BRIDES
人生の半分以上を一緒に過ごした友人が結婚する日は、澄み切った青空が綺麗な冬の日だった。
「ねぇ、ちょっと何枚写真撮ってるの? 咲にはドレス選びにも付き合ってもらったし、飽きるほど見てるでしょう?」
「いやいや、当日の花嫁は別物でしょ。綾には私の結婚式の参考になってもらわなきゃ」
この日のためにわざわざ買ったデジタルカメラを構えて、私は呆れた表情の花嫁をファインダー越しに見つめ返す。
あと少しで式が始まる。今日彼女とこうして2人きりで話ができるのは、きっとこの時間が最後だ。
「何それ、私を祝ってはくれないの?」
「そんなの、十分祝ったじゃない。こーんなおっきな花束まで用意したんだから」
花嫁控室の隅に置かれた、両手で抱えきれないほどの花束を指さす。綾の好きなオレンジ色の花を詰め込んだ特注の花束だ。
「ブーケはあるだろうけど、綾のものにはならないでしょ? だからどうかと思ったんだけど、気に入らなかった?」
「ううん。正直、すごく気に入ってる。花のチョイスも私好みだし、さすが咲って感じ」
「うん、ありがと。悩んだ甲斐があったわ」
会話をする間も、私はカメラのシャッターを切る手を止めなかった。諦めた様子でため息を吐いた綾は、手近にあった椅子にどっかりと腰を下ろす。
「にしても、綾の方が先に結婚するとはねぇ。絶対私が先だと思ってたのに」
「確かにそうね。私も咲の結婚式に呼ばれるのが先だと思ってた。……25で結婚とか、早まったかな」
愚痴るような彼女の口調は、相変わらずだ。今日はいつにもまして着飾っているだけに、口調と服装のギャップが可笑しい。
知り合ってから10年以上も経つ、私の親友。小さいころから、何をするにも一緒だった。そんな彼女が結婚するのは嬉しいけれど、なんだか寂しい。まるで置いて行かれているようで。
「何よそれ、冗談でも笑えないよ。兄さんが綾に逃げられたら、もう一生結婚できなさそうなんだから」
しかも花婿は私の実の兄だから、なおさら。
「そんなことないでしょ。顕ならきっと引く手あまたよ」
私なんかで、いいのかな。
彼女のささやきが耳に届いて、私はカメラを構えるのをやめた。
マリッジブルー。幸せなはずの花嫁特有の不安定な気持ちは綾にもあるみたいで、私は彼女の心を慰めるような言葉を探した。
「姉さんのドレス姿、私見たかったのに」
開きかけた私の唇は、結局何も言葉を紡げなかった。
「姉さんだったら、きっとシンプルなドレスを選ぶと思わない?私が最後まで悩んでた、あの蝶のモチーフがたくさんついたやつとか」
今綾が着ているドレスは、肩から背中まで大胆にあいているものだ。スカート部分はレースやら花をイメージしたフリルやらが付いているフレア状のもので、とても派手で見栄えがいい。
これとは別のもう一つ。綾が最後まで悩んでいたのはマーメイドラインのドレスで、レースには何羽もの蝶がモチーフに使われていた。
結局綾は悩んだ末にそれを諦めたのだが、確かに彼女なら綾が選ばなかったそちらを選ぶだろう。
『冬の月って、綺麗よね』
冬の月が大好きだった、あの人なら。
彼女は、とても美しい人だった。見た目だけじゃなく、その心も。
綾も私も、彼女のことが大好きだった。優しくて、綺麗な彼女は私たちの憧れだった。
「ねぇ、私このまま幸せになっていいのかな。姉さん、私を恨んでたりしないかな」
顕は、私を愛してくれているのかな。
声にならない綾の心の問いが透けて見えるようで、私はどうしようもなく辛かった。
兄さんにプロポーズをされた時から、綾の心は酷く不安定だった。
自分が幸せになること、兄さんに愛されること、多くの人に祝福されること。それらに綾はひどく気後れしていた。
姉を置いて自分が先へ進んでいくことをためらっていた。
兄さんと綾の結婚のきっかけをつくったのは私だったけど、むしろ私が彼らの背を押したからこそ、私はそんな綾の様子を見ているのがとても辛かった。
「大丈夫、綾は幸せになってもいいのよ」
悲しい顔をする彼女に、そんなありきたりな言葉しかかけられない私はひどく無力だった。
「終わっちゃったわねぇ、結婚式」
「そうね。結婚式って言ったって形だけだしねぇ」
綾と兄さんの結婚式は、教会式で滞りなく行われた。世間では結婚式は海外だとかなんだとかいろいろ騒いでいるけれど、式自体にそこまで時間がかかるわけじゃない。今日のを例にとったって、30分がせいぜいだ。
招待客のほとんどが楽しみにしているのは、その後の披露宴の方だろう。
「それにしても綾ちゃんは本当に綺麗ね」
会場の一番下手。花婿側の親族席に座った母さんはさっきからずっと綾のことを褒めてばかりだ。
『咲、綾ちゃん。おやつを食べましょうか』
昔から、綾はよく私の家に遊びに来ていた。礼儀正しく、頭がいい綾は母さんのお気に入りで、綾が遊びに来た日はいつもよりおやつが豪華だったことを覚えている。
「やっぱり招待客は少ないのね」
「うん。あんまり大々的にやるつもりはないって言ってたから。……あのことを覚えている人も少なくないだろうしね」
「そっか。そうね、まだかなちゃんの3回忌も終わってないものね」
綾のお姉さんである奏さんが亡くなったのは、冬の寒い朝のことだった。
歩道橋で足を滑らせた子どもを助けようとして、代わりに彼女が階段を転がり落ちた。歩道橋の上から下まで、まっさかさまに。彼女は打ち所が悪く、即死だった。
誰を責めることもできない。不幸な事故だった。
『奏! 奏!』
今でもはっきりと思い出せる。白い棺に追いすがって泣く、綾の両親の声を。
喪主の花を胸につけて、青白い顔でたたずむ綾の姿も一緒に。
『本日は、私の姉である本条奏の告別式に参列いただき、ありがとうございます』
挨拶する間もおばさんは泣いてばかりで、彼女をなだめるおじさんもどこか放心状態だった。
どうしようもなく取り乱した両親の代わりに喪主を務めた綾は、最後まで気丈に振る舞っていた。
葬儀の手伝いをしに行った私と兄に気を遣ってか、涙を流すことも一切なかった。
『今日は、本当にありがとう。綾、顕さんも』
泣きそうな表情は隠せても、震える語尾は隠せていなくて。それが綾の悲しみをより一層物語っていた。
『何かあれば、何でも言って』
兄さんはそう言って綾を気に掛けていた。自分だって泣きたいほど辛かったはずなのに、綾の前ではいつも笑顔を作っていた。
兄さんは家に籠りがちになる綾を心配して、彼女をよく外に連れ出していた。
少しずつ、少しずつ。2人は距離を縮めていった。
それはあまりにもゆっくりとしたペースで、こちらがやきもきするくらいだった。
告白する時も、プロポーズをする時も。ためらう兄さんの背を押したのは私だ。それがなかったら、今でも彼らはじれったい関係を続けていただろう。
兄さんがプロポーズをためらった理由。綾が結婚に引け目を感じる理由。それは私にも理解できる。
兄さんは綾と付き合うまで、違う恋人がいた。それこそ、結婚を考えるほどの。
恋人の名前は、奏さん。事故で亡くなった、綾のお姉さんその人だ。
「……今日のスピーチで、一体何をするつもりなの?」
「へ?」
気づけば母さんは、私の目を覗き込んでいた。思いもかけない彼女の言葉に、私は表情を取り繕うことすらできなかった。
「何かたくらんでいるでしょう? 昔から隠し事してると瞬きが増えるのよ、あなたは」
「う、嘘ぉ」
そんな癖があるなんて知らなかった。
母さんはため息をひとつ落として、私の手をぎゅっと握る。
「何をしようとしているかは聞かないわ、あなたは頑固だから止めたって聞かないでしょうし。だけど、綾ちゃんを泣かすようなことになったら許さないわよ」
「わかってるよ。……相変わらず母さんは綾のことが好きね」
呆れる私の手をペシリとはたいて、母さんは私の目をまっすぐ見つめ返した。
「当たり前よ。あんないい子そうそういないわ」
母さんがそういうとすぐ、会場のBGMのボリュームが一段下がった。
「大変長らくお待たせいたしました。間もなく結婚披露宴を開始いたします」
綾と兄さんの披露宴は、もうすぐ幕を開けようとしていた。
ウェディングケーキ入刀、ファーストバイト、それからキャンドルサービス。披露宴おなじみのプログラムは次々と進んで、お色直しも済んだ。
綾のお色直しのドレスは、サーモンピンクで裾が大きく広がった鮮やかなものだ。純白のドレスと同じくらい、綾によく似合う。
「次はご新郎・顕さんの妹さんであり、ご新婦・彩さんの長年の親友である咲さんからの、祝福のスピーチでございます」
司会者に名前を呼ばれて、私は親族席からスピーチ台へと移動した。一段高い台の上からは、さほど広くない会場がよく見渡せる。
今日招待されているのは2人の友人が主だから、どれもこれも私がよく知る顔ばかりだ。
その全員が私のことを興味深そうに見つめている。誰よりも2人をよく知る私が、どんな言葉で2人を祝福するのかがよほど気になるみたいだ。
だけど残念ながら、私はそんな期待には応えられない。
「ただいまご紹介に預かりました、新郎の妹で新婦の幼馴染の相田咲と申します。綾、そして兄さん。今日はこんな華やかな場所で挨拶する機会をくれて、とてもありがとう。……だけどごめんなさい。私はあなた達2人の結婚を手放しで祝う気分にはなれません」
会場中が私の言葉にどよめいた。
「確かに、あなた達2人の結婚を後押ししたのは私です。同じ悲しみを味わった綾と兄さんなら、きっとお互いに支え合っていけると思ったから。だから2人の背を押しました」
スピーチ台の上の私を見つめる会場中の目を無視して、私は高砂の兄さんへ挑むように視線を向けた。
「だけど兄さん。兄さんは気づいていますか?結婚を決めてからずっと、綾が悩んでいることに。自分は兄さんにとって奏さんの代わりなのかもしれない、と。兄さんが今も奏さんを愛しているのかもしれない。こうして結婚するのだって、自分への同情なのかもしれない、と」
独りよがりだとはわかっていた。こんなことで綾の苦しみが晴れる訳はないと知りながら、だけどどうしても今日ここではっきりと言っておきたかった。
「兄さん、いえ顕さん。顕さんはきちんと綾と向き合っていますか。綾の心に寄り添ってくれていますか。綾が1人で泣いているうちは、私は顕さんを綾の夫として認めることは出来そうもありません。2人が本当の意味で夫婦になった時、改めてお祝いをさせてもらおうと思っています」
高砂の兄さんは、私のスピーチの間中私から目を逸らそうとしなかった。その表情からは何も読み取れない。一体彼は今何を思っているのだろうか。
兄さんの隣に座る綾は、目を伏せたまま表情が見えない。
私のスピーチのせいで、会場はちょっとした混乱状態だ。司会者すらも、どうすればいいのか迷っているようだった。
親族席にいる私の母さんだけが、呆れたような目を私に向けたまま平然としていた。私が何をしでかすのか、何を言うのか、やっぱり母さんにはお見通しだったみたいだ。
「すみません。マイクを貸して頂けますか」
兄さんの声が静かに響いて、ざわめいていた会場が水を打ったように静かになった。
我に返った様子の司会者が、兄さんにマイクを差し出した。マイクを受け取った兄さんは椅子から立ち上がり、会場を見回すと話し始めた。
「みなさん。今日は私たちの披露宴にお越しいただき、ありがとうございます。そしてこのような楽しい席を、私の妹の咲がお騒がせしたことをお詫びいたします」
それはとても、静かな声だった。
「確かに、俺は昔綾の姉と付き合っていました。彼女と結婚することも考えていました。2年前に彼女が不幸な事故で亡くならなければ、俺は彼女と結婚していたと思います」
兄さんはそこで一旦言葉を切った。まるで何かに耐えるように唇を噛みしめ、唾を飲み込み、ためらいながらももう一度口を開いた。
「彼女を亡くして、俺は途方にくれました。今までずっとそばにいた人がいなくなってしまって、とても辛かった。そんな時に、綾と出会いました」
私はスピーチ台の上で、動くこともできずに固まっていた。
今や会場の誰もが、高砂の上の綾でさえ、兄さんを見つめていた。一体何を言うつもりなのかと、息をのんで見守っていた。
「生気の抜けた青白い顔で『大丈夫です』とただ繰り返す綾を放っておけなくて、何かと理由を作っては会いに行きました。最初は同情から始めたことでした。綾にある奏の面影を無意識に求めていたのかもしれません。……けれどいつしか、俺は綾自身を強く求めるようになりました」
兄さんはマイクを右手でしっかりと握りしめて、まっすぐと前を向いて話し続ける。
その様子は決意を秘めているようにも、何かに耐えているようにも見えた。
「綾に交際を申し込むとき、そしてプロポーズをするとき。恥ずかしながらとても怖かった。つい最近まで別の女性と、しかも彼女の実の姉と交際していた俺のことを、綾はどう思うのだろうと。咲が背中を押してくれなかったら、俺は今でも綾に想いを伝えなかったでしょう。きっとここに座っているのは他の男に変わっていて、俺は遠くからそれを眺めているだけになっていた」
瞬きをした拍子に、彼の頬を光の粒が転がり落ちた。
高砂を照らす光を反射して、目尻から流れた光の粒。たった一粒のそれは、兄さんの頬に筋を描いた。
「婚姻届を提出した日、俺は決意しました。綾をこれから先も深く愛し続け、彼女を幸せにしようと。そして同時に、今は亡き奏のことも同じだけ愛していこう、と。綾のこれからの人生を、奏が見守ってくれるように。遠い空のどこかで、奏が幸せになれるように」
瞳に涙を湛えたまま、兄さんは綾の方へ向き直った。
「綾。俺はとても弱い男だったね。自分の気持ちを正直に君に伝えることをずっとこわがってばかりで、きちんと向き合ってこなかった。君を幸せにするという独りよがりな意気込みだけで、君が悩んでいたことに気付けなかった。ごめんね、綾。今もまだ間に合うかな? 君の手を取って、これから先の人生を一緒に歩いていくことは」
そうして差し出された兄さんの手の指先は少し震えていた。緊張していることが、はたから見てもわかるくらいに。
花嫁席に座る綾はボロボロと涙を流しながら、兄さんの手を取った。
「ありがとう、綾」
マイクが拾った兄さんの呟きが会場に響いたとき、どこからともなく拍手が沸き上がった。
2人の花嫁を幸せにすると誓った欲張りな花婿は、ホッとしたように笑って、涙を溢れさせる。
綾の手をしっかりと握りしめて、彼女の目をまっすぐ見つめながら。
「これで、よかったんですよね? 奏さん」
私は一人、スピーチ台の上に立ったまま、会場の大きな窓の向こうを見やる。冬晴れの青空の中にひっそりと浮かぶ、昼の月と目が合った。
その月は、まるで優しく微笑んでいるようだった。
多くの人に祝福されて涙を流す2人を、そっと見守るように。