【中】悶絶のエーテル
信じられない事に幽体離脱してしまった篠田友蔵(78)は、ひとまず幽体である自分をエーテル友蔵、物質的肉体を持ち、認知症を患う友蔵をただの友蔵と呼称する事とした。
昨晩の調査で多少の情報が分かった。
介護施設の名称は「夕凪の里」。35室ある部屋は現在8割の28室埋まっている。
食堂のテーブルで話していた男女は、加藤(42♀)、山田(45♀)、荻窪(48♂副施設長)だった。
幽体の可動範囲はおよそ300メートルで、建物の外にも出られる。あまり友蔵から離れすぎるとエネルギーが減少し、動きが次第に鈍くなり、そのまま行くと動けなる感触があった。
自室のデジタル時計のカレンダーは9月27日。季節は秋のようだが、外に出ても感覚器官を持たないエーテル友蔵には、季節の空気感は感じられなかった。
今のところ睡眠も必要が無いと言うより、とることが出来ないようだ。
発声も出来ず、物も触れられないエーテル友蔵は、移動と観察と思考しかなす術を持たず、今日は友蔵の一日を観察する予定でいた。時刻は午前7時。エーテル友蔵は自室の椅子に必要はないが腰掛けて待機していた。
(加藤さんと山田さんの話だと、二人とも友蔵に胸を揉まれてるって事だからな。注意深く観察する必要がある。しかし、私では何の対処も出来ないのが口惜しいところだ)
コンコンと扉がノックされ開く。
「友蔵さーん、おはようございます。朝ですよー」
そう言って入ってきたのは、夜勤の三人とは違う見た事のない女性だった。年の頃は30前後。ポニーテールのよく似合う、可愛らしい娘だ。胸の名札には【早乙女】と書いてある。
(昼勤の方が出勤したのか。起きろ友蔵、朝だぞ)
「友蔵さん、おはようございます。起きられますかー?」
早乙女はベッドに近づき、友蔵の顔を覗き込む。
エーテル友蔵に気付く様子は皆無だ。
「ふが、んあ」
友蔵のまぶたが開き、目覚める。
「おはよう。友蔵さん。今日も良い天気ですよ。オムツ替えさせてもらいますねー」
そう言うと優しく布団を捲りあげ、慣れた手つきで友蔵の下履きを下げる。そこには一晩の排尿で膨れ上がったオムツがあった。
その光景を目にしたエーテル友蔵は嘆く。
(うう、情けない。私はオムツを履かなければならなくなっていたのか…)
早乙女は慣れた手つきでオムツを交換する。
エーテル友蔵は陰部を若い女性の前でさらけ出した事に、羞恥を覚え実際はしないが赤面した気分になる。
「ふぁぁ」
スッキリしたのか、呆けた声を漏らす友蔵。
「それじゃ、起きましょうかね。よいしょっ」
早乙女は友蔵の首の下に左腕を入れ、右手で肩を持ち上半身を起こしあげる。
そのまま、友蔵の膝を抱え、ベッド上で半回転させ、ベッドに腰掛ける姿勢に移動させる。
その所作は力強いが、優しく的確なものだった。
流れで靴下を履かせ、スリッパを履かせる。
「それじゃ、せーので立ちますよ」
友蔵の脇の下に腕を回し抱え上げるようにする。
「せーのっ」
早乙女は自分の方に友蔵を引き寄せ、スムーズに立たせる。そして腕を掴ませ、友蔵の肘を掴んで歩行補助を行う。
「いっちに、いっちに」
明るい早乙女の声と共に、膝を上げずに足を引きずるように歩行する友蔵。歩みは亀のように遅い。
それを見つめるエーテル友蔵は流せはしないが、滂沱の涙を流す心境だった。
(あ、あれが私なのか…どうしてあんな姿に。労しすぎる。憐れすぎる)
外見以上に身体機能の衰え、認知機能の衰えにショックを隠しきれずにいた。
落ち込んだ気分のまま、友蔵の後を着いていくエーテル友蔵。向かった先は食堂のテーブルだった。一番近くの席に誘導され腰をおろす友蔵。エーテル友蔵はすぐ近くのソファに必要はないが腰をおろす。
次々に食堂に集まるお年寄りたち。順次朝食のお膳が配膳され、箸やスプーンで食事を摂りだす。
友蔵の前にはお膳はない。
(何故、私(友蔵)には配膳されないのだ?もしかして虐待か?)
エーテル友蔵がまさかと思っていると、早乙女がお膳を持ってやってきた。
「はーい、友蔵さんご飯ですよー」
早乙女はスプーンを使い、友蔵に食事を与える。
口に運ばれると、ゆっくり咀嚼し嚥下する。
慌てずゆっくりと、品を変え食事介助を行う。
友蔵の他にも同じように、食事介助を受ける人が何人かいる。
今日の介護職員は早乙女含め女性名と、男性1名。加えて看護師の女性が1名いる。
エーテル友蔵は万感の思いで友蔵の食事を見つめる。
(早乙女さんは凄いな。あんな献身的に介護してくれるなんて。しかも明るく楽しそうに。仕事とは言え、なかなか出来るものじゃないよな。有り難い)
素直に感謝出来る面、かたや
(しかし、本当に何故なんだ?神のいたずらか、宇宙の思惑か。私にこんな経験をさせて、誰が何を得すると言うんだ?)
怒りにも似た疑念も募る。
食事が終わり、お年寄り達は思い思いに時間を過ごす。
テレビを見る者。将棋を始める者。おしゃべりに花を咲かせる者。
友蔵の前には今日の朝刊が置いてあるが、それを読む訳でもなく、ただ宙を見つめてたまに「あー」とか「うー」とか意味のない声を発している。
それを見つめる他ないエーテル友蔵は、認知症になった原因について思案する。
(しかし、何故あんなに酷い認知症になったのか?認知症の原因の一つに、ストレスによりコルチゾールが蓄積され発症すると聞いたことがあったが、私はそんなにストレスを感じていたのか?)
篠田友蔵は一般的なサラリーマンだった。大手商社に入社しその道一筋で、最終的には部長まで勤め上げた。
家庭環境にも問題はなく、5つ下の妻と恋愛の後めでたく結婚し、一男一女に恵まれ、孫も合わせて5人いる。
絵に描いたような成功の人生だ。
(人並みには苦労もしたし、勿論辛い事もあった。しかしそれ以上に満ち足りていたし、あんな酷い認知症になるなんて考えられんな…まぁしかし、ストレスを感じても気づかないように無理をしていたのかも知れんな。あとは耐性が低かったのかだな)
そんな男性特有の因果を追求する思考に浸っていると、早乙女が浴槽着に着替え友蔵のところへやってきた。
「友蔵さん、今日は一番に入りましょうか。お風呂」
早乙女のその声に、今まで反応が薄かった友蔵が、振り向いて返事をする。
「あ"あ"い」
その顔には笑顔貼り付いていた。
エーテル友蔵は底しれぬ不安を感じずにはいられなかった。