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天史拾遺長歌集  作者: d_d本舗
93/112

夏宵

「しまった……、ペン」


家を飛び出してから、どれほど時間が経ったのか(わか)らない。


体感的には然程(さほど)でも無かったが、呼吸(いき)(はず)み方からして、すでに相当な距離を走ったのだと、今さらに知った。


そこで、私の手のひらが、後生大事(ごしょうだいじ)に愛用のペンを握りしめていることに気づいた。


窓辺に寄った際、無意識に(つか)み取ったのだろうか。


本当に大切な物なので、落としでもしたら洒落(しゃれ)にならない。


「………………っ」


すこし迷ったが、やはり自宅の方角へ足を向けるのは、どうしても(はばか)られた。


“待っとうせ……”


女の(さび)れた声を思い返し、時季も(わきまえ)えず身震いする。


これを(こく)して、わざわざ引き返すほどの度胸(どきょう)はない。


「待っとうせ…………」


「ひゃ……っ!?」


矢庭(やにわ)に、すぐ耳元で声がしたように感じたものだから、思わず悲鳴が出た。


体勢を損ない、トスンと尻餅(しりもち)をつく。


そんな無様(ぶざま)を恥じる間もなく、視線を辺りに巡らせる。


変哲(へんてつ)のない夏の夜。


変わらない町並みがあって、見慣れた風景がある。


その直中(ただなか)に、恐ろしい顔つきの異客(いかく)が、ひっそりと(まぎ)れ込んでいた。


ところは、すぐ(そば)に茂る生垣(いけがき)(かげ)だ。


「待っとうせ…………」


「いや……、ごめんなさい」


とりあえず謝ってみるものの、それで事態が好転する(はず)もない。


「待っとうせ…… 待っとうせ……」


ペタペタと足音を鳴らし、物陰を脱した女は、私のほうへ少しずつ()を進めた。


胸元には、例の品を大切そうに(かか)えている。


その模様が何とも恐ろしく、たちまち心胆(しんたん)(こご)えた。


同時に、腹の底から言い知れない怒りが()いた。


走行中の自動車にも追い付こうかという、彼女の身体能力である。


その気になれば、私を()らえることなど造作(ぞうさ)もない(はず)だ。


にも関わらず、こうして無用の恐怖感を演出している。


こちらを完全に(あなど)り、いいように(もてあそ)んでいるのだ。


「もう……!」


しかし悲しい(かな)。 力のない一個人は、こういった有事に(さい)して、ただ逃げることしか(のう)を得ないのである。


()()うの(てい)で夜道を駆け、夜間でも比較的あかるい国道を越える。


運動に不慣れな私の脚だけど、いよいよ行き先を定めたとあって、曲がり(なり)にも達者に働いてくれた。


「待っとうせ…… 待っとうせ……」


しかし、女の声は一向に離れようとせず、ピタリと背中に付いてくる。


速度を落とせば終わりだ。


そういった危機感を念頭に、命からがら突っ走る。


母校の脇を通過し、長いこと慣れ親しんだ生活道路を駆け抜ける。


市の東部へ通じる広いバイパスを、不格好なフォームで疾走する。


そうして延々(えんえん)と走り続けた結果、ようやくゴールが見えた。


これまで、数々の思い出を(つむ)いだ場所。


私たちの頼みの綱、天野商店だ。


ちょうど、史さんがシャッターを下ろしている最中だった。


その姿を認めた途端、私の視界はぼやけた。


「ふみざぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!!」


「ぬあ!? なんだオメー、なに泣いて」


最後の力を振り(しぼ)り、彼の身柄に飛びつく頃には、恥ずかしげもなく号泣していた。

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