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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

せみか

作者: 所 花紅

 夜に飲もうと約束していた峰岸の家を訪ねると、峰岸の細君が居間で殺されていた。

 鶴のような細首に、浴衣の帯が何重にも巻き付けられて、ぎちぎちと締め上げられている。浴衣を脱がされた細君は、華奢な裸体を白熱灯の下で、艶めかしく光らせていた。

 死んで間もないのだろう。仰向けで弛緩した手足はまだ熱があり、少女のような膨らみを持つ乳房の産毛には、うっすらと汗が光っていた。


「ああ……やあ、君か。そう言えば、飲もうと言ったっけ。今日だったな。うん」


 峰岸はどこか夢現な様子で、居間の卓袱台(ちゃぶだい)の前に胡坐をかいていた。ぼんやりとした目が、光の中の埃を追うようにゆっくりと動いている。


「君が殺したのか」

「ああ……そうだ。俺が殺した……()()()は、俺がさっき殺したんだ。ひひ……ひひ。首をさ、彼女の細い首に、彼女の帯を巻き付けて、きゅっ、とね……ひひ」


 ひひ、と峰岸は肩を揺らして笑った。


「ああ、勘違いしないでくれよ、君。俺は決して、せみかを憎んで殺したわけじゃないんだ。ただ、あまりにせみかが彼女に似ていたから、彼女にそっくりだから、元に戻してあげようと、そう思ったのさ」

「それは興味深い話だね。ぜひとも聞かせてほしいものだ」

「ああ、いいとも。聞いてくれないか、俺と彼女の出会いを」


 細君の死体の傍らで、峰岸は口を開いた。



 彼女と出会ったのは、十二歳の時だった。もう、十七年前になるかな。

 そのころの俺は、田舎で暮らしていたんだ。典型的な田舎のガキって奴でね……ほら、髪だって今はこうして撫でつけているけど、昔は万年いがぐり坊主さ。冬だって半袖であちこち駆け回ったものだよ。

 ああ、話を戻さないと。

 あれは夏の、一等暑い日だった。

 俺はいつものように、山に遊びに行ったんだ。家の近くには小さい山があってね、子どもの足でも二時間で天辺に登れるくらいだった。だから俺や、遊び仲間にとっては絶好の遊び場だったんだ。

 色々やったなあ。蛙を捕まえて相撲をさせたり、狐の子を見つけて追っかけ回したり……君、今の俺の()()()()した様を見ていたら信じられないかもしれないが、あの時は日焼けをして、黒ん坊になっていたものさ。


 その日は確か、俺一人だった。遊び仲間達は家の用事やら、夏風邪やら……とにかくみんな、都合がつかなくて遊びに来れなかった。

 だから俺は、母に日の丸弁当をしたためてもらって、アルミの水筒を肩から下げて、一人で山に出かけたのだ。家にいた所で、面白くもないからね。だったら一人でも、山に遊びに行く方が楽しいさ。

 山も暑かったよ。まばらに生えた木の隙間から、太陽が照りつけてくるんだ。母に無理やり被せられた麦わら帽子が無かったら、あんまり暑くて暑気あたりでも起こしていたかもな。

 だから涼しい木陰を探そうと、普段入らない道に踏み込んだのは当然だったかもしれない。暗い木陰から、更に暗い木陰を伝うように、俺は山の奥へ奥へと踏み込んで行った。

 その辺りは藪がひどく生い茂っていて、普段なら絶対に行かない所だった。虫も多いしね。


 ……はは。山で遊んでいたって、苦手な虫はいたさ。ザトウムシとかね。気づくと肩にひっそり乗っていて、あの細い足をゆらゆら動かしていた様は、不気味で仕方ないよ。

 君、そういう経験はあるかい? そうか、無いのか。羨ましいね。

 うん。だから俺だけじゃなく、遊び仲間もそこには近づかなかった。だけどその日はどういう訳か、気にならなかった。左右に藪をかき分けて、足元を這う百足とか、毛虫なんかを踏み潰しながら進んだよ。

 藪の奥は少し開けた空き地になっていた。

 不思議なものさ。そこだけまるで、誰かが管理してるかのように、円形に草が刈られてたんだ。いや、自然なものではなかったよ。コンパスで描いたように、そこはきっちり丸い形になっていたんだ。


 ここに来るまで、大き目の石がごろごろしていて歩きにくかったのに、そこには小石の一つも無かった。山の管理人がいたかって? さあ……分からないな。いたかもしれないが、なにぶん、あの時は遊ぶ事しか頭に無かった子どもだったからね。

 それで、その円形の空き地の中心に、木が一本生えていた。小さい木だったよ。俺が手を広げて木に抱き着いたら、指が触れ合うくらいだった。

 だけど緑の葉が傘のように分厚く広がっていて、根本はいかにも涼し気な暗がりができていた。着ていたものが汗でぐっしょりになるくらい暑かったし、ちょうどいいからそこで弁当を食べようと思ったんだ。



「それで、君の言う彼女はいつ出てくるんだい」


 陶酔するような瞳で、白熱灯を見上げていた峰岸は唇を苦笑いの形にした。


「君もせっかちだな。そう急かさなくても、もう出て来るよ」



 弁当を食べようと木に近づいて、地面の一部が少し盛り上がってた事に気が付いた。子どもが砂で山を作ったみたいに、他は全部なだらかなのに、そこだけ盛り上がってたんだ。

 それで俺は、そこを掘ってみたんだ。「どうしてだい」だって、別に理由は無いよ。子どもってそういうものだろう。穴があれば指を入れたい、砂があったら掘ってみたい。そういうものだろう。

 スコップは持ってきてないから、手で掘った。砂浜のように、少し力を入れるだけで土が掘れたのは楽しかったなあ。湿った土だったから、指先がひんやりして心地よかったくらいさ。そうして、自分の膝下くらいまで掘った時だったかな。そうしたら、指先が柔らかいものに触れて…………そこに彼女がいたんだ。


 見た時は、息が止まるくらいの衝撃に襲われたよ。

 彼女は土の中に埋まっていた。土の中の水分を含んで、しっとりとした黒髪が、白い頬や首筋に絡まっていたよ。全裸の女の子だった。土の中で、胎児みたいに手足を丸めて、横向きになっていた。

 まるで眠ってるみたいに、安らかな顔で目を閉じてたよ。綺麗な顔だった。



 ふうん、と思わず唸った。


「成程、変質者が殺した女の子をそこに埋めていたのか」


 ところが峰岸は、首を横に振った。


「……いや、違うよ。だって彼女は生きていたから」

「へえ。だって、土の中にいたんだろう?」

「そうさ。土の中で、赤い小さなさくらんぼみたいな唇から、寝息の代わりに鳴き声が漏れていたんだ。『じい、じい』『じい、じい』って」



 ……俺は掘り出した彼女を、ずっと見ていた。

 いや、土の中からは出さなかった。

 君は見てないから分からないだろうけど、あれは土の中でこそ美しかった。蟻とかワラジムシとか、ミミズなんかが()()()()這う茶色い土の中で、彼女の白い肌は、木漏れ日で輝いてさえいたんだ。

 ああ、本当に彼女は美しかったよ。湿って肌に張り付いた黒髪に、白い肌……それから、ぽつんと赤い唇の横にある、小さな黒子。

 十二の子どもが、それにたまらなく惹かれてしまった。


 そしてなにより「じい、じい」「じい、じい」「じい、じい」と、絶え間なく唇からこぼれる可憐な声。

 大きくなってから知った芭蕉の句に、岩に染み入る蝉の声、というのがあったが、まさに彼女の鳴き声はそうだった。彼女が「じい、じい」と鳴く度に、その声が溶けて、水を飲んだ時のように、臓腑にゆっくりと沁みていく。そんな感じだった。

 日が暮れるまで、汗もぬぐわず、弁当も水にも手を付けないで、横たわった彼女をずっと見ていた。


 自分の影が周囲と同化した辺りで、俺はようやく我に返ったよ。流石に帰らないと、両親に叱られるってね。

 それで、彼女にまた、元の通りに土をかぶせて家に飛んで帰った。「どうしてそんなことを」って、決まってるだろう。彼女は土の中でこそ美しいんだから、土から出すなんてもってのほかさ。

 あれは俺だけの秘密だった。いつも遊ぶ仲間達にも、教える気は無かった。だって、あんなに美しいんだから、独り占めしたいじゃないか。

「明日も来るからね」なんて土の上から声をかけて、俺は家へ戻った。



「それで、百夜通(ももよがよ)いの深草少将の如く、毎日通ったのかい?」

「……いいや、行けなかったんだ」


 峰岸は、悲し気に首を振った。

 じじ、と剝きだしの電球に蚊がぶつかって音を立てる。


「その日の夜、俺は高熱を出して病院に運ばれてね。そこから熱が下がらず、しばらく入院生活だったのさ」



 ……さあ、その時の事はちっとも覚えていないな。なにせほとんど昏睡状態だったらしいから。両親は医者に覚悟するように言われたらしいよ。

 ああでも、ずっと耳元で「じい、じい」「じい、じい」って、可憐な鳴き声が聞こえていた気がする。夢に現に、目を閉じた彼女の横顔が瞼の裏にちらついて、まるで万華鏡みたいだった。

 まあ、こうして生きているのだから助かったのだけどね。

 ただね、彼女の記憶だけがすっかり無くなっていた。


 それから普通に中学、高校と行って、普通の会社員になった。「プレイボーイだったか」って、からかわないでくれ。せみかと会うまで、彼女の一人もできなかったよ。

 そうだな……やっぱり、忘れていても彼女が俺の心のどこかで、「じい、じい」と鳴いていたんだと思う。



「だが君は、奥方と出会った」


 細君の死体に視線を向ける。

 染みだらけの天井を向いた乳房の間を、死ぬ前に浮いただろう汗が滑っていくのが見えた。

 卓袱台に乗った水差しから、湯飲みに水を注いで一気に飲み干した峰岸は、夢見る乙女のようにうっとりと頷いた。



 ああ、せみか……そう、せみかと出会ったんだ、俺は。

 せみかとは、一ヵ月前に喫茶店で会った。暑い日だったよ、コンクリートなんて、熱したフライパンみたいでさ。どっからか這ってきたミミズがカラッカラに炒められてた。

 それでたまらなくなって喫茶店に行ったんだ。君も知っているだろう、ほら、駅前の『蝉時雨』だよ。せみかはそこで新入りのウェイトレスとして働いてたんだ。


 俺のテーブルにアイスコーヒーを持って来てくれて、「どうぞ」と風鈴のように可憐な声で言ってくれた。

 その声を聞いた途端だったよ。心の奥にあった、十二歳の時の彼女との一時が、ぶわっと蘇ってきたんだ。

 せみかは、黒髪を清潔なショートカットにした、綺麗な女だった。さくらんぼみたいな赤い口が、ぎこちなく微笑んでいた。口元の横に、黒子があった。

 ああ、彼女だって、俺は思った。彼女が俺に、会いに来てくれたんだ。


 そこからはとんとん拍子さ。君も知ってるだろう、あっという間にゴールインして、まあ、今まで楽しくやって来た。

 ……だけど、いつからかな。せみかがここにいるのは、違う気がしてきたんだ。そう考えると、どんどん気持ち悪くなってきた。


 この居間でラジオを聞いて、声を上げて明るく笑うせみか。

 台所で割烹着(かっぽうぎ)を着て、魚をさばいているせみか。

 寝室で裸体をシーツにくるんで恥ずかしそうに、上目遣いで俺を見るせみか。

 そんなせみかの一つ一つの動作に、俺はいつのまにか、たまらないくらいの吐き気を覚えるようになったんだ。



「それで、彼女が憎くなって殺したのかい?」

「いや……違う。せみかの事は愛しているんだ。だけど何か、どこか違和感がある。なんとも言えない違和感が……それで気づいたんだ。だってせみかは彼女だ。だったら彼女のように土の中で目を閉じて『じい、じい』と鳴くべきなんだ。だってそうだろう、彼女はあの茶色い土の中で横たわって、目を閉じて『じい、じい』と鳴いてこそ美しいんだ。くるくると動き回って、健康に笑っているなんて間違っているんだ。だから、戻してやろうと思ったんだ。土の中に戻せば、きっとまた目を閉じて、『じい、じい』と鳴いてくれる。元の彼女に戻るんだ、美しい彼女に戻るんだ。なあ君、そう思うだろう、なあ」


 目の焦点を散らしながら、峰岸は唾を飛ばして必死に訴える。


「なら、君はどうしたいんだい? 山に彼女を埋めに行く気だったのかい?」

「ああ……」


 夢から覚めたように瞬いて、首を横に振った。


「あの山はもう無いんだ。都市開発で削られたからね。だから俺は、せみかをどうしようか迷っていたんだ。そうしたところに、君が来たわけさ」

「では、君の沈思黙考(ちんしもっこう)に水を差してしまったわけだね」


 ふむ、と考える。


「なら詫びがわりに、彼女を埋めるのを手伝おうじゃないか。元々彼女が土に埋まっていたと言うのなら、庭の土でも問題はないはずさ」


 深夜に、男二人で庭に穴を掘る。

 峰岸の家は小さいながらも庭があり、今は亡き細君が植えただろう小ぶりの花があちらこちらに咲いていた。

 丁寧に手入れされた土は柔らかく、すんなりと深い穴が開く。

 峰岸が、口のように開いた穴の中に細君を横向きに寝かせた。両手を重ねて口元近くに置き、両膝を折って、身体を胎児のように丸めた細君の死体を見下ろす。


「ほら、ほら君、見てくれよ君! 彼女だ、ついに彼女がかえってきた、いや違う、ついに会えたんだ……! 長らく待たせて悪かったね、また来るよって言ったのに来なかったから、俺を探しに来てくれたんだろう? 悪かった、本当に悪かったよ……! ああ……その声! ああその声だよ、その『じい』という声だ、俺が本当に君の唇から聞きたかったのはその声だ! ほら、ねえ、君、聞いておくれよ、なんとも美しい鳴き声だろう、美しい蝉の声だろう、つくつくぼうしも、ひぐらしも、どんな蝉も敵わない美しい声だろう?」


 膝をつき、穴の縁に手を付いて、峰岸が(とろ)けた声を上げる。

 冷たい土の中で峰岸の細君は貝のように赤い唇をぴっちりと閉ざし、ただその場に横たわっていた。



 その後の話はどうなったのかって? ……君、物語というものは、美しい余韻で終わってこそだよ。それ以上を求めるのは蛇足というものじゃあないかい?

 まあいいか、ほかならぬ君の頼みだからね。

 峰岸は結局、逮捕されたよ。

 もちろん罪状は殺人。

 峰岸の奴、翌日の仕事場で同僚に「せみかがようやく彼女に戻ったんだ。もっと早くに土に埋めるべきだった」などと言ってね。それで逮捕されたのさ。

 ところがね、庭の穴からは細君の死体は出てこなかったのだよ。ああ、影も形も無くなってしまった。

 死体は無い、だけど犯人は殺したと言っている。そして実際、細君の姿は見当たらない。

 警察もほとほと困り果てたらしくてね。

「彼は奥方が出て行った事で精神に変調をきたし、殺したと思い込んだ」という結論に達して、適当な精神病名を付けて、柵付きの豪勢な病室に押し込めたのさ。

 さあ。生きているなら、今も病室で彼女の鳴き声を待っているんじゃないかい?

 そうそう、蝉というものは鳴くのは雄だけで、雌は鳴かないらしいよ。……だとしたら、ねえ君、「じい、じい」と蝉の声で鳴いていたその「彼女」は、一体なんだったのだろうね。

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[良い点] 不思議な世界観でした。
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