第一章 4 説得する
○
「たっだいま~」
「おっ。おっかえりー♪ 今日は早かったね。今、ちょうどみそ汁ができたところだよ。
……あれ? なんだか、随分と楽しそうだけど、なにか良い事でもあったの?」
すっぱり定時で仕事を切り上げ、ボロアパートへと猛ダッシュした俺を、エプロン姿のカナンがいつものあっけらかんとした笑顔で迎えてくれた。
ちなみに今日、待ち合わせしていないのは、カナンのバイト先が定休日だから。
はやる気持ちを抑えるために大きく息を吸い、それからわざとゆっくりと椅子に腰掛け、
「まあね」
と、目を丸くするカナンに気取って答えて見せる。
「なんなの? 勿体ぶらないで教えてよ」
「…………旅行に行こうぜ」
「は? え? りょ、旅行? ど、どうしたの、急に」
小皿とお玉を持ったまま、俺の真向かいに腰掛け、首を傾げるカナン。
いやー、実に良い反応だな。思わず顔がニヤけちまうぜ。
「どゆこと? もうちょっと詳しく説明してくんない?」
「ああ、良く聞いてくれ。実はだな……」
カナンの質問にしっかり応えるべく、俺は黒意さんとの一部始終を溢れる熱意のままに語った――。
「え~! それで契約してきちゃったの!?」
「いやー、そうなんだよ! 勝手な事をしたってのはこのとおり謝る。でも、こんな凄く良い話、多分そうはないと思うんだ! ほら見てみろって!」
「うん……」
顎に手を当てて、手渡したパンフレットを読み進めていくカナン。
「ねえ、本当なの? 費用がたったの千円だとか、不幸体質が治るとか、嘘みたいな事がたくさん書いてるけど」
「いや、俺も最初はそう思ったんだけどさ。
話を聞いてたら、意外に本当らしいんだよ。
旅費は、コストを削りに削ったら、これでも全然問題ないらしい。
体質改善に関しては、体験談が載ってるページを見てくれれば判る! ほら! この写真の人たちの表情!
皆、この上なく晴れやかな笑顔してるだろ? まさに、長年の苦難から解き放たれたって感じじゃないか?」
「ふーむ……」
難しそうな相槌を打ちながら、ページをめくっていくカナン。
「ここに書いてる事の真偽は別として、後はわたしがサインするだけの状況ってわけね」
「あ、ああ……」
一通り目を通し終えたカナンが、パンフレットを畳みながら何とも言えない感じで聞いてきた。
てっきり、誕生日プレゼントの時みたいに、何だかんだで喜んでくれるかと思ったんだけど……。
「……もしかして、イヤだった?」
おそるおそる聞いてみる。
「そんなことはないよ。世界中を見て回りたいってのはわたしの夢だし。だけど……」
だけど?
「これ協約違反、だよね?」
カナンは俺の目を見据えて言った。
「ま、まあ。そうなんだけど……」
「バチの事は考えなかったの?」
「忘れるわけないじゃないか」
「じゃあどうして?」
「……前から、思ってたんだ。
小さな幸せを集めるのは凄く良い事だと思う。でも、いつまでもそればっかりじゃダメなんじゃないかな。それこそ、一番大きな小さな幸せも逃しちゃうっていうかさ。
それこそ不幸なんじゃないかな。
このパンフにも書いてあるみたいに、この体質を治せる可能性があるなら、思い切ってそれにかけて良いんじゃないかな?
罰にあたられるのはイヤだけど、それだって俺らが自分たちの運命を乗り越えるための試練みたいな物だって考えれば……」
黒意さんの受け売りを口にする俺の目を、カナンはじっと見つめて聞いてきた。
「翔介は、今のままじゃイヤなの?」
「そんな事ないよ。俺らみたいな人間にとって、お互いを助け合えるこの暮らしはベストだと思う。
でも、いちいち不幸を怖がって生きなきゃいけないのは、やっぱりおかしい。苦労に見合った分の幸福くらいは得てしかるべきだよ」
「運命からは逃げられないんだよ?」
きっぱりとした口調で、いつものセリフを口にするカナン。
胸の奥で、もどかしい気持ちが激しく蠢く。
「そうだろうけど……! でも、やっぱり、そればっかりじゃ……! カナンはもっと恵まれても良いって思う……!」
「しょ、翔介?」
思わず立ち上がり顔を迫らせてしまう俺から、身を仰け反らせて驚くカナン。
「ご、ごめん」
熱くなった頬を掻きながらそそくさ座り直すと、カナンはクスッと小さく吹き出した。
「な、なんだよ……」
「ううん、なんでもない。気にしないで。
取敢えず翔介の気持ちは良く判った。
まったく、しょうがないなぁ。うん、良いよ。この旅行、行くよ」
「え?」
一瞬、耳を疑った。
あまり気が進まない様子だったから、てっきり拒否されるもんだと思ってたのに。
「ほ、本当に? 本気で言ってる?」
「うーん。楽しそうな翔介を見てたらさ、行っといてやらないとならないかなーって思ったの」
ちょっぴりおどけた感じで言った。
「ど、どういうこと?」
「わたしの誕生日の日から、翔介ってば、ずーっと暗かったもの。ようやく、元気になってくれたなって」
「カナン……」
思わず下唇を噛みしめた。
全然気づいていなかった……。まさか、そんなふうに心配をさせてしまってたなんて。
「もともと、この街の外へ行ってみたいってのは言ってたのはわたしの方だしね。
わたしは小さな幸福を集めてる方が好きだよ。だけど翔介の言う事も、もっともだと思った。
きっと、これもまた一つの運命なんだろうね。
バチが当たるのはイヤだけど、今まで、なんとか二人でやり過ごしてきたんだもんね。
自信満々とはいかないけど、うん、なんだかんだ大丈夫な気がするよ」
カナンはクスッと笑い、電話脇の筆たてからボールペンを取って、サラッとサインをした。
「はい、これで良いでしょ?」
「あ、ああ……ありがとう……」
「なに、そんなポカンとしてんの? これでせっかく旅行に行くことになったんだから、もっと楽しそうにし・な・よ」
「いてっ」
ちょこんとおでこを突っつかれた。
「そうでなきゃ、逆に不幸なんだからさ」
そう言って、肩をすくめて見せ夕飯の支度に戻った。
きっと、カナンは気を使ってくれたんだろうな。
ホント、俺はいつも迷惑かけてばっか。
この旅行は借りを返すチャンスだ。
不幸体質から開放されれば、自分に見合った本当の幸せを手に入れられるようになる。
そうなれば、絶対に行って良かったって思って貰えるはずだ。
それを思うと、俺の胸は年甲斐もなく、ドキドキと音を立て始めた。
翌日、さっそく黒意さんに電話で伝えると、早速、出発の日取りを決められた。
「出発は一ヶ月後、集合場所は駅前の時空の塔で」
俺もカナンも、その辺に関してはこれといった意見を持っていなかっため、特に異論はなかったため、すんなりと決まった。
それからの一ヶ月。
時間の流れる速度は早かった。
俺とカナンは、なんどもスケジュールを練り、一週間くらいの旅にする事に決め、それに合わせて有給を申請した。
日曜日には、柄にもなくデパートなんかにに赴き、思い切って少し値の張る服なんかを買ってしまった。
「大方必用な物はこちらで用意させていただきますので、お二人は散歩にでも行くような身なりでいらしてください」
そう黒意さんには言われていたのだが、浮かれていた俺らはつい奮発してしまった。
うろ覚えの海外セレブをちょっと意識して、カナンは肩の膨らんだブラウス。俺はアロハシャツに破れたデニム。それから二人お揃いで、サングラスなんかを購入してみた。
冷静に考えると、どこが海外セレブなのか判らかったが(特に俺の格好)、これはこれで面白かったから良しとすることにした。
それから、巷で話題のクレープを買って食べてみたり。雑貨屋で絶対に使わないだろう小物を買ってみたり。書店に寄って旅行誌をチェックして、改めてこれからの事に胸を弾ませたり……。
まるで、本当にデートをしているような気分だった。
しかも不思議な事に、この間は理不尽な不幸が一切起こらなかった。
もしかしたら、既にアルマとかいう女神のご利益が現れ初めているのかもしれない――。
そう思うと、ますます俺の心はこの旅行への期待で弾んでいった。
成績の上がらない仕事も、物悲しい気持ちにかられる最終電車でさえも、やんわりと受け入れられるだけの、ゆとりが芽生えていた。
間違いなく、この時。俺は幸せだった。