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風裂きて征くは水な方の竜(上)

(かつ)て、その神は戦いに敗れ、故郷から遠く離れた地に追いやられた。

反旗を翻さぬよう誓いをたてさせられ、山と川と、そして湖しかない土地に縛られた。

あれほど好きだった海もない、ただ静かなだけの土地に。

その神は国津神たちから弱き神と罵られ、国を売ったとまで言われた。


しかし神の祟りを恐れたものたちがその神を祀るやしろを建て、いつしかその社は国全体に広がっていった。


それでも神の心が晴れることはなかった。

かといって誰かを、何かを祟ってやろうなどと思うこともない。

人の子に罪はないのだから。


だから今日も、その神はただ一柱ひとり、様々な土地の自分の社を訪れる人の子たちを静かに見守っている───。








「いい?次の模試ではもっと良い点数をとりなさい。モチベーションの低さは点数に反映されるんだからね」


「……わかってる」


「私立に行こうなんて考えちゃ駄目よ。そんなこと、考えた時点で人生を諦めたようなものなんだからね」


「……」


衣替えの時期も間近に近づいた六月の朝。

高校三年生になったばかりの少年、水守みもり奏人かなとはのろのろとした動きで三十分ほどかけて学校へ行く準備を整えると、教科書で重くなった鞄を肩に担ぎ直し、鞄より重く感じる心を抱えて家を出た。

部活に所属していない奏人の登校は、毎日練習で忙しい他の高校生よりものんびりしたものである。

とはいえ朝はそれなりに早く起き、机に向かって参考書と数時間の格闘をすることが習慣になっているため暇かと言われたらそうではないのが事実ではあるのだが。


梅雨入りを迎え連日降り続いていた雨は明け方になってようやく止んだらしく、どこもかしこもまだ濡れたまま。


まだまだ盛りとばかりに咲いているアジサイが、道の両脇でゆったりと揺れていた。

夏の空よりも濃い青や葡萄のような紫が、その花びらに水滴を乗せてちょっと高そうなお菓子のように艶めいて見える。

けれど奏人が一番好きなのは薄い水色のアジサイだった。

薄氷のようなひんやりとしたそれを見ていると、じわじわと身の内から焼かれていくような暑さと息苦しさがほんの少し緩む。


土の成分次第で青にも紫にも変わるから、アジサイというものは不思議だ。まさに置かれた場所で美しく咲いている。


ふと、奏人の視界の隅を理想的な薄水色が通り過ぎた。


「…あ」


少しだけ戻ってその色を探すと、薄水色の正体は道の少し奥にある神社の五、六段ほどある階段に咲いているアジサイだった。


まだ時間に余裕のあった奏人は神社の手前まで歩を進める。

そうして近くで目にした梅雨の花は、神を祀るという空間だからか、その辺に咲いているものよりずっと綺麗に見えて。

花びら一枚いちまい枯れている部分なんてこれっぽっちもなく、どこかすました様子で初夏の風に揺られている。


しばしの間その場にとどまっていた奏人だったが、不意に誰かの視線を感じてアジサイから目を離した。

そして視線を彷徨わせるが、辺りにはのんびりと歩いていく茶トラの猫がいるばかり。


「気のせい、かな」


時間のあるときに今度はちゃんとお参りをしに行こう、と心に決め、神社に背を向けて学校への道をたどるのだった。








「模試の結果、どうだった?」


「全然できなかった…第一志望、今のところ全部の模試でE判定だし…」


受験生という生き物は、どうして休み時間になるとこうも受験の話、勉強の話をしたがるのだろうか。


希望の学部を目指す生徒もいれば、大学の知名度を優先する生徒もいる。進路の選び方はそれぞれだが、皆一様に来年の自分の姿を想像しては頭を抱えたり目を輝かせたりしてみせる。しかしながら、今の奏人には大学に行ってまで勉強したいこともなければ、そもそも大学に行きたいのかすらわからなかった。


有名な学校で教師として働いている父は国立大学の出身。そんな父が順風満帆な人生を送っているように見える母は事あるごとに「奏人、あなたは将来父さんと同じように教師になるんでしょう?」「教師になるんならちゃんとした国立大学に行ってちゃんとした人間になりなさい」と語り、有名大学のここが良い、私立大学は人間がなっていない学生の行く場所だと苦々しそうに漏らしてみせる。


父は父で奏人の進路についてはあまり興味がないのか、口を出してくることはほとんどない。有り難いといえば有り難いのかもしれないが、少しくらいは息子のことに目を向けてくれても良いのではないかと思わないでもない。

とはいえ母の言葉を否定するわけでもないから、父も概ね母の意見に賛同しているのだろう。


そんな日々を送る奏人にとって、国立大学に行って教師になるという道はそこまで重要なものに思えなかったのだ。


クラスは当然のように国立大学を目指す生徒が集まり、志望大学や受験勉強の話が意味をなさない言葉の羅列のごとく過ぎていく。

大学に行ったところでやりたいこと、勉強したいものがあるかどうかなんて今の奏人にはわからなかったけれど、かと言って大学に行かないという選択肢を親がとらせてくれるはずもないことは十数年生きてきて学習した。


しかし、両親の言うままに大学へ進んで教師になるという将来は、果たしてほんとうに自分にとって幸せなのだろうか?

そしてもしも自分に学びたいものが、やりたいことができた時、「教師になることこそが息子にとっての幸せ」という考えをもつ両親は自分の話を聞いてくれるだろうか?


そんな疑問が頻繁に奏人の思考の大半を埋め尽くすようになって久しい。


衝突して両親の機嫌を損ねる、期待を裏切るくらいなら───。

このまま大人の意見に従うことこそが、最善なのかもしれない。

結局のところ、どれだけ頭を悩ませたところで答えは変わらないのであった。






学校もようやく終わり。奏人は重い足を引きずりながら家への道をたどっていた。

通っている塾は建物の工事だとかで入ることができず、かと言ってまっすぐ家に帰るのではまた進路の話で鬱々とした気分にさせられることだろう。


そんな時、あの水色が再び奏人の足を止めた。


「神社か…最後に行ったのは小学生の頃かな」


どうせ帰っても赤い本と見つめ合うか親の小言に耐えるかしかない。たまには寄り道をするのも良いだろう。


階段を上って苔の生えた石造りの鳥居をくぐると、そこにあったのは現実の世界からぽっかりと切り離されてしまったかのような、静かな空間だった。

手水舎から流れる水の音。吹き抜ける風に揺れる木々のざわめき。

下手をすれば聞き逃してしまいそうなその音たちは、やはりここが神社だからか、神聖で特別なもののように聞こえる。


そんな空間にいるのは、奏人だけではなかった。


しめ縄の巻かれた神木であろう木の傍らに、ひとりの男が立っていた。

美しく筋肉のついた身体はしなやかな獣のようで、濃紺の地に銀色の波が裾のあたりではじけているような柄の着物を粋にまとっている。

射干玉ぬばたまの長い髪はうなじで括られており、横顔を見る限りでは、奏人よりも少し年上…二十代前半といったところだろうか。


粗野な中にどこか清廉な空気を纏わせた青年だ。


雰囲気のある人だな…としばし眺めていると、青年が奏人の方を振り返った。

じっと見ていたことに気づいて気を悪くしたのか、訝しげなその眼差しは射抜くよう。思わず居住まいを正してしまうような威圧感だ。


「あ、の…」


なにか言わなければと躊躇いがちに声をあげると、青年は目を大きく見開いた。

まるで心の底から驚いたかのように。

そして着物の裾を荒々しく翻しながら大股で奏人の方へ向かってくるではないか。


「えっ、ちょっと…?」


改めて目の前に立たれると、奏人よりも随分と背が高いことがわかる。

うすくかたちの良い唇が開かれ、どこか戸惑ったような、それでいてほんの少し喜色を滲ませた声が奏人の耳朶を打った。


「少年…お前、〝視える〟のか?」


「見えるって、何がですか…?」


「いや…こちらの話だ」


そうか…となにやらひとりで納得している青年だったが、突然はっとしてあたりを見回したかと思うと懐から手拭いのような布を取り出して強く打ち振るった。

パァン、と乾いた音が境内いっぱいに響き渡り、そのほかの音が一瞬だけ聞こえなくなる。


「…何をしたんですか?」


「余計なものに邪魔をされぬようにしただけだ。お前に害はないから安心するといい。……それで?人の子の少年よ。名は何という?」


人の子、だなんておかしな言い方をするものだ。

まるで自分はそうではないとでも言っているかのような。


けれど、青年の邪気のない眼差しに気が抜けた奏人はとりあえず聞かなかったことにする。


「水守奏人といいます。水を守ると書いて水守、奏でる人と書いて奏人です」


「奏人か。良い名だな」


「あの…あなたは?」


「俺か!俺は…そうだな、〝ミナカタ〟とでも呼んでもらおうか」


「ミナカタさん?」


青年───ミナカタは子どものように笑って頷いた。


「ミナカタさんは、この神社の人なんですか?」


「そうとも言えるし…そうではないとも言えるな」


「どういうことですか?」


「まあ、立ち話ばかりも辛かろう。来てくれ。ゆっくり話をするのに丁度いい場所がある」







ミナカタに連れられるままやってきたのは、境内の奥にある大きな木だった。


「え…ここですか?」


「ああそうだ。なかなか良い場所だろう?」


木の根元は柔らそうな草地になっており、ミナカタはそこにどっかりと腰を下ろすと気持ちよさそうに目を閉じた。

すっきりと通った鼻梁。

くるくるとよく動く目を縁取る睫毛は意外にも長い。

物語の挿絵にでもしたらさぞ美しいだろうなあ、などと考えていると、ミナカタが片目を開けて奏人を手招きする。


「お前も座ってみると良い。ここは、命の声が聞こえる数少ない場所だからな」


「はあ…」


ミナカタの言っていることは奏人にはよくわからなかったが、それでもここは確かに心地の良い場所だった。

さわさわ、さわさわと葉の擦れる音が囁き合うように重なり、涼やかな風が襟元をくすぐっていく。

穏やかな空気のなかで、奏人はふと心に引っかかっていたことを聞いてみようと思った。


「ミナカタさんは普段、何をされているんですか?」


「何、とは?」


「仕事とか…あ、でもミナカタさんくらいの年齢なら大学に通ってる可能性もあるか…」


「お前には俺が何歳に見える?」


「え」


そういうことは、女性の台詞なのではないだろうか。

心の中でだけそうツッコミを入れて、奏人は改めてミナカタの全身を眺めて考える。


「二十歳くらいだと思ってたんですけど…違うんですか?」


「さてな。もしかしたら、お前が思うよりもうんと年寄りかもしれないぞ」


言われてみればそうなのかもしれない。

話し方もどこか古風で、今時の若者とは違う空気をまとった不思議な男。

何百年か前の幽霊だと言われても納得がいく。


「…何か失礼なことを考えていないか?」


「ま、まさか。そんなこと考えるわけがないじゃないですか。…と、ところでミナカタさん。さっきの質問の答えは…」


「ああ……そうさなあ、〝仕事〟と言えるかはわからんな。普段は諏訪すわにいるんだが、時々こうして同じ諏訪の名を冠する社を巡っている」


諏訪、といえば長野県のあたりだ。

そういえばこの神社はそんな名前だったかと、奏人は己の無知を少し恥ずかしく思った。

今までそれほど神社や神さまに興味はなく、近所にある社とはいえほとんど訪ねることはなかったのだ。


「い、いいですね!いろんな所を旅行できるって。なんだか自由な感じがします」


「〝自由〟か…なるほど」


「ミナカタさん?」


何か気に障ることを言ってしまったかと不安になった奏人だったが、制服のポケットに入れていたスマートフォンが震えたことで意識が逸らされた。


「なんだ…?」


「すいません。友達からの連絡みたいです」


メッセージアプリを起動すれば、『奏人ー!これから補習の奴らとメシ食いに行くんだけど、お前も来る?』という文章が表示された。

そのメッセージに『俺はいいよ。またそのうちな』と返し、端末の電源を切る。


「失礼しまし……あの…?」


スマートフォンをポケットに戻し顔を上げると、これでもかというほど目を見開いたミナカタが奏人を見つめていた。その真剣な眼差しで穴が開きそうだ。


「先ほどの板はなんだ、少年!?」


「板…スマホのことですか?」


「すまほ、というのか。なるほど、人の子が時折手にしていたのはこのすまほだったのか」


「……見ますか?」


「良いのか!!」


子供のように目を輝かせてはしゃぐミナカタ。

若いというのにスマートフォンを持っていないのだろうか?いやいやそれにしても存在自体をよく知らなかったような口ぶりだった。

珍しい人もいるものだ…と首ひねりつつ端末を手渡してやると、ひっくり返したりかたちの良い爪で軽く叩いてみたりしている。


「これは何でできているのだ?黒曜石…にしてはそれ以外のものも使われているようだな……白いこれはなんだ?…面妖な…」


「ちょっと!なんで地面に叩きつけようとしてるんですか!?」


「割ってみないことにはこれが何でできているかわからんだろう」


「軽率に他人のものを破壊しようとしないでください!使えなくなっちゃうじゃないですか!」


「む…確かにそれは良くない。すまないことをしたな」


意外にもミナカタは素直にスマートフォンを返してくれた。

見慣れないものに対しては純粋な好奇心で突っ走り、叱られた時は仔犬のようにしゅんと俯く。

まるで無邪気な子供ではないか。


そんな様子に溜飲が下がった奏人は「いいですか」とスマートフォンの画面を見せながら解説をしていく。


「この板はスマホ…スマートフォンといいます。電気を利用することで遠くにいる人と連絡を取り合ったり、写真を撮ることもできます」


「電気とは…雷の仲間か」


「まあ、そんな感じです」


「ふむ…そいつの力を借りて遠方の者に文を送ることができる、と……〝しゃしん〟とはなんだ?」


「写真は…やってみた方が早いですね、もう少しこっちに寄ってください」


「なんだ、誓約うけいでもするのか」


「なんですかそれ」


「知らんのか。これから起こる物事をあらかじめ宣言し、その後の結果によって占いを行うんだ。やり方はそれぞれだが、相手の持ち物を噛み砕き、その息で神を生むなんて方法もあるぞ」


「本当になんなんですかそれ!?しかもこの流れだったら高確率でスマホが犠牲になりますよね!?」


奏人は咄嗟に自分のスマートフォンを両手で握った。


「砕けた破片のことは気にしなくていい。さる御方などは弟君の剣を噛み砕いていたからな」


「噛み砕く!?剣を!?」


剣を飲み込む手品などはよく聞く話だが、まさか剣を噛み砕く人がいるだなんて。


「よくある話だろう?」


「あってたまるか!」


思わず声を張りあげると、ミナカタはむぅ、と唸って唇を尖らせた。

やはりこの人はなんというか…理解の及ばないところで生きている人のような気がしてならない。


「…ああもう。写真、撮りますね」


端末に内蔵されているカメラアプリを起動し、インカメラに切り替える。


「はい、チーズ」


「ちぃず?」


ぱしゃ、と神社特有の空気にはあまり似つかわしくない間の抜けた音がした。


「ほら、見てください」


画面の向こうには微笑む奏人と不思議そうに小首を傾げるミナカタが写っている。ミナカタの目線が少しずれているのはきっとどこを見れば良いのかわからなかったのだろう。


「これは…!?」


スマートフォンの裏側を覗き込んでももちろんそこには何もない。目を白黒させるミナカタを、奏人は不思議な心持ちで眺めていた。

ふと、遠くの空で低い轟きが聞こえてきた。気づけば先ほどよりも雲が増え、太陽は翳り始めている。


「奏人、今日はもう帰れ」


「どうしたんですか?」


「……それは言えん。ただ、直ぐに帰らねばお前も俺も、少々厄介なことになる」


ひときわ厚い雲を睨みつけ、ミナカタは喉から絞り出すようにそう言った。話し方もどこか硬く、何かを警戒しているようである。


「さあ、帰れ。見つからないうちに」


「何に見つかるっていうんですか?」


「それも言えん」


急かされるまま鞄を引っ掴み、砂利を蹴って出口を目指す。

もともとあまり規模の大きな神社ではないため、あっという間に鳥居が近づいてくる。

振り返ると、厳しい表情で虚空を睨みつけているミナカタが大きな岩のすぐ側に立っていた。


「明日も、ここにいますか?」


いかずちが落ちなければ、な」


ミナカタは片眉を上げて答える。

どういうことだろう。

疑問符を並べる奏人にミナカタは柔らかく微笑んだ。


「雷を恐れるなど、子供のようだろう?だがな、雷は〝神鳴り〟だ。神の咆哮には、さしもの俺も尻尾を巻いて逃げるほかないものでな」


鳥居の先の階段で昼寝をしていた猫が、起き上がって伸びをしたかと思うと毛繕いを始めた。


「そら、空気のにおいが変わってきたぞ。急げよ」


重く立ち込める雲はすぐそこまで迫ってきている。

傘を持ってきていないことを思い出した奏人は名残惜しさを感じながら神社をあとにするのだった。







さて、奏人が去ったあとのミナカタはといえば。


「来てくれるなよ…お前と顔を合わせる気はないからな」


羽でも生えているかのごとき身軽さで背丈よりも高い巨大な岩に飛び乗ると、ひとつ手を打ち鳴らした。


「諏訪の守り手がここにまをす……我が身霧のごと隠し給へ…天の鳥船を遠ざけ給へ…其を押し流すは猛き山の風なり…」


ざわり、と周囲の空気が揺らぐ。

どこからともなく吹き始めた風は木々を激しく揺さぶり、ミナカタの長い黒髪を左右に嬲る。

幸いにも境内に人はいないため、この突風によって誰かが被害を受けることもなければ怪しまれることもない。


「風よ…」


基本的に大雑把な性格のミナカタであったが、こればかりは慎重にならざるをえない。

あくまで自然現象のように。自分が関わっていることを相手に悟られないように。


神社を中心として渦巻いていた風の流れはやがて外へと広がり、縦横無尽に暴れまわろうとする。それを懸命におさえ、少しずつ少しずつ、分厚い雲を彼方まで押しやるミナカタ。

やがて雲が切れて晴れ間が見えると、ミナカタは岩の上にどっかりと腰を下ろした。


「……ままならぬものよな…人も、神も…現代いまも、神代むかしも…」


その呟きを聞くものは、何もいなかった。






どんなに不思議な出来事があったとしても、日々は何ら変わらずに進んでいく。まるで夢でも見ていたような心地で、その夢の名残をどうにか引き留めていようと躍起になっても現実に引き戻される。


「そういえば知ってるか?」


昼休み。購買で運よく手に入れた焼きそばパンを齧りながら、奏人の友人が口を開いた。


「昨日の天気、気象予報士もびっくりなレベルで大外れだったらしいぜ」


「ああ、雨雲が急に進路変えたってやつ?」


「そうそう、それ。姉ちゃんが『傘持ってく意味なかった~』って言ってた」


「なんでも突風の影響だとか」


「なー。でも別に昨日ってそこまで風の強い日でもなかったよな?」


そういえば、と奏人も昨日の出来事を思い返してみる。

ミナカタと別れ家まであと数メートルというところまで来た時、強烈な風が吹いたのだ。まるで誰かが意図して起こしたかのように。考えすぎているのかもしれないが、その風はあの神社を中心にして吹いているように思えた。


「まさか、な…」


「どうした奏人」


「いや、なんでもないや」


「なんだよ、気になるだろー?」


「なんでもないって」


そう、本当に、なんでもないのだ。

あの青年が何かを知っているかもしれないだなんて。そんなこと、あるわけがないのに。

現実的ではないなと心の中で苦笑し、ぬるい水で喉を潤すのであった。






とはいえ昨日の出来事がどうにも自然に起こったこととは思えず、奏人はまた石の鳥居をくぐっていた。

手にはたい焼きの入った袋を下げ、あの艶やかな黒髪を持った野性的な青年の姿を探す。


「また来たのか、少年」


凛とした声が聞こえた気がして振り返ると、くだんの青年が木陰にひとり佇んでいた。もっと近いところで声がしたと思ったのだが…と首を傾げながら歩を進めると、「まあ座れ」とまるで自分の家に招いたかのような気軽さで言われて素直に木の根元に腰をおろす。


「お前も随分と物好きだな。このようなところ、頻繁に来るものでもあるまい?」


「え、迷惑でしたか?」


「そういうわけではないが…」


「今日はお土産もあるんですよ」


がさりとビニール袋を開けてたい焼きを差し出すと子供のように目を丸くして、何故か貴重なものを貰うかのように恭しく両手で受け取ってくれた。


「食す物か。良い匂いがするな」


「出来立てですから。つぶあんですけど大丈夫ですか?」


「?よくわからんが問題なかろう。有り難く頂戴する」


そう言って豪快に一口。清々しいほどあっさりと鯛の頭はミナカタの口の中に消えていった。


「…美味い!!」


骨格のしっかりとした喉が上下して、明るい声でミナカタが叫んだ。どうやら相当お気に召したらしい。口の端に餡がついており、それだけ夢中になってくれたことがありありと窺えた。

それでもやはり成人男性(推定)の口元に餡がついているというこの状況は少し間が抜けているとしか言えない。


「ミナカタさん、ついてますよ。…ああそっちじゃなくて」


「…む、こちらか」


「はい、取れましたよ」


赤い舌が指の先についた餡を舐めとる。どこか子供っぽい印象を持ち合わせているはずの人なのに、こういう時に限って大人の色気のようなものを見せつけられて「男が憧れる男」とは何かを垣間見たような気がした。


「それにしても美味い。きっと帝の血筋に連なる人間が食すものなのだろうな」


「そんな大げさな…」


「いいや、大げさなどではないぞ。物を口にしなくなって久しいが、それ以前もここまで美味いものを食べたことはなかった」


「ちゃんとご飯食べてくださいよ!?」


「そうだな、食事は大切だ」


どうにも話が噛み合っていない気がしないでもなかったが、この際もう諦めることにした。


「ふぉれれ、ふぉうあ」


「飲み込んでから話してください」


成人男性相手にこう言うのもどうかとは思うが、本当に子どものようなひとだ。

喉頭が上下すると、ミナカタは改めて口を開いた。


「それで、今日は何用でここに来た?供物を持ってきたということは、何か叶えたい願いでもあるのか?言ってみろ、聞いてやろう」


「は…願い?」


たい焼きを持ってきたから願いを叶えてくれるというのかこの人は。神さまじゃあるまいし。


「人の子がこのような場所に来る理由など、願いを叶えてもらう以外にあるのか?」


「まあ、確かにそうかもしれないですけど…来たいから来てる、それじゃ理由になりませんかね?」


「なるほど、そういうこともあるか…」


どれだけ自分は現金な人間に思われていたのだろうと、奏人は遣る方無い思いをたい焼きと共に飲み込んだ。


「奏人、しばしそこで待っていろ」


「え?」


不意に立ち上がったミナカタは意外にも落ち着いた足捌きで玉砂利の上を歩いていく。

何をするつもりなのかと見守っていると、なんとミナカタはスーツ姿の参拝客のすぐ側で足を止めて拝む様子をじっと眺めているではないか。


「何してるんだ…?」


目を閉じ何かを聞くように頷きをかえすミナカタ。参拝客はミナカタなど目に入っていないのか、そのまま一礼して社殿に背を向ける。


戻ってきたミナカタはどこか難しそうな顔つきで考え込んでいたが、それもわずかな時間であった。


「何してたんですか?」


「願いを聞いていたのだ」


「…さっきの人の?」


「ああ」


「またまたぁ。そんな神さまみたいなこと言っちゃって。じゃあ何てお願いしてたんですか?」


「ふむ…〝しゅうかつ〟というもので悩んでいたようだったな。なかなか良い成果が出ないのだとか。明日は〝めんせつ〟があるのだそうだ」


「そ、そうですか」


きっぱりと言い放つミナカタは冗談を言っているように思えない。

確かに就職活動中の学生に見えないこともなかったが、ここまで断言できるものなのだろうか。

あの参拝客が願い事を声に出していなかったのは口の動きでわかるし、面接が明日に控えていることなど知る由もない。


この不思議な男の言動には驚かされるばかりである。揶揄われているのだろうとは思っても、あの真っ直ぐな眼差しに晒されると信じずにはいられない。


「そうだ奏人、お前も何か願っていくといい」


「え、今更ですか?」


「ああ。ひょっとするとここの祭神がお前の願いを聞いてくれるかもしれん」


「ううん…そうかなぁ……っていうかミナカタさん、他人の願い事が聞けるんじゃないんですか?俺、勝手に聞かれるのはちょっと…」


「では俺は少し離れたところに立っていよう。そら、行くぞ」


抵抗し難い強さでぐいっと腕をひかれ、そのまま賽銭箱の前に連行される。

勝手な人だなあ、と思いつつもどうにも憎めないこの男に振り回されることが意外と嫌いではない自分に思わず苦笑が漏れる。


ポケットのなかには残念ながら五円玉が入っておらず、まあいいかと十円玉を一枚放り投げた。

二回礼をし、拍手も二回。さて何を願ったものかと目を閉じ眉根を寄せる。


脳裏に浮かべるのは目下の悩みである進路のこと。

このまま親の言うことを聞いているべきなのか、それとも親と衝突してでも自分のやりたいことを探すべきなのか。

自分の幸せを願ってくれている親を裏切ってまで進まなければならない道など、果たしてあるのだろうか。今の自分に、親の期待に応えられるだけの力があるのだろうか。

どうか神というものが本当にいるのならば、この問いに正しい答えを与えてほしい。


「……」


いまいち思考が晴れないまま目蓋を上げて礼をする。

初めの宣言通り、ミナカタは少し離れたところでこちらに背を向けて立っていた。


「終わりましたよ。今度は願い事を聞いてたなんて言わないですよね?」


「…ああ。よく聞こえなんだ」


やはりさっきのことは冗談だったのだと、ほっとする奏人であった。






「そういえばミナカタさん、家族はどこにいらっしゃるんです?」


また別の日。ありふれたチョコレート菓子を渡しながら問うとミナカタは低く唸った。聞いてはならないことだったかと束の間思いもしたが、どうやらそうではなかったらしい。


「父は出雲に。兄は…今はどうしていらっしゃるか、俺にもわからん。長い間…それはもう永い年月、顔も見ていないからな」


「なんか…すみません」


「なぜ謝る?」


「いや……だって答えづらいことを聞いちゃったかなって」


「良い。もう遠い昔の話だ」


いったいこの青年に何があったのか、奏人は聞くことができなかった。


そうしてしばらくふたりが木の葉の擦れる音に包まれていたころ、口を開いたのは意外にもミナカタの方であった。豪快な彼とは違う、何か静かな感情を湛えた声音である。


「…兄上は……あの方は、とても聡明な方だった。人々から慕われる、慈悲深い方だった。力の強さしか誇れるもののない弟の俺とは違って、様々な事柄に秀でていた」


「お兄さん、できる人だったんですね」


そんな兄に嫉妬していたのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。後に続いた言葉の柔らかさにはどこか兄に対する憧憬のようなものが感じられた。


「こんな俺を、あの方はよく気にかけてくださった。獣たちと取っ組み合いの喧嘩をした俺に、お前は言葉よりも先に手が出てしまうからと、苦笑しながら手製の薬を塗ってくださったことをよく覚えている」


「…獣?」


一瞬だけ疑問が湧き上がったが、ミナカタがあまりにも普通の表情をしているのでそのまま流してしまった。


「あの方の選択は、確かに正しいものだったのだろう。己の身を守るには申し出を受け入れ、下手に戦うことは避けるべきだった…しかし、俺にはそれが我慢ならなかった」


遠くを見つめる黒い瞳に揺らぐのは、果てのない後悔や迷いのいろ。


「何が、あったんですか」


ミナカタは詳しくを語ってはくれなかった。ただ首を横に振るばかりで、まとめきれなかった黒髪が程よく日に焼けた頬に影をおとす。


「……護れると思っていた。己の力があれば、きっとどうにか出来るものと思っていた」


奏人は唇を強く引き結んだ。この強くうつくしい人にもどうにもならないことがあるのだと、そしてそれは自分の抱えるものよりももっと重く、自分が思うよりもずっと激しく彼の心を苛み続けているのだと胸を締めつけられるような心地がした。


「しかし俺は負けた。過信が、傲慢が、俺をあっさりと敗者にした。…情けない話だ」


「……」


奏人は何も言わなかった。言えなかった。彼のことをろくに知らない奏人には、フォローの言葉など見つけられるはずもなかったのだ。


「…お兄さんに、会いたいですか」


かろうじて聞けたのは、そんな質問であった。


「…会いたい。会いたくないわけがない。こんな弟の顔など見たくもないやもしれぬが……あの方が俺の愚かさを赦してくださる日が来るのであれば、俺は百年でも千年でも待つだろう」


男は抑えきれない感情を無理やりに抑え込もうと顔を上げる。

木漏れ日はゆらり頬の上にやさしく降りて、まるで涙のようだった。


ミナカタにそこまで思わせる兄とは、いったいどのような人物なのだろうか。そして、豪快さのなかに深い憂いを湛えた彼に何があったのだろうか。

湧き出た問いは己の内へ。誰にでも触れられたくないきずのひとつやふたつはあるものだと言い聞かせながら。






いよいよ夏休みになった。補講からの帰り道、いつものようにあの神社に足を向ける。夜に降っていたらしい雨が木々の葉を洗い、眩い緑のにおいと手水舎の水の音が暑さではりついたシャツの不快さをいくらか和らげてくれていた。


「ミナカタさーん!…あれ、いないのか…」


いつも通り手土産を引っさげてミナカタを訪ねたある日、奏人は鳥居をくぐると首を傾げた。


ミナカタの姿がどこにもないのである。

普段であればその辺りの木陰で休んでいるか猫と戯れているかしているのに。


代わりにいたのは青灰色の着物を着た中性的なひと。

何かを探すように周囲を見回しては足元の猫にじゃれつかれて少し困った顔をしている。


「あの…どうかしたんですか?」


無くし物でもしたのなら大変なことだ。そう思って声をかけた奏人はいつかのような不思議な感覚におそわれた。


思わず背筋を正したくなるような、真正面から目を合わせることを躊躇いたくなるような独特の威圧感。

まだ年若い青年であるのにその黒い髪の中には一房だけ真っ白なものが混じっている。そういうのが流行りだったりするのだろうか。


しかし最も気になったのは───。


「ミナカタさん?」


驚いた一瞬の表情が、ミナカタによく似ていたのだ。


「あ、すいません。ちょっと知り合いとそっくりで……」


あれ・・を、知っているのですか?」


「え?」


「今あなたは、私をミナカタと…」


「もしかして…」


「私はミナカタの兄で…そうですね、〝コトシロ〟と申します」


「ミナカタさんのお兄さん!?」


そう名乗った青年は奏人の頭からつま先までをゆっくりと眺め、じっと目を見た後にひとつ頷いた。


「若木のようなまっすぐな心根を持っている。良い眼差しです」


「え…?」


「弟は息災にしていますか?」


ミナカタの話によると、確か彼は兄と長らく顔を合わせていないのだった。ミナカタ曰く、兄は過去にあった一件のせいで自分の顔など見たくもないだろう、と。

しかし今こうしてコトシロを目の前にしていると、どうやらそうではないのかもしれないと思う奏人であった。


「元気そうにしていますよ。もう少し待ってたら来るかもしれないんですけど、会いますか?」


「…いえ、やめておきましょう」


「え?」


「私はあれに避けられているでしょうから」


真白な髪の一房が揺れ、まるで風を目にしたような心地がした。


「碌に言葉を交わすことなく別れ、最後に弟に会ったのはどれほど前のことだったか…もう私自身、覚えてはいないのですよ」


コトシロはそう言って垂れ目がちなそれを伏せた。


「おそらく、弟は私に呆れかえっている。あるいは怒っているでしょう。私は弟と違い戦うことをしなかったから。護らねばならぬものを護らず、惨めに逃げ去った私は赦されてはならないのです。合わせる顔がない」


「それは違うと思います」


ミナカタの兄に対する尊敬の念は確かなものだった。だからこそ、情けない己は弟として兄の前に立つべきではない。以前ミナカタが兄の話をしていた時、奏人にはそんな声が聞こえたような気がした。


「怪我したミナカタさんにコトシロさんが手当てをしてくれたって、前にミナカタさんが言ってました」


「それは…」


「俺、ミナカタさんに何があったのかは全然わからないですけど…でも、嫌いだったらわざわざ話したりなんてしませんよ、きっと」


ミナカタとコトシロ、それぞれが自分のことを卑下し、会うべきではないと考えている。

そんな兄弟の在り方を、奏人はなんだか悲しく思った。


「そうだ、せっかくだしミナカタさんが来るまで待ってみましょうよ」


「…いえ、その必要はありませんよ」


「え?」


「今日はもう、ここには来ないでしょうから」


そんなこと、わかるのだろうか。

訝しむ奏人の心の内を見透かすようにコトシロは微笑んだ。


「わかりますよ。これでも兄ですからね」


それでは帰りますと鳥居へ向かうコトシロを引き留め、奏人は手土産にと持ってきた袋を無理やり握らせた。


「良かったらこれ、持って行ってください。ただのコンビニのゼリーなんですけど、冷えてる方が美味しいと思うんで早めに食べるか冷蔵庫に入れるかしてください」


「こんびにのぜりぃ…」


生まれて初めて物を見るようなこの表情。いつだったか、ミナカタもたい焼きを目にしてこんな顔をしていたような気がする。


「有り難く、頂戴いたします。このお礼はまた近いうちに」


「お礼なんていいですって。ミナカタさんと仲直り、できると良いですね」


「……ええ」


その微笑みはどこか寂しげで美しかった。


「あなたにも、良き事がありますよう」


鳥居をくぐり階段を降り角を曲がるコトシロ。


「……あ」


コンビニの店員がスプーンを入れ忘れていたのを思い出した奏人は、それをコトシロに伝えていなかったことに気づき慌てて境内を飛び出した。


「コトシロさん!コトシロさん、その袋にスプーン入ってないんで……あれ?」


先ほどまで見ていたのは白昼夢だったのか。そう思うのも無理はない。

確かにこの角を曲がったはずなのに、ミナカタの兄である男の姿はどこにも見えなかったのだから。

それでもさざ波のようなやさしい声色がまだこの耳の奥に残っているような気がするから、きっと暑さが見せた幻などではあるまい。


「なんだったんだろ…」


奏人はこれ以上考えることをやめ、放り出したままになっている鞄を取りにまた鳥居をくぐるのだった。







「この間、ミナカタさんのお兄さんに会いましたよ。…コトシロさん、でしたっけ」


そう言うとミナカタはびくりと肩を震わせた。今日の手土産はコンビニで買ってきたシュークリーム。口の端にカスタードをつけたまま幸せそうに洋菓子を頬張っていたその顔は一瞬にして凍りつき、指の間からクリームが溢れ落ちた。


「三日前くらいかな、ここに来てたんです。ミナカタさんに会いたがってました」


「…嘘だ」


苦々しそうにミナカタは言った。こんなにも眉間に深い皺を刻んだこの男を、奏人は知らない。


「嘘じゃありませんよ。だってミナカタさんは元気にしてるか、心配してましたから。ミナカタさんのことを本当に嫌ってるんなら、わざわざそんなこと聞かないと思うんです」


兄のコトシロにも、似たような話をした気がする。

なんて似たもの同士の兄弟なのだろうか。


「お兄さんも、ミナカタさんのことを大切に思ってるんじゃないんですか」


「違う」


「俺はあの方の弟には相応しくない。護らねばならぬものを護れなかった。そんな俺が大切に思われるなど、あってはならないんだ」


護らねばならぬもの。この言葉を、たしか彼の兄の口からも聞いた。


───私は弟と違い戦うことをしなかったから。護らねばならぬものを護らず、惨めに逃げ去った私は赦されてはならないのです。


「同じようなこと…いや少し違うかな?とにかくコトシロさんも、ミナカタさんに呆れられてるだろうから自分はミナカタさんに会えないんだって言ってました」


「ちがう、違うちがう!俺は敗者なんだ、何の役にも立たず兄上の信頼にも父上の期待にも報いることができなかった、それが俺だ!!ああそうだ、赦されてはならない。俺はこの罪を、そしりを受け続けなければならない。それが俺の在るべき姿だ!」


激情は荒波のように猛々しく暴風のように轟々と男を取り巻く。


「だからっていつまでもこのままで良いんですか!?」


気づけば言い返していた。


「負けたから赦されちゃいけないって?そんなことあるはずがないでしょう!?誰かの信頼に、期待に応えられないことが罪だって?あまりにも理不尽だ!」


「お前のような人間に何がわかる!」


「わかりませんよ、わかるわけないじゃないですか!何も知らないんですから!」


けれど、これだけは嫌というほど知っている。


「誰かの期待に応えることって、信頼に報いることって、きっと思うよりも簡単じゃないんです。でもミナカタさんは諦めなかった。そうなんでしょう?だったら、その結果がどうであれ、ミナカタさんが一方的に責められて良い理由にはならないと思うんです」


信頼に、期待に応えなければならない。それは今まで奏人を縛っていた鎖でもあった。両親の望む道に進まなければならないと己を戒めて、考えることをやめた。

だから今ミナカタに向けて放った言葉たちは、同時に自分にも向けられていたのだ。


戦えと。他人の言葉に、考えに縛られていることに甘んじるのはもうやめろと。


「……」


ミナカタのなかで膨らんでいた感情はいつの間にかしぼんでいた。

けれども彼を縛ってきた鎖は容易には緩まないものであったのだろう、大きな手のひらで顔を覆い、まるで泣いているかのような細い声で何度も呟く。


「俺には…兄上に合わせる顔がない……今さら、どのような顔をしてお会いすれば良いというのだ…赦されては、赦されることは赦されない……」


「…ミナカタさん」


声をかけると呟きはぴたりとやんだ。


「すいません、言い過ぎました。……俺、今日は帰ります」


美しい線を描く肩が震える。

慰め、叱咤。今は何を言っても間違いになっている気しかしなくて、奏人は黙って背を向けた。


背後で顔の上がる気配がする。ミナカタが今どのような表情をしているのか、奏人にはわからない。けれどもしも振り返ったらきっと、迷子の子どものような顔がこちらを向いているのではないだろうか。


夏の盛りがもうすぐそこまで近づいている、ある日の午後の一幕であった。






小さなトラブルとはなぜか立て続けて発生するものである。


「最近、補講からの帰りが随分と遅いんじゃない?」


「そ、そうかな」


ミナカタの掠れて今にも消えそうな声が頭の中を占めていたせいで、奏人は動揺を隠すことに失敗した。


「どこに寄り道してるのか知らないけど、もう悠長なことをしている暇はないこと、わかってるわよね」


「寄り道なんてしてないよ、図書室で勉強してから帰るようにしてるんだ」


なかば本当であり、なかば嘘だ。図書室で勉強している日もあるし、あの神社に立ち寄っている日もある。勉強に明け暮れる日々のなかでミナカタの存在は確かに幾らかの息抜きになっていて、先月の模試では今までにないほど良い点数を取ることができた。

それは母も知っているはずなのだが、未だにこの人は子どもが自分の目の届く範囲にいないと不安らしい。少しでも予測のつかない行動のいろを感じると質問が雨あられのように飛んでくる。


期待をされているのだろう。親という生き物にとっての間違った方向に進まないよう、心配をしているのだろう。

なんとなくではあるけれど、奏人を想っての言葉や行動であることはわかる。それでも。


その言葉が鎖となって締めつけてくるような妙な息苦しさを感じるのもまた、事実なのである。







それから数日が経った。

からりと乾いた空には綿菓子のような雲がのんびりと漂っており、照りつける日差しは木陰にいようと容赦なく熱を送り、手にしたアイスを一瞬でもはやく溶かしてしまおうと躍起になっている。


「…」


「……」


無言の空間のなかではアイスが口の中になくなっていくのもあっという間だった。


「あの…」


「その、だな…」


思いきって口を開いてみたは良いものの声が同時に重なり、「ミナカタさんからどうぞ」「いやいや奏人から言ってくれ」と奇妙に譲り合う時間が続き、耐えきれなくなった奏人から笑いがこぼれた。


「ミナカタさんが神妙な顔で黙ってるのってちょっと新鮮ですけど似合いませんね」


「む」


「…この間はすいませんでした。出過ぎたことを言いました」


「いや、俺の方こそみっともないところを見せた。すまん」


「みっともなくなんてないですって」


「しかし…」


「恥ずかしいことのひとつやふたつ、誰にでもありますよ。俺より長く…って言っても十年も違わないかもしれないですけど、俺よりいろんな経験を積んでるミナカタさんならなおさらじゃないですか」


「十年、か……ふふ、そうだな」


「え、何か変なこと言いましたか?」


「いや?至極まっとうな意見だと思っただけだ」


「はあ……あ、でもこれだけは覚えといてくださいね。コトシロさんは本当にミナカタさんのことを心配してたんですから。コトシロさんも、ミナカタさんに合わせる顔がないだなんて言ってたんです。それって…なんだか悲しいじゃないですか」


期待に応えられなかったことを恥じ、互いの怒りに触れることを恐れ、すれ違って。

似たもの同士の兄弟は、互いが互いを尊重するあまりにすれ違い続けてきたのだろう。


「……奏人の言いたいことは、良くわかった。…だがしかし、やはり俺はあの方に会おうとは思わない」


「え、なんでで…す、か」


問い詰めようとした言葉が不自然に途切れた。というのも、ミナカタが突然空を仰向いて顔を強張らせたのだ。


「ど、どうしたんですか」


「…まずいことになった」


「いったい何が…」


「時間がない、俺が完全に気を抜いていたせいだ。…ああくそ、間に合わん!」


頭を搔き乱し玉砂利を苛々と踏み鳴らしながら、ミナカタは悪態をつく。

いつの間にかあれほどまでに心地よく晴れていた空は厚く重たい雲に覆われていた。

確か、初めて会ったあの日もミナカタは鉛色の雲に対して警戒心を露わにしていなかったか。


「…来るぞ!」


「何が?」


ミナカタが声を張り上げた直後、ドオォンッ!と凄まじい音を立てて目が眩むような光が弾けた。

奏人はあまりの衝撃に立っていられず、砂利の上に尻餅をつく。


「…ああ、久方ぶりだな……やはり地上は濁っていて息苦しい…」


声は吐息混じりであるにもかかわらず雄々しく、それでいて凛としている。そんなミナカタではない男の声に、なぜか背筋に刃物を当てられたような感覚になるのは〝彼〟が尋常ではない現れ方をしたことと関係があるからか。


何度か瞬きをして眩んだ目が少しずつ辺りの景色を映すようになったころ、奏人は数メートル先に見慣れぬ人物が立っていることに気づいた。


「だれ…?」


手触りの良さそうな白い着物に派手すぎない金色の帯を合わせた目の前の男はどことなくミナカタと似た雰囲気を醸し出しているのだが、彼にはそれ以上のなにか…そう、あえて言うのならば〝人間らしさ〟というものが微塵も感じられなかった。


「…珍しい。この私を視ることの出来る人の子がまだ居たとは」


着物の男はほんの数歩で奏人との距離を詰めてくると、興味深そうに顔を覗き込んできた。

対する奏人は、捕食される前のちいさな獣のようにその不思議に光る金色の眼を見つめるよりほかなく。


「なるほど、私の姿が視えるということは、お前のことも視えているのだろう?」


問いかけの先にいたのは全身から激しい怒りを滲ませているミナカタ。


「…ミナカタさん、どういうことですか…?〝視える〟って?」


何が何やらまったく理解の追いついていない奏人を一瞥し、男はなおもミナカタに向かって話し続ける。


「ほう…?なるほどお前、まだこの人間に正体を明かしていないのか。なあ、建御名方たけみなかたよ。」


「黙れ…!」


ミナカタが見たこともない表情で声を張り上げた。奏人は状況を掴めずにミナカタと白い着物の男を交互に見やることしかできない。


大国主神おおくにぬしのかみが息子にして事代主神ことしろぬしのかみが弟。諏訪の地を統べる国津神。それがお前だろう?」


「黙れ!黙れ黙れ!!」


「何を隠す必要がある?己の過去を恥じているのか?それとも…己の正体を示すことで久しぶりに会った〝視える〟人の子が離れていくのが怖いか?」


「五月蝿い!」


ビリビリと空気を震わせるような気迫がミナカタから放たれ、日当たりの良い階段に寝そべっていた茶トラの猫が驚いて逃げていった。


「おお怖い」


男はそう言ってみせるが、言葉とは裏腹にその整った顔は至極楽しげである。


それにしても、これだけ境内で騒いでいるというのに誰一人としてやって来ないことに奏人は気づかない。


「…どういう…こと、ですか。ミナカタさんは、」


衝撃からようやく立ち直りつつある奏人は掠れた声で問うた。


「まったく、察しの悪い人の子よ。良いか?一度しか言わぬからよく聞け。そこな男は建御名方神たけみなかたのかみ。諏訪の地を統べる国津神の一柱よ」


「かみ、さま…?」


建御雷たけみかずち!」


ミナカタ───いや、建御名方は建御雷と呼ばれた男神に掴みかかろうとするも、雷のように激しい視線に晒されるとまったく身動きがとれなくなってしまった。


「お前はあの時もそうだったな。何も考えず私に掴みかかってきた。神代が終わり、神の定義すら曖昧なものとなった今でも変わらない。これでは、お前の父や兄が憐れでならんな」


瞬間、建御名方の膨れ上がった怒りが凄まじいプレッシャーとなって爆発した。立ち上がりかけた奏人はもう一度座り込むことになり、しばらく足は言うことを聞いてくれそうにない。しかしながらそんな圧をなんでもないようにあしらった建御雷はものの数歩で建御名方との距離を詰めたかと思うと、その腕を勢いよく掴んで口角を吊りあげた。


「この腕がどうなったか、忘れたわけではあるまい?」


「───っ!」


途端、建御名方は目を見開いて呼吸を荒げた。

普段は力強いそのふたつの目に宿っていたのは、まぎれもない〝恐怖〟の感情。はやく浅い呼吸は彼の動揺を如実に物語っている。


「国譲りはもう遠い昔に終わった。この国を統べるはあの方の血族よ。お前が何を護ろうと足掻こうが、あの時のように意地を張る理由はもうなかろう?」


───人の子との仲良しごっこは楽しかったか?


「……黙れ!!」


振り払った腕は恐怖をのこして小刻みに震えていた。


「ここでかつてのように勝負をしたところで結果は明らかであろう?何にせよお前は負ける。さあ、今度はどこへ逃げるつもりだ?」


建御名方を追い込む言葉はさながら毒のように。


「ミナカタさん…」


諏訪の祭神は荒い息をこぼすばかりで何も応えない。

きずひとつないその頬を汗が伝い、開いた目には好敵手の姿すら映っていなかった。

よろりとよろめいた男神を支えようと奏人が手を伸ばすも、怯えの眼差しを向けられては中空で彷徨わせるほかなく。


「あっ、ミナカタさん!」


呼び止める声も聞かず、建御名方は朝霞が日の光に溶けていくように文字通りその場から消えてしまった。

残されたのはただの人間と雷の武神だけ。


「…どういうつもりですか」


諏訪の神が逃げるさまをつまらなそうに眺めていた建御雷が片方の眉を上げる。


「どういう、とは?」


「俺、神話とかよくわかりませんけど…ミナカタさんが怖がってたことぐらいはわかります」


からりと乾いた空のような静かな山のような、澱むことを知らない清らかな水のようなあの男神。

そんな建御名方の恐怖に歪んだ顔が今も脳裏に焼きついたまま離れてくれない。


「私は天津神、そしてあれは国津神ゆえな」


ふっと片方の口角を吊り上げる建御雷。


「……?」


「天と地には隔たりがあるもの。天地開闢かいびゃくの頃より、我々が相容れぬのは無理もなきこと」


ひとり納得したように頷いている建御雷だが、奏人には何を言っているのかまったく見当もつかない。

そして雷の神はまたつまらなそうな表情に戻るとくるりと踵をかえす。


「ど、どこに行くんですか」


「帰る」


「帰るって…」


「言葉の通りだ。あれの父が頼むものだから来てみたが…なに、隠れたのであればもうこの場所に用はない」


「あ、ちょ…!」


そう言い放つと建御雷もまた空気に溶けて消えていった。


「なんなんだよ…」


遠ざかる鉛色の雲の行方は、誰にもわかりそうにない。






身の内から震え上がるようなこの感覚は、初めてではなかった。

己は国津の神のなかで最も強き神として崇拝されてきた。

しかし己への自信は惨めな不信に、他者からの期待は呆れと嫌悪に。

失墜していくのはあっという間のことであった。


「逃げた」

「負けた」

「命を乞うた」

「国を売った」


きっとそのどれもが真実で、己に反論の余地はないのだろうと。

諦めて、受け入れて、それでも社が増えていくたびに人の子の願いを聞き届けたいと分不相応な希望を抱いた。


ああ、今度はどこに逃げれば良い?

裏切る前に、己の弱さが露呈する前に、神も人もいないような場所に逃げなければ。

そうだ。お前は弱いのだから。神の役割すら果たせないのだから。

なあ、俺よ。建御名方よ───。

つづきます。

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