57話 ダレンさんは俺が飲み干してしまうのを一通り見届けると、視線を前へ向けた。
意味のわからないダレンさんの言葉を後にして、浴室に向かう。
今の内にお風呂をいただこう。
できる限りだせる最大限のスピードで走る。
ゴブリンは先に行ってしまったし、ここでダレンさんより先に入れないのは人生に負けた気がする。
急いで浴室の入口のところまで行く。
浴室のドアを開けると、初めと同じように湯気がモアッと目の前を覆った。
全身を覆うような多くの湯気が身体中を包む。
それから、スゥーっと湯煙が晴れていった。
感じる浴室の温度と湿度から言って、ちょっと不自然な量の湯気な気がする。
何か意味があるのかな……。
浴室の中へ入って、五歩くらい歩みを進める。
湯煙がなくなったので、前方の大きな浴槽やお湯を吐き出すライオンの顔も全部見えた。
浴室の幅30メートルを端から端へ目一杯に広がった大きな浴槽。
浴槽の淵から、シャバシャバとお湯が常に溢れ続けている。
高級っていうくらいだから、お湯は掛け流しだと思う。
シャワーで身体を軽く流してから浴槽へ向かおうと、洗い場へと歩みを進めようとした。
けれど、また湯煙が濃くなってきて前が全く見えなくなったので、進めなかった。
ようやく湯煙が再び晴れて、進もうとした。
「この湯煙には浴室に少しでも有害物質を持ち込むのを軽減するために洗浄効果があるんです」
ダレンさんの声がすぐ後ろから聞こえた……。
一人で浴室に入ったはずなのに。
湯気が再び視界を遮ったのは、ダレンさんが入ってきたからか。
ステータスが高い人は、移動速度が早すぎて困る……。
すぐ後ろとは言うけれど、ちょっと近すぎる?
ダレンさんから発せられる仄かな温かみを背中に感じる気がする。
全裸同士なので、あまりに近いとダレンさんの身体が肌にくっついてしまいそうで困る。
そんなことを考えていたらちょっと、ドキドキする。
……動悸?
この胸の高鳴りは何だ?
「小林さん? どうしました?」
ダレンさんが後ろから呼びかけてくる。
ドキドキが止まらない。
あっ……!
声が聞こえた次の瞬間には、ダレンさんの顔が俺の目の前にあった。
真剣な目で俺の表情を見つめている。
驚いて、さらに高鳴る心臓……。
こ……これは………………………恋?
「……低血糖症状ですか? ちょっと顔色が悪いですね」
低血糖?
恋じゃなかった。
俺は何を考えているんだろう。
「持続型溶解インスリンは作用時間が24時間を超えるので、まだ効いてるんでしょうね」
インスリンは2種類打っていたけれど、1本は超速効型でもう1本が持続型。
でも、元の世界で開発中の、見た目が絆創膏そっくりのマイクロニードル型人工膵臓を着けてからは打ってない。
低血糖を味わうことなく、過ごしていけると思ったのに……。
持続型インシュリンの効果が長いから、筋肉を動かす事によって血糖値が下がりすぎたみたいだ。
ダレンさんは魔法バッグから手早く黒いものを取り出すと、俺の二の腕辺りに着けてる持続型血糖測定器にかざした。
「ほら、血糖値82mg/dl。身体を少し動かしたから、血糖値が下がったみたいですね」
センサーの読み取り装置の画面を見せてくれた。
画面にはゆっくりと下がっていく血糖値の様子が、線グラフで描かれていた。
血糖値の下がり方を見ると浴室に向かっていく時もユルユルと血糖値は下がって行っている様子がわかった。
「はい、ブドウ糖の入ったジュースです」
ダレンさんは銀色の缶に入った缶を差し出してきた。
「ナニコレ?」
見た目はラベルのない金属製の缶ジュース。
確かに低血糖の時はブドウ糖の入ったジュースは素早く血糖を上げてくれる……。
けれど、ダレンさんが差し出すものなんて摩訶不思議なものな気がする。
「これは、飲む人が一番美味しいと思っているジュースになるというマジックアイテムです」
「マジックアイテム?」
魔法瓶をマジックアイテムかも、っていうようなダレンさん……ホントかなあ。
「バアルさんが第23世界の飲み物はボッタくりだけど、美味しいとか言って作ってました」
ベルゼバブブが創ったのか……何だか、遊び気分で創りそうな気がする。
とりあえず、低血糖が治まらないと気分が悪くて仕方がないから、飲んでみようかな。
「ダレンさん、ありがとう」
俺が美味しいと思っているジュースってなんだろう……何でも同じような気がする。
缶のプルタブに指をかけて、プシュッと口を開けた。
途端に缶は温かみを帯びていく……。
温かいジュース?
匂いを嗅いでみる……甘い懐かしい香りがする。
そっと一口飲んでみた。
弾ける感触とフルーティーな甘味が口に広がる。
なんだっけな、この味……。
小学校の頃、隣の家が置いていた自動販売機のホットの所には、いつもこのジュースがあった。
間違えて入れてあったのか、わざとなのか……今となっては分からない。
このジュースはホットメロンソーダ。
祖母とよく買いに行った思い出の味。
……確かに、これは他の誰でもない俺が美味しいと思う味。
祖母との思い出が色々蘇ってきた。
思い出で心が少し温かくなった気がした。
ホットメロンソーダをゴクゴクと一気に喉に流し込む。
ちょっと、ばあちゃん孝行できなかったことが心残りに思える。
全部喉に流し込むと、缶はポンッと煙になって消えた。
ダレンさんは俺が飲み干してしまうのを、一通り見届けると視線を前へ向けた。
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