雪男のベン
ある村にじいさんとばあさんが住んでいた。気難しいじいさんと優しいばあさんはずっとふたりきりで畑仕事をして生活していた。
「今年も雪男のベンが現れましたね」
ばあさんは窓の外を見ながら言った。村からよく見えるその山は春の訪れとともに雪が解け、一部分だけ雪が残る。その形が大男に似ているので村人たちは親しみを込めて「雪男のベン」と呼んでいた。
「家族で幸せに過ごせますように」
ばあさんが雪男のベンに向かってお願い事をするとじいさんは首を横にふった。
「やめておけ。ベンは願い事なんて叶えてはくれん。それに家族と言ってもわしら二人しかおらんじゃないか」
「いいんですよ。二人きりだって家族なんですから」
おじいさんに言われてもおばあさんはにこにことしたままだった。二人は若い頃からずっと子が欲しいと願ってきたがそれが叶うことはなかった。
ばあさんは畑に実った野菜を分けに隣に住んでいる羊飼いのジョージのところへ行った。かごいっぱいの野菜にジョージは驚いた。
「こんなにいいのかい? ばあさん」
ジョージには食べ盛りの子どもがたくさんいたので、野菜をもらえるのはありがたかった。
「いいんだよ。年寄りの私たちはこれっぽっちしか食べないんだから。あんたにあげてもまだ余っているくらいさ。私達にも子がいれば野菜を余らせるなんてことなかったんだろうけどね」
ばあさんは冗談まじりに言ったが、こんなに世話好きのばあさんがじいさんと二人きりでは可哀そうだとジョージは思った。ジョージはいつも親切にしてくれるばあさんに何かできないかと考えた。
「そうだ! ばあさん。ちょっと待っていてくれよ」
何かを思いついたジョージはばあさんにそう言うと羊小屋の方へ行った。そして羊小屋から1頭の真っ白な子羊を連れてきた。
「ばあさん、この子はこの前生まれた子羊なんだ。でも母親の乳の出が悪くてな、他の羊も自分の子に手いっぱいで乳が足りない。だから俺たちが牛の乳をやって世話をしてやっているんだよ。でも俺は忙しくてね。よかったらばあさんがこの子羊の世話をしてやってくれないかい? この子は大きくなれば野菜も食べるし、刈った毛で毛布を作れば寒い冬も温かく過ごせるよ」
「この子羊をかい?」
「ああ、人間の子どものようにはいかないだろうけどね。この子はかしこい羊だ。ばあさんが育てれば、きっとばあさんに似て優しい羊になるだろうよ」
子羊が甘えた声で「メエ」と鳴く。ばあさんはそのかわいらしいことに喜んで子羊を連れて帰った。
家に帰ったばあさんは早速じいさんに子羊を見せた。
「かわいいでしょう。名前は何にしましょうか?」
するとじいさんはしかめ面をして言った。
「ばあさんや、羊は羊。子の代わりにはならん。家畜に名前なんてつけたら自分が人間だと思い込んでよくないぞ」
「あら、そういうものですか」
ばあさんは名前が付けられないのを少し残念に思ったが、この家には羊が1頭しかいないのだから『羊』と呼んでも紛らわしいこともないとじいさんの言う通りにした。
「羊や、羊。たんとおあがり」
ばあさんが牛の乳を飲ませてやれば羊はおいしそうにごくごく飲んだ。じいさんは羊のために家の隣に小さな小屋を作ってやり、毎日散歩に連れて行ってやった。
「おい、羊。あっちに柔らかい若葉があるぞ」
羊は「メエ」と鳴いてじいさんの後ろについていく。
そして年月がたち、子羊は大人の羊になった。乳を飲まなくなった羊は草や野菜をたくさん食べてそれは大きく立派に育っていた。夏になるとじいさんは羊の毛を丁寧に刈ってやった。するとたくさんの毛が取れた。
短く刈っても秋になれば寒い冬を越すために羊の毛は伸びた。もこもことしたその姿におばあさんは思わず羊を抱きしめる。
「温かいね、羊が来てくれて幸せだよ」
羊もばあさんのぬくもりが気持ちよいのかじっとばあさんの腕の中で目をつぶった。
そして羊が来て何回かの冬が巡ってきた。ばあさんは毛糸のセーターを編む手を止めて、ふいに顔を上げた。窓から見える山はもうすっかり真っ白になっていた。
「あら、じいさん、もうベンが隠れてしまいましたよ。季節が変わるのはなんて早いんでしょうね」
「なに、またすぐに春が来て姿を現すさ」
「そういえばベンにお礼を言うのをすっかり忘れていましたよ。春が来たらベンにお礼を言わなきゃいけませんね」
「なんでベンに礼を言うんじゃ?」
じいさんは眉間に皺を寄せて聞いた。ばあさんはにっこりと微笑んで窓の外の羊小屋を見た。
「子がいなくても自分が幸せ者だと私はずっと思ってきましたがね。羊が来てからはもっともっと幸せになりましたよ。きっとベンが私の願いを叶えてくれたんですよ。羊を新しい家族に迎え入れて、小さかったあの子ももう立派に大きくなって……。私はもう何も思い残すことがありませんよ」
「ばあさん何を言っておるんじゃ。それに羊は家畜であって家族じゃないぞ」
「それでも厳しい冬を羊のおかげで温かく過ごすことができるんですから、あの子は私達にとって必要な子ですよ」
そう言ってばあさんはできたばかりのセーターをじいさんにあげた。
しかし、ばあさんがベンに礼を言うことはなかった。その年の冬は長く、身体を壊したばあさんは病気にかかって死んでしまったのだった。家にはじいさんと羊だけになってしまった。
がっかりしているじいさんに羊が「メエ」と鳴く。小屋にいる羊は外へ出ていきたそうに地べたをガリガリかいた。
「なんだ、散歩に行きたいのか? あんなにお前を可愛がっていたばあさんが死んだというのにお前は哀しくはないのか……」
それでも羊がガリガリとし続けるので仕方なくじいさんは羊を連れて散歩に行った。
しばらく歩いているとむこうからたくさんの羊を連れたジョージがやってきた。
「よお、じいさん」
ジョージが立ち止まるとジョージの羊たちはいっせいに雪の下にある固い草を探して食べだした。
「ばあさんは残念だったよ。俺もばあさんには世話になっていたからね。じいさん、一人で大変だろう? 困ったことがあれば何でも言ってくれよ」
「ふん、わし一人で何とでもなるわい」
ジョージはやれやれと肩をすくめた。
「そういえば最近隣の村が狼に襲われたらしい。凶暴な狼は人も襲うというからね。じいさんも気をつけなよ」
「余計なお世話じゃ」
じいさんが歩き出すとその後ろを羊がぴたりとついていく。
「本当に頑固で素直じゃないじいさんだなぁ」
ジョージはじいさんと羊の後姿をみながらそうつぶやいた。
ある日の夜。村に春の嵐がやってきた。家の外はゴオゴオと風の音が響き柱はギシギシときしんでいた。じいさんは外の小屋にいる羊のことが心配になり羊を家の中に入れるか迷った。しかし、家の外の羊小屋を見て思い直した。
「いや、羊は家畜。家畜を人間の家にあげてはいけない」
じいさんは嵐の音に心を騒がせながら、ひとりベッドの中で眠れない夜を過ごした。
朝になると嵐は去り、風も弱くなっていた。窓を開けると庭にはたくさんの板が散らばっているのが見えた。それはじいさんが作った羊小屋のものだった。じいさんは急いで羊の様子を見に行った。すると木でできた小屋はバラバラに壊れ、羊の姿もない。
「羊! 羊はどこにおる!」
じいさんは顔色を変えて必死で羊を探しに行った。
「ジョージ! わしの羊を見なかったか!?」
じいさんが勢いよくやってきたのでジョージは驚いたが、その顔はすぐに難しい顔になった。
「じいさんの羊もやられたか」
「どういうことじゃ」
「実は昨日の嵐に紛れて狼たちが羊を襲いにやってきたんだ。うちの羊も何匹もいなくなっているよ。じいさんの羊もきっと狼に食われちまったんだろうよ」
「そんなわけあるか! わしの羊はどこかにおる!」
じいさんは真っ赤に怒り、村じゅう羊を探しに行った。しかし、どんなに探しても羊は見つからなかった。
やがて温かな風が吹き、花が咲きだすと村は本格的な春を迎えた。春になれば山の雪は溶けベンが姿を現すはずだった。しかし、不思議なことに今年はベンが現れなかった。気温が急に上がったので山の雪はすべて溶けてしまったのだった。
「山にベンがいないとなんだか寂しいなあ」
村人たちは口々に言った。じいさんは羊がいなくなってから畑仕事以外、家に閉じこもっていた。
じいさんの家のドアがコンコンと鳴るとジョージが手にカゴを持って入って来た。
「おーい、じいさん。元気かい?」
ジョージは時折じいさんの家に様子を見に来たが、じいさんは迷惑そうな顔をするだけだった。それでもジョージは気にせずにテーブルに持ってきたカゴを置いた。中にはまだ温かい鍋が入っていた。
「春になったと言っても夜はまだ冷えるからね。ほら、うちのかみさんが作ったシチューだよ」
ジョージが蓋をあけると鍋からは美味しそうなにおいがした。
「誰も頼んでないわい」
「作り過ぎただけだから気にせず受け取ってくれよ。じゃあまた鍋を取りにくるから」
帰ろうとするジョージをじいさんは「おい」と言って引き留めた。
「お前のところの羊はあれから狼に襲われていないか?」
「ああ、あれから1回も襲われていないよ」
「そうか」
ジョージはじいさんが作った羊小屋を見た。家の隣にある小さな羊小屋はまだ壊れたままになっていた。
「今年も何頭か子羊が生まれそうなんだ。生まれたばかりの子羊はかわいいぜ。じいさん、気晴らしにでも子羊に会いにきてくれよな」
「ふん、他の羊を見たところで気晴らしになんかならんわい」
じいさんは帰るジョージに背を向けてしまった。
そして季節は巡り、また冬がやってきた。じいさんはばあさんが作ってくれたセーターを着るとぶるっと震えた。ベンの山も真っ白になり、雪はすそ野まで広がっていた。
「今年も寒くなりそうだ」
そしてじいさんの思った通り、前の年以上に厳しい冬となった。するとまた飢えた狼たちが近くの村を襲いだした。村人たちは狼がやってくるのを恐れたが、他の村には何度も現れる狼が何故かこの村にだけはやってこない。すると妙な噂が流れ始めた。
「じいさん、面白い噂話があってな。どうもこの村の近くで雪男のベンが出るらしい」
「ベンじゃと?」
「今年はあの通り雪男のベンが現れなかっただろ。毎年狼たちは夏でも月に2,3度はやってくるんだ。でも今年は1度も来なかったんだよ。そしてこの冬もまだ来ていない。おかしいだろう? だから誰かが言いだしたのさ、ベンが山から抜け出して村を狼から守ってくれているってさ」
しかし、ベンは山のでこぼことした地形に残った雪が大男の形に見えるだけであって本当にいるはずがない。
「ばかばかしい」
「俺も信じちゃいないがね。ベンがいるのなら俺も会ってみたいもんさ」
「ベンがいようがいまいがわしには関係のないことだ。もうわしには羊もおらんからな」
そう言うとじいさんはそっぽを向いてしまった。
じいさんとジョージは噂話を信じていなかったが、今度は村人たちの中にベンを見たという者が現れはじめた。
「毛むくじゃらで2メートルはある大男だったよ!」
「すごい勢いで叫んでいたけれど言葉が分からなかったんだ!」
「鋭い角があってそれで狼を一突きにしたのさ!」
村人たちは口々に話したが、雪男に出会って驚いていたせいか、みんな言っていることがバラバラだった。ただ共通しているのは真っ白な毛がもじゃもじゃと生えているということだけだった。
そして雪男はジョージの前にも姿を現した。ある雪の降る晩のことジョージは騒がしい羊の声で目が覚めた。見に行くと羊小屋の近くには雪のように白くて大きなもじゃもじゃの毛の塊がいた。ジョージはそんな生き物は見たことがなかった。
『あれはきっとベンだ!』
ジョージはベンに気付かれないようにそっと様子を見ることにした。するとベンがもっさもっさと毛を揺らしながらすごい勢いで暗闇に向かって突進していく。その暗闇の中にはギラギラと光る無数の目があった。それは狼の群れだった。
『ベンは俺の羊を守ろうとしているのか』
ベンが体当たりすると狼たちもベンに向かって襲いかかる。ベンのもじゃもじゃした身体に狼が覆いかぶさり、ベンは身体を振って狼を叩き落とした。ベンの強い身体に狼はたちうちできず、次々に狼を体当たりで突き飛ばしていく。
『ベンはなんて強いんだ』
何度も何度も狼に向かい突進する姿にジョージの目は釘付けになった。狼たちは疲れ果て、いよいよベンの勝利かというときに1匹の狼がベンの足元を狙って噛みついた。するとベンは何とも言えない悲鳴をあげてその場に倒れた。
「あぶない!」
ジョージは慌てて銃を手に取ると1発夜空に向かって打った。すると銃声に驚いた狼たちは逃げて行った。
その場には足を噛まれ動けなくなったベンだけが残された。ジョージは恐る恐るベンの元へいく。
「おい、ベン! 大丈夫か!?」
しかし、ジョージが足を見てやろうとするとベンは暴れてしまい近づけない。困ったジョージは明るくなるのを待って村人たちを呼びに行った。
ベンを見た村人たちはみんな驚いた。村の誰もこんなにもじゃもじゃした毛の塊の生き物を見たことがない。村人のなかには「化け物だ」と言って怖がる者もいた。
「さあ、ベン、怪我を治してやるから大人しくしてくれよ」
そう言って大人数人がかりで暴れるベンを押さえようとしても、狼を倒してきただけあって敵わない。
「助けてやろうっていうのに、ベンはなんて頑固で素直じゃない奴だろうね」
誰かが言った。ジョージはその言葉でピンときた。彼はベンのように素直じゃない男を一人知っていた。
「もしかしてこいつは……」
ジョージは急いでじいさんのところへ行った。
「じいさん、いますぐ来てくれないか! ベンがうちにいるんだよ」
「ベンなんぞ興味がないと言っておるだろう」
それでもジョージは引かなかった。
「ちょっと確かめたいことがあるんだ! だから来てくれよ」
じいさんは急に呼び出されて不満げだった。じいさんが行くと村人たちは相変わらず暴れるベンに手をやいていた。長年生きてきたじいさんもこんな生き物を見るのは初めてだった。
「なんだこいつは」
じいさんが思わず言うと、じいさんの声を聞いたベンはぴたっと暴れるのをやめた。そんなベンの様子を見たジョージにはベンの正体がわかった。
「やっぱり……こいつはじいさんの羊じゃないかい?」
じいさんは信じられないという顔でベンを見た。
「この毛の塊が羊? そんなわけないだろう!」
しかしベンは怪我をした身体を引きずりながらじいさんの元へと行こうとしていた。ジョージはじいさんに羊の毛を刈るハサミを手渡した。じいさんはまさかと思いながらもベンの毛にハサミを入れる。するともじゃもじゃの毛の中に横長の瞳があるのが見えた。
「この目は羊の目だ。本当にお前はわしの羊なのか?」
じいさんが問いかけると厚く覆われた毛の中でベンが「メエ」と鳴くのが聞こえた。じいさんは嬉しくて涙がこぼれた。
「お前、生きていたのか! よく生きていてくれた! よく帰ってきてくれた!」
じいさんはベンの毛をどんどん刈った。ベンは暴れることもなくじいさんにその身をあずけていた。毛を刈り終わるとベンは普通の羊の姿になった。刈られた羊の毛はそれだけで何頭分もありそうな量だった。
「ベンが羊だったとはなぁ!」
村人たちはみんな驚いてじいさんと羊を見ていた。ジョージは傷ついた羊の足を手当てしてやった。伸びた毛に守られていたので怪我も軽いものだった。
「じいさんに会えてよかったなあ! ベン!」
ジョージが羊に向かって言うとじいさんはむっとした顔をした。
「こいつはベンじゃない。わしの『羊』だ」
すると羊は人懐こい声で「メエ」と返事をした。
そうしてじいさんの羊はじいさんの家に帰ってきた。じいさんは羊小屋を作り直し、嵐の日には家の中へと入れてやった。
「おい羊、行くぞ」
じいさんは羊を連れて畑で取れた野菜を荷車に積んでジョージの元へと届けにいく。
「おいおい、こんなにどうしろって言うんだい? じいさん」
ジョージは自分たち家族だけではとても食べきれない量の野菜を見て驚いていた。
「なに、余ったらお前の羊たちにでもやればいい。わしが作った野菜を食べればわしの羊のように強い羊になるぞ」
じいさんは自慢げに言った。狼たちはじいさんの羊を恐れてもう村にはやってこない。
「それはまちがいないな」
ジョージは大きな声で笑った。
帰り道、見上げれば山の雪が解けはじめ、雪男のベンの姿が見えだしていた。まだ雪の多いその姿は大男というよりもどこかばあさんに似ている気がした。じいさんは立ち止まりベンに向かって話しかける。
「ありがとうよ。わしは今、とても幸せじゃ」
じいさんの後ろにいた羊も「メエ」と鳴いた。
「さぁ、家に帰ろうか、羊」
柔らかな風が羊の毛を揺らす。あたたかな春はもうそこまでやってきていた。
お読み頂きありがとうございました!
なんとかひだまり童話館に戻って来れて感無量(T∀T)