異世界に行っていた母が帰ってきた
俺がまだ幼かった頃、母親が忽然と姿を消した。
「蒸発した」と周りが言っているのを聞いて、本当に煙のように消えてしまったのだと愕然とした。まあ、意味は全く違ったが、俺にとっては魔法のように消えてしまったことに変わりはなかった。
新聞記者だった父さんは、警察や私立探偵や色々なところに頼んで母を探してみたけれど、何処にも見つからず、形跡すら見つからなかったのか、結局三年ほどで諦めた。つまり離縁することとなったらしい。当然消えた母親の親権はなく、父さんは母方の家族とも縁を切り、俺と二人で生きていくことを決心した。
「お前の母さんは神隠しにあったようだよ。いつかひょっこり帰ってくるかもね」
そんな苦笑いを残して、幼かった俺と父さんは二人でなんとか生活をこなしてきた。飯の炊き方すら知らなかった父さんと卵一個割れない俺と、カップ麺を主食にそれでも頑張って二人で生きてきた。今では俺は好きなものをなんでも作れるくらいになったし、父さんの頭はかなり薄くなってしまったけど、健康にだけは気をつけてなかなか筋肉質な体型を保っている。
俺は俺で、小学生の頃は真面目に異世界転生とか、異世界召喚の小説を読み漁り、本当にこんなことがあるのだろうかと考え、中学に入ってからは超常現象の雑誌やらなんやらを読んで、ネットでも色々探して。いや、これはあり得ないなと自分の中で終結した。
所詮は絵空事だ。面白おかしくエイリアンに拉致されたとかならまだ事件性はあるにしても、異世界召喚とか、馬鹿らしい娯楽だった。エイリアンに拉致された人の証言によると、本当か嘘かは別にしても皆ひどい目にあって帰ってきている。人体実験させられたとか、エイリアンの子供を生まされたとか。それほど高度な知能とか化学とか持ってるんならそれはないだろ、と。人体実験ってすごく人間臭いし原始的じゃないか。それはそれで、どこかの国に拉致されて、薬で記憶操作されて実験された可能性の方が高い。
それが異世界召喚になると、間違って事故に遭って死んでしまい、神様から「お詫びに」チート能力を受け取ってあっちの世界で無双するとか、いかにも日本人が考えそうなご都合主義の空想の世界。そんで魔王やらなんやらを倒して、聖女とか王女とかと恋をしてハッピーエンドだ。まあ、中には拉致されたその瞬間にまき戻るというのもあったけど。現実逃避は楽しくて良い。読み物としては、の話であれば。
神様もお詫びをするなら、連れて行った方じゃなくて残された方にしてほしい。こっちの現実世界はもっとシビアで特殊能力なんてなく、全て汗水と涙と努力で成り立っているんだ。妻と母親を亡くした日本の親父と三歳児のことを考えても見てほしい。もし俺の父さんがそれで意気消沈して飲んだくれになったら、俺の人生に未来はなかった。魔法でチートだの精霊に愛されてざまあだの言ってる場合じゃない。代わりの母親をよこすとか、お手伝いさんをよこすとかしてほしい。朝起きたら、作りたての飯と弁当がテーブルに、とか最高だろ。家に帰ったら部屋が綺麗で、洗濯も終わってたとかな。
どれほど夢みてもそんなことは起こらなかったわけで、ふざけんな、と高校に入ってからは読み漁った本も全部捨てた。
現実は、信用と努力と金でできている。
幼かった俺も18歳になり、IT企業に就職が決まった。正直、一家の主婦、家政婦紛いの俺にとって女の子はあまり興味も湧かなかった。スーパーのタイムサービスでラストスパートをかけるおばちゃん連中と一緒になって半額割引食品を奪い合う俺を見て、夢がないなと父さんは笑うけど、しょうがないじゃないか。
同年の子は飾りたって化粧をするのはうまいけど、自分で飯も作れないし、なんだか部屋の掃除とかもできてないんだから。そんで、そう言うのに限ってきっと将来、このおばちゃん達のように半額食品に目の色を変えるのに違いない。
「うわ〜、健二くんの作るおべんとすごいね!お母さんみたい!私も食べたい」
とか言われて、この子いいな、なんて思うわけもなく。やらねーし。
社会に出ればきっと出会えると信じている運命の人。ーーなんてこっそり夢みがちなことは誰にも言えないけど。
父さんはグルメの記事を書いて人生を謳歌している。デートをできる人も見つけたようで、幸せそうだ。結婚とかは考えていないようだけど、相手の人もバツイチで、俺より三つ上の娘さんもいるらしい。娘さんはマスコミ関係の仕事をしていて、付き合って五年になる彼氏さんもいるんだそうだ。会ったことはないから、どんな人かはわからないけど、まあ真っ当な人のようで安心だ。これまで男手一つで頑張ってきたのだから、これからは幸せになってほしいと切に思う。
そんな俺たちの前に、突然母が帰ってきた。
「けんちゃん!ママよ!」
「は?」
誰だ、こいつ。というのが正直な一言だった。
一時期、父さんがあちこちで母さんを探しているのを記事で見て、「私が母になってもいい」とか「子供に母親は必要よ」とか言ってまとわりついてくる頭のおかしな女たちがたくさんいた。父さんがなまじっか若く(それにおそらくハンサムな部類だったのだと思う)隙あらば、と狙った元同僚や仕事で知り合いになった女たちだったのだろうけど、父さんは割と硬派な人間だったようで、相手にしなかった。それでずっと一人で俺を育ててくれたのだ。父さんに恩はあれど、母親にはなんの感情も残っていない。
「長いこと放っておいて、ごめんなさい!でも帰ってきたの!大変なのよ!急いで用意しないと!」
「ちょ、あんた。勝手に入って来ないで下さい。警察呼びますよ」
「えっ?い、嫌だわ!けんちゃん!健二!私よ。ママよ。まさか忘れたなんて言わないわよね?!」
いや、忘れたなんて言わないわよねって、あんた消えたの俺が3歳の時だろーが。忘れる以前に覚えちゃいねーよ。十五年も後になって帰ってきて、いきなりなんだ、この女。
「わ、私ね、異世界から帰ってきたのよ!それでね、私たちこのままじゃダメなのよ、信じて!」
「いや、出てって下さい。頭おかしいんじゃないですか」
「ひ、ひどいわ!必死になって帰ってきたのに!こんな仕打ちってない!」
俺は力づくで女を押し出して玄関を閉めた。鍵もきっちりかける。健二、けんちゃん〜〜!と騒いでドアをどんどんと叩くのを尻目に父さんに連絡を入れた。
「自分のことを『私よ、ママよ』っていう女が外にいて、俺の名前を連呼してるんだけど、どうする?警察呼ぶ?」
ひとまず父さんはすぐに帰ってくると言ってくれたが、俺は警察を呼んで女を保護してもらった。自分が母親だと言ってきかないが、妙齢の女性にいきなりママよ、と言われてはいそうですかと受け入れる訳にはいかない。俺も18歳のいい大人だ。成人はまだだけど。この人、どう見ても二十代半ばかちょっと上くらい。父さんが45だから、もし母さんだったとしてもそのくらいの歳じゃなきゃおかしいだろ。若作りか?若作りなのか?
父さんは母が消えてから写真も何もかも捨ててしまって、俺には母の思い出が何もない。母方の親族とも縁を切って本当に何一つ、母を偲ぶものすら持っていなかった。まあ、それが父さんなりのケジメの付け方だったのだろうと俺も文句はなかったし。
3歳の子供をほったらかして、何か理由があったにしろ電話一本、手紙一つよこさなかったのは母の方だ。たとえ『事情があったのだ許せ』と言われても許せるものでもなく、恨むというほどの感情すら沸き立ってこない。両親が離婚することになった時、向こうの祖父母に詰られたけれど、子供とは言え俺にだって思うところはある。「自分を捨てた母親の家族と懇ろになるつもりはない」みたいなことを言った覚えはある。以来、連絡は一切絶ったので、生きてるのか死んでるのかすらわからない。
それでここに来て、私がママよ、信じて、どうして信じてくれないの、ひどい、ときたモンだ。
ごめんの一言すらない。大人としてどうなの、それ。
父さんがどれだけ苦労したか、考えにも及ばないんだろう。
女は警察官に調べられて、父さんが呼ばれた。
事実、この女は俺の母親だったらしい。嘘だろ、おい。
神隠し、という言葉はよく聞く。実際に神隠しにあった人間にあったことはないから、どういうことかよくわかっていなかったけど、これはない。自分より10ほど年上の女が実は母でした、とか。ないわ。
「ケンちゃん、私ね。異世界では聖女だったのよ」
ぞくりとした。この女、絶対おかしい。父さんを見ると、「メグ……」と青ざめている。俺の母親はメグという名前だったと初めて知る。「しんちゃん」と呼ぶのは俺の父のことで、真二という。
「それでね、その世界には魔法があってね」
涙ながらに女が言う。胸の前で手を組んで、いかにもな祈りのポーズでふるふると頭を左右に振っている。漫画で見る分にはいいけど、実際やる女って、ひくわー。しかも十代の美少女ならまだしも、二十代後半の女がこれはないだろ。イタイやつだろ。
「父さんこのヒト、厨二症とかいう病気じゃない?」
「い、いや…うん。おかしい、よな」
「おかしいよ絶対。俺、こんなの母親とか言われても信じないし、やだ。DNA検査とかしてもらえないの?まじで俺の母親とか言うの信じるわけ?」
警察の取り調べで、この女は名前から生年月日、出身地や自分の両親の名前も出身校も全部すらすらと口にしたらしい。結婚記念日や父さんの家族の墓所、俺の生まれた病院やお産がどれだけ長かったか、どの医者先生だったかまで知ってた。極め付けに結婚指輪まで持っていたから、警察では本当に奥さんなのではと、父さんに連絡してきたのだ。二人で警察まで行き、母の実家のに連絡を取り、迎えにきてもらうことになったのだが、それまで我が家に来ることになった。
最初、家に入った時に自分のものが全て捨てられていたことに憤慨し、私のこと愛してないの、と涙した女に俺は呆れて物が言えなかった。父さんは眉を顰めて黙っていたがきっと色々思うところはあるに決まっている。
「十五年も放置しておいて、自分のものがまだここにあるって思う方がおかしいんじゃないの?」
イラついて俺がそう吐き出すと、驚いたように俺の顔を見た。もし仮に彼女が俺の母親だったとして捨てたのは俺が3歳の時だ。18歳の俺を見て、そんなに時間が経っていたなんて、なんて顔をされてもな。と言うか、よく俺が息子だって思ったもんだ。
「あの、あのね。本当なのよ。私異世界で聖女だったの。その世界はこことよく似ていて、最初は気がつかなかったのよ」
パラレルワールドとかそう言う設定なのか?頭のおかしな女の話を聞くのは面倒だけど、俺は聞き流すように父さんの隣に座った。父さんは俺を気にしながらも、眉間に寄せた皺は取れていない。疑っているのか、怒っているのか、困っているのか。
「いつから世界が変わっていたのかわからないの。けど、いつものようにご飯を作っていたら、けんちゃんがいきなり魔法を使い始めて。びっくりして、しんちゃんに電話をしようとしたら、ケータイが見つからなくて、どこに置いたかなって探しているうちに、細かいところがいつもの風景じゃないって気づいたの。お風呂場からバスタブが消えてタライになってたり、トイレが汲み取り式になってたり、フローリングもただの板張りになってて。我が家は我が家なのに、玄関を出たら、目の前にアパートの階段じゃなくて、石畳の階段があって、それから舗装されていない道が目の前にあって、魔物が外にいっぱいいて。ああ、これは元の世界に戻ってきちゃったんだって初めて気づいて、それから必死にこっちと繋がろうと祈ってたのよ」
すげえ妄想癖だ。やっぱどこかおかしい女なんじゃないかと思う。この女の家族、と言うか顔も朧げにしか覚えていない母方の祖父母が明日にはやってくるらしいけど、とっとと連れて帰ってほしい。
「そうしたら魔王が目の前までやってきてね、びっくりして助けてって祈ったら魔物がパーンって消えてね」
その両手をパッと広げて霧散させた何かを思い出したかのように、慌てて両腕をさする。ああ、ひょっとしてこいつ、どこかの病院から抜け出してきたんじゃないかと思い始めた。
「しんちゃん、早く帰ってきてって祈ったら、しんちゃんが馬に乗って帰ってきたの」
ブハッと俺は思わず吹き出した。笑っちゃ悪いけど。父さんが馬に乗ってって。今度はあれか、プリンスチャーミングの世界?父さんはへにょりと眉を下げて、肘で突いてきた。
「メグは……ファンタジー小説とか好きで、よく読んでたんだ」
今度は俺が眉を顰める番だった。この女はどうやら俺の母のそっくりさんで、共通の趣味も持っているらしい。父さんはきっと昔こう言った話を母から聞いたりしていたのだろう、懐かしむような目をして女を見ている。おいおい、信じてるんじゃないだろうな。
「父さん、この人どこかの病院から逃げ出してきたんじゃないの?」
「いや、それは警察でも調べてくれたけど、そう言った通報はなかった」
「ケンちゃん、信じて。このままだと、私たちの世界が乗っ取られちゃうのよ。今すぐ逃げないと」
勘弁してくれよ。
とりあえず、要領を得ない女の意見と、強く言い返せない父さんの態度にイラつきながら寿司の配達を頼んで、夕飯を食べ客用の布団を出して、早々に寝かせた。俺が全く話も聞かず、目を合わせないことに泣いていたが、知ったこっちゃない。
夜中に話し声が聞こえて目を覚ますと、リビングで父さんと女がボソボソと話をしていた。
「もう、こっちには戻ってこないんだと思っていた」
「そんなわけないじゃない。シンがいるのに、どうして」
「だって君は、もともと向こうの人だろう」
向こうの人?こっちには戻ってこないと思ってた?何の話だ?
「それは確かにそうだけど、しんちゃんだって一度は勇者としてきてくれたじゃない」
はい?父さんがなんだって…?
「けど、魔王は討伐したはずだろう?その馬に乗った俺は結局誰だったんだ?」
「魔王の部下。四天王の一人だった。見た目をシンに変えて、私を拉致しようとしたの…魔王の奴、しぶとく生き返ったのよ…まだ力はそれほど大きくないけど」
まおうのぶか…。魔王?ちょっと待て。俺は一体なんの話を聞いているんだ?父さんも何落ち着いて聞いてんだ?
「そいつはどうなった?」
「アマリアとグレッグが来てくれたから大丈夫だったわ」
誰のことだ?アマリアとグレッグ?外人の友人?
まあ、新聞記者だったから交友範囲は広いと思っていたけど。そいつらも仲間なのか?
「あいつらも…こっちですっかり根を下ろしたと思ってたのに」
「私だってそうよ!でも魔力繋がりがあって引きずられたんだと思う」
「ああ、そっか。俺は健二を守るために縁切りしたからな…」
「アマリアから聞いたわ。私の聖女の力はケンちゃんを生んで、消えたと思っていたのに。ねえ、ケンちゃんはもしかして」
「はぁ…。ああ、健二は魔力持ちだ。だから縁切りして、あっちとのつながりを切ろうとしたんだ。多分何度か呼ばれているはずだけど…自我が強いのか拒否力が強くてここにとどまってる」
俺?俺の話?魔力持ちって…はぁ?
「じゃあ、やっぱりケンちゃんが次の勇者……っ」
「勇者の子は勇者ってわけか。健二は現実主義に育ったからな。ファンタジーとか超能力とか毛嫌いしてる。何度か呼ばれたのも気づいたけど完璧無視してたし、召喚も効かなかった」
「さすが我が子…と言いたいとこだけど、このままじゃ魔王がこっちにきちゃう」
「それはそれで困ったな…」
両親が壊れてる。
……頭痛くなってきたぞ。母だけでなく、父親までも厨二症だったのか。どうしよう。両親が精神やられてると言うことは、俺どうなるんだ?18歳って一人で生きていける年齢だよな?とりあえず仕事も内定もらったし。
明日、この女ーーと言うか一応母親なのかーーの両親が来るんだよな。えっと、俺の祖父母になるわけか。ちゃんとした人間なんだよな?狂ってんのは実は俺の方とか、言わないよな?狂人ほど『俺は狂ってない』と言うとか、マジで?
途端に信じていた世界が足元から崩れていくような気がして、俺はフラフラと自室に戻った。
母さんが聖女で、父さんが勇者……?
しかも母さんは元から異世界人だった?
父さんが異世界に行って、奥さん連れてこっちに帰ってきたってこと?
俺がその息子?
異世界召喚。ほんとにあるのか、そんな事。魔王とか魔法とか聖女とか勇者とか。ダンジョンとかドラゴンとか、体長5メートルくらいの目の赤いクマとか、羽の生えた人型のなんかとか。
「………絶対行きたくないな」
ぶるぶると頭を横に振るって自分に言い聞かせ、何があっても自分だけはマトモでいたいと願った。次の勇者とか、わけわかんねぇ。俺は頭から布団をかぶって目を瞑った。
まさか、父さんが一度勇者召喚されて、あっちで母さんと知り合って一緒に魔王討伐の冒険に出て、こっちに戻ってきたなんて。次の日になって現れた祖父母が、実は本当の祖父母じゃなくて、討伐で一緒に戦った仲間の魔導士アマリアと聖騎士グレッグだなんて知る由もなく。
どれだけ頼まれても脅されても拒み続けて現実を見据えていたら、とうとう現実世界に魔王が現れ、ダンジョンが世界中に湧き出てくるなんてこの時の俺は、全く想像もしなかった。
神様。もし本当にいるのなら、チートとか魔法とか要りません。わけわからん母親もいらないし、勇者の父もいりません。グルメ雑誌の記者の父だけでいいです。ご飯も自分で作れるし、仕事も真面目にできると思います。だから俺の平穏な生活を返してくれ。
読んでいただきありがとうございました。
こんなこともひょっとして日常茶飯事にあるかもしれないな〜と思うんですけどね。