さくらの社
横丁を通過すると、見覚えのある道に出た。
あくまで誰かにとっての見覚え、記憶の中の景色だろう。
辺りにはすっかりと夜の帳が下り、現代のLED灯とは比較にならないほど薄暗い街灯が、道の辺にぽつぽつと淡い明かりを投げかけていた。
背中を丸めたサラリーマン風の男性が、私たちの横をのろのろと通り過ぎ、すぐそこの草臥れたアパートに入っていくのが見えた。
「スイカ切ったから食べようね!」
庭先で手持ち花火に興じる家族の元へ、母親が縁側から声をかけた。
「おじいちゃんは?」
「将棋やっとるよ」
「まだぁ?」
別の民家の玄関先では、取って付けたような長椅子に腰掛けたお年寄りが二人、それぞれ団扇を片手に、眼下の盤面を睨んでいた。
近くを通りかかると、蚊取り線香の匂いがした。
夏の匂いだ。
「はやく寝なさいよ?」
「もうちょっとだけ!」
家の横を通るたび、住人の声がする。
「きょう友達とでっかい魚釣ったんよ!」
「これいらん? 持ってっていい? 秘密基地に飾る!」
「夏休みどこ行くの? 友達は海行くって」
「あんた! こんな遅くまでどこ行ってたん!?」
「探検! あっちのほう。友達と自転車で」
そこにはちゃんと家庭があって、それぞれの団欒があった。
ふと、あの夏が過る。
誰にでもあった“あの夏”だ。
もう、二度と取り戻すことのできないあの夏だ。
すこし進むと、手狭な道が目に留まった。
家々の裏手にひっそりと敷かれた、通路のような小径。
すぐ横を排水路が流れており、錆びだらけの簡素な安全柵が備え付けられている。
この小径を道なりに進むと、対岸に小さな畑が見えた。
腰を屈めた老夫婦が、何やら農作業をしているようだった。
「サツマイモ、いらんかね?」
「いらない。 てか、なんでいつもサツマイモ──」
「行こう」
友人の手を引いて、先を急ぐ。
「望月さん……?」
小径の途中に、対岸へ通じる橋があった。
長さは然程でもないが、欄干のない石の橋だ。
注意深く、これを渡る。
「ねぇ、望月さん?」
それにしても暗い。
どうにか足元は見えているけど、視線を上げると町の明かりが遠くに点在するのみで、まるで宇宙に放り出されたような感覚だった。
黄色味を帯びた街灯も、ほとんど用をなさず。
ただ、郷愁にも似た淡い情緒を、ぼんやりと刺激するのみだった。
「望月さん!」
暗い。 本当に暗い。
感じるのは、はやく家に帰りたいという思い。 故郷の土を踏みたいという思い。 あの頃に、戻りたいという思い。
それに、友人の柔らかな手の感触。
「ひょっとして、呼ばれてる?」
「え………?」
気がつくと、朱塗りの鳥居の前に居た。
辺りを見る。 なにも無い。
真っ暗な空間に、鮮やかな鳥居を備えた浄域だけが、ぽつんと浮かび上がっていた。
純白の花びらが、私の鼻先をふわりと掠め、暗がりの向こうへ消えていった。
「呼ばれ、て………?」
こちらをジッと見つめる友人の眼差しから逃れるように、視線を漂わせる。
鳥居の向こうに広がるのは、神社の境内と見て間違いない。
手前に手水舎があって、列をなす石造りの燈籠が、拝殿にいたる道筋を淡く照らしていた。
この拝殿は、目の覚める朱色で飾られており、外界を満たす夜陰の侵入を、かたく拒んでいるようだった。
鳥居を見上げるも、額束は挙がっていない。
また、石碑の類も見当たらず、この神社の名称を知る術はない。
けれど、確信があった。
「ここが、そう?」
「うん。 お稲荷さまの御社」
境内の一角、剣状の瑞垣に、覆いかぶさるようにして植わる桜の木が、真っ白な花弁をはらはらと撒いた。