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さよならシャンプー

作者: 明須久

 こんなことやってちゃダメだって分かってる。もう明日は試験当日だっていうのに、なんだって僕は髪なんか切りに来てるんだ。

 ……もちろん逃避だ。

 本来やるべきことを後回しにし、別にそのときやらなくても良いことを始めてしまう。試験前掃除の法則ってやつさ。あぁ、情けないさ。それでも一向に構わなかった。


 僕には行きつけの美容院がある。

 ガキのくせに美容院だなんて生意気にもほどがあるかもしれないが、僕にはどうしてもこの店に来なければならない理由があった。


 家から自転車で4、5分ほどの距離。磨き上げられたガラスで作られたドアを開けると、来客を告げるウィンドベルが僕の頭上で涼やかな音色を立てた。

 カランコロン――。


「いらっしゃいませー」


 受け付けカウンターの向こうで若い店員の女性が顔を上げ、気持ちの良い笑顔で出迎えの挨拶をしてくれた。

「ご予約のお名前は?」

 いたずらっぽい笑顔を僕に向けてから、まだ答えてもいないのに彼女は受け付け簿に記入を始めた。「知ってるくせに」と僕も同じように笑った。

 そう。僕がこの美容院へ通う理由はこのヒトに会えるからだった。


 初めてこの店に来たのは1年前の夏。偶然通りかかった店の前からガラス越しに彼女の姿が見えた。お客さんとにこやかに世間話をしながら、手元では踊るようにカットする彼女のハサミ捌きに、僕はしばらく見とれていた。

 でもそのときは僕は店には入らなかった。それどころか僕はその後しばらくも、店に入る勇気が出せなかった。なぜならそれまで床屋通いだった僕にとって美容院というのは何か異質な、足を踏み入れがたい領域だったのだ。

 しかしその後、友人の一人がこの店に通っているのを知り、紹介してもらって通い始めたのだった。この店には紹介制度というものがあり、知人を紹介するごとに割引チケットがもらえるので友達も喜んでいた。


「今日はどんな髪型にするの?」

「あ……ええ、いつも通りでいいです」

「そう? たまには冒険してみればいいのに」


 しばらくボーっとしていたらしい。生返事をしてから僕は軽く頭を振った。いつの間にかシャンプーチェアに座らされており、鏡ごしに彼女が笑いながら小首をかしげていた。


「疲れてるみたいね」

「うん、このところ試験勉強が続いて」

「そうなんだ。大変ねぇ……あたしも学生の頃は嫌いだったなぁ試験」

「はは、好きな人なんていないんじゃないの?」

 笑いながら僕が言うと彼女は困ったような不思議な笑顔を作りながら言った。

「それがねぇ、居るのよこれが。高校のとき同じクラスのヤツだったんだけどそいつがまた勉強好きでねぇ……」

 彼女がそんな風に笑うのを今まで見たことがなかったし、そんな風に話すのも僕は聞いたことがなかった。そのとき、僕は鏡に映る彼女の右手に指輪を見つけた。

 ――いや、鏡に映っているから左手なんだと気づいたとき、僕の口から自然に言葉がこぼれた。


「その指輪……」

「あ、いけない。仕事中なのに外すの忘れてたわ」


 あわてて指輪を外した彼女は、それを愛しそうにポケットに仕舞った。

「実は高校卒業したときから付き合ってるのよ、そいつと」

 照れながら話す彼女は、僕の座る椅子をゆっくりと倒してシャワーからお湯を出し始めた。

「こんな話するの、恥ずかしいなぁ」

 その後も彼女はいろいろと話し続けたが、その間僕は何も言わなかった。シャンプーが終わる頃にようやく話が一段落すると、僕は口を開いた。


「丸坊主にしてください」

「え?」

「丸坊主にします」

「ほ、ほんとに? それちょっと冒険しすぎじゃない?」


 驚いて笑っていたが、僕の表情を見ると彼女の顔からも笑顔が消えていた。彼女は真面目な顔つきでバリカンの用意を終えると、無言で作業を始めた。

 僕の髪が徐々になくなっていく間、二人とも何も言わなかった。ただ、途中で彼女が小さな声で「ごめんね」と呟いたのが僕には聞こえた気がした。


 バリカンで頭を刈り終えた後、細かい髪を洗い流すために再びシャンプーをしてもらう。そのとき僕は、これが最後となるだろう彼女の手のぬくもりを、頭皮の向こうに感じていた。

 このぬくもりは、おそらく生涯忘れないだろう。

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