5話 退屈でありふれた__
前回のあらすじ
・かくして少年の日常は崩れ去った
吹き抜ける春の風が、しっかり洗濯されているのか、真っ白で汚れ一つないカーテンを揺らし動かす。
薬品と人の匂いのしみついた病室で、ユウキはただ、茫然と姉の右手を握り締めていた。……緊急手術が終わってから、丸一日目。気が付けば、ユウキはただその病室に座り込んでいた。
ふと、ユウキは思い出したように椅子から立ち上がり、姉の右手から手を放す。そして、いつの間にか換気のために開けられていた窓をそっと閉じた。窓の外に見える病院の小さな庭の桜の木は、いつの間にかすべての花が散り終えてしまっていた。
とくり、とくりと心臓が脈打つ。
苦しかった。あまりにも苦しかった。
目の前で車にはねられた姉。原因は、ユウキに他ならなかった。ユウキが遅れなければ、姉はわざわざ横断歩道を渡りに行く必要なんてなかったのだから。
脈打つ心臓が、見えない糸によってがんじがらめに締め上げられる。ただただ、苦しい。重くのしかかる罪悪感を消すすべを、彼は知りもしなかった。
ぽろり、と、涙がこぼれる。
泣き続けたために、ユウキの目のあたりはうす赤く腫れていた。
__僕が、もっとのろまじゃなければ……
後悔が胸中をどろどろと満たす。満たされていく黒く、重く、どろついた負の感情は、だんだんと、だんだんとユウキの肺から酸素を奪っていく。呼吸が、酷くつらかった。
そんなとき、ふと、後ろの扉からノックの音が響いた。
「長嶋皐月さん、健診に来ましたよー」
少し間の抜けた看護婦さんの声とともに、病室の引き戸が開けられる。ずいぶん立て付けが悪いのか、レール部分から扉を保護するためのゴムパッドが擦れる耳障りな音が響く。
看護師も嫌な音だったのか、右耳を軽く押さえて少しだけ眉間にしわを寄せた。しかし、すぐに表情を戻し、病室に足を踏み入れる。
「こんにちは。えっと、長嶋裕樹君、だったかな?」
「は、はい。えっと、その、こんにちは」
突然声をかけられたユウキは、思わず声を裏返らせながらも妙齢の女性の看護師に挨拶をする。挨拶をされたショートカットの看護師は一瞬きょとんとしたような表情を浮かべたものの、少しだけ破顔し、病院のベッドのそばに備え付けられていた個包装の蒸しタオルをユウキに手渡した。
「お姉さんのことが心配なのはわかるけれども、君も少し休んだ方がいいわ。今、酷い顔よ。ご飯、ちゃんと食べた?」
「す、すいません。今ちょっと、食欲が無くて。水分補給はしたのですが……」
「下に売店あるわよ。おかゆでもゼリーでも栄養ドリンクでもいいから、何か養分のあるものをお腹に入れたほうが良いわ。貴方がそんな状態だと、親御さんもお姉さんも心配するはずよ」
「は、はい」
姉の顔色や呼吸の状態などをタブレットにメモしながら、看護師さんはユウキに言う。ユウキは小さく頷くと、ポケットを確認する。下宿先のアパートに入学式の時に持って行っていたカバンはおいて行ってしまったが、それでも財布とタブレット、イヤホンだけは持っていた。
財布を片手に、ユウキはショートカットの看護師にぺこりと一礼をしてから、姉の病室を後にした。
数時間ぶりに病室の外に出たユウキは、そこでようやく自分が随分空腹だったことに気が付く。それもそうだろう。ユウキは入学式のまえの朝食以来何も食べていなかったのだ。クウクウと空腹を訴える腹に、ユウキは少しだけ恥ずかしくなり、人の少ない廊下へ足を向ける。
廊下の端で一度足を止め、先ほどの看護師からもらった蒸しタオルで顔を拭く。顔で蒸発してべたついていた涙が吹き去られ、思考も気分も幾分さっぱりした。
泣きすぎて顔が重い。まだぬくもりを残したタオルを目に当て、ユウキは何度目かのため息をついた。
不甲斐ない。あまりにも情けなさすぎる。
あの時、シンジがそばにいなければ、ユウキはきっと何もできなかったに違いない。
姉の容体は、本当に良くなかった。医者曰く、生きているのが奇跡であるとのことだ。
一番ひどいけがが、車にはねられた後叩きつけられた頭。頭蓋骨にひびが入り、小石が傷口に相当数付着していたという。数時間に及ぶ手術の果てにほとんどの小石は除去されたが、一番奥、頭蓋骨のヒビに挟まりこんでしまった砂粒が、まだ除去しきれていないという。
姉が病室にうつされてから、ほぼ二十四時間。その間一睡もできなかったユウキは、なるほど、それは酷い顔だったのだろう。窓ガラスにうつりこんだ自分の顔に、ユウキは嫌気がさした。酷いクマだ。
空腹できゅうきゅうと痛む腹をさすりながら、ユウキは改めて周囲を見る。人が少ないからと言う理由で曲がったこの廊下だが、どうやら、ここの奥は集中治療室のそばの待機所であるらしい。ユウキのように患者の知人や、その他見届け人が少しの間座るためのソファや給水器などが置かれていた。
ユウキはその待機所に足を踏み入れる。人はいない。
小さく息を吐いて、ユウキは給水機に近づく。看護師には水分補給はしたとは言ったものの、それでも病院に残ると言ったときに父が手渡してくれた250ミリリットルのお茶が最後であり、そのお茶はもうずいぶん前に飲み終えて久しい。
給水機の冷たい水を飲み下せば、涙で失われた水分が戻ってくるような心地がした。同時に、ジワリと目元に涙が浮かび、ぼやけた視界に苛立つ。
腕で乱暴に目元の雫をぬぐっていると、ふと、集中治療室の奥から声が聞こえてきた。
「午後の予定あったっけ?」
「緊急入るまで待機だろ」
どうやら、医者たちも休憩中であるらしい。治療室入り口のランプを見てみれば、なるほど確かに光はついていなかった。
医者たちは待機所に誰がいるとも知らずに会話をする。
「昨日の緊急の子、今朝の容体は安定しているって」
「でもどうなるかわかんねえよな……頭蓋骨に挟まった石、抜けてないだろ?」
「……!」
低い声の医者の言葉に、ユウキは思わず顔を上げた。おそらく、医者たちが話しているのは、姉の容体についてだ。
明るい声の医者は、肩をすくめて言う。
「手術するにしたって、あれじゃ難易度高すぎるよな。あの石、ちょっと動かすと脳に刺さりそうな位置じゃないか」
「ああ、そうだな。正直、二等級ポーションがあったほうが嬉しい。ってか、無いと無理だろあれは」
「ポーション? ああ、例のチート薬か……無理だろ、確かあの薬、保険適応外だし、バカ高いって聞くじゃん。二級っていくらだっけ……は? 国家予算じゃんか」
タブレットを使って調べたのだろう。明るい声の医者が素っ頓狂な声を上げる。
ユウキは、頬の表情が引きつるのを感じた。
__二級ポーション……? それがあれば、姉さんは助かるのか……?
ごくりと唾を飲み下し、ユウキは慌ててポケットの中のタブレットを取り出し、手早く調べる。そして、その金額に再度表情をひきつらせた。
「ひゃ、百兆四千五百万……一つで、この値段なのか……」
ポーションとは、ダンジョン内で稀に採取できる道の医薬品の名称である。ポーションはその色や瓶で等級が分かれており、下は7等級、上は1等級まである。
ポーションは等級が上がるにつれて回復量が増えていき、お値段もまた跳ね上がっていく。
七等級のポーションは一本5000円程度で購入できるほどありふれており、傷跡を残したくない怪我や、少し大きめの切り傷などを即座に治しきることができる。
一等級のポーションに関しては、ダンジョンがこの世界に能われてから今の今までたった三つしか見つかっておらず、そのうち二つは既に使われてしまったため、地球上で確認されている限り、現存する一等級ポーションはたった一つだけなのである。
一等級のポーションが使われた二件の事例では、いずれでも死にかけ、四肢欠損した人間が飲んだだけで全回復したという。当然欠損した四肢も元に戻ったのだとか。
医者は、二等級のポーションが必須だと言った。しかして、こんな金額、うちでは……いや、仮に姉をひき逃げした犯人が逮捕され、賠償責任を果たしてくれたとしても、まるで支払えない。
ユウキは、小さく息を飲む。
……ポーションは、現代の科学では再現できない、未知の物質からできた薬剤である。人体に毒はなく、傷口や病気などを癒す、まさしく魔法の薬。
__ダンジョン……
ユウキの脳裏に、通学中の電車の車内で見た参考書が呼び戻される。
二等級のポーションが採取された事例は。日本でもある。一等級と比べれば出てくる方である二等級ポーションは、法外な価格で取引されている。
__二等級ポーションを見つけられれば……
冷静な脳が、そんなことは無理だろとささやく。
されども、ユウキは何もできない現状は、もう嫌だった。
「……探索者になって、ポーションを、探す。」
決意が、滲み湧き出してくる。今できることを、今できるように。後悔しないように。
その日を境に、ユウキは本気で探索者になるための準備を始めた。
【ポーションについて】
ポーションはダンジョン内に出現する謎の医薬である。出典は不明で、一説にはエリクサーの派生品では、ともささやかれているが、真相は不明である。
等級は以下のとおりである。
七等級→六等級→五等級→四等級→三等級→二等級→一等級
取引価格は等級が上がるにつれて跳ね上がっていき、四肢が復活する三等級でも都内に一軒家が購入できる程度の金品が必要になる。
不可思議なことに、ポーションはダンジョンがどの物語を元にしていようとも現れるときには現れる。一応、パラケルススなどの錬金術や医学をモデルにした物語に出現する確率が高いとされているが、それでもどんなダンジョンでも現れる可能性があるため、探索者たちからは臨時収入扱いされている。