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風裂きて征くは水な方の竜(下)

「おや、水守くんじゃない。久しぶり」


「お久しぶりです」


夏休みが終わり、授業が再開された。と言っても今日は学校のない土曜日。塾からの帰りに奏人は幼い頃から幾度も足を運んでいる図書館を訪れていた。

見慣れた司書の女性が書架の間から顔を覗かせ、ひらひらと手を振っている。


「今日はどうしたの?受験勉強?」


「あ、いや…それもあるんですけど」


「ふうん?」


「ちょっと調べたいことがあって」


「これはこれは。ちなみに何を調べるのか聞いても?」


「えっと……司書さん、建御名方って神さま知ってますか?」


その名前を聞いた女性は眼鏡の奥の目を丸くした。


「ええ、ええ、知ってるわ。知ってるけど…水守くん、よく建御名方神なんて名前を知ってるわね」


「驚くことなんですか?」


「まあ、なんていうか…お社は有名だけど神様の名前としてはあまり知られてないかもね。〝お諏訪様〟とか〝諏訪大明神〟とか言った方がわかる人は多いかも」


「マイナーなんですか?」


問うと顎に手を当ててしばし考え込む様子を見せる。


「…どうなのかしら……水守くんは他に知ってる神さまとか、いる?」


天照大御神あまてらすおおみかみとか須佐之男命すさのおのみことくらいなら…」


「そうよね。たいていの人はそのあたりの神さまならわかる。でも建御名方神はきっと知らない人の方が多いんじゃないかしら」


「どんな神様なんですか?」


「ううん……難しいわね…私としては興味深いというか、ミステリアスな神さまっていう印象が強いわね」


「ミステリアス」


「そう。建御名方神が登場するのは『古事記』の上巻、それも国譲りっていうかなり重要なシーンの一部分にしか登場しないの。大国主神おおくにぬしのかみの子供だって言われてるけど系図の中には存在してなくて、旧暦の十月に日本中の神さまが出雲に集まる時にも建御名方神は自分の社に留まったままだって聞くわ」


なにより…と彼女は言葉を続ける。


「これは人によって評価が分かれるところだけど…命乞いをするの」


「命乞い?」


「ええ。建御雷神たけみかづちのかみに負けてね…」


たけみかづち、という響きは耳に覚えがある。

確かあの日、神社に現れた男をミナカタ───建御名方はそう呼んでいなかっただろうか。


すいませーん、と誰かの声に我に返った奏人。

どうやらその声は司書を呼んでいたらしく、はぁい、と返事をして女性は奏人に向き直る。


「ごめん、ちょっと行ってくるね。『古事記』だったら奥から二番目の棚の左上の段に置いてあるはずだから探してみて。建御名方の登場するシーンは国譲りの章段だからね」


「ありがとうございます、探してみます」


ぱたぱたと司書の女性が去ったあと、奏人は分厚い本がぎっしりと並ぶ書架に目をやった。


「奥から二番目の棚…」


古くなった本のにおいが鼻に届く。不思議と嫌なものではなく、どこか安心するそれだ。


「左上の段…」


奏人の探しているものはそこにあった。いくつか種類があるなかでどれを手に取ったものかと迷ったが、とりあえずは『古事記(上巻)』と背表紙に記された本を棚から抜き出してみる。


「国譲りってどこだ…?」


目次を目で追っていると〝国譲り〟という文字はあっさりと見つかった。しかしながらその他に気になる言葉を見つけ、続く単語に心臓がごとりと音を立てる。はやる気持ちを押さえながらいささか埃っぽいページをめくっていった。


「……」


手を止めたページには〝建御雷の派遣〟の文字。その数ページ先には〝建御名方の服従〟の文字が書かれていた。


喉が渇く。

もしかしたら自分は、知ってはならないことを知ろうとしているんじゃないだろうか。

それでもなお、文字を追い続けることを止められそうにはなかった。






それはまだ地上の其処此処そこここに様々な神がいて、人々が自然を畏れ敬いながら生きていた頃の物語である───。


天照大御神は自分の孫にあたる邇邇芸命ににぎのみことに地上を治めさせようと考えた。

けれども地上は大国主神おおくにぬしのかみを中心とした国津神たちが治めている。


ならば国津神を説き伏せてしまえば良い。


そう考えた天の神々は幾度かの失敗の後に建御雷神たけみかづちのかみを派遣し、地上の神を従わせるよう言いつけた。


建御雷が向かったのは出雲にある伊那佐いなさの浜。そして彼を出迎えたのは出雲において最も有名で最も力ある神、大国主神。


出迎えた国津神に対し、建御雷は白波に柄の部分を下にした剣を立て、自らはその剣先に胡座をかいて座り居丈高に言った。


「これから我らが天照大御神の御令孫であらせられる邇邇芸命がこの地上を統べることになる。よってお前の持つ統治権を引き渡せ。これは命令だ」


しかし大国主もながく地上を治めてきた身。簡単には頷かない。


「私には事代主ことしろぬしという息子がおります。息子があなたの言葉に従うのであれば、私も従いましょう」


さっそく建御雷は事代主のもとへ向かう。

突如現れた天津神に面食らいつつも、仔細を聞いた事代主は「あなたの言葉に従います」とだけ言うとどこかへいなくなってしまった。


「事代主は従ったぞ。他に文句を言う者はいるか」


「息子がもう一柱。建御名方があなたの言葉に従うのであれば、私もあなたに従いましょう」


そう大国主が述べた直後、猛々しい声が波の音をかき消した。


「誰だ!俺のあずかり知らぬ場所で陰口をたたいているのは!!」


千人が束になっても到底持ち上げることはかなわないであろう巨大な岩を持ち上げてやって来たのは、大国主の息子にして事代主の弟神である建御名方。


雄々しき男神は侵略者である天津神を睨みつけるとその腕を引き掴もうと手を伸ばした。


「…痴れ者が」


低く呟き小さく舌打ちをした建御雷はたちまち自身の腕を氷に、次いで鋭い刃に変えてみせる。


「……っ」


さすがの建御名方もこれには怯んだ。その一瞬をついて今度は建御雷が国津神の腕を掴む。


「たかが国津神の分際で、私に触れられると思うな」


そして。


「ぐ、あぁぁあぁっ!」


まずい、と感じた瞬間にはもう何もかもが遅かった。

若い葦でも握り潰すかのような容易さで剛腕を誇る腕が潰され、気づけば地面に叩きつけられていた。

完全に恐れをなした国津神は建御雷から背を向け、出雲を出て東へと逃げていく。


しかし天津神はそれを放っておくほど優しい神ではなかった。逃げられればもちろん、追いかけるのみである。


遠くとおく、脅威から逃れるために建御名方は東を目指す。

やがて諏訪のあたりまでやって来た頃、振り返ったその顔は色をうしなった。


「私はまだお前の答えを聞いていない。さあ言え。我ら天津神に従うか、ここで生を終えるか」


「し、従う!父上にも兄上にも背かず、この地から離れぬことを約束する!だから…だから命だけは助けてくれ!!」


神たる者が命乞いなど。普段の建御名方であれば絶対に口にしなかったであろう。しかし己の理解の及ばぬ力を持つ天津神を前に、建御名方はただただ惨めに泣き叫ぶほかなかったのだ。


聞き届けた建御雷は満足そうに頷き、大国主のいる出雲へと戻っていった。


「弟神も従ったぞ。今度はお前の番だ」


「…従いましょう。地上は天の神々のもの、我らは退きます。その代わり、私を丁重に祀ることを約束してくだされ」


「委細承知した」


大国主はそうして地上の統治権を譲り渡し、神話の舞台から降りていった。そして物語は邇邇芸命の天降り、すなわち天孫降臨へと進んでいくのである───。





ミナカタ───いや、建御名方が登場するのはこのシーンだけだった。そのほかには名前すらなく、言ってしまえば急に登場して建御雷に喧嘩をふっかけたと思ったらあっという間に負け、挙句の果てには命乞いまでする始末。

神にあるまじき醜態である。


しかし。


突然現れて国を譲り渡せと言ってきた建御雷に反抗の意思を見せたのは建御名方だけであった。

大国主は息子たちに決定権を委ね、兄である事代主はあっさりと統治権の移譲を認め。

建御名方だけが戦ったのだ。

建御名方だけが真っ向から勝負を挑み、敗北者の汚名を被ったのだ。

腕を潰されみっともなく命乞いをしたとしても、彼が天津神に立ち向かった事実だけは変わらない。


そんな建御名方を、どうして責めることができるだろう?

護りたいものを護れなかったと己を責め続ける男神を詰る権利が、いったいどこにあるというのだろう?

彼のために、ただの人間である自分は何ができるというのだろう?


閉館時間を知らせる放送が館内に響くまで、奏人は色褪せた本を手に立ち尽くしていた───。







母が金切り声をあげた。父は珍しく驚いたようにこちらを見た。


「ちょっと奏人、あなた何を言っているかわかってるの!?」


「わかってる。ちゃんと自分の頭で考えた結果なんだ」


図書館から帰り普段通りに夕食を済ませ、奏人は意を決してただ一言、こう口にした。

「進路を変更したい。教師にはならない」と。進路に選んだ大学は私立大学だった。


「今まで、父さんと母さんの言うことが正しいんだと思ってやってきた。確かに教師っていう職業は大切だと思う。なきゃならない仕事だと思う。でも…俺がその道に進んだところで、本当に幸せになれるのかなって、思って……」


「何言ってるの!父さんと母さんは奏人のために…」


「うん、わかってる。俺のことを真剣に考えてくれてるってことはわかってる。……でも、俺が俺自身のことを真剣に考えてなかったんだ」


両親の言葉のままに生きてきた。自分はまだ子供で、自分の人生に対する責任の取り方なんて知らなくて、だからこれが自分のためになるのだと思って疑問など抱かずに、いや、抱かないように進んできた。


「やりたいことができたんだ。もっと知りたいって思うことが…他の誰でもない、自分の意思で勉強したいって思えるものに出会ったんだ」


「何を勉強するっていうの?」


「……日本神話」


建御名方だけではない、この国には奏人の知らない神々の物語があふれているのだ。それらをただひたすらに学びたい。どこかヒトらしい部分を持ち合わせたヒトではない彼らのことを、もっと知りたい。

ちいさな声で打ち明けた奏人に対し、母は予想通りの反応を示した。


「そんなもの勉強してどうするの?将来の役に立つの?」


「それ、は…」


いくら予想通りの反応とはいえ、それに対する反論の言葉を奏人はまだ持たなかった。

しかし。


「母さん。それだけは言っちゃいけない」


今まで一言も言葉を発していなかった奏人の父がかたく、きっぱりと言った。


「子供の学びたいという意思は何よりも貴重だ。そしてその芽を摘むような行いは、絶対にしてはならないことだ」


「でも、神話なんて勉強してそれが将来どう役に立つっていうの?」


「将来の役に立つものしか勉強してはいけないのかい?」


その言葉は父としての言葉だけでなく、一人の教師としての言葉でもあった。


「将来の役に立つことしか学んではならないというのなら、哲学や文学といった学問の必要性はなくなってしまう。いや、もっと多くの学問が不要と切り捨てられるだろう。それでも今なおそういった学問を学び続ける若者はいる。どうしてかわかるかい?……面白いからさ」


興味を持つこと、好奇心のままに動いてみることこそ学びなのだと、奏人の父は言った。


「たとえそれが将来の役に立つかどうかもわからないものだったとしても、何かを一生懸命になって学んだという事実は本人のなかに残る。そしてそれは無駄になるようなものなどではなく、いつか自分自身に返ってくるんだよ」


「父さん…」


「奏人。これから進路を変更するとなると、それなりの覚悟が必要になる。勉強の仕方だって多少なりとも変わってくるだろう。それを承知の上で、進路を変更したいと言うんだね?」


「うん」


「ではやりたいようにやってみなさい」


「…いいの?」


「いいも何も、日本神話を学びたいんだろう?」


「そ、そうだけど…」


「なら学ぶべきだ。きっとそれは奏人の糧になるだろうから」


自室に戻っても驚きはなかなか消えてくれなかった。今まで父は息子のことにあまり関心がないと思っていたから。父にとっては息子も〝生徒〟のひとりで、干渉し過ぎず、少し離れたところで押し黙っているような人だったから。だから、奏人の意見を否定することもなければ肯定することもなかった。


けれど初めて、奏人の側で奏人の味方になってくれた。「それで良い」と言ってくれた。

それがなんとも嬉しくて、その嬉しさの片隅で奏人は建御名方のことを考える。


建御名方の在り方を、「それで良い」と言ってくれる誰かはいるのだろうか。

側にいて味方になってくれる、家族のような存在はあるのだろうか。


「かぞく…」


ベッドに転がり、呟いてみて気づく。建御名方の絶対的な味方になってくれるであろう存在が一柱ひとり、いるではないか。

そうと決まれば善は急げ。あの神・・・が祀られている神社が近くにないか、スマートフォンに指をはしらせるのであった。






あれから人間の暦に合わせると三週間ほどの時間が経過した。他の社に移ることを幾度も考えたが、もう一日、あと一日だけここにいようと思っているうちに随分と時間が経ってしまった。

あの少年が鳥居をくぐってくることはなく、やはりな、と唇を歪めてみせる。

聡い彼のことだ、おそらくはどこかで己と天津神とのことを調べたのだろう。負けた挙句に命乞いをし、地上の統治権をいとも簡単に奪われた情けない神の物語かこに、少年も呆れかえったに違いない。


けれど。


それは嫌だな、と思う己がいる。父の期待にも兄の信頼にも報いることのできなかった自分だけれど、真っすぐな瞳で己を見つめてくるあの少年のねがいにすら応えられないまま諦めて、受け入れて、またこれまでのように彷徨う日々に戻りたくはない、そう思う己がいる。


「しかしそれも、もう遅いのだろうな……」


失ったものを取り戻すのは難しいということを自分はいやというほど知っている。

だからそう、きっとまた諦めて、受け入れて、一柱ひとりの日々に戻るだけなのだ───。







考えたのは、「もしも現れてくれなかったらどうするか」ということであった。

きっと建御名方も奏人が古事記を調べたことを薄々勘づいているに違いない。だとすれば、他の社に移ってしまっていても不思議はないのだ。


「みな…建御名方神、いますか」


初秋のどこかひんやりした風とともに鳥居をくぐる。色を変え始めた木々の葉は社の祭神の胸の内に共鳴しているようで、単なる感傷だとわかっていてもこの風景のなかに一柱ひとりで佇む男神の姿を想像して奏人は拳を強く握った。


「建御名方神、いますよね」


傍目から見れば奏人は何もない空間に声をかけ続ける頭のおかしな高校生に思われたかもしれない。しかし今の奏人にそのようなことを気にする余裕はなく、さらに幸運なことに境内には人っ子ひとりいなかった。


───いたのは人ならざる者ただ一柱ひとり


「み…建御名方神」


「……なぜ来た」


何の感情も読み取れない眼差し。冷ややかな声音は氷の刃のように奏人の背筋を撫で、目の前の男は確かに自分とは違う存在なのだと嫌でも思い知らされる。


けれど、ここで怯んではならないのだ。

たとえ違う世界の存在でも、心があり、悩みを抱え、過去に縛られている。

そしてそんな過去に触れてしまった以上、奏人には伝えなければならないことがある。


「…古事記、読みました」


「……っ」


「建御雷神に勝負を挑んだ結果、負けた建御名方神は命乞いをして…最終的に地上の統治権を天津神に譲ることになるんですよね」


「……」


しまい込んで忘れたくて、そんな過去ものがたりを無理やりに引きずり出されることの何と哀れで無慈悲なことか。

それでも人間の少年は語りかける。悲しい、かなしい神を縛る鎖をどうにかして解こうと試みる。


「確かに、負けて命乞いをするなんて神さまらしくないって思う人もいるかもしれない……でも、俺はそう思わない」


「口ではどうとでも言える」


「わかってます。けど、読んでいて気づいたんです。建御雷神に対抗しようとしたの、建御名方神だけだってことに」


護ろうとしてくれたんじゃないんですか。得体の知れない侵略者に地上を統治させるわけにはいかない、そう思ったんじゃないんですか。

そう人間は問う。


「…違う」


神は力なく首を振る。

父は決定権を放棄し、兄は早々に引き下がり。

勝手に話を進められていることに怒り、丈夫さだけが取り柄の自分ならなんとかできるのかもしれないと、おごった。


「そんな綺麗なものではない。…ただ己の力ならばどうにかできるのではないかと…国津神のなかで最も強いと褒めそやされた俺ならば、父や兄の期待に応えられる、そう思っただけだ」


だからこれは罰なのだ。

驕りによって敗北し、己が命可愛さに惨めに国を明け渡した国津の神の、最もふさわしい末路なのだ。


「…神無月には出雲に国中の神々が集うことを知っているか」


「なんとなくは。向こうでは〝神在月〟って言うんでしたっけ」


「そうだ。人の子たちはそれを〝神議かみはかり〟と呼んでいるらしいが。あの一件のあと出雲には大社が建てられ、そこで開かれる神議りに俺は一度だけ参加した。諏訪の地から出ないとは言ったものの、諏訪の信仰の中心にある者として顔を見せねばならぬと考えたからだ。……それが間違いだった」


「何があったんですか」


「『国を売った神が今更何の用だ』と…『お前は国津神の面汚しだ』と、そう言われた」


「そんなの、あんまりじゃないですか!」


思わず声を張り上げた。その場に居合わせた神ではないからこそ、どうとでも言えるのだろう。

そしてその言葉が、この勇ましい神を縛り上げることとなったのだ。


「だが事実だ。己の命と引き換えに地上の統治を赦したのだから。だからこそ、あの場にいた父上も兄上も何も仰らなかった。このような弱い神を、身内と思いたくもなかっただろうからな」


「それは、違いますよ」


物静かな、それでいて芯の通った声が境内に響いた。慌てふためいて逃げ出そうと試みる建御名方の腕を掴んだ奏人の手には、そう簡単に外せない力と気迫が籠っている。


「あ……」


捕まえた腕を通して小刻みな震えが伝わる。そうしている間にも声の主は玉砂利を踏みしめこちらに近づいて言った。


「久しいですね、建御名方」


「あに、うえ…」


優しく微笑みかける中性的な顔立ちの男神は建御名方の兄、事代主神ことしろぬしのかみ


「な、なぜ…」


「なぜここにいるのか、ですか?そこの少年に呼ばれましたので」


非難と困惑の入り混じった視線が奏人を貫く。申し訳ないとは思いつつも、まだ腕を放してやることだけはしない。


「そうです。事代主神を祀ってる神社まで行って、どうにかここに来てくれるように頼み込んだんです。だってこうでもしないと、すぐに逃げるでしょ?」


「……」


目には目を、歯には歯を。神には神を。ただの人間がこの頑固な神に何を言った所で聞き届けてくれるとは思えなかったので、彼の心にいちばん効果をもたらしてくれそうな神は誰か、真っ先に思い浮かべたのは建御名方を気にかけていた事代主だ。


しかしながら兄神を呼ぶのは容易なことではなかった。彼を祀る神社はそう多くなく、いちばん近い社でも電車を何度か乗り継いで数時間かかるというところ。それでも行った。お互いがお互いを勘違いしたままのこの兄弟たちのために何かができるのは自分だけなのだからと、そう言い聞かせて。


「仔細はすべてそこの彼から聞きました。それを踏まえた上で、建御名方。おまえに言っておくことがあります」


びくりと背筋を震わせて居住まいを正す建御名方。

奏人が手を放してももう逃げようとはしなかった。それだけのプレッシャーが、事代主からは放たれていたのだ。


考えの読めない表情で事代主は弟神との距離を一気に詰めていく。

さらに身を固くした建御名方の腕を、今度は兄が引いた。


「兄っ……!?」


体勢を崩した弟の身体を、兄はそのほっそりとしたしなやかな腕で以外なほど強く抱きとめた。


「…すまなかったね」


建御名方は目を白黒させることしかできずにいる。そんな建御名方の広い背中を、まるでちいさな子どもをあやすかのような優しい手つきで撫でさする事代主。


「おまえはずっと己を責めていたのだね。責めるべきは私だというのに…」


「違っ…おれが、俺が負けたから…」


諏訪の男神の目から涙が溢れる。それは次第に清い流れとなり、静かに困惑しつつも、弟神は安心しきった子どものように泣いていた。


「それを言ってしまったら、私などは戦うこともせずに逃げ去った臆病者だ。おまえはあの天津神に真っ向から立ち向かったというのに。神議りの時だって、私はおまえを守ってやることができなかった……どうか…この情けない兄を赦しておくれ」


「兄上は情けなくなど…!」


「……そうか…おまえはそういうだったね。私はてっきり、おまえに愛想を尽かされたとばかり…」


「愛想を尽かされるのはむしろ俺の方です!」


声を張り上げた建御名方に事代主は一瞬だけ垂れ目がちなそれを丸くしたあと、実にやさしく微笑んだ。それはまるで神代の昔から厚い雲に覆われていた空に光が見えたような心地であった。


「…私たちは永い間、こんなにもこの国が変わって人と神とに大きな隔たりができてしまうまで、なんとも愚かな勘違いをしていたのだね」


本当はずっと、こうして顔を合わせて話がしたかった。

けれど自分には兄に、弟に合わせる顔がないからと言い聞かせて、その気持ちに蓋をした。


「言によって事知らす神のこの私が言葉足らずなど……まるで神らしくない」


「…それで良いのだと思います、兄上」


「……?」


「神も人も、間違いを犯すもの。間違いは改めれば良いではありませんか。いにしえの過ちを無きものとすることはできませんが、それでもこうして再び兄上の手を取ることができる…これ以上に嬉しいことは、この建御名方にはありません」


「おまえは…」


会わなかったこの永い間で、弟は強くなった。おそらく己でも気づいていないだろうが、それでも確かな心根の強さを、兄はしっかりと感じ取ったのだ。

それはきっと、この建御名方という神が人々に信仰され、愛され、その期待に応えようと足掻いてきた証。


もう一度、兄は愛おしい弟を力いっぱい抱きしめた。


「話をしよう。これまでのことを、これからのことを。おまえの見てきた景色や感じたものすべてを、この兄に教えておくれ」


「兄上のようには上手く語れませんよ」


「それでも構わないよ。おまえのことを、おまえの言葉で聞かせてくれたら、それで良い」


「…ではいつか、兄上のことも教えてください。好きなもの、苦手なもの…釣りもしてみたい」


「ああ教えるとも。私のことも、釣りも。器用なおまえならすぐに私よりも上手くなってしまうだろうね」


腹違いの兄弟神は悪戯を思いついた子どものようにくすくすと笑った。


そんな光景を「丸く収まって良かったなぁ」などと暢気に考えながら眺めていた奏人は、急に声をかけられて心臓が飛び跳ねる心地がした。


「奏人くんと言いましたね。今日のこと、心より感謝します」


「いやそんな、感謝だなんて…」


「君がいなければ、建御名方と私がこうして再び相見あいまみえることはなかったでしょう。私たちの憂いを晴らしてくれたこの喜び、どれだけの言葉をもってしても表せません」


「は、はあ……」


「それでは名残惜しいですが、私はそろそろ自分の社に帰ります。建御名方、」


再度弟へと向けられた事代主の表情は、兄としてではなく一柱の神のそれであった。


「もうすぐ神議りがはじまる。どうかその時には出雲に来てほしい。気はすすまないかもしれないが、父上に顔を見せてやってくれ」


「……考えておきます」


「ええ。…ああそうだ、言い忘れていましたが、なんだかんだいって、建御雷神もおまえのことを気にかけているのです。嫌わずに接しておやりなさい」


「それは向こうの出方次第ですね」


「まったく…」


ため息を吐くがその横顔は至極楽し気である。それはそうだろう。


「ではいずれ。奏人くん、弟を頼みましたよ」


「兄上っ」


「た、頼まれました……」


ぱんっと柏手の音がひとつ境内に響いてこだまする。聞こえるはずのない海の声がそれに重なり合ったかと思うと目の前で幻の波がはじけ、兄神の姿はもうどこにも見えなかった。


「き、消えた…」


「…まったく…ただの人間がよくもまあ兄上のところに押しかけたものだ…」


「それしか思いつかなかったもので……」


奏人は乾いた笑いをこぼすことしかできない。


肩の荷が下りたような不思議な感覚を味わいながら岩に腰かけた建御名方は、ぐっと背を逸らして天を見上げた。

夏がおわり、秋がやってこようとしている。

夕暮れに灰の色がかかり始めた空はなお淡い日の朱をその場に留め、夜へと向かう名残惜しさをささやいていた。


「とうの昔に、俺は赦されていたのだな…」


「もともと怒ってなんていなかったんですよ」


「…そうか……」


「そうです」


建御名方の隣に座った奏人の前髪を涼しい風が揺らす。どこか煙にも似た秋のにおいが鼻をくすぐり、謂れのないもの寂しさにじっとしていられなくて口を開いた。


「そうだ、ひとつ言おうと思ってたことがあって」


「なんだ?」


「俺、ちゃんと自分の頭で自分のやりたいこと、考えようと思うんです」


「そうか」


「今まで親の言うことが一番正しいって思ってたけど…でもそれじゃあ俺の考えはどこに行くんだろうって。確かにこのまま親の望むような勉強をして、〝安定した将来〟っていうものを手に入れることは大切なのかもしれないけど…でもそれって、結局は〝親の望んだ自分〟でしかないんだなって思って。もしもこの先〝自分の望む自分〟ができた時、自分の頭で考えたことを信じてやれる自分になりたいなって……気障ですかね?」


「…いや、己を信じることは他者を信じることよりも難しいが、大切なことだ」


こちらを向いた建御名方の眼差しはやさしくて、人を慈しむ神の何たるかを垣間見たような気がした。


「そういえば神議り、行くんですか?」


「……まだ、迷っている」


「え、迷ってるんですか?」


「ああ。行けばかつて放たれた言葉を思い返して怖気づくやもしれん。だが、ようやく父上にお会いできる好機なのではないかと思うと…己を奮い立たせるとは、言うほど容易くはないようだ」


出雲の父は息災だろうか。その想いは、諏訪に縛られた頃からいつも男神の頭の隅に居座り続けた。

しかし出来の悪い己をまだ息子と言ってくれるだろうか、そんな考えが頭を占めるようになってからも久しい。

己がより強く、より神らしい神であったらこんなふうに悩んだりはしなかっただろうと思うが、隣で足元の猫を撫でている少年は違うようで。


「まあ、神さまにも怖いものってありますよね」


……それで良いのか。

きょとんとした黒い眼がこちらを見る。どうやら言葉に出ていたらしい。


「…良いんじゃないですか?個性豊かでどこか人間じみていて…日本の神さまって、そういうところが面白いと……あ、すいません」


「なぜ謝る?」


「え、だって結構失礼じゃありませんでしたか?今の発言」


「そうか?」


「…何というか……つくづく神さまらしくないですよね…建御名方神って」


「む、今のは聞き捨てならんな。俺とて神の一柱、神らしく振舞おうと思えばできるはずだ。…ああそうだ、できるはずなんだ。…ところで〝建御名方神〟はやめてくれないか?今まで通り〝ミナカタ〟で構わん」


「……そういうところですよね…」


神も人も、到底完璧ではいられない。過去に縛られ、何かに怯え、迷いながらこの世界に在り続けている。

それで良いのだろう。それが良いのだろう。迷いは、苦しみは、過去ものがたりは、己を形づくるすべてだ。それらを抱えて、神も先へ進むことができるのならば。


「まあ、俺はあのいけ好かない建御雷よりも広く信仰されているからな!庶民派というやつなのだろう!」


「そこは張り合うんだ…」


きっと変わっていけるはずだ。より良い方向へと。


「さて、そろそろ帰った方が良い。秋の夜は足が速いぞ」


「うわ、もうこんな時間だったんだ。それじゃ俺帰りますね!また来ます!」


「…ああ」


鞄を引っ掴んで忙しなく社を後にする若者の背を見送り、神はしばしその場に立ち尽くした。







どこかで草叢くさむらの虫が高く鳴く、夜。


迷っている。

その言葉に偽りはない。

そもそも最後に出雲を訪れたのはいつのことだったか。己が今更神議りに参加したところで特別に何かが変わるとも思わない。このまま今までのように諏訪やその名を冠する社に引きこもっていても良いが、それでは己の道を見つけたあの少年に示しがつかないではないか。

出雲に行こうと行くまいと彼は変わらずここに足を運んでくれるのだろうが、それでもいささかの落胆はするに違いない。

そう考える己に小さな笑いがこぼれる。


「……神とて縁に動かされるということか…」


不思議なものだ。人同士に縁があるように、神と人にも縁がある。かつての自分はそれを知っていたはずなのに。


「…そうか」


縁を繋ぐということ。それは神も人も変わらない。そこにはいつも驚きと喜びとがあって、己ではない誰かと誰かの出会いすら、以前は面白いと思っていた。


「引きこもっている間に、俺も鈍ったかな…」


心は決まった。後はそれを言葉にする度胸を呼び戻すだけだ。


月が明るい。

冷たくも柔らかな真白い明かりで身を清めるように、建御名方は目蓋を閉じ祈りを捧げている───。






「しばらくって、どれくらいですか?」


「さてな。少なくともふた月は戻らんだろう」


十月に入り、風が熱をはらまなくなった頃。

そんな折に建御名方は突然、「しばらくここを留守にする」とさも何でもないことのように口にした。

いや、彼からしてみれば本当に何でもないことなのだろう。そもそもここは数多くある社のひとつ。今までが長く留まり過ぎたのだと思えば、他所の社に移ることは不思議ではない。


そして何より、来月からは神議りが始まる。

旧暦の十月、すなわち現代でいう十一月になれば出雲では各地の神を迎える神事を執り行い、神たちは続々と出雲に集まっていく。

はっきりと言葉にはしないが、きっと建御名方もようやく神議りに参加する決意を固めたのだろう。

内心ほっとしつつもどこか寂しさのようなものを感じずにはいられない奏人であった。


夏の初めから足繫く通ったこの神社。鳥居をくぐれば必ずと言って良いほど建御名方がいて、彼のいないここがどのような場所であったかを想像できない。


「……どうした?」


建御名方が気遣わしげにこちらを覗き込んでいるが、せっかくの彼の決意がここで揺らいではいけないと笑顔を貼りつけた。


「いえ!しばらく話せなくなるなと思って」


「ならば今度はお前が諏訪に来れば良い」


「え…と、今すぐとかはさすがに無理なので受験が終わったらですかね」


「そうか!来てくれるか!」


途端に満面の笑みが眼前で広がる。散歩に連れて行ってもらう犬のようだと思ってしまったのは口が裂けても言えない。


「その〝じゅけん〟とやらが終わるのはいつだ?」


「二月頃だと思いますけど…」


「承知した。ではそれまでには諏訪に戻っているとしよう」


「…本気ですか?」


「なんだ、来てはくれないのか?」


目の前で国津神最強の男がしゅんとうなだれている。これが演技などではないのだから恐ろしい。


「───っわかりましたよ!行きます!行きますから!!」


「そうか。ではこれを渡しておこうな。腕を出せ」


「なんですか?」


差し出した左腕。その手首に、建御名方は紐のようなものを取りつけた。


「護符とでも思え。効果があるかどうかはわからんが、ないよりはましだろう」


「石がついてる」


濃藍と水縹みはなだ色とをり合わせた紐に、ひとつだけ丸く綺麗に磨かれたみどりの石が通されている。


「翡翠だ。諏訪の社に行けば、翡翠の神籤みくじなどもあるぞ」


「翡翠…」


「俺の母上に所縁のあるものでな。古来の人間はこれを魔除けに用いていたらしい」


「じゃあこれ、ものすごく効果がありそうですね。なにせ神さまから貰ったものですから」


「さてなあ。所詮はただの石に過ぎん。ただの石に意味を見出すのは良き結果を得た人間の仕事よ」


だから今度はきみがその石に意味を見出してやってくれ、と男神はどこか挑発的な顔で笑う。しかしそんな表情も一瞬のことで、ひどく真剣な顔つきになったかと思うとその口から放たれた言葉は厳かに神聖に、まさに神のそれに相応しく心のなかを貫いた。


「───武運を」


風と水の神であり狩猟の神でもあり、豊穣の神にして東国有数の戦神。そんな神からの言祝ぎが、意味をもたないはずがない。


「ありがとう、ございます」


少年は自らの道を見出し、神は己を縛り続けることをやめた。

そうして神と人の不可思議な日々は、ひとまず幕引きを迎えるのである───。






「や、やっと着いた…」


三月上旬。

長野県、上諏訪。とある神社の境内にて。


諏訪の地に到着して一日と数時間が経っただろうか。

まさか社が四つもあるとは思わずどこから廻ったものかと迷ったものだが、せっかくなら一番大きな社は最後に向かおうと考えて予定を立てたのだ。


「でか…」


地元にあった分社とは比べものにならない規模の総本山。空気はどこよりも清らかで、それでいて不思議な重さを全身に感じた。

例えばそう、何かからプレッシャーを受けているような。

今であれば、この場所に何かがいると言われても納得してしまうだろう。


龍の口から水が吐き出されている造りの手水舎で手を清め、昼過ぎで人もまばらな本殿に足を向けた。


これまで下社秋宮、下社春宮、上社前宮と三社を参拝してきたが、やはりこの上社本宮の本殿が最も立派な気がする。

賽銭箱に小銭を投げ入れ、二回頭を下げ、拍手も二回。何かを願うというよりは挨拶をする気分だ。


お久しぶりです、お元気ですか。俺は元気です。

受験が終わりました。自分のなかでは納得のいく結果になったように思います。

父さんと母さんも喜んでくれました。四月からは大学で…


「久しいな」


「───!」


聞きなれたはずのあの声が、今はなぜか別人のように聞こえる。

おそるおそる振り返ると、粗野ななかに神聖さを秘めるあの男神が佇んでいた。


「み…建御名方神」


「ミナカタで良い。見ないうちに少し顔つきが変わったようだな?奏人よ」


「ミナカタさんは、向こうにいた頃よりも神さまみたいな格好をしてますね」


「これでも神だからな」


銀灰色の着物はうっすらと鱗のような模様に覆われており、頭には細い金の環を嵌めている。括られていた髪は今は縛られておらず、山のひやりとした風が時折遊ぶように持ち上げていた。


「どうだ、この諏訪の地は」


「山と川と湖と…って感じですね」


「何もないだろう?」


「ええ。でも…広くて澄んでいて……ミナカタさんみたいな所です」


「……そうか」


見上げたミナカタの口元は柔らかく緩んでいた。


「…昔はな、」


参拝客に目をやったまま、ミナカタが口を開く。


「この地に縛られた当初は、何もないこの土地が嫌でたまらなかった。海はなく山に囲まれているゆえに息が詰まるようだった。しかし俺は負けた者。言葉にした以上、この地を離れるわけにはいかぬ。時が経ち信仰とともに多くの社が建てられてもなお、俺は俺自身を敗者と罵り続けた。この地に、諏訪の社に縛られたままでいることは、国を護れなかった己への罰なのだと考えていた」


そんなこと、と言いかけた奏人を男神は手で制した。


「だが、今は違う」


「ミナカタさん…」


「今は、己を不甲斐ない神だとは思わない。何もないこの地だからこそ人の子の信仰はひたむきで、背筋を伸ばしていなければならないのだ。敗者ゆえに縛られていることに甘んじるのはもうやめた。嘲る者がいるのならばそれでも構わん。だが、俺の在り方を俺自身が否定することはもうしない。だからな、神議りの場で言ってやったのだ。『今までもこれからも、俺がこの集まりに参加することはない』とな」


「え、参加しないんですか?」


「ああしない」


曰く、一柱ひとりくらいは人の縁を楽しみに眺める神がいても良いではないか、と。神ですら縁というものがあるのだから。


「神と神、人と人、そして神と人。出会いというものは予測のつかないものだ。それで良いではないか。それが面白いではないか。俺は、人の子とともに生きる神でありたい」


風が吹いた。

やさしくあたたかく、命の芽吹きをよろこびながら春を軽やかに駆けていくその風はこの諏訪の地に宿る神そのものだった。


「神は人の心より出づるものなのだから、な」


「人の心…」


「そうだ。だから奏人よ。お前が何かに祈る時、何か強い願いを持った時、我ら神はお前の側にいるだろう」


聞き届けるかどうかはその神次第だがな、と男神はからり笑う。


「それでも側にはいる。懸命に生きる人の子を、我らは見守っている」


たとえ信仰薄れゆく時代であったとしても神は変わらずそこにいて、人々の声に耳を傾け続ける。時には神らしく叱咤し、時には友のように語りかけることもあるだろう。

その姿が見えずとも。その声が聞こえずとも。


「真っすぐに歩むが良い。人の子よ」


その道行きに言祝ぎを───。


気づけば隣には誰もいなかった。

境内は相変わらずゆっくりとした時間が流れ、ここだけまるで別の世界のようである。


「……見守っててくださいよ」


聞く者はいなくともそう呟いてみた。いや、あの神にはきっと聞こえているのだろう。

一枚の葉が踊るように舞い上がる。つられるように綿雲の浮かぶ空に目を向けた奏人は、雲と雲の隙間に水縹色の鱗を陽光に輝かせる雄々しい竜の姿を見たような気がした。






(かつ)て戦いに敗れたその神は、故郷から遠く離れた地で己を責め続けていた。

反旗を翻さぬよう誓いをたてさせられ、山と川と、そして湖しかない土地で過去を悔やんでいた。

国津神たちから弱き神と罵られ、国を売ったとまで言われたその神は永い時を己への怒りと晴れることのない罪の意識に費やしていた。


けれどもう、神が己を過去で縛ることはないだろう。

とうの昔に赦されていたことを知ったのだから。

「それで良い」と、己の在り方を認める者がいたのだから。


神代が終わり、人の時代が訪れ、信仰が薄くなってもなお神は人の子の側にいる。

悩み、苦しみ、それでも足掻いて生きていこうとする人の子を見守っている。


だから今日も、その神はただ一柱ひとり、様々な土地の自分の社を訪れる人の子たちを静かに見守っているだろう。

穏やかに、慈しむように微笑みながら───。

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