手がかり
渡瀬はタクシーで都内を脱して、横浜まで移動していた。
今は、タクシーの中で予約した山下公園に近いホテルに部屋を取り、そこに腰を落ち着けている。
横浜を選んだ理由としては、羽田へのアクセスの良さと、古くから横浜に根付いている中華街では、邪龍の影響を受けていないからだ。
楊を部屋に残して渡瀬はコンビニへ出かけ、航空券と数万円程度の現金をATMから引き出した。
どうせここ5年、入る給料にはほとんど手を付けていない。
それに渡瀬の身分としてはSATからの出向という事になっており、公安部の給与と同時に特殊部隊手当も支給さている。
ついでにコンビニで食料や飲み物を調達した渡瀬が部屋に戻ると、楊は何をするでもなく窓際に座り、じっと夜景を見つめていた。
「……一度だけ、宋と横浜に遊びに来た事があった」
その言葉を聞き流しつつ、渡瀬は買ってきた品物を宋の前に置く。
「明日、夕方の便を押さえた。君はこのまま日本を離れろ」
「どうして…… 貴方は私と宋を助けてくれた。でも、宋の死を悲しんでいるようには見えない!」
複雑な感情が入り混じっているのか、それとも渡瀬以外に感情をぶつけられる相手がいないからなのか……
「貴方が宋に危ない事をさせなかったら、死んでなかったかもっ、しれない!」
涙を流しながら、渡瀬の胸元を拳で叩きながら、再びこぼれてくる涙に構わず、楊が悲しみをぶつける。
貨物船だろうか? 不意に霧笛が悲しげに鳴り響く。
渡瀬は一度口を開きかけるが、結局何も言わずに彼女が落ち着くまで、されるがままにしていた。
警察官を拝命してからの大半を特殊部隊と公安で過ごしてきた渡瀬にとって、死は身近な存在であり仲間が殉職した事もあれば、相手の命を自ら奪う事も多い。
死とは生命活動の停止であり、仲間の死を踏み越える覚悟と命を奪う事に躊躇ってはならないのだ。
そうして感情を枯らしてきた渡瀬にとって、死はごくありふれた代物であり、感傷的な気持ちは擦り切れている。
「少しは落ち着いたか?」
自分の中から抜け落ちた感情に、ほんの少し懐かしさを覚えながらも渡瀬は公安部の人間として、表面上は冷徹に楊へ声をかける。
安全な場所に落ち着き、ひとしきり感情を発露させたことで落ち着きを取り戻した楊は、いつもの自分を取り戻していた。
「言われた通りに、明日中国に戻る」
チケットに視線を落とし一言だけそう言った楊を見て、渡瀬は静かに頷いてから踵を返す。
「宋の死は、絶対に無駄にはしない……」
ドアの前で立ち止まった渡瀬は、振り返ることなく一言だけ言い残し、静かに部屋を後にした……
※※※※※※
次の日、渡瀬は一睡もせずに都内へ戻り『事務所』へ顔を出していた。
公安部の対外活動を行う部署は、本庁には絶対に立ち寄らず、表向きは民間のオフィスに偽装した『事務所』を拠点とするのが常だった。
都内某所のオフィスビルにあるその『事務所』も、そうした拠点の一つだ。
「それで、その手がかりを追いたいって訳だな?」
「ええ、これまでその協力員は実績を出してきました。そう考えれば今回も何かを掴んでいた可能性は、非常に高いと思われます」
年代物の事務机に座る班長を前に、渡瀬は小さな声でそう告げた。
グレーのくたびれたスーツに少し白髪の交じる七三分けの班長は、野暮なメガネの上からその冴えない風貌には似つかわしくない眼光を渡瀬に向ける。
「昨日、『処理』した案件で、今のところ取り急ぎの任務はない。お前の出向も…… あと9日。
それだけあれば、何かしら掴めるか?」
班長のその言葉に、渡瀬は静かに頷いた。
「よし、他の連中は他班の応援に出ててバックアップは出せんが、動けるだけやってみろ」
「ありがとうございます」
一礼した渡瀬に、多分に自嘲が含まれた笑みを浮かべた班長は、腕組みを解いてからゆっくりと口を開いた。
「なに、これまで裏の仕事を含めて随分と実績を残してくれたんだ。少しばかりのスタンドプレーなら目を瞑る」
渡瀬もこれまでの仕事を思い起こしたのか、不意に忘れていた感情が蘇ったように感傷を覚え、困ったように苦笑を浮かべた。
「ただし、深追いはするな。それから……」
「報告は絶やすな」
口癖を先取された班長は言葉に詰まってしまい、さっさと行けと言わんばかりに手を振って渡瀬を追いやった。
気心の知れたやりとりに安心感を覚えながら、再び一礼して渡瀬は事務所を後にした。
これで自分に何かがあっても、自分の追っていたルートや対象がチームに伝わる。
万一、渡瀬だけでは手に負えないような事態に陥った場合でも、班長を通じてバックアップが得られるだろう。
単独で行動する場合、渡瀬は出来得る限り、公共交通機関を使うようにしていた。
ターゲットの尾行や万一の逃走時には、車両が逆に足枷になる場合もある。
首都圏のように交通機関が発達していれば、さしたる労もなく目的地にたどり着ける。
そうして電車に揺られながら、目的の池袋近辺の駅に到着した渡瀬は、ブラブラと歩いている風を装い尾行の有無を確認していた。
もはや習性となってしまった尾行の確認を行い、尾行者がいないことを確信してからゆっくりと宋のアパートへ向かってゆく。
そこは半商半住といった歓楽街の外縁に位置する、商店やアパートが混在している場所だった。
渡瀬はアパートの正面が見えるコーヒーショップを発見し、アイスコーヒーを注文してから表通りに面したカウンター席に座る。
そしてそこから、監視カメラの有無やアパートを見張る不審な車両などがないかをつぶさに見てゆく。
ゆっくりとコーヒーを飲みながら、不審な兆候はないと渡瀬は判断した。
周辺地理はここに向かう途中で確認済みだった。地図アプリのストリートビューで、侵入箇所の目星もつけてある。
ゴミ箱にカップを捨てて、渡瀬はゆっくりと歩き出していった……
薄手の手術用手袋をはめた渡瀬は、目的の建物に近づき尾行や監視の兆候がないかを入念に確認しつつ建物に近づく。
正面入口には監視カメラが設置されており、駐輪場がある裏側からアパートに入った渡瀬は、階段を使って三階の一室へ労せずにたどり着く。
そして楊から手渡された鍵を使い、まるで住人のように振る舞いながら自然に部屋の鍵を開けた。
暫く動いていない少し淀んだ空気が渡瀬の顔を撫でる。
後ろ手に扉を閉めた渡瀬は、まずは室内に異変がないかを気配から察する。
皮膚に感じる体温や空気のゆらぎ、かすかな物音や匂い。そうした兆候を探りそれを視覚で補完してゆく。
どうやら先客は居ないようだ……
ここに来る前、渡瀬はざっと警視庁のデータベースで宋が殺された事件に関する情報を探った。
だが、この部屋の存在どころか、未だ宋の身元にもたどり着いていない。
それ故に部屋の中は宋が生きていた時のまま、刻を止めていた。
靴を脱ぎ、背負っていたデイパックにしまいこんだ渡瀬は、周囲を見渡すように部屋の様子を眺める。
『生活感のない部屋』 それが第一印象……
ビザや表向きの職場で届けていた現住所とは違う、セーフハウス。
そこには潜伏や逃亡に必要な最低限のものが置かれているだけで、家具や生活用品はほとんど置かれていない。
すべてが渡瀬の教えた通りだった。
記録メディアは近年ますます大容量になり、かつ小型化しており今では隠し場所には困らない。
それにインターネット上のクラウドやメールサービスなどを利用して、データの受け渡しもできる時代なのだ。
だが、古い体質の抜け切らない上層部は、一次メディアに拘っており、今でも古典的なデータのやり取りが行われている。
渡瀬は宋に教えたメディアの隠し場所を、ひとつひとつチェックしてゆくが、どれも空振りだった。
再び部屋の中を見渡した渡瀬の耳に、冷蔵庫が発する低いコンプレッサーの音が響く。
それは、ほんの少しの違和感だった。
普段は使用しないセーフハウスには、生鮮食品や冷えた飲み物などは置く必要はない。
単身用の小さな冷蔵庫は、主の消えた部屋で己の仕事を全うしていた。
渡瀬は手を伸ばして、扉を開ける。少し粘るパッキンの感触を感じながら、扉が開かれた。
その冷蔵庫の中身を見た瞬間、感情の奔流が湧き上がるのを、渡瀬はギュッと目を閉じ奥歯を噛み締め、やり過ごそうとする。
もしも感情をこらえ切れなかったら、これ以降は公安捜査官としての仕事は難しくなるだろう。
感情を見せてはスパイの世界では、即座に餌食にされてしまう。それ故に幾つもの仮面を着けて、偽りの人間を装うのだ。
そうしなければ人を利用し、切り捨てる非情な世界では、生き抜くことは出来ない。
それに早晩、捜査官の心はズタズタになってしまう。
一呼吸置いて、ようやく感情の奔流を飲み下した渡瀬は、足元を伝う冷蔵庫からの冷気で我に返った。
「宋の野郎……」
小さなな豆電球に照らされた庫内を見ながら、渡瀬は小さく呟いていた……
******
「渡さん、ワタシそろそろ、この世界から抜けたい」
「そうか、もしかして例の幼馴染か?」
昼どきを少し外した定食屋の中は、程よく混み合っており周囲に喧騒が満ちていた。
そんな中 『偶然』カウンター席で隣同士になった渡瀬と宋は、互いに視線を合わせることなく、小声で語り合っている。
渡瀬の言葉に、宋は水を飲むフリをしながら、小さく頷いた。
「次の仕事で成果を出せば、俺が責任を持って上に掛け合ってやるよ」
宋は、安い腕時計の下からラップに包んだマイクロSDカードを取り出し、台拭きにはさみ込むと、自分のグラスから滴る水滴を拭いた。
渡瀬はそう声をかけながら、宋が戻した台拭きで同じようにテーブルを拭いながら、SDカードを回収する。
渡瀬の言葉に、少し安堵したような表情を浮かべつつ、宋は残りの白飯を掻き込む。
しかし実際のところ、公安が管理する宋のような『協力者』は、警察庁警備局警備企画課に存在する極秘セクション、通称『ゼロ』が取り仕切っている。
協力者を開放するか否かの判断は、現場の捜査官ではなく、情報の重要性に鑑みてゼロが判断する事項になっていた。
無論、渡瀬も口頭や書面で宋の『お役御免』について報告するつもりではいるが、それが通じるほど甘い世界ではない。
情報の重要度が上がれば上がるほど、協力者のリスクも跳ね上がり、そしてそれを追う公安の蜘蛛の巣に絡まってゆくのだ。
ときに情報の有用性がなくなったと判断されれば、容赦なく切り捨てられもする。
「いま、幹部たちがピリピリしてる。近々大きな仕事があるって、話してる」
「頼むぞ、お前の情報が頼りだからな」
そう言って渡瀬は床に置いた紙袋を足で宋の方へと押しやった。その中には使い古された現金が無造作に茶封筒に入れられている。
それを自分の足の間に挟みながら、宋は再び口を開いた。
「最後に仕事が終わったら、昔みたいに飲みたい……ですね」
定食の小鉢を箸でつつきながら、宋がそんなことをポツリと呟く。
その言葉で渡瀬は、宋が青島のビールを好んで飲んでいたことを思い出した。
作業班が協力者を獲得する場合、その人物の素性や出身、経歴や日常生活まで徹底的に調べ上げる。
そこから糸口を探して接触し、徐々に打ち解け心に入り込んでから、協力者に仕立て上げるのだ。
なだめすかし、ときに脅しスパイ行為を実行させる。
そんな過程で、宋に接触した渡瀬は何度も顔を合わせて信頼させていったのだ。
その接触には当然のことながら酒の席も含まれており、よく2人で飲んでいた。
「そうだな。そういえば暫く飲んでいなかったな」
「渡さんの好きなビール、用意しておきます」
伝票を持って立ち上がった渡瀬に、立ち上がるスペースを空けるように演技をしながら、宋が初めて視線を向けた。
「ああ、仕事が終わったら…… 一緒に飲もう」
渡瀬も会釈するふりをしながら、店に入ってから初めて宋の顔を見た。
どこか人懐っこい笑顔を浮かべた宋の顔。それが、渡瀬が見た最後の姿だった……
******
そして今…… 宋のセーフハウスの中で人知れず稼働していた冷蔵庫の中には、渡瀬が好きな国内メーカーのビールが、ひっそりと冷やされていた。
「宋の野郎……」
ようやく感情の波を押し殺した渡瀬は、再びそう呟いてしまう。
そのビールを見ていた渡瀬は、ふとそのうちの1本がおかしいことに気づいた。その1本だけ王冠が不自然に傷ついているのだ。
迷うことなくその1本を手に取ると、渡瀬はぐっと指で押し開ける。
果たして、王冠の内側には防水加工されたマイクロSDカードが、貼り付けてあった。
渡瀬は無事に情報を発見できた安堵と、宋が残した無言のメッセージに再び感情を零しそうになるが、今度は意志の力で押さえ込む。
いつもの隠匿場所にマイクロSDカードをしまい込むと、渡瀬は痕跡を残していないかをチェックしながら、玄関へと歩を進めた。
用が済んだならば迅速に離脱しなければ、長居すればするほど痕跡を残して露見するリスクが増大してしまう。
だが、渡瀬の足は離脱の意思とは裏腹に、ピタリとその歩みを止めてしまった。
玄関の向こうから感じられる複数の気配……
それが渡瀬の足を止めたのだ。
……キンコン!
静寂と緊張感が張り詰めている室内に、そのドアチャイムの音はひどく大きく、そして間抜けに響き渡った。
「ごめんください。警視庁の者ですが、どなたかいらっしゃいますか?」
最悪のタイミングで、最悪の人間が訪ねてきたようだった…………