないはずだ。閉鎖的な村の中で事を済ませば我々だって気付けなかっただろう。それなのに何故?」
「……契約か」
「そうだ。奴らは犬や狼を駆逐する事を引き換えに、森の怪異が村人達の安全を守るように契約したとある。森の怪異の正体ってのは要するに神童……多々良家の一族って事だ。契約を交わした以上、奴らは村人達には危害を加えられんのだ。ここに奴らに対処する為の光明がある」
「リスクを負ってまで村から犬を駆逐させた……要するに、奴らは犬を恐れているのか?」
「可能性は高い」
「森の奴ら、見えはしなかったが結構でかい感じだったぞ? 犬なんかで本当にどうにかなるのか」
「人とて蜂の一刺しで死ぬ事もあるだろ。異界の遺伝子を受け継いだ奴らだ。理不尽な弱点だって持っているだろうさ」
病院を後にした森田は鯖江道を歩いていた。
奇妙な町だ。裏の世界では名の知れたカルト組織や、壊滅したはずの秘密結社、名も知れぬ新興団体の面々が、素性を隠しもせずに堂々と大通りを練り歩いている。
こういった組織は普段、地下に隠れているか、あるいは一般人を装う者なのだが……流石にローブ姿で談笑するオカルティスト達を目にしたときは我が目を疑ったものであった。
何より。ここのオカルティスト達は、これまで森田が怪奇事件の中で遭遇してきた連中とは明確に違っていた。人類史の裏に隠された知識を手にしたオカルティスト連中は往々にして他者を見下しがちだ。加えて、同じ組織に属する者以外には排他的。これが普通なのだが。
「は~い鯖江道にお越しの皆々様! 今日も元気な漁師の味方、ダゴン秘密教団でございます! 地元の皆様ご愛用のコンビニ、オキシュリマートとのコラボレーション第七弾! ノンモくん鯛焼きの試食会を行っております! さあさ、皆様ご賞味あれ! そして忌憚なき意見をよろしくお願いいたします!」
魚のパーカーを纏った少年を模した二頭身の着ぐるみと、魚と猫のキメラのような不気味な着ぐるみを引き連れた魚面の男が、コンビニの駐車場から満面の笑みで呼びかけている。
ワイワイと談笑し合いながら、コンビニ前で新作スイーツに舌鼓を打ち、こんなフレーバーも欲しいだとかもっと甘さが欲しいだとか協議し始めた。
恐らく所属はバラバラなはずだ。にも拘らず、ここのカルト信者達は級友に話しかけるが如く気軽に他教徒達と交流している。これは悪夢か。緩い。あまりにも緩すぎる。
頭の痛くなりそうな現場をからさっさと移動しつつ、森田は携帯電話にて財団の本部へと神保が遭遇した事件の顛末をメールで送り始めた。
W財団。森田が所属しているこの組織は、人間の世界を怪異から守る為にアメリカで創設された秘密結社である。
かつて、欧州の人間達は魔導書や魔術師をヒステリックなまでに火の中へと放り込んでいった。
未知への恐怖がそうさせたのだろう。恐ろしい、悍ましい、こんなモノがあってはならない。怪異への拒絶が、奴らの痕跡を消し去ろうという行動に現れた結果だった。
だが、その行為は結果的に未来に生きる者に対しての損失となった。
彼らの火にくべた物の中には、人が怪異に対抗する為の知識と経験が少なからず含まれていたはずだ。
如何に目を伏せ耳を塞いだところで、怪異の存在は無かった事にはならない。にも関わらず、人類は怪異から目を背け、このような愚行を重ねてきたのである。
加えて未知を解き明かすはずの科学が、非科学的という言葉で魔術に背を向けた結果、裏の世界で進歩し続けた魔術に対して、人類は脆弱になっていった。
人間が今以降も地球の支配者としてあり続ける為には、怪異から目背けてはならない。しかと対峙し、乗り越えねばならないのだ。
怪異に対抗するには多くの場合、魔術を知らなければならない。たとえ自分が魔術を使用できなくとも、相手の魔術を邪魔する事ができれば、怪異の侵攻という致命的な状況を回避できるのである。
故に、財団は世界中を飛び回り、残された魔術知識の収集に力を入れてきた。ミスカトニック大学とも協力し、魔導書の知識もある程度蓄える事ができた。それでもまだ足りないのだ。
魔導書も人間が書き記したものである以上、誤りがあるのはどうしても避けられない。かの有名な『ネクロノミコン』ですら、財団にて実在が確認されているショゴスを妄想の産物と書き記している始末である。
故に、怪異に遭遇した上で生き残れた財団職員は貴重なのだ。理解ができない現象だろうと何だろうと、彼らの証言は紛れもない真実を語ってくれるのだから。
まずは神保との会話で得られた情報から導き出された答えが正しいか否かを確かめる必要がある。近々他の財団職員が、イブン = ガズイの粉末を手にして森に赴き、一人きりとなった神童相手に犬を嗾けてみる算段で財団との話は纏った。
連絡を終えた森田は懐中時計を思わせる小さな機械を懐から取り出す。
魔力計。周辺に満ちる魔力を測定する事ができる装置だ。
人間はそのままでは魔力を感じ取る事ができない。生まれながらにその力を備えている者もいないではないが、それは極々少数に止まる。大多数の人間は修行や事故等の何らかの外部的要因があって、初めて魔力を感じ取る能力が備わるのだ。
しかしながら、財団は慢性的な人手不足。怪異によってベテランに犠牲が出るのも珍しくはない。とても全ての職員に修業の為の時間を与えられる程、財団は暇ではない。
魔力を機械装置によって観測する。その案自体は古くから出ていた。だが、過去に前例のない――あるいは教会等によって抹消された可能性のある――技術を一から組み上げるのには、随分と長い試行錯誤が必要だった。
今、森田が手にしているのも試作品の内の一つに過ぎない。最終的には携帯電話のアプリとして、財団職員全ての端末にインストールされる予定なのだが、実現にはまだまだ時間が掛りそうだった。
さて、その魔力計だが。堅洲に入ってから確認すると、魔力の値を指し示す針が、限界まで振り切っていて全く元に戻らない。
最初は故障でもしたのかと思っていたのだが、どうにもそうではないようだ。
神保はこの町に逃げ込んで以来、多々良家の追跡が明らかに鈍ったと話していた。
奴らは神保か神像の魔力を追跡に利用していたのだろうが、ここまで土地の魔力が濃いのならば、人間の発する魔力等紛れてしまって追う事はできまい。
何より、この大通りを堂々と闊歩するオカルティストの数。外部から取り込める魔力がこれほど豊富なら、成程、魔術師にとっては理想の環境になるだろう。下手に争い追い出されるよりは、他の組織と仲良くやって土地に留まった方が得と考える者がいてもそう不思議ではない。
しかし困った。これでは魔力計で神像を追う事ができない。神保から神像を投げ込んだ場所の位置は知らされているが、下水道のどこかに流されている可能性もある。何か目印になるような物でもあればよいのだが。
ドン、と森田の体に衝撃が走った。肩に掛けていた黄色い鞄が地面に落ちる。
「いたた……ごめん、本当にごめん! 急いでて前をよく見てなかったよ」
尻餅を突きながらも、手を合わせて謝るのは見目麗しい褐色肌の女性だった。
何とも流暢な日本語に呆気にとられながら、森田も頭を下げる。
「いや。こちらも不注意だった。道を歩きながら機器を見るもんじゃなかった。俺も気を付けないとダメだな」
「本当にごめんね。それじゃ!」
ペコリと頭を下げたその女性は、見覚えのある黄色い鞄を手にして駆けていった。
もしやひったくり? そう思ったが、よくよく見れば自分の鞄は落ちたまま。偶然にも同じ鞄だったようだ。何とも紛らわしい限りである。
周囲に気を配りながら、再び探索を開始した森田。目標地点までの道すがら、あるものを見つけて渋顔を作る。
それは教会だった。飾り気のない質素な白い建物。だからこそ余計に掲げられた輪頭十字が目立つのだ。
星の智慧派。悪名高さではダゴン秘密教団と並ぶ危険団体の一つであった。
思わず身構えてしまった森田だったが、一息ついて考え直す。
ダゴン秘密教団がコンビニとコラボするような町なのだ。案外、ここの星の智慧派も相応に緩い組織になっているんじゃなかろうか。
そう思おうとした森田だったが、丁度教会から少女達を引き連れて出てきた黒い顔の男に眼を見開く。
入り口前の森田に、黒い男が引き連れた小学生低学年程に見える少女が元気に挨拶していった。
まるで自分を気にした様子もなく、会話を弾ませる少女達。だが、少女達と黒い男が交わす切れ切れの言葉が森田をとらえて離さない。
虹……異変……下水道……もしやあの男、神像を回収しようとしているのか?
それだけは避けなければならない。日本が過去にあの男が起した事件の二の舞になるのだけはどうしても避けなければ!
「ふ~む……ふむふむ……ふむりふむり」
薄暗い下水道。汚水の流れる音が反響する中、暗闇よりも黒い男、フランシス牧師はしきりに感心したような声を上げていた。
「……何か気になるのか、モンドさんよ」
「いや、感心してしまってね、響君。下水道と言うからには不潔な場所との先入観があったのだが、思ってた以上に綺麗なものでね」
何とも反応に困る返答だった。こんなことを言い出すからにはこの男、下水道に入った事がある様なのだが……果たして牧師が何の用事で下水道に赴いたのか、響には想像もつかなかった。
しかし、言われてみれば確かに不潔な感じは思ったよりも薄い気がする。
前に下水道に住み着いていたショゴス達と顔を合わせた際には、彼女達の放つ甘い芳香に包まれていて気が付けなかったのだが、今、響が鼻腔に感じるのは湿った感じがする微かな臭気のみ。不快と言えば不快な臭いなのだが、注意深く嗅ぎつけなければ気が付かない程に些細なものだった。
「そう言えば以前、町を流れる川を化学物質で汚染した工場の方々が怪死した事件がありましたわね」
「あー、成程な」
妃の言葉に、響は合点がいく。川に流したはずの汚染物質を体内に押し込まれる形で溺死した工場関係者達の事は、如月市では大々的に取り上げられた事件である。
怪異の発生率が如月市の中でも断トツの堅洲町。ここで暮らす大人達は迷信深くなければやっていけない。川の汚染により町に祟りが降りかかるのではと恐れた結果が、汚水の取り扱いに反映されていたとしてもおかしくはなかった。
響達は祟りによって閉鎖された廃工場で遭遇した怪異について、思い出話に花を咲かしながら下水道を進んでいた。
初めは笑顔のまま普通ではない女子高生達の話を楽しんでいた漆黒の牧師だったが、ある時を境にチラチラと後方を気にするような素振りを見せ始めた。
「モンドさん、どーかしたの?」
「うーむ……気のせいなのかね? 誰かにつけられているような……響君。奇怪な人影というのはどのあたりで目撃されたのかね?」
「……もうちょい先だ」
「つまり、我々の後ろではないと……うむ」
立ち止まった牧師は、背後を支配する闇に向かって黒衣を翻した。
黒い何かが飛び出し、道の角へと姿を消す。次の瞬間だった。
「うおおおおお!?」
聞きなれない声が下水道の中に木霊した。
響達が声に下へと駆け付けると、見知らぬ男が黒豹に組み伏せられていた。
「何だこいつ? モンド、あんたの知り合いか?」
「ふむ。初めて見る顔だが……」
「どちら様ですの?」
妃の問いに、男は目を逸らす。
「きっとドロボーさんだよ!」
「タマちゃん、初対面の人相手にいきなり泥棒呼ばわりは失礼だよ……」
「だってハルちゃん、ほら!」
環は男が落した物らしき黄色い鞄を拾い上げ、遼に見せた。
「これ、ティナちゃんの鞄! きっと今頃、ティナちゃん困ってるよ!」
確かに、環の手にある鞄は教会で先程別れたティナ・アーチャーの鞄に見える。
不審者を見るような女子高生達の目に男が冷や汗をかいていると、突然、頭の中に声が響き渡った。
(ほらほら、どうするね。このままダンマリだと警察の御厄介になってしまうぞ、財団職員君? 私もセイギの使途として、有る事無い事警察に吹き込むやもしれんぞ?)
目を見開いて見上げた先で、闇より黒い顔がニタニタと笑みを浮かべていた。
(こちらからの声は聞こえるか?)
組み伏せられた男……森田が頭の中で問うてみると。
(感度良好。して、W財団のエージェントが何の用かね? 狙いは私なのだろう?)
(当然だ。今度は何をしでかそうとしてやがる、ナイ牧師!)
(おやおや。私も随分と有名になったものだ。こんな年若い青年にまで顔を知られているとはね)
ナイ牧師。それが、レイモンド・フランシスを名乗るこの男の正体であった。
星の智慧派の元代表であるこの男は、一九九九年の世紀末、アメリカのスラム街にて星の彼方から飛来した邪神を召喚しようと目論んだのである。
召喚寸前までいったこの儀式を、W財団はアメリカ軍特殊部隊との共同戦線で何とか阻止する事に成功したのだ。
ただでさえ人手が足りなかったW財団は、この阻止作戦にて多大な犠牲を強いられる事になった。現在でも、その傷は完全に癒えたとは言い難い。
この世紀末の戦いの中で、ナイ牧師も死亡したと思われていたのだが、この極東の地で、財団内で閲覧できる写真データそのままの姿で現れたとなれば、森田が危険視するのも無理はなかった。
(はっはっは。安心したまえ青年。何もするつもりはないさ)
(その言葉を信じろと? アメリカであれだけの事をしておいて?)
(青年。私のモットーはツマラナイ人生にいろどりを、だ。あの事件がアメリカ軍の介入を招いた理由を知っているかね? 中途半端に魔術を齧ったとある退役軍人殿が、偏見から来る正義感からスラムの連中が邪神を呼び寄せようとしていると推測したのが原因だ。残念ながら、その予想は大外れだったがね)
(何だと?)
(スラムで問題を起こしていた連中は確かにカルト組織化していたが、魔術に対する知識はさっぱりだった。仮に彼らが邪神を呼ぼうとしても、呼べなかっただろうよ)
(だが、召喚寸前まで行ったと財団内のデータにはあったぞ?)
(それは私が手を貸したからだよ、青年。スラムの連中が邪神を呼び出す儀式を執り行っているとの憶測を公衆の前で言いふらして散々周囲の不安を煽った挙句、ついには古巣までも引っ張り出したのだ。これで勘違いでしたとあっては軍人殿が羞恥心から身を投げかねないだろう? だから私が悪役を買って出たのだよ。老人の夢を叶えてやる為に。無断だったがね。流石にワンオペはきつかった)
(……そんな下らない理由で邪神を呼び寄せようとしたのか?)
(青年。軍人殿を責めないでやってくれ。彼はただ年老いてなお子供時代の夢を忘れられなかっただけなのだ。英雄になりたいという長年の夢を。軍役時代に戦場での功績を残せなかった彼にとって、邪神と邪教との巣窟を滅ぼし、故郷のアメリカを守るというこの行為は、英雄になる為の人生最後のチャンスだったのだ。君も健全な日本男児なら妄想した覚えがあるだろう? 退屈な授業中、突如学校を占拠したテロリストを相手に無双する自分の姿を……)
おちゃらけたその言葉に、森田は吐き気を覚える程の悍ましさを感じる。ただ、退屈だったから。そんな下らない理由で、この男は世界を危機に陥れたというのか。
精神構造が全く違う。人間とはとても思えない。魔術師ならば魔術によって寿命を延ばし、若さも保てよう。だが、この男がかつての姿そのままでいる事は、そんな生易しい理由ではないのではないか。
(何もするつもりが無いというのなら、何故お前が日本にいる?)
(野暮用だよ。今までは聖書を経典として活動していたのだがね。カトリック問わずプロテスタント問わず信仰に熱心な方々からキリスト教を騙るのは止めろとの苦情が激しくてね。特に本部のあるアメリカ国内での圧力が酷いのなんの。我々がいい歳なのも確かではあるし、そろそろ父上の脛を齧るのを止めて独り立ちすべきかと。そうなると、聖書に代わる新しい経典が必要となるのだが……それを纏める為に世界中の支部を飛び回っていた牧師殿に急用が入ってね。その代打として日本に来たって訳さ)
(……本当に何かを企んでいる訳じゃないんだな?)
(私が企み事をするのは退屈な日常を面白くする為だよ。非日常が日常化しているこの町みたいな場所は、私が手を出すまでもない。いやはや、できれば私も棲み付いて観察したいくらいだよ、この町は。賑やかで楽しかったスラム時代を思い出す。別の私の管轄だから叶わぬ願いではあるのだがね)
森田は何となくではあるが納得した。この暗黒の牧師が言う事は本当なのだろう。これだけの魔力が観測できる場所だ。怪異も相当数引き付けられているに違いあるまい。
(ところで青年。この状況はどうするね。私としては正直に話した方がいいと思うぞ? 私はともかくとして、彼女達は中立だ。我が教会に関わっているのは確かだが、信者ではないから安心したまえ)
(……他にとれる手段もなし、か。分かった分かった。降参だ。早くこの獣をどけてくれ)
「……念話でもしてんのか?」
見つめ合ったまま一言も話そうとしない二人の男に、響はしびれを切らして声を掛けた。
「鋭いね、響君。たった今説得が終わったところだよ。ケルキセラ。彼を放してやりなさい」
黒豹は牧師の言葉に頷いた。
「それほんと~?」
信用と言う美しき人間関係をドブに捨てるかのような環の疑いの目に、森田は冷や汗を流す。
自分が怪しいものではない事、魔術については多少の知識がある事、知り合いが魔術に関する神像を下水に落とした事……これらを少女達に簡潔に述べたのだが。
他の三人は納得してくれたものの、環だけは森田に対しての疑念を手放そうとはしない様子であった。小学生にしか見えない環の疑いに満ちた視線。森田としてはもう少し姿相応に無垢で素直な反応をして欲しい所であったが。
とは言え、環が森田に警戒するのも無理はなかった。森田の手元にある鞄を知り合いの物だと思い込んでいるのである。定期的に教会にやってくるティナとは、幼いころからの付き合いだ。彼女に危害を加えたのではないかという疑惑がある以上、環は森田に心を許したりはしないだろう。
それに。
「本当だ、お嬢さん。確かに君の知人らしき女性とは顔を合わせたが、偶然なんだ。偶然、彼女と同じデザインの鞄を使っていただけなんだ」
「ほんとにほんと~? なにかかくしごとでもしてな~い~?」
「……本当だとも」
強い剣幕に森田はついつい目を逸らす。それがやましさに映るのだと理解しつつも、反射的に身体がそう動く。
森田は嘘は言っていない。だが、真実を全て明かしたわけではなかった。W財団に関する情報や、神像を手にする事となった狗無村での顛末については意図的に伏せたまま。全てを明かしていない……否、秘密事項故に全てを明かせない以上、森田としても負い目を感じるのは仕方のない事だった。
「おいタマ。そんなに怪しいと思うんだったら、鞄の中を見せてもらったらどうだ?」
「そうですわね。ここで問答をしていても埒が明きませんし、鞄の中身を見せてもらえば疑いは晴れるのでは?」
響と妃の提案に、森田は眉を顰める。
鞄の中には狗無村事件以外にも、解決済み、未解決問わず様々な怪奇事件の資料が収められている。そして、それの解決等に用いた魔導書や魔術道具の数々も。
「やっぱりみられたくないんだ~」
躊躇する森田の様子にますます疑念の念が強まる環の視線。
どうしたものかと悩んでいると、脳内に毒々しい声が飛来する。フランシス牧師の念話だった。
(困っているようだね、青年)
(……何のようだ。見ての通り立て込んでる最中だぞ)
(いや何、困っているようなので助け舟を出そうかと思ってね)
(何だと?)
(まあ、財団の活動は表の世界では知られてはならないようだからね。それに、中立であろうと彼女達は魔術師の卵。渡した情報が悪用されかねないと考えれば、君が躊躇するのも最もだ。だが、そんな物を見せずとも身の潔白を証明する物証は収まっているのだろう? 男である君でなければ、その鞄に入れるはずの無い物が)
(……言いたい事は分かったが、女子高生相手に大丈夫かこれ? 後で訴えられないか?)
(まあその時はその時だ。財団の秘密を守る為、不審者としてお縄につきたまえ)
(貴様……!)
牧師との念話を打ち切ると、森田は大きく溜息をついて一言。
「分かった分かったお嬢さん。鞄の中身を全て見せる訳にはいかないが、一つだけ荷物を見せようじゃないか。少なくともお嬢さんの友人の持ち物じゃない事はこれでわかるはずだ。ただ……」
「な~に?」
「……セクハラで訴えないでくれよ」
そう言って、森田は鞄の中に手を突っ込む。万が一にでも少女達に中身を見られないように、僅かに開けた隙間に手を突っ込んで、手先の感触だけで目的の物を探った。
森田が証拠として取り出そうとしているのは、ブリーフ……要するに、男物の下着であった。さすがにこれを見せつけられれば、この鞄がティナの持ち物ではないという事を理解してもらえるはずだ。
しかし。
(ん……? どこ行った? こいつか? それともこいつか?)
どうにも手先の感触だけでは目的の物が見つからない。疑念の視線を受けている焦りもあってか、必死に鞄の中身を漁ると、漸く薄布らしきものが手に触れた。
「あったあった。たぶんこれだ。ほら、こいつを見ればこれが俺の鞄だと……」
引き出された物を見て唖然とする少女達。森田も一緒に絶句する。
今、森田の手に握られていたのは紛れもなく女性の下着で……。
「けーさつけーさつ、おまわりさ~ん。いっちいっちぜーろ、ひゃくとーばん」
「ちょっ! 違う違う! 待って待ってお嬢さん、今の無し今の無し!」
不審者を見る視線は犯罪者を見る目にレベルアップ。無駄にセクシーな知人の下着を展開した森田に環は即座に有罪判決を下し、携帯電話で死神の鎌を呼び出す儀式に取り掛かり始めた。
慌てて森田は鞄を全開にするが、そこに納まっていたのは森田の仕事道具ではなく。僅かばかりの衣類から目を逸らし、確認した鞄の中身は見知らぬ品でいっぱいだった。
『恐怖! ズンビーシャーク-蘇るナチスの超兵器-』なるB級映画のDVD。『ロアとキリスト教』のような民俗学の著書から『海原の狩人達』等の肉食魚類の写真集、『白き薔薇の時代』といった歴史小説含む雑多な書物の数々。そして。
「……ネクロノミコン?」
「ネクロノミコン? マジでか?」
驚いたような表情で響が覗き込んで来る……が、その表紙を確認すると途端に興味が失われたようだった。
「それは私がロビン君に頼まれていた品物だよ。世の中には有名なタイトルにあやかって楽して儲けようとする浅ましい考えの持ち主も多くてね。そんな連中が書き上げた『なんちゃってネクロノミコン』が世の中には数え切れぬほど存在しているのさ」
「ロビンの奴、ネクロノミコンに憧れるあまりとうとうパチモンにまで手を出し始めたか……」
「うむ。何でも『世界のパチモノミコン』なる本を執筆中らしいぞ? 出版が楽しみだ」
ニタニタ笑いながら森田を眺める黒牧師。彼がお墨付きを与えた結果で、いよいよこの鞄がティナの物だという確証が得られた訳で。
警察に連絡しようとする環を何とか宥め、必死に言い訳をする森田の姿を、腹黒牧師は楽し気に眺めるのであった。
必死の説得の末、森田は何とか警察の厄介になる事は避けられた。ティナとぶつかった際に鞄が入れ替わったのだと言う森田の主張を、胡散臭げに聞いていた環だったが。
「ねえタマちゃん。森田さんの言っている事、多分本当だと思うよ?」
助け舟を出してきたのは気弱そうな金髪の少女、遼であった。
「だって、ティナさんと連絡を取って確かめてほしいって言ってたし……泥棒だったら、わざわざそんな事言わないんじゃないかな?」
「確かにな。警察への連絡は必死になって止めてたけど、ティナへの連絡は止めようとしなかったし」
響の言葉に、森田は何度も首を縦に振る。
「ん~……そうなのかな~?」
未だ納得いかない様子の環。多少態度は軟化しだしたようだが、疑念を捨て去るには至らないようだ。
森田としても件の知人とやらに連絡を付けて冤罪を晴らして欲しかったところだが、生憎ティナの携帯電話は現在電波が届かない場所にあるようで。
環の疑念をどうにか晴らさねば、森田は女子高校生の前で女性用の使用済みパンティを広げて見せた不審者としての烙印を押されかねない。財団職員である前に、男として、人として避けなければならぬ案件だった。
結局、ティナと連絡が付くまでの間、鞄を環に預けたらどうかという遼の案を受け入れた事で、首の皮一枚で森田は救われた。とは言え、油断はできない。少しでも怪しいそぶりを見せれば、この小学生みたいな見た目の少女は、辛うじて繋がっているだけの森田の薄皮を容赦なく切り落とそうとするだろう。
探し物を手伝ってほしいという森田の頼みに対しては、少女一同手を貸す事に異論はないようであった。
森田が提示した神像の特徴……虹の光を伴い現れる神を模したモノという情報は、響達に寄せられていた目撃情報と一致している。森田の知人が神像を『無くした』時期も、下水道内で謎の人影が目撃され始めた時期に近い。十中八九、此度の怪異の原因となっているは彼の言う神像なのだろう。ならば、落とした当人に帰す意味でも一緒にいてもらった方が都合が良かった。
森田を不信がっている環としても、ティナからの証言を得るまでは泥棒疑惑のある彼から目を離すつもりはないようだ。これに関しては森田も同意している。そもそも、自分の鞄は環の知人であるあの女性の手元にあるはずなのだ。それを返してもらうまで、彼女達の側を離れる訳にはいかなかった。
「その角を曲がってすぐ……と、どうやらあっていたようだな」
響が視線で指し示す先から何か重量のあるモノが水に落ちる音が聞こえてきた。
下水道の曲がり角の奥。淡い光が漏れている。
一同が角に隠れつつそっと光源を確認してみると。
「……虹色の人影、ですわね」
そこには確かに人影があった……否、人影だけがあった。
大きな頭と異様なまでに広い肩幅。腰のくびれた胴体には、やけに短い手足が付いている。
そんな異様な存在が、流れる下水の上に浮遊しているのである。
「ふむ」
牧師はそう一言呟くと、躊躇なく物陰から出て浮かぶ人影と対峙した。
「お、おい! そんな無防備な……」
森田は警戒心の欠片もなく人影に近付いた牧師を咎めるが。
「……いや、多分大丈夫だ」
自分より年若い少女、響の落ち着いた……というより気が抜けたような声に呆気にとられる。
「ふむふむふむ。実に興味深い。君達も見にきたまえ。早くしないと消えてしまうぞ?」
そんな牧師の言葉に危険性がないと判断したのだろう。物陰から出てきた一同は繁々と浮かぶ人影を眺め始めた。
「抜け殻みたいだな」
「セミさんセミさん!」
「一応は気を付けた方がいいだろうが……」
「まあ、何かあればそこのでかいニャン公が先に気付いてくれるだろ」
「ケルちゃん、よろしくね~」
環になでられ喉を鳴らす黒豹。何とも緊張感がない三人に、妃と遼は疑問を投げかけた。
「響さん、環さん、この人影は一体何ですの?」
「あ、危なくないんだよ、ね?」
その言葉に、三人の魔術師は頷いた。
「こりゃ残滓だ」
「残滓?」
「そ。魔力の残滓。どこか別の世界に通じる門が閉じた際、こういった残滓が残る事があるんだ。それ自体は珍しくないんだがな」
「何とも面白い形をしている。何度も同じ人影が見られたという事は、門の形状が影響しているのかもしれないな」
「……それじゃあ、これって人影とかじゃないの?」
「ん。門が閉じた際の魔力の残滓が偶然人型に見えるだけだな。ほら、さっきよりも人影が薄くなってるだろ? 残留していた魔力が徐々に霧散してるんだ」
「ちょっと待て」
そこまで話を聞いていた森田だが、とある疑問にぶち当たる。割と洒落になっていない疑問が。
「これが魔力の残滓って事はだ。ついさっきまでここに門が通じていったって事にならないか?」
響が頷いた。
「それ不味いだろ! さっき変な音聞こえたよな! 何かが門を通ってこちら側にやってきたって事じゃないか! もし、『くなどさま』がこっちの世界に這い出して来ていたら……!」
「それはない」
はっきりきっぱり、響はそう言った。
「『くなどさま』ってのは神様なんだろ? そう言った高次元の連中を星辰が揃う前に呼び出すにはしっかりとした準備と儀式が必要になるんだよ。クソ親父の受け売りだがな。そもそもだ。如何に魔力で飽和している堅洲だって、そんな神様が降臨したならば放出する魔力の量でヤバい事が起きたって一発で分かるはずだ」
森田は感心した表情で響を見つめる。年若いはずなのに、何という度胸と知識量。森田とて怪奇事件を幾つか解決してきたベテランの財団職員である。二、三の魔術だって身に着けている。そんな彼であっても、人影の本質には全く気付けなかったのだ。如何に見習いとはいえ、これが本職の魔術師と魔術を齧っただけの一般人の差なのだろうか。
「ともあれ、アンタの探し物は残滓の下にあると見ていいが。さて、どうやって回収しようか……?」
響の言葉が途切れる。
森田が彼女の視界の先を追うと、それがいた。
二つの瞳が、下水の中から森田達を眺めている。
影が近付いてくる。先程の様な門の残滓とは明らかに違う、実態を備えた何者かの影が。
牧師が手を上げる。それを合図として、少女達は一歩、後ろに下がった。
黒豹ケルキセラが一同を守るかのように泳いでくる影の前に立ちはだかる。
バチャバチャと音と飛沫を盛大に下水道内に響かせながら、岸まで近づいてくる何か。
やがて、その影がゆっくりと下水の中から体を引き上げる。
その正体は。
「……ワニ?」
鰐だった。いや、鰐っぽい何かというべきか。少なくとも、響達の頭の中にある鰐の印象からは随分とかけ離れている。それでも、これは何かと問われれば、鰐としか答えようのない生物がそこにいた。
体長は八〇糎程。テレビ番組等で紹介されるような鰐の顔と比べて、目の前のソレの顔はスマートさの欠片もなく、だいぶずんぐりしている。
威嚇するでもなく、尻込みする事もなく。唯々興味深そうに一同を眺めていたその鰐は、ノソノソと森田の足下まで近づいてきて。
「うおおおおい! 何人のズボンで体拭いてんだこの爬虫類!」
汚水が身体に付着しているのは不快とばかりに、森田のズボンの裾に濡れた体をこすりつけ始めた。
好奇心に火が付いた妃が、汚れる事も気にせずに鰐を抱き上げ、自前のタオルで鰐を包み込む。
心地良さげに妃の胸の中で大人しくしている謎爬虫類。人懐っこいというよりは、人間に対する危機感が鈍いというべきか。
「本当に下水道で鰐に遭遇するとはねえ」
「ねえねえ。あのワニさんにオトシモノひろってもらったらどうかな?」
「……無理じゃねえか? タマ、お前も見ただろ? アイツの泳ぎ方」
音もなく近づいてくるのが響が抱く鰐の泳ぎ方のイメージなのだが、この鼻ぺちゃ鰐の泳ぎ方は水の中に慣れていないように思える、どうにも不格好なものだった。
体が濡れる事を嫌がる素振りといい、まるで犬か猫のよう。やっぱりこの爬虫類、鰐ではないのかもしれない。
「な~に。初対面の爬虫類君に力を借りるまでもない。この私がどうにかしようではないか」
「モンド、あんたまさか泳ぐ気か?」
「いやいや。丁度いい魔術を知っていてね。水を堰き止める魔術だ。それを用いれば濡れずに済む」
「へえ……」
「では早速……」
モンドが詠唱を始めようとするのを、しかし響が制止する。
「どうかしたかね、響君」
「なあ、その魔術って教われば私でも使えるか?」
その言葉に、牧師は破顔した。
「成程成程。向上心があるのは良い事だ。何、そんなに難しい魔術ではない。早速教えようじゃないか」
「あ、おい……」
森田の制止も聞かず、響は牧師から魔術の指導を受け始めた。
大丈夫なのか。森田の心が猜疑心に支配される。
この男は魔女が崇め奉る『暗黒の男』のような存在だ。この男との契約は悪魔との契約に他ならない。この男から下手に力を得ようとすれば、避けられえぬ破滅がこの少女に降りかかるのではないか。
浅慮とも思える響の行動を止めようとしたのだが、僅かな逡巡がその機会を過去のものへと変えてしまった。
耳慣れぬ異界の言霊が響の唇から紡がれ始める。難しい魔術ではないという牧師の言葉は本当のようだった。ほんの僅かな時間の内に、牧師は響に魔術を伝授し終えたのである。
下水の流れが堰き止められる。押し寄せる汚水の波が、壁のようにその場に留まっていた。不思議な事に、堰き止められた後から押し寄せる汚水は周囲に溢れる様子が見られない。
「お~! すごいすご~い!」
「うむうむ。中々の腕前だ。しかし、まだまだ粗削り。伝授した者としては、いずれは摩西越えを果たしてもらいたいものだな」
堰き止められた汚水の先、水位が下がって道ができ……そこに森田が探し求めていた物が転がっていた。
遠めに見ても分かる虹色の輝き。どうにも周囲から魔力を補充している最中であるようだ。
この神像を放っておけば、再び門が開くだろう。その時、『くなどさま』ではないにしても何らかの存在がこの下水道に迷い込みかねない。そしてそれが、今、妃の胸元で心地良さげに目を細めている謎爬虫類の様に無害な存在であるとは限らないのだ。
「さてさて。頃合いかね。ケルキセラ、あの神像を取ってきて……」
「い~やいやいや。干上がったとは言っても汚水は残っているだろう。ほら見ろそこかしこの水溜まり。お前だって猫科の生き物、濡れるのは嫌だよな、そうだよな、そうに決まっている!」
そう捲し立てながら迫りくる森田に、黒豹は若干に引いている様子であった。勢いに押されてケルキセラが頷くと、森田はようやく落ち着いたようだ。
「我が眷属に優しい事だね」
「可愛いにゃんこだ、大切にしてやれよ? それにあれは俺の知り合いが落した物だ。もうズボンの裾もびちゃびちゃだし、汚水に濡れるのは俺だけでいい」
「では、お言葉に甘えさせてもらおうか。なあ、ケルキセラ」
牧師の動きを制した森田は、そのまま干上がった下水道に身を躍らせた。
使いようによっては神をも呼び出せる呪具である。そんな物があの牧師の手に渡れば、きっと碌な事にならないに違いない。例え自分の下に返却されても、何らかの仕掛けを施されかねない以上、あの牧師には指一本すら神像に触れさせたくない森田であった。
輝く神像を手に取った。どことなく、遮光器型土偶を思わせる奇怪な像。神保の報告にあった通りの品物だ。
神像を腕に抱き、少女達の方向に振り返ってみると。響の顔色が蒼白くなっていた。息も絶え絶えで、呪文を紡ぐ声も弱々しい。
(貴様、その娘に何をした!)
睨みつけるように叩きつけた思念を、牧師は冷静に受け取った。
(いやあ、この魔術って習得は簡単だけどね。堰き止められる水量は魔術師の魔力に依存するんだよ。これだけの水量を長時間堰き止めるのは、魔術師見習いの響君には厳しいみたいだねえ)
(は?)
(響君はもうそろそろ魔力切れになりそうだって事だよ。して青年。君の側にある壁は一体何で出来ていると思うかね)
森田の側には汚水で出来た壁がそそり立つ。それが徐々に、自分の方に迫って来ていて……。
ニヤニヤと笑う牧師。自分が像を取りに行くとの提案にやけに聞き分けが良かった理由。魔力で堰き止められた水の壁。響の魔力はもう限界。そこから導き出せる答えとは。
(テメエエエッ! 謀ったなアアアッ!)
響の心配をしていたら、破滅の矛先が向かっていたのはまさかの自分。元の流れに戻ろうと迫る汚水の勢いに巻き込まれぬよう、森田は下水道を全速力で駆け抜けるのだった。
切れ長の青い瞳が繁々と神像を見つめている。感触を調べるかのように表面に指を這わせ、頷いた。
カァーンと、振り下ろされた金槌を弾く音。
傷一つない神像ではあったが、変化は目に見えて現れた。
内包されていた魔力が虹色の残滓となって空気中に霧散する。
後に残るのは輝きを失った物言わぬ神像だけであった。
「思った通りですね。これが像のスイッチを切り替える方法で合っていたようです」
金髪の眩しい白人の青年が満足そうな様子で神像を森田に手渡した。
ともすれば威圧感を感じかねない、抜き身のナイフを思わせる鋭い容姿の青年だが、紡がれる言の葉はどこまでも穏やかだ。
彼の名はギルバート・ストーン。この町でJICなる魔術結社の代表を務める魔術師である。
JICとは魔術に関わる物品の補完と使用方法の確立を目的として立ち上げられた組織らしい。
俗にアーティファクトと呼ばれる呪具の中でも、特に危険性の高い品を回収、研究しているのだそうだ。
これらの呪具は危険極まりない一方、他の呪具では替えの効かない魔力を秘める物が多い。
使いようによっては一介の魔術師では対処できないような怪奇事件を解決に導く事も可能となるのだ。
堅洲町に降りかかる怪異が原因の様々な脅威。いざという時の為に打てる手段は多い方がいい。そのような考えから、JICは冬に備える蟻の如く、失踪した魔術師等が町内に残した遺物を集めて回っているのであった。
「本当に機能が停止した……説明書も何もないのによく分かったな」
「まあ、この手の呪具の扱いには慣れてますからね。ほら、この像、頭のこの部分が微かに凹んでいるでしょう? 同じ場所に何度も衝撃を与えて出来た痕跡です。他の部分は綺麗なままでしたから、オンオフはここで切り替えられるんじゃないかと推測したのですが、当たりでしたね」
森田が神像の指定された部分を指でなぞってみる。本当に微かな凹みが確認できただけだった。指摘されなければ気付く事など出来なかったに違いない程の、些細な凹み。
「うまくいったみたいですね。ストーンさんに任せて間違いはありませんでした」
西浄牧師の言葉に、ギルバートは照れくさそうに微笑む。
神像を取り戻したものの、起動状態のままで輝き続けるソレに森田が頭を悩ませていたところ、用事を済ませて教会に戻っていた西浄牧師がギルバートに連絡を取ってくれたのであった。
ギルバートはさして長くはない時間神像を調べただけで、その使い方をある程度割り出してしまった。
それらを几帳面にメモに手書きし、包み込んだ呪具の魔力を遮断するという包み布と共に森田に手渡すギルバート。呪具の扱いに困ったならば相談して欲しいと、連絡先まで完備する万全のアフターケアであった。
「そっちは一件落着ってか? ほれ、お前らも食え食え」
会話が終わったのを見計らってか、響が皿を持って森田達の間に割り込んで来る。
下水道を抜け出した際には魔力切れ寸前で、生まれたての小鹿の如くプルプルと震えていたというのに何という回復の早さ。森田の経験上、あの消耗具合なら普通、ニ、三日は寝込んでいても不思議はないはずである。周囲から取り込める魔力量が多い堅洲ならではの光景といったところか。
そんな響が差し出してきた皿の上には、今が旬の梨が切り分けられていた。
ギルバートに倣って森田が梨を一切れ口に放り込むと、疲れた体に瑞々しい甘さが染み渡った。
「お疲れ様です響さん。仕事は無事終了したようですね」
「まだ問題が残ってるぞ、クソ坊主。ほれ」
響の視線の先。下水道で遭遇した鰐がそこにいた。
腹が減っているだろうと思い、調理前の鳥肉を差し出してみたのだが。鰐は全く食いつかない。
まだ空腹ではないのだろうと考えた響であったが、教会の住人達が差し入れに出してきた梨を見るや否や、彼女達の足下に纏わりついて離れない。
試しに環が梨を差し出すと、何とも幸せそうな表情で秋の味覚を堪能しだしたのである。
「あいつ、本当に鰐なのか? 草食性の鰐なんて聞いた事もないぞ?」
「さあな。とりあえず、近場の動物園か水族館にでも連絡して引き取ってもらって……」
「待ってください、響さん」
響の提案を引き止めたのはギルバートだった。
「何だよストーンさん。何か問題でもあるのか?」
ギルバートは頷いた。
「そちらの彼女は武藤殿に預かってもらった方がいいかと。人目につくと色々と面倒な事になりそうです」
「何か問題でもあるのか?」
「かつてはいたんですよ。草食性の鰐というものが。疾の昔に絶滅しているんです」
「あ~、成程……」
恐らく、門は時間を遡った場所に繋がったのだろう。この鰐は時を超えて、遥かな未来に紛れ込んでしまったのだ。
元の時間軸に戻してやるのが一番ではあったが、神像を用いて任意の時空間に門を繋げる術がまだ明らかにはなっていない以上、騒ぎにならないよう人目の付かない場所で過ごしてもらうより他にない。武藤の魔女達が住まう異空間ならば、隠れ家としては最適であった。
「あの妙ちくりんな鰐の処遇も決まった事だし、これにて一件落着だな」
そう言って梨を口に放り込む響。彼女達の仕事はここで終わったが、森田にはまだやるべき事があった。
取り違えた鞄を持って、環の知人が教会に向かっているはずである。
彼女から事情を説明してもらい、事ある毎に警察に連絡しようとする環の誤解を解かねばならない。
本来ならば敵地ともいえる星の智慧派の教会の中で、森田はティナとの再会を今か今かと待ちわびるのであった。




