9.戻るために(1)-トーマside-
いつからこうなったんだろう。
俺の記憶には、一つの空白がある。
――そうだ。あの……どしゃぶりの雨の日からだ。
「トーマ? どうかした?」
ユズが時折心配そうに俺を見る。
心が読めるユズは……俺の異変に、きっと気づいているに違いない。
それでも何も言わないのは……どうしても言えない理由が、あるからだろうか。
そんな――よくわからない不安定な1年が過ぎて……俺は、大学2年になっていた。
もう夏休みに入っている。俺は、今日の夜のバイトを終えたらじいちゃんの待つ山奥の実家に帰るつもりだった。
駅の近くの店で昼飯を食って外に出たところで、俺の携帯が鳴った。
“――あ、トーマ?”
出ると、大学の先輩からだった。伯父さんがカクテルバーをしていて、俺にその店のバイトを紹介してくれた先輩だった。
「はい。どうしました、先輩」
“今日のバイト、お前だろ。それがさ、伯父さんが入院することになって……”
「えっ……大丈夫なんですか?」
“うん、命には別状ないから大丈夫。ただ、1か月ぐらい店を閉めるって……伯母さんから連絡が来てさ”
「あー……」
“だから、バイトなくなっちゃったんだ。悪い”
「いえ、そんな……。あの、よろしくお伝えください。連絡ありがとうございます」
“おう”
先輩からの電話を切る。ポケットにしまうと、俺は溜息をついた。
……夏休みなのに、急に暇になっちゃったな。
時計を見ると、1時半だった。
どうするかな。……明日帰るつもりだったけど、今日帰ろうかな。
ちょうど駅の近くだし……。
ユズはどうするのかな。今年は、一緒には行かないようなことを言っていた気もするけど……。
俺はユズに電話してみたが、あいにく繋がらなかった。多分、マナーモードにしたまま放置してるんだろう。
まあ、もともと予定していなかったし、仕方ないか。
諦めて、今度はじいちゃんに電話をした。少し長めのコールの後、「もしもし」というじいちゃんの声が聞こえた。
「あ、もしもし、じいちゃん? 俺」
“俺じゃわからんぞ”
「十馬だよ。だいたい、番号ディスプレイされてるだろ」
“詐欺かも知れんだろう。念のためだ”
じいちゃんは元警察官で、とても元気でしっかりしている。
「今日の夜のバイトなくなったから、今から帰る」
“えっ……”
「何だよ。何か予定でもあった?」
“いや……”
「じゃあな」
言いたいことだけ言うと、俺は電話を切った。
何かちょっと慌てたような声だったのが気になるけど……ま、いいか。
目的の電車が2分後にあったけど、この近くの本屋に用事があったから、一本送らせて30分後の電車に乗ることにした。
本屋で本を探したあと、立ち読みして時間を潰す。
結局時間ぎりぎりになって、俺は慌てて階段からすぐ近くの端っこの車両に飛び乗った。
平日の昼間だけあってガラガラだった。空いている席に座ると、ポケットから携帯を取り出して履歴を見る。
でも、ユズからの着信はなかった。とりあえず「電話くれ」とショートメールだけは送っておいて、携帯を再び仕舞い込んだ。
ふと顔を上げると、さらりとした長い髪の女性が目の前を通り過ぎた。
隣の車両に移ろうとしているようだった。窓から降り注ぐ光を反射して、金色に輝く。
「……!」
思わず立ち上がりそうになって……膝の上に置いておいたリュックが、ドサッと音を立てて床に落ちた。
俺の慌てた気配に気づいた女性が振り返って、訝しげな顔をした。
――違う。
「あ、すいません……」
頭を下げると、女性は怪訝な表情で会釈をし、そのまま振り返らずに隣の車両に移って行った。
「……違うって……誰と?」
思わず、独り言が漏れる。俺は大きく溜息をつきながら、椅子の背もたれに寄りかかった。
――俺はいったい、誰を捜しているんだろう?
答えは全部……記憶の空白の中にある。
わかっているのに――どうしても思い出せない。
絶対に……何か、大切なことだったはずなのに。
ホームに降りると、少し離れた車両からも誰かが降りた。この駅に降りる人が他にもいるなんて……と思いながら何気なく見ると、大学生ぐらいの男だった。
何となく……ユズに似ている気がする。
少し早歩きで近付くと、本当にユズだった。
「やっぱり、ユズだ!」
思わず大声を出すと、ユズがビクッとして振り返った。目をまんまるにしている。
今日は珍しく、コンタクトをしていないらしい。紫色の左目が光って見えた。
「えっ! 何で……」
「何でって、予定していたバイトがパーになったからさ。じいちゃんのところに帰ろうと思って」
「え……」
「ユズも誘おうかと思ったけど、電話に出ないからさ。とりあえず、じいちゃんには電話したけど」
言いながら、上から下までユズの様子を観察した。
何か、変な感じだ。
……そうか、何も持ってないからだ。服装も、古びたTシャツとよれよれのズボンだし。
家でくつろいでた格好のまま、飛び出してきたって感じ。
ユズは大学に行くときも寝坊するなんてことはなくて、いつもきっちり準備してきちんと身なりを整えてから外出するから……こういうのは、とても珍しい。
ユズはポケットから携帯を出すと、履歴を見て「あ、ほんとだ。ごめん」と言った。
「でも、ユズは何で戻って来たんだ?」
「えーと……中学校のときの担任の先生に呼ばれて」
「……」
「将棋部の子が全国大会に出ることになって……僕と将棋をしてほしいって」
ユズはそう答えると、足早に歩き始めた。
何か……変。落ち着きないし。
まるで……俺に会いたくなかったみたいだ。
いや、俺が嫌とかではなくて……何だろう? 何か、後ろめたいことでもあるのかな。
「ふうん……?」
俺は駆け寄ってユズに近付くと、すぐ隣を歩いた。
「誰も相手にならないからって……」
「そのためにわざわざ? 珍しいよな、ユズにしては」
「うーん……暇だったし。話をする訳じゃないから……将棋は嫌いじゃないし」
ユズが早口で答える。これもまた珍しい。
まるで、一生懸命言い訳しているみたいだ。
「……それにしても暑いよね」
「まあな……」
相槌は打ったものの、何となく変な感じがした。
まあ、ずっと独りでいるよりいいよな。ユズが積極的に人と会うなんて……かなり珍しいけど。
でも……何か、違和感を感じる。
俺がずっと感じている……違和感と同じな気がする。
ユズは――俺が聞いたら、答えてくれるだろうか?
「……トーマ!」
ユズが急に大声を出すから、俺はびっくりして立ち止まってしまった。
「えっ……何だ?」
「バス停、ここだよ。バスはもうすぐ来る。……何か、通り過ぎそうだったから」
「あ……」
最近、こういうことが多い。
記憶の空白について考え始めると、周りが見えなくなる。
考えたって、答えなんて出ないのに……。
頭を掻きながら自嘲気味に笑うと、ユズが
「そうだ、トーマ。僕、今日は用事が終わったらアパートに戻るつもりだったけど……トーマの家に泊まってもいいかな?」
と聞いてきた。
俺の考える時間が増えた代わりに、ユズは口数が増えた気がする。
俺が考え始めると、決まって俺に話しかける。
――まるで、これ以上考えるなとでもいうように。
「それは勿論……もともと誘うつもりだったし」
「じゃあ、おじいさんに先に挨拶に行くよ」
「まぁ……いいけど」
ユズはかなりの人見知りで……それはじいちゃんも例外ではなかった。
去年の夏に俺の家に来た時も、どこか遠慮していたし。
でも……正月に俺が買い出しに行っている間にユズが家に来て、そのときじいちゃんと意気投合したみたいだった。
俺が帰ると、二人で何やら熱心に話をしていたし。
まぁ……いいか。ユズが話せる人が増えるのは、絶対にいいことだし。深く考えるのはやめておこう。
だいたい、考えることが多すぎて……俺は疲れてるんだ、多分。
バスを降りて、たわいもない話をしながら歩く。
ふと時計を見ると、もう3時を過ぎていた。
俺の家が見えてきたところで……急に、ユズから誰か違う人間の気配がした。
不思議に思って見ると、ユズが立ち止まって空を見上げ、
「――シャロット?」
と叫んだ。
どうした……と言いかけて、俺はユズに触れようとした手を止めた。
シャロット、シャロット……何か、聞き覚えがある。
いったい、どこで?
「どうしたの、急に。何かあったのか?」
今度は俯いて何かを考え込みながら独り言。
どう見ても、只事じゃない。
携帯も持ってないのに……誰かと会話してる?
その……俺が感じた誰かの気配が、かすかに揺れた。まるで、泣いているかのように……。
「ウルスラが……闇?」
――ウルスラ……闇……。
知ってる。夢で見た気がする。俺は知ってる。
えっ……何を?
ユズに何が起こってるんだ? そして……俺にも何が起こってるんだ?
俺は思わず、ユズの肩を掴んだ。
その瞬間、その誰かの気配が俺にも触れ――急にひどい頭痛が俺を襲った。
「ぐっ……」
割れるように痛い。思わず頭を抱える。
そしてこの頭痛も――どこかで味わった気がする。
「ウルスラ……闇……」
ユズの言葉を繰り返す。
これは……俺の記憶の空白に関わっている――大事なこと。
そして、俺の、大事な……――。
その瞬間、俺の中から力が湧き出る感じがした。身体が熱い。何かが、溢れ出ようとしている……!
その力をぶつけるように拳を振り回すと――目の前に、真っ黒な穴が現れた。
――これだ。
俺は瞬間的に感じた。ここに――この先に、答えがある。
「俺が……」
俺が捜している人が――いる!