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「隣人の殺意」

作者: 針間有年

奈良裕明『一週間でマスター 小説を書くための基礎メソッド』(雷鳥社)p.110のお題から書いた作品です。

「殺してやる!」


 永富が、ベッドでスマホを触っていると、西の壁から女の金切り声が聞こえた。

 スマホから壁に目を移す。左隣の部屋は、確か大学生の女の子だったはずだ。

 一度、このマンションの廊下ですれ違った際は、笑顔で会釈をしてくれた。おとなしそうな子だった。

 それが、「殺してやる」である。 


 喧嘩か何かだろうか。気にはなったが、スマホに視線を戻す。

 久々の休日。だんだんと熱くなってくる室内に不快感を覚えながらも、窓は開けていない。面倒なのだ。

 ごろごろとベッドに転がりながら、ニュースサイトを流し見する。特に面白い記事もないのだが、惰性で見続けてもう九時になる。

 

 朝食でも食べようかと思ったその時、ふと、一つの記事が目に入った。

『女性会社員殺害。二〇歳男逮捕』

 ここ数日、世間を賑わせている殺人事件の記事だ。交際中の男女が、些細なトラブルから、喧嘩になり、男が女性を殺害してしまったという事件である。

 よくある痴情のもつれというやつだな。

 そう思いながらも、先ほどの金切り声のせいか気になってしまう。

 事件の詳細に目を通していると、ドンッ、と重い音が鳴った。壁を殴ったような音だ。

 驚いたのもつかの間、立て続けに一回、二回、三回、大きな音が続いた。

 隣の部屋からだ。

 何をしているのだろう。

 永富は眉をしかめる。

「どこへ行く!」

 男の声が聞こえた。隣に住む女性とは違うものだ。

 

 隣の彼女には、付き合っている男がいるようだった。永富が一人夕飯を食べているときに、二人の明るい声が聞こえてくることが度々あった。声を荒げ喧嘩をするなどということは今までにはなかったように思うが。

 

 先ほどの記事が頭をよぎり、背が冷たくなる。

「もう終わらせたいの!」

「ああ!もう、やめろ!」

「いや!来ないで!」

 殴りあうかのように、男女の声が入り混じる。

 扉を開く音が聞こえた。マンションの廊下に足音が響く。重い足音だ。足音は一人分。おそらく男だろう。

 音は遠くなっていき、そのまま聞こえなくなった。逃げるような急いだ足音だった。

 沈黙が訪れる。

 永富はベッドから腰をあげた。

 記事が頭を駆け巡る。

 

 女性は、犯行時刻から数時間後に死亡した。つまり、男が女性を椅子で殴ったその時点では、女性は亡くなってはいなかったのだ。彼女は死ぬまでの数時間、どのような思いで過ごしたのだろう。

助けを求めただろう。もがき苦しんだだろう。だが誰も来ない。たいそう無念だったろう。

男は、自分のしたことに怯え、逃げ出していた。


 永富は、壁を見つめる。

 女性が助けを求めているかもしれない。

 だが。

 首を横に振る。そんなことはあり得ない。そんな事件が起こるはずがない。

 再びベッドに転がろうとした永富の手には、じっとりとした汗がにじんでいる。

 起こるはずがないと信じたいだけかもしれない。もし、本当に誰かが助けを求めていたら、自分はそれを見過ごし、誰かを見殺しにすることになるのだ。

 ベッドサイドに座ったまま、壁から目を離せない。


 しばらくすると、静かだった壁の向こうから、クローゼットを開く音が聞こえた。

 なんだ、生きているじゃないか。

 ごく当たり前の生活音に、永富は肩をなでおろした。

 そろそろ起きて、朝食でも取ろう。

 ベッドから立ち上がり、カーテンを開ける。その目に、恐ろしい光景が飛び込む。

 溢れ出す白い煙。左隣のベランダから流れ込んできている。 

 慌てて窓を閉める。

 男が火をつけていったのか、女がやけになり火をつけたのか。

 

 ぞっとした。

 本当に何か事件が起こっているのだ。

 ベッドに置きっぱなしにしたスマホを手に取る。

 警察を呼べばいいのか、消防車を呼べばいいのか。

 スマホの画面に番号を打ち込もうとした手が止まる。

 先ほどの物音。

 隣の部屋には、まだ人がいる。

 永富はパジャマであることもかまわず、廊下に飛び出した。

 左隣に目を移すと、ドアの隙間から煙が溢れている。


「大丈夫ですか!いたら返事をしてください!」


 ドアを叩き、叫ぶ。

 どうにかしてでも助けないと。

「あの…」

 縋りつくようにドアに向かう永富に声がかかる。その声は、先ほどの男の声だ。

 今更どんな顔をして戻ってきたのだ。

 永富は、驚きと怒りに任せ、鋭い視線で男を振り返った。

「どうかしましたか?」

 男の当惑した様子で、永富を見ている。とても、殺人を犯した人間には見えない。

「いや、その」

 一瞬、まごついた永富であったが、一刻を争う事態であることを思い出す。

「部屋で火事が。中に女の人がいるんです!」

「え!?」

 男の顔から血の気が引いた。ポケットに手を突っ込む。鍵を探しているようだ。カチャカチャと金属音がする。が、手に持ったビニール袋が引っかかりうまく取り出せない。

「チクショウ!」

 男は、ビニール袋を床に投げ置いた。カランという音が廊下に響き、袋に入ったスプレー缶が転げ出る。

 永富の目に、スプレー缶の絵柄が飛び込む。


 ああ、これは―

 永富は、悟った。

 

 扉が開く。白い煙が溢れ出す。

「美奈子!大丈夫か!」

「浩二!もうムリ、バルサン焚いたのに全然死なないー」

 泣きそうな女の声が聞こえる。

 バルサン。それは煙を上げて害虫を駆除する殺虫剤である。

 永富は、男が投げたビニール袋の中に入ったジェット式殺虫剤を見つめる。

 誰もが嫌う、あの害虫が描かれたスプレー缶を。

「きゃー!」

「ぎゃー!」

 若い男女の悲鳴が上がる。

 黒光りする虫が廊下を駆けていくのを横目に、永富は天を仰いだ。


終わり



閲覧いただきありがとうございました。作者はコメディが好きです。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 本当は恐ろしいことでも何でもない見えないそれを想像して恐怖を感じたり、それが何か明らかになって想像が勘違いと知って安堵したりといった、想像と現実の落差。だからこそ最後のオチに安堵しました。…
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