10.戻るために(2)-トーマside-
目の前に開いた、黒い穴。どこに繋がっているのかもわからない。
だけど、確かにこの先には――俺が欲しい答えが待っている。
そう感じて、俺は躊躇せず、その真っ黒な穴に飛び込んだ。
誰かが俺を呼んでいる。早く……早く行かなきゃ……!
辺りは真っ暗で、前後左右の感覚は全くわからなくなっていた。
頭痛がだんだんひどくなっている。
次の瞬間、進もうと思っていた方向から物凄い圧力がきた。
何も見えないのに……空間が捻じ曲げられたことがわかる。俺はどこかに弾き飛ばされた。
「うわあー!」
頭を抱えて、ぎゅっと目を閉じる。
怒り狂う老女。血まみれの赤い髪の男。狂気に満ちた女性。
赤い髪に茶色の瞳の快活な少女。栗色の髪に紫色の瞳の幼い少女。
光に満ちた部屋。薄暗い王宮。夜空の花火。昼間の自転車。夕暮れの海。
――闇を吸い込む剣。
いろいろな映像が……現れては、消えた。
「トーマ!」
ユズの声が聞こえて、俺の身体をぐっと抱きとめる気配がした。
「トーマ、しっかりして!」
「だ……」
大丈夫、と言いたかったけど……それに応えることはできなかった。
俺の意識が、プツリと途切れた。
俺の記憶の断片が……散らばっている。どれも、何一つ、形にはなっていない。
だけど……拾わなきゃ。これが、記憶の空白に――埋まるはずだったものだ。……多分。
いつの間にか……あの不思議な頭痛は消え、俺の意識もだんだんはっきりしてきた。
「……うおっ!」
そのとき、不意に身体が落ちて行く感覚がして、俺は思わず辺りを見回した。
「トーマ! 大丈夫?」
何も見えないが……ユズが心配そうに俺の顔を覗き込んでいる気配がした。
「あれ? 俺……」
「意識はしっかりしてる? 苦しくない?」
「……大丈夫。もう……頭も痛くない」
「よかった……」
ユズはほっとしたように息を漏らすと
「かなり長い間意識を失ってたから……」
と呟いた。
俺は辺りを見回した。――真っ暗闇だ。
「ここは……?」
「――トーマが作った、穴の中だよ。多分……次元の狭間」
「俺が……?」
――そうか。俺はどこかに向かおうとして……弾かれて、その衝撃で記憶の波が溢れかえって……意識を失ったんだ。
「トーマが作った穴だから、トーマが出口を作らないと駄目なんだ。……わかる?」
「出口……」
俺の向かう、先。
それは――ウルスラの、闇を吸い込む剣。
「……うわっ!」
そう思った瞬間、急に身体が落下し始めた。
真っ暗な中――足元に、光が見える。
あれは……何だ?
そう思ったのも束の間、俺の足が地面らしきものを捕らえた。
思ったより強い衝撃がきて、尻餅をついてしまう。
「どわっ!」
「うわっ……」
辿り着いたところは、ゆるやかな坂になっているようだった。
自分の身体を支えきれずに、俺たち二人はゴロゴロと転がってしまった。
「おっとーっ!」
どうにか途中で止まり、ユズの腕を引っ張って助ける。
立ち上がってゆっくりと辺りを見回すと……一面、緑だった。
森林の一部が切り開かれたような場所。広い芝生にところどころ囲いがしてある。
囲いの中には……何だか見たことのないような生き物がのそのそと歩いていた。
人は……誰もいな……ん?
「……わ!」
すぐ近くに、小さな女の子が現れた。荒い息をついている。
『ヒコ、ヤ……メ……』
俺にはよく分からない言葉で何かを呟きながら、辺りを見回す。
そして俺に気づくと、ギョッとしたような顔をした。
とても可愛い子なのに……ものすごく凶悪な表情をしている。
『オマエ……!』
ギロッと睨みつける。
「コレット……!」
隣にいたユズが叫ぶ。そしてものすごい速さで少女に向かって駆け寄ると、逃げようとする少女をガシッと捕まえた。少女がかなり暴れている。
「トーマ! コレットから剣を取って! 早く!」
「剣……」
剣……そうだ、さっき見た……闇を吸い込む剣。俺が得なければならなかったもの。
この女の子が抱えている黒い布に包まれた……これが剣?
『……ユズ……?』
そのとき、急に少女の表情が一変した。普通の……幼い女の子の顔になる。
ユズがぎょっとしたように
『駄目だ、コレット! 今は寝てて!』
と、日本語ではない――多分、少女が喋っているのと同じ言葉で叫んだ。
俺には何を言っているのかわからなかったけど、ビクッとした少女は一瞬目をつむり――再び元の、凶悪な表情に戻った。
『ハ、ナセ……!』
「駄目だ……跳ばせない。トーマ、早く!」
何が起こっているのか全然わからないし、まったく頭が回らない。
だけど……この剣が非常に危険で、俺しか触れないもの――そのことはわかってる。
「……くっ……!」
俺は少女に飛びつくと、抱えていた黒い棒を奪い取った。少女が取り返そうと暴れる。
ユズは必死でその身体を押さえながら
「トーマ、剣の柄を握って! 早く!」
と怒鳴った。
俺は何だか訳がわからないまま、黒い布から剣を取り出した。ユズと少女がビクッとする。
『ヤメ、ロ……!』
「ぐっ……!」
『オマエ、マタ、ジャマ……』
「大人しくしろ!」
俺は叫ぶと、剣の柄を握って切っ先を少女に差し向けた。
「グワッ……!」
そのとき……少女が急に苦しみ出した。大きく開けた口から……真っ黒なものが剣に吸い寄せられていく。
何が起こったのかは分からないが……急に剣が重くなる。
「うおっ……!」
片手で支えるのが苦しくなり、俺は両手で剣の柄を握った。
『ヨセ……コッチ、ニ、ムケ……ルナ!』
「くっ……」
少女から黒いものを吸い取り、どんどん剣が重くなる。俺は必死に両手で剣を握った。
そうだ。これは……闇を吸い込む剣。
そして――前も、こんなことがあった気がする。
『ハ、ナ、セー!』
少女は狂ったように叫ぶと、鬼のような形相でユズの身体を跳ね飛ばした。
「ユズ!」
『……グ……』
少女はすかさず俺達と距離を取ると、忌々しげに舌打ちをした。
そしてすっと姿を消した。
「しまった……!」
「ユズ! これ……すごく重い! 暴れそうだ!」
俺が叫ぶと、ユズがハッとしたようにこっちを見た。傍に走り寄る。
「ごめん、手伝ってあげたいけど……僕は、この剣を持てないんだ」
「それはわかってる。ただ……俺が手を離すとマズいんだろ。何か、縛るものを……」
「え? そうは言っても……」
「ユズが出せばいいだろ!」
思わずそう叫ぶと、ユズがハッとしたような顔をした。
そして……何かを念じると、長いロープのようなものを取り出した。
そうだよ……これは、ユズの力の一つだ。
ユズは、心を読む以外に……頭に思い描いた物体を具現化する力があるんだ。
――そうだった。何で忘れてたんだろう?
確かに、ユズ自身から教えてもらった気がするのに。
ユズがロープで俺の手を縛って固定してくれた。
剣はまだ暴れているが、これならどうにか耐えられそうだ。
その後、ユズはまた誰かと話していた。傍から見たら大きな独り言を言っているようにしか見えないけど……。
それにしても……ここは、どこだ?
――俺が……ウルスラに残る。
不思議な紫色の空間で言った、俺の台詞。……いつか見た、夢の中の出来事。
まさか……その、ウルスラってところなのか?
俺はゆっくりと辺りを見回した。遠くに、ひときわ高くそびえ立つ……お城のようなものが見えた。ただ、はっきりとは見えない。
なぜなら、そのお城を中心に……ドーム状に薄い紫色のバリアのようなものが広がっていたから。
そのバリアは、俺達の居る場所のすぐ近くまで広がっていた。城までの距離から考えて、多分……ものすごく大きい。
「トーマ、剣は大丈夫そう?」
話し終えたユズが俺の方に戻って来た。
「ああ。それより……あれ、何だ?」
俺は遠くの城を顎で指した。
「多分……この国の女王が張っている結界だと思う。外部からの攻撃や侵入者を防ぐための……」
「女王……」
穴の中で感じた力と同じもののような気がする。これが張られたせいで、俺は弾かれたのかも知れない。
「――会いたい?」
ユズは、何だか諦めたような溜息をつきながら俺に聞いた。
「そりゃ会ってみたい……けど……」
言いながら、俺は再び王宮を見上げた。
――私が、守ってみせるから……ね。
不意に、懐かしい声が俺の脳裏に鳴り響いた。
そして最後の欠片が舞い降りて……カチリと音を立てた。