2話 幸運値をください
前回のあらすじ
・ダンジョンが日常に浸透している
・わんわん=イルフォン=狼男
目的の駅にたどり着いたユウキは、さっさと息苦しい電車を出て行き、少しだけ足取り軽くこれから通う予定の学園を目指す。
この街、東京都楽鳥羽町は、オフィス街と歓楽街にほど近いため、たくさんの学校が設立されている。ユウキが向かっているのは、私立杉浦学園だ。
真新しい制服はまだ体になじまない。学費こそ給付型奨学金のもらえるクラスに合格したため、ほとんど必要ないが、教科書代と無駄に高級な制服代は自費である。両親に少しだけ申し訳ない気持ちを抱きながらも、喜んで県外の学校に下宿をしながらの登校を許してもらえたことを感謝した。
入学式ではあるが、既にサクラは四分の三以上散りきってしまい、赤茶けたがくと柔らかい黄緑色の若葉が萌え出でているだけである。しかし、風が吹けば、まだ散りそこなっていた桜の花びらが、ひらひらと飛んでいく。
春らしいうららかな日差しと、春らしくない冷たい風が同居して、服装に悩むような陽気だ。
緑色に塗られた校門は、大きく開かれている。これからの学園生活に胸をはせ、ユウキは、私立杉浦学園に足を踏み入れようとする。
次の瞬間、ユウキは後ろからぽんと肩をつかまれた。
軽いつかみ方ではない。赤色のネイルで綺麗に染められたその手は、容赦なくユウキの肩に爪を立てんばかりの勢いである。
__待て、紅いネイル?
ユウキの額に、冷や汗が滲む。まるで逃がす気のない肩の叩き方も、この赤色のネイルも、彼には覚えがあった。ユウキは、表情を引きつらせながら、ゆっくりと後ろを振り返る。
そして、振り返ったことを後悔した。
「よう、ヨワキ。久しぶりだなぁ?」
「ひっ」
地の底を這うような低い声に、ユウキは思わず小さく悲鳴を上げた。
無駄に良い笑顔を浮かべる彼は、その瞳がまったくもって笑っていないし、さらに言えば額には青筋が浮かんでいる。無駄に親し気にそういうのは、切りたくて仕方ない腐れ縁の、長瀬慎二だ。
シンジは、ぎっちりとユウキの肩をつかみながら、ニコニコと笑っている。もちろんその目は全く笑っていない。滲む怒りの気迫に恐怖しかなかった。
長瀬慎二は、所謂不良である。小学校のころには既に上級生を殴って病院送りにするような問題児であり、中学校ではもはや敵なしというありさまであった。初めて出会った小学校以来何故かこの男に気に入られたユウキは、ほぼ下僕扱いをされていたために、問題児の下っ端扱いで友達がいなかったのである。
事実上、彼から離れるために東京の学校を目指したと言っても過言ではない。だからこそ、ユウキは、表情を引きつらせながら言う。
「待って、シンジ、君、たしか県内の公立高校に進学するのじゃあなかったの?」
「んー? そうだな、お前が東京の学校に進学するって進学担当の先公に聞いたんだよなぁ。本当にギリギリだったぜ?」
「ひえっ……えっ、でも、杉浦学園の合格発表の時、君、いなかったよね……?」
既に大学院を卒業して就職している姉とともに合格発表を見に行った時、確かにシンジはこの学校にいなかったはずである。というか、シンジは杉浦学園の制服を着てはいない。ブレザーの色とネクタイが違う。
不良の彼でも、流石に初日から制服を着ていないわけではないはずだ。制服が着たくないというのなら、入学式に参加しなければいいだけなのだから。
シンジは肩をすくめて答えた。
「あったり前だろ、流石に学校までは教えてもらえなかったんだよ。だから適当に学校を選んで受験したんだっての。したら、てめえが隣の学校に入って行くところが見えた。まさか私立に行くとは思っていなかったぜ?」
そう言って指出すのは、まさにグラウンドを挟んで隣の工業学校。そこも、杉浦学園同様今日が入学式であるらしい。ユウキは、表情を引きつらせて戦慄した。
「山カンでここまで当てたの……?」
「運と勘は良い方なんでな。いい加減、実家の治安も悪くなってきたし、いい機会だったろ」
シンジはそう言って肩をすくめて見せた。冗談だろと問い詰めたいところだが、こいつはそう言う男なのである。
彼は少し複雑な出身であり、慎二の名前の通り次男であるのだが、事実上長男であり、家の中での優先度は三男以下なのだ。何を言っているのだかわからないとは思われるが、実際のところ、ユウキもそのあたりの事情を深く知っているわけではない。
だがしかし、一つ確実なのは、シンジがその複雑な家系のせいで命を狙われたことが度々あったということだ。そんな彼が治安が悪くなったというのなら、かなり危険な状態なのだろう。
ユウキはシンジから目を逸らす。そんなユウキに、シンジは小さく舌打ちをすると、短く言う。
「これから入学式か? 面倒な予感がしてんだ、参加しねえほうがいいぞ」
「そんなこと言われても……」
「俺は保健室に直行して帰る。あとで連絡入れるが、無視したら殴る」
「ひえっ」
シンジはそれだけ言うと、右手をひらひらと振って校門の前から離れていく。赤いネイルは、彼曰くお洒落ではなく爪が割れないようにするためらしい。ともかく、部外者である彼は、杉浦学園に足を踏み込むことはできない。しかし__
「さっきの何……?」
「こわっ、カツアゲか脅迫?」
ぼそぼそと聞こえてくる声の群れ。校門の前後から注がれる哀れみの視線。この時点で、自分の計画に破綻が生じ始めたことを、ユウキは理解せざるを得なかった。
ユウキは、がっくりと肩を落として、とぼとぼと教室へ向かった。
集合場所は、三棟ある校舎のうち、一番校門側にある第一棟校舎の三階。丁寧に清掃された廊下をローファーのまま移動する。この学校は、一部の教室等を除いて土足可能なのだ。
奨学金制度を利用できるコースは、他のコースよりも幾分人数が少ない。校舎入り口で受け取った名簿によると、ユウキの所属するクラスの生徒数は25人ほどらしい。中学校は1クラス40人以上が当たり前だったため、席と席の間に幅のあるクラスルームに足を踏み入れたユウキは、いささか教室が広く感じられた。
既にクラスルームの空席は半分を切っており、大半の生徒が席について配られていた麻薬防止やら違法取引防止やらの年に一度配られる例のパンフレットを読んだり、既に配られていた厚さ二センチばかりの学生便覧を眺めていたりした。
これだけの分厚さでありながら、学生便覧の表紙はわら半紙とほぼ変わらない粗悪な紙である。いくら紙が年々需要不足で高くなっているとはいえ、三年間使うはずの学生便覧がこれだけ頼りのない紙質で大丈夫なのだろうか?
そうこうしているうちに、席はどんどん埋まっていく。ユウキも遅れないように自分の席に着く。長嶋と言う苗字を持つユウキは、中央よりもやや後ろ気味の席であった。
机に座ったユウキは、そっと学生便覧をパラパラと読みながら、ひたすら考え込む。
__本当にどうしよう……
これだけ近い距離なら、九割九分、ユウキはパシリに使われる。しかして、学校から出て買い物をして、隣の学校の教室に移動するという手間を考えると、確実に時間がかかる。シンジに時間が割かれるということは、たとえ友達を作れたとしても社交時間が減る。すなわち、ボッチになる。
__知り合い一人いないここでボッチは嫌だ……!
奴のせいで友達ができなかったというのもあるが、逆説的に、シンジがいたからこそボッチは回避できていたのである。わざわざ友達を作るために下宿までさせてもらっているのだ。これで何の成果もないのは許されないし、ユウキ自身も嫌だった。
高校でできた友達は、大学以降でも友人である可能性が高いという。小学校中学校は義務教育であるため、それ以降の【学びたい分野】を求め自主的に学校を選ぶからこそ、価値観のあう人間が増えるためだろう。
そして、そこから類推するに、高校で友人が作れなければ、それ以降友達を作るのに相当難儀する可能性が高いのである。……いや、中学校時点で友人ができなかっただけでお察しと考えるのは止めてほしい。
友人と言うのは、基本的によほどのことがない限り何らかのつながりがあるものである。そのつながりが皆無な人間に関しては、基本的に良いうわさが立つことは相当まれであり、基本的には【ボッチ】のレッテルを張られたうえで敬遠されることになるだろう。話してみたら意外といいやつだった、という再評価の機会さえ与えられなくなる可能性が出てくるのである。
友達の友達は友達と言うが、そう言った繋がりがまるで作られないと、そもそもコミュニケーションの機会を失う羽目になる。とくに高校では地域に限定されていた繋がりが一気に全国規模になるため、張られたレッテルの共有速度は相当なものになる。
そうすると、当然ながら高校での評価が大学進学でも足を引っ張ることになりかねない。
__論文を読んだ限り、クラスへの入室時の挨拶も効果的……してない……!!
はがれたと思った【不良の下っ端】という不名誉極まりないレッテルが再度張り付けられた……と言うよりも、瞬間接着剤でがちがちに固定されてしまった事実で意識を飛ばしていたため、入室した時に挨拶をできていない。
ユウキは慌てて手元の座席表を見る。名前を見る限り、前の席は女子、後ろの席は男子、右隣は男子、左隣は女子。前の席の女子と左隣の女子は既に二人で話を始めているため、ここで口を挟むのはただの馬鹿だ。空気を読めないキモイ奴と言われてもおかしくない。
ならば右隣の男子……と思ってみれば、髪を明るく染めた彼は既に女子を含めた六人少しのグループで会話をしている。うん、無理だ! 割り込む勇気がない!
なら、後ろ……!
期待を込めて振り返れば、そこは空席であった。
「……えっ」
思わず小さく声が漏れる。何故、何故いない?!
ユウキのその疑問は、六人組のグループから聞こえてきた声で判明した。
「俺は新井田正義っていうんだ。よろしく!」
「おー、よろしくー」
__あああああああああ、そっちにいたのか!!
座席表は、まだ入学式の直後と言うこともあり、名簿順になっている。長嶋の後ろは、新井田となっていた。
__まって、待ってくれよ! よりにもよってここで孤立するか?!
ユウキは表情がこわばらないように気を付けながら、前の席と左隣の席を盗み見る。前の席と左隣の席の女子は意気投合したのか、楽しそうにタブレットを見せ合っている。だがしかし、隣同士でないため、若干手を伸ばすような形になっている。もちろん、右隣も同様である。
このポジションはそうだ。お昼の時に限りなく邪魔なやつなのだ。一つ席がずれていたらなー、と思われていたり、むしろ勝手に席を使われるポジションだ。
この教室は、人数が少ない都合上座席間隔が微妙に広いため、隣同士や前後でなければ、基本的に若干遠いと感じられる配置となっている。つまり、絶妙に邪魔なのである。
__そうだ、僕と同じように学生便覧を読んでいる人に声をかければ……!
そう思って顔を上げた次の瞬間、がらりと教室の引き戸が開けられる。
入室してきたのは、新任らしい若い女性の教職員。彼女はニコッと笑顔を浮かべると、明るい声で言った。
「入学式が始まるので、移動しますよー。名簿順に体育館へ向かってください!」
__あああああああああ、マジか!!
その言葉の直後、全員がゆっくりと立ち上がる。まだ誰が学生便覧を読んでいたのかわかる前に。
ユウキは、心の中で頭を抱えて絶叫した。……前途多難である。
【赤色のネイル】
所謂ネイルコート剤と言うやつである。爪が弱かったり、うすかったり、爪を噛む癖がある人が爪を保護するために使用する。
割と頻繁に喧嘩をするシンジは、割と爪を割りやすく体質的に二枚爪になりやすかったため、ネイルコートをしている……が、実のところは半分以上お洒落目的である。
ちなみに、一番シンジがこじらせていた時に、『爪が赤いのは喧嘩相手の血を爪に塗っているため』という妙に猟奇的な噂が立ったが、もちろんそんな訳はない。当然本人も否定している。
シンジ「俺はエリザベート・バートリーじゃねえんだぞ」