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第1章 2  クビになりかけの少女、魔裏。

 ○ 


 ドザーっとアスファルトを跳ねる雨を眺めながらため息をこぼした。

 今日も午前中から営業に明け暮れていたのだが、突然のスコールに襲われ、慌てて担当エリア最寄りの駅ビルに避難したのだ。

 ノルマを考えるとここで完全に立ち往生ってのは、いろいろときつい。諦めたくはないけど、多分今月もダメそう……。ほんと、相変わらずついてない。確か天気予報の降水確率は0パーセントだったはずなのに。

 はあ。なんだか、濡れたスーツがやけに重く感じてきた。

 これ、先週クリーニングに出したばっかりの奴だったのに、また出さないとならないのか。

 しかも、せっかくもらった半額のクーポン、クリーニング屋を出た瞬間、いきなり突風に吹かれて飛ばされちまったんだよな。普通料金、結構高いんだよなぁ……。

 

 きっと、こうなったのも、今日一発目に訪問した先のおばあちゃんが、「最近、骨が弱くなってきたような気がするから」とか言って、びっくりするくらいあっさりとサインしてくれたせいだろうなあ。

 牛乳を飲んだくらいで改善されとは思えなかったから、カルシウム成分の強化されたタイプを勧めて、そっちの方を契約してもらった。

 おばあちゃんを悪くいうつもりはないけど、原因はきっとそれだろうな。

 雲行きが怪しくなってきたのは、おばあちゃんの家を出て、契約を取れた自分へのご褒美として昼食にラーメンを食べようと駅前に戻り始めた頃だったもんな……。

 もう一度ため息をつき、スマホの時計を見れば――まだ午後二時半を過ぎたばかり。

 多分通り雨だろうから、そのうちやむんだろうけど、何もしないで待ってるのもなあ。

 うーん……。

 色々考えた末に、俺は雨宿りを兼ねて駅ビルの中をブラつく事にした。


 地下の物産品コーナーを皮切りに、フードコーナーで一階の雑貨コーナー、二階の男性用の小物と、階を上っていった。

 こんなふうに何をするでもなくブラブラするのは、意外と楽しい。俺を縛るものが、この時ばかりは大目に見て緩めてくれているような気がする。

 ……もしカナンと一緒だったら、どんな感じになるんだろう?

 ふと、そんな事を考えてしまった。

 もともと、誰にも理解されない愚痴を言い合うための関係だったから、それ以外の理由で、どこかに二人で出かけるなんて事はない。

 迂闊に楽しんだりなんかしたら、どんな目に合うか判らないからな。

 不幸を避ける事が、俺らの前提なのだ。

 と、そんな感じで有意義に時間を過ごす事、三十分ほど。

 俺はうっかり、最上階である七階へ向かうエレベーターに乗ってしまっていた。

「あ、しまった! この階は駐車場への連絡口しかないんだった……」

 自分のボケっぷりに呆れつつ、最上階に着くや、早速反対側の下りエレベーターのある反対のサイドへと足を向けた。

 と――。

「……うう…ぐすっ……」

 連絡口の向こうから、すすり泣く声が聞こえてきた。何もないフロアという事もあってか、やけに耳に響いてくる。

「まさか、迷子とかじゃないよな?」

 心配になった俺は、取敢えず駐車場を覗いてみることにした。

 やけに明るい照明に照らされた連絡口を抜け、すすり声を辿っていくと――

「あれ?」

 暫く来てないうちに、このビルも色々変わっていたらしい。

 目の前に現れたのは、駐車場ではなく、仕切りで簡単に区切って作られただけの、簡易オフィスのようなスペースだった。

 ……この向こうから聞こえてきてるっぽいけど……勝手に入ったら怒られるかな? でも、何かあったらやばいし……。

 取敢えず覗くだけ覗いてみるか。

「ごめんくださーい……」

 小声で謝りつつ、仕切りの奥へと足を踏み入れる――と、

「ぐすっ……へぐっ」

 スーツ姿の若い女の子が、長テーブルを前に俯いて、目元を拭っていた。

 見たところ、ここの従業員っぽいけど……どうしたんだろう? こんな人気のないところで。ミスでもして上司に怒られたのかな?

「あの……」

 何となく気になって、つい声をかけてしまった。

「え?」

 少し驚いた様子で、顔を上げる女の子。

 肩の辺りで二つに結った金色の長い髪、透き通るような白い肌、あどけない顔立ち、エメラルドグリーンの瞳……。

 まるで、ファンタジー物の漫画に登場する妖精を彷彿とさせる容姿に、俺は驚き見入ってしまっていた。

「も、もしかして、お客様でしょうか!?」

 少女は、椅子を蹴り倒しながら立ち上ると、泣いた顔もそのままに、その身をグッと寄せてきた。

 思わぬ急接近に、ちょっとびっくりしつつ、

「まあ、一応そうだけど……?」

 上擦った声で答えると、少女は両手を合わせてにっこり微笑んだ。

「うわぁ! ありがとうございます!

 ようこそ、ディービルトラベル峰守支店へ! 当社は、『あなたの人生に幸福な彩を』をモットーに、あらゆる世界に展開し、全宇宙の人々に、忘れられない素敵な旅を提供させていただいているスーパーグローバル旅行代理店でございます!

 ちなみに、わたしはここの担当で……あ、そうだ! 良かったら、こちらをどうぞ」

 捲し立てる勢いで自己紹介を終えた少女は、手前の長テーブルの上に置かれていたクリアファイルから名刺を一枚取り出し、恭しくお辞儀をしながら差し出してきた。

 ……つーか、ここ会社だったのか。まるでそれっぽさが無いから、全然想像がつかなかった。

「ディービルトラベルの……『くろいまり』さん?」

「はい!」

『黒意魔裏』の文字に添えられた仮名を読み上げると、少女――黒意さんは、大きく笑顔を頷かせる。

 一応、社交辞令として、軽く自己紹介をしつつ名刺を渡すと、

「あ、ありがとうございます! ありがとうございます!」

 まるでお年玉を貰った子供みたいに受け取ってくれた。

「羽田翔介様……と、おっしゃられるのですね! かしこまりした! それではよろしくお願いします!

 えー、さっそく『ご相談』の方をさせていただきたいと思いますので、そちらの方におかけください!」

「ご、ご相談?」

「はい! しっかりと、誠意をこめてお答えさせていただくつもりでございますので!

 さあ、どうぞどうぞ、遠慮なさらずに!」

 そう言うや、黒意さんは素早く俺の背後に回ると、有無を言わさぬ勢いで肩に手をかけ無理やり椅子に座らせた。

「それではこちらをどうぞ!」

 ドカっと勇ましい音をたて、厚さ30センチ程の紙の束が目の前に置かれた。

「こ、これは……?」

「わたしが企画した旅行のチラシとパンフレットです!」

「え? こ、これ全部? す、凄い量だね……」

「はい! 独自に収集した様々なデータを基に、思いつく限りのパターンを形にしてみました!

 さあ、どこでもなんでも、行ってみたいところを上げてみてください!

 ニューヨークやロンドンといった大都会から、アマゾンの密林やサハラ砂漠のような人里離れた片田舎、はたまた宇宙の果てや異世界まで、この世と形容できる土地ならば、全て取り揃えていますので!」

「え? は? う、宇宙? 異世界?」

「はい! もうどこにだって」

 力強く頷く黒意さん。

 ……さっき、会社のPR的っぽい事を言ってってた時も、あらゆる世界~、とか全宇宙の人々に~とか似たような事言ってたけど……。まさか、本気で言ってないよな? 盛りに盛った宣伝文句ってだけだよな。

「あの、もし、行き先が具体的に決まっていないのであれば、こんな事を経験してみたいとか、そういう曖昧なイメージでも構いません! どんな些細な事からでも、お客様にご期待に添えるプランを組み上げさせていただきます!」

 ベシッ! と、チラシの束を叩きながら満面の笑顔を迫らせてくる黒意さんだった。

「い、いや……。行きたいところって言われても……」

 ふと思ったんだが……もしかして、黒意さん、俺の事を旅行のプランを求めてる人だと思ってる……? なんか、そういう前提で話をされてるような……。

「あの……黒意さん? 俺の事、旅行の相談をしに来たって思ってます?」

「もちろんですとも! 先程、お客様は確かにお客様であると名乗られていたじゃありませんか!」

 なるほどそういうことか。さっきの質問、黒意さんは旅行会社の客かって意味で聞いてたのか。それを、俺はこのビルの客だと受け取り『そうだ』と答えてしまった……。

 旅行の話を聞くだけなら全然大歓迎なんだけど、実際に行くのかとなるとそれは別だ。

 期待に胸を膨らませている黒意さんには申し訳ないが、ここはスッパリと誤解を解いておこう。その方が、お互いのためにも良いだろうし。

「えっと……ご、ごめん。さっきは客かって聞かれて、そうだって言っちゃったんだけど、俺、旅行したいとかじゃないんだよ。この駅ビルの客なのかって意味で聞かれたと思って、そう答えただけで……」

「え……ど、どういうことですか?」

 半身を仰け反らせながら言う黒意さん。

「だから……その、うっかりこの階に上がっちゃったら、泣いてる声が聞こえてきて……どうしたんだろうって思って立ち寄っただけというか……」

 心苦しく思いながら、そう真実を告げると――黒意さんは床に突っ伏しそうな勢いで、肩を落とした。

「なんだ……。そうだったんですね……。それはすみませんでした。余計な気を遣わせてしまって。わたしは、このとおり全然へっちゃらですので、お構いなく……」

 ヨロヨロと倒れていた椅子を起こすと、黒意さんはもたれるように腰を掛け、再び目元を拭いだした。

 どう見たって、へっちゃらじゃないよな……。

「あのさ。何かあったの? さっきも泣いてたっぽかったし……」

 余計なお世話かもしれないとは思ったが、やっぱり放っておけなかった。

「え……!?」

 会話を続けられると思っていなかったらしく、黒意さんはキョトンと見つめ返してくる。

「あ、いや! 話したくなかったら話さなくても良いから! そりゃそうだよな。会ったばかりの人に、そういう事聞く方がおかしいよな。あははは……!」

 ったく、本当に何やってんだ俺は? 普通に考えて、そんなの答えてくれるわけないじゃないか。苦し紛れに作った笑顔が無理やり過ぎて、ほっぺたがイタイっての。

 そんなしょうもない俺の様を見てどう思ったのか、黒意さんはフッと小さく吹き出した。

「……昨日、人事部の方が訪ねて来られて、『一ヶ月以内に、客を取れなければ、契約は更新しない』と言われてしまったんです……」

 途中、グスッと嗚咽を漏らしながらも、そう語ってくれたのだった。

 ……なるほど。それが泣いていた理由か……。確かに、それはつらい……。もし、俺が同じような事を言われたら、やっぱりあんな会社とはいえ、かなりのショックを受けるだろうな。

「……うっすらとは判っていたんです。そろそろ、宣告されるんじゃないかって。何せ、かれこれ一年近くも、お客様を取ることができてませんので……」

「え? い、一年も!?」

 思ってたよりも全然長いんですけど……。

「はい。もう、全然なんです……。

 しかも、ディービルトラベルには、月ごとにノルマの20パーセントを上納金として納める決まりになっていまして、それを一年滞納してしまうと、解雇されてしまうんです」

「は? ちょっと待った。お客さんが取れなさ過ぎてクビってんじゃなくて、会社に金を払えなくなったらクビって事?」

「平たく言えばそういうことです」

 弱々しく首を振る黒意さんだった。

「いやいや! 嘘でしょ? いくらなんでも、そんな非道がまかり通るとは思えないけど?」

「ですが、本当なんです。わたしと会社はそういう雇用契約を結んでいるので」

 そう言うと、黒意さんはクリアファイルの中から、『契約書』と書かれた一枚の紙を取り出し、その一ヶ所を指さした。

「どれどれ? えーっと………………な、なんだって!? そんなばかな!」

 愕然とさせられた。

 たった今、彼女の話した内容の事が見事に書かれていた。しかも、最後の行の下には、黒意さんの物と思われる署名と印までもが……。

「あのさ? こんな事を聞くのもなんだけど、ディービルトラベルって言ったっけ? もしかして、結構ヤバい会社なんじゃないの?」

「と、いいますと?」

 驚いた事に、黒意さんは言ってる意味が判らないと言わんげに首を傾げた。

 洗脳とかされてないよな?

「社員から直接金を巻き上げるなんて、そんなの聞いた事ないし、ありえないよ」

「でも、そういう決まりである以上は、会社に従わなければ……」

 うーん、この自分の置かれている状況に対する鈍さ。どうやら、かなり根深い問題がある会社のようだな。

「……そもそもこの会社、本気で旅行で稼いでいこうとしてないよね? この支店の様子からしてちょっと変だしさ。

 普通、旅行会社って言ったら、『○泊○日○○への旅!』とか、そういう事が書いてあるポスターが、あっちこっちに貼られてるもんじゃない? 

 やるべき事の準備すら全然できてないなんて、正直やる気が感じられないよ。こんなんじゃ、本当に旅行に行きたいって思ってる人が寄ってくるわけないよ。

 それに、黒意さんの他に働いてる人はいないの? さっきから全然見当たらないけどさ」

 改めて周囲を見回してみるが、やはり店っぽい雰囲気も人の気配も一切感じられない。

「えっと……、ここで働いているのはわたしだけです。と言いますのも、峰守支店はわたしが個人的に設けたものですので」

「え? こ、個人的に?」

 一瞬、言ってる意味が理解できなくて、ついそのまま聞き返してしまった。

「はい。最低限必要になりそうな備品は業者からレンタルし、自分で配置して、なんとかテナントっぽくなるように作ってみたんですが……お店っぽく見えないのは、わたしのつくりが上手くないからです」

 信じがたい事情を口にし、力なく微笑む黒意さん。

 まさかの背景に唖然とさせられてしまった。

 逆に、たった一人でここまで準備したのは、逆に凄いとしかいいようがない。

「普通、そういうのって会社が準備するもんでしょ? それを社員一人にやらせるなんておかしいよ」

「ディービルトラベルは、社員の自主性を重んじているため、一人一人の裁量に任せている部分がとても大きいんです。

 プランの作成からプロモーション、販売、それから実際にお客様に帯同してガイドをするところまで、ほとんどの仕事を自分でやらなくてはならないのです」

「いやいや、ちょっと待った。それって、色んな負担を社員に押し付けてるだけに聞こえるけど?」

「でも、それがこの会社のやり方ですので」

「だからって、これはひど過ぎる。そんなにたくさんの事を仕事だからって引き受けていたら、黒意さんが辛いだけでしょ」

「辛いかと言われれば……とても辛いです。

 自分一人で何でも用意しないとならないのは、時間と労力を要しますし、かなり体にも心にもこたえます。同僚と呼べる仲間も傍にいるわけでもありませんし。

 でも、悪い事ばかりじゃないんです。

 自分の思いついたアイディアを、より直接形にできるので、やりがいもあるんです」

 前向きな言葉を口にして微笑む黒意さんだったが、その笑顔からは覇気が感じられない。

「そう言う割には、全然楽しそうには見えないけど?」

「それは……」

 言葉を濁らせる黒意さん。伏せたその目にはうっすらと涙が滲んでいた。

「悪く聞こえるかも知れないけど、クビになった方が良いかもよ? 話を聞く限り、全然良い会社には思えないし。どうしても旅行会社で働きたいのなら、もっとちゃんとしたところに務めた方が良いよ」

「労働環境等を考えれば、そうかもしれません。しかし、ディービルトラベルには他には無い自由がありますので」

「そこ、そんなに重要?」

「はい。わたしの夢を実現するためには……」

「夢?」

「突拍子もない話になってしまうのですが……わたし、多くの人に少しでも幸せな人生を送れるよう、そのお手伝いしてあげたいって思ってまして……」

 そう言うと、黒意さんは少し恥ずかしそうに頬をかいた。

「どういうこと?」

「わたし、子供の頃から両親の都合で、世界中を行ったり来たりしてたんです。

 そのおかげで、世界はわたしの想像よりもはるかに広くて、たくさんの姿を持っている事を知ったんです。

 例えば、人の町の華やかさと侘しさ、美しくもある自然……。

 そういった世界の色んな一面を目の当たりたりにするたび、わたしは理由の判らない寂しさにとらわれたり、人々の暮らしの尊さに気づいたり……、それこそ簡単に言葉にできないようなたくさんの感動を覚えて、幸せな気持ちでいっぱいになったんです」

「幸せな気持ち?」

「不思議な優しい気持ちと言ったら良いでしょうか? わたしはそういう気持ちでいられる時が、人の幸せだと思ってます」

 俺は反射的に「そうなんだ」と、呟いていた。

「だから、たくさんの人に、世界の色んな面を知って貰いたいんです」

「だから、自分でプランを決めてガイドもやれる、この会社が良いって事?」

「そうです」

 強く頷く黒意さん。

「……うーん。そこまで言うなら、思い切って自分の会社を立ち上げてみたら?

 その夢を叶える事と、この会社で自由に働く事は、あまり関係がないように思うけど?

 こんなに一人であれこれやって、プランもたくさん考える事ができるのなら、そっちの方が良いんじゃないかな……。資金とか色々難しい面はあるとは思うけどさ」

「ゆくゆくはそうするつもりではいます。雀の涙ほどではありますが、毎月給料から少しずつ貯金もしています。

 しかし、まずはしっかりとノウハウを学び、実績を積んで、自分に自信を持ちたいんです……って、偉そうな事言ってますけど、全然なんですけどね」

 返す言葉が出てこなかった。

 彼女の語る『夢』の、理解の仕方が判らなかったからだ。

 どう考えても、今の境遇ではそれを叶える事なんて無理だ。それなのに、微塵も夢に疑いを抱いている素振りがない。正直、子供じみていると感じた。

 ところが、それなのに。何故か俺は素直に応援したい気持ちにもかられてしまっていた。

「おっしゃりたいことは判ります」

 黒意さんは、少し寂しそうな笑みを浮かべて言葉を続けた。

「他の誰かにとって、わたしの夢は本当にただの絵空事でしかありません。

 でも、わたしにとっては確かな物なんです。

 だから、今は、こんな境遇にはいますけど、絶対に負けたりなんかしません。

 いつか必ず叶うって信じてますから」

 とても力のある言葉だった。

 それに触発されて、ようやく俺は言葉を紡ぐ事ができた。

「……俺、黒意さんみたいに夢を追うような生き方をしてないから、その辛さは判らないけど。

 でも、黒意さんの話を聞いてたら、何かこう……良く判らないけど、明るい気持ちになったよ。だから、頑張って欲しいって思った」

 こみ上げてくる気持ちに反して、月並みな言い方にしかできなかった。

「ありがとうございます……。そう言って貰えて嬉しいです。ちょっぴり、元気が出てきました。

 ……本当に、ありがとうございます」

 ふっと、顔を綻ばせる黒意さん。

 眩しさと影の入り混じった笑顔だった。

 気にかかるものが完全に消えたわけじゃなかったが、少なくとも彼女はひたむきだ、俺は尊敬の念を抱いた。

 だからだろう。黒意さんが自分の夢を、どんな形にしようとしているのか知りたいと思った。

「あのさ。さっきは断っちゃったんだけど、良かったら、黒意さんの作った旅行プラン、見せてくれない?」

「是非! よろしくお願いします!」

 ぱあっと微笑み、積まれたチラシの山から、一枚を取り出す黒意さん。


 受け取り見てみると、いかにも手書きといった感じのマジックペンで書かれた大きな文字で――、


『世界一周旅行 ペア 1000円ポッキリ!』


 え? せ、1000円!? 世界一周が? たった?

 俺は瞼を擦り、それからもう一度、ゆっくりとゼロの数を数えてみた。

 一つ、二つ……三つ。ってことは、やっぱり1000円ってことだよな?

 ……何個かゼロを書き忘れたのかな……?

 でも、そんな事ありえる?

「あ、あの……どうですか? 自分で言うのもアレなんですけど、凄いプランだと思うんです……。たったの『1000円で』行っちゃえるんですよ? 世界旅行に! しかもペアで!」

 両手の拳を握り締めて言う黒意さん。

 ……ゼロ、書き忘れたわけじゃなかったのか。

「な、何かの間違いなんじゃ……?  そんな金額じゃ、せいぜい峰守線を端から端まで一往復程するくらいしかできないと思うけど?」

「いろいろ計算して、余計な経費を削ってみたら、なんと、ここまで落とす事ができたんです!」

「え? ……いやいや、絶対無理があるだろ」

「いえいえ! 大丈夫なんです! 疑っていらっしゃるようですが、ホントのホントなんです!」

 相当な自信があるらしい。かなり強い口調で言う黒意さんだった。

 正直、納得はできないが……、まあ、クビ寸前とは言え、仮にも彼女はこの手のプロだからな。旅行に関してはど素人の俺には、想像のつかない手段があるって事なんだろう……。

 もう少し詳しく内容を確かめるべくチラシに目を落としてみると――あれ? よく見たら、値段以外の必要事項が何も表記されてないな……。これは一体、どういうことなんだ?

「あのさ、金額以外の事が知りたいんだけど、どこに書いてあるの?」

「え? と、言いますと?」

 さも意外な事を聞かれたと言わんばかりに、目を丸くする黒意さんだった。

「い、いや…… 普通、滞在期間はどれくらいとか、どんなところを巡るのかとか、そういう基本的な情報が書いてあると思うんだけど?」

「ああ……! そう言われてみれば確かにそうですね! わたしとしたことがうっかり書き忘れていました!」

 自分の頭をコツンとぶって、ペロッと舌を出す黒意さん。

 ……こんなことを言うのもアレだが、なんとなく、この子がクビになりかけてる理由が判ったような気がした。

「それでは、表記し忘れてしまった情報について、直接わたしの口から説明させていただきますね。

 まずは、『いつから』に関してですが、こちらは、お客様のご要望に合わさせていただくつもりでございます」

「ふむふむ」

 ま、そりゃそうだわな。

「続いて『いつまで』についてですが――こちらは、現地に到着してからのお客様のやる気に委ねられています」


 へ? やる気? 現地についてからの?


「……ちょ、ちょっと待った。いまいちピンと来なかったんだけど、それは向こうに行ってから客側が好きに決めて良い……って意味?」

「概ね、その通りですね」

「え? 概ね……? 何で、そんな曖昧なの?」

「柔軟に対応できるという旨を強く理解して欲しいために、敢えてそういう言い方をしただけでございます。なので、そんなに難しく考えないでください。

『やる気』という表現を用いたその主旨に関しましては、いつでもお客さまの気持ち次第で、自由に滞在期間を変更できるということでございます」

「でもその話だと……例えば、一週間の予定で旅行してたお客さんが、急に一年くらいかけたいって言い出しても、それに合わせるって事? まさか、そんなわけ――」

「もちろん、そうさせていただくつもりでございます」

 自信に満ち溢れた笑顔で言われた。

「そんな急に変えられるものなの?」

「お客様が素敵な思い出を作れてハッピーになれるのであれば、そんなのお安いご用です」

 何だか勢いではぐらかしてるような気がしないでもないけど……、でもまあ、ここまで強く言うって事は、実際にできるできないは別にして、そうはしようとするつもりなんだろうな……。

「取敢えず旅行の期間に関しては、一応それで納得するとして……ルートの方なんだけど、どういうところを巡っていく予定なの?」

「そこはですね、ウフッ。出発してからのお楽しみ、といった感じになってます」

「え? 判らないってこと?」

「はい! どこにいくのか判らないスリルを味わって欲しくて」

 それ、客側からしたら不親切以外の何物でもないと思うんですけど……。

 言いたいんだけど秘密だよとばかりに、口に手を当てて笑ってるけど……大丈夫なの? こんなんで。

「まさか、ジャングルの奥地とか、何もない砂漠とか、そんな辺鄙なところばっかり巡って世界一周! とかじゃないよな?」

「ご安心ください。

このわたしが独自に行った調査を元に、現代日本人が、最も訪れたいと思っているであろう地をご用意させていただいております! 必ずやご満足いただけること間違いなしです!」

「ってことは……それなりに、有名な観光地とかだったりするわけ?」

「もちろんですとも! 具体的に言ってしまうと、それはもう、とてつもなく素敵なところばかりでございます!」

「ふーん」

 日本人が行きたいところ、か……。

 となると、グアムとかハワイみたいな、名高い観光地や、ロンドンやパリ、ニューヨークや香港といった各国の主要都市とかかな?

 それが本当なら、まあ、変な心配はしなくてもよさそうだけど……。

「えー以上で、一応、重要だと思われるポイントはお話させていただいたつもりですが、他に気になることとかございますでしょうか?」

「いや……。大体は判ったよ。どうもありがとう……」

 実際は全然判ってなかったんだが、これ以上追求すると更に混乱を深めてしまいそうだったので、取敢えず納得できた事にした。

「いえいえ、理解して貰えて嬉しいです。というか、話を聞いていただけて本当に嬉しいです! 羽田さん、本当にどうもありがとうございます!」

 溢れんばかりの笑みを浮かべ、深々と頭を下げた。

 俺としては、意味不明なところをツッコんだだけなんだが、一年も客を取れてない彼女からすれば、喜ぶのも無理はないのかもしれない。

「あ、そうだ! わたしとしたことが、またもや大切な事を、言いそびれるところでした。

 実はですね。このプランに応募していただいた方には、最高レベルの保険と、超優秀なスペシャルガイドが、これまた『無料』でつくことになっております! あ、ちなみに何を隠そう、そのガイドはわたしなんですけどね! いや~、自分で言うのもなんだけど、超お得だと思うんですよね!」

「へえ。確かにそれは凄い……」

 そういや、そういうのも自分でやらないといけないんだっけ。

 だけど、黒意さんがガイドって、かなり不安なんですけど……。

 きっと、その辺もお客さんを取れない一因なんだろうな。

「どうです? ここまで説明を聞いてみて。

 この旅行に行ってみたくなりませんでしたか?」

 ムフッと意味深な笑みを浮かべる黒意さんだった。

「い、いや、別に――」

「羽田様、自分の気持ちに嘘をついちゃだめです! プロのわたしの目はごまかせませんよ? 本当は行きたいって思っていらっしゃいますよね?」

 というわけで、はいどうぞ!」

 黒意さんは目にも止まらぬスピードでクリアファイルの中からボールペン付きのバインダーに裏返したチラシを挟むと、強引に俺の手に握らせてきた。

「こ、これはいったい俺に何をしろと……?」

「実はこのチラシの裏側が申込書になってましてですね、一番下にある空欄の方にサインをしていただくと、晴れて契約が成立したことになるというわけでございます。さあ、このチャンスを逃す手はありません。どうぞ遠慮なくサインしちゃって下さい!」

 希望に満ちた綺麗な目がキラキラと俺を見つめていた。

「……もしかして、無理やり契約させようとしてる……?」

「いえいえ、決してそんなはありません。でも、してくれたら嬉しいです! どうかよろしくお願いします!」

「いや、お願いしますって!? それ絶対、つもりあるでしょ!」

「はい! 本当はあります!」

 あっさりと白状した黒意さんは、更に深々とお辞儀をした。

「申し訳ないけど、お断りの方向で」

「え? え? どうしてですか……? こんなに安くて、サービスも抜群なのに?」

「いや……、色々と怪し過ぎて無理かなぁって……」

 そう言って、バインダーを返そうとしたが、黒意さんは両手を後ろに隠して拒んだ。

「どうやら、ご理解頂けていないようです! 一見怪しいように感じるかも知れませんが、そのミステリアスなところにこそ、楽しくてスーパーハッピーなれる要素が秘められているんです!」

 クビがかかっている事もあってか、黒意さんは必死の形相で詰め寄ってきた。

「でもなぁ……」

「そこをなんとかお願いします! 絶対、素敵な旅行にしますから! どうかわたしにチャンスをください! ここでダメだったら、わたし、本当にクビになってしまいます! お願いします! どうかお慈悲を! このとおりです!」

「ちょ、ちょっと、そんな真似されても無理なものは無理なんだよ!」

「いいえ! あげません! サインをしてくれるまであげません。

 何か不満な点がありましたらば、どうかおっしゃってください。修正して必ず素晴らしい方向に修正したプランを提示させていただきますので! どうかお願いします!」

 ペコペコと何度も頭を下げてる黒意さん。

 困ったなぁ……。これ完全に泣き脅しじゃないか。

 心情としては助けてやりたい。俺も、ノルマで頭を悩ませてばかりだから、彼女の気持ちを考えると身につまらせられるものがある。

 それに、旅行はカナンの夢だ。

 決して悪い話ではない。

 しかし、如何せん不幸体質という問題を抱えている以上、迂闊に旅行なんていうビッグな娯楽に手を出してしまうのはリスクが高すぎる。

 黒意さんには申し訳ないが諦めて貰おう。

「力になってやりたいのはやまやまなんだけど、俺にも色々事情があってね。残念だけど行きたくても行けないんだよ」

「事情? なんなんですか、それは? 教えて下さい! 多少のことなら、わたしが何とかしますんで!」

「い、いや……。無理だと思うけど?」

「そうおっしゃらずに! こう見えてわたし、人の悩みを解決するの得意だったりするんですよ?」

「そ、そうなんだ……」

「どうぞどうぞ。どーんと話してみてください!」

「あ、ああ……。いや、ね……実は――」

 もちろん黒意さんに何かできるなんて思いもしなかったが、取敢えず、経済的な面と不幸体質について洗いざらい話してみた。

 俺らの抱えている問題が、いかに解決困難であるかを知って貰えば、彼女も強引な誘いをやめてくれるのではないかと踏んだのだった。


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