女と情
渡瀬は終電間際の電車を乗り継いで、池袋に赴いた。
北口から出た渡瀬は商店街から一本横にそれたラブホテル街に入り、会合地点に設定したホテルに到着する。
先程までの作業員風の格好から、肩がけバックにポロシャツとチノパンそして上着という、幾分こざっぱりとした格好になっていた。
投下地点と呼ばれる緊急時の荷物を、渡瀬は首都圏の各所に隠している。
お守り毛布と言われている各種パスポートや現金を入れた逃走用のバッグや、装備品や着替えを入れた物などがあちこちに隠匿してある。
緊急事態であり、『事務所』に装備を取りに行っている暇はなく、隠匿場所から引っ張りだした衣類に駅のトイレで着替えをしていた。
目的地のラブホテルの前を一旦やり過ごした渡瀬は、周辺に監視や不審な車両がないかを確認する。
角を曲がってホテルの正面入口付近から見えない場所へ移動した渡瀬は、先ほどと同じように暗闇に身を潜めて数分ほど周辺を観察する。
もしホテルが監視されているとすれば、監視者が焦れて何らかの動きが見える場合もある。
今回の背後関係を考えれば、もし監視している者がいればそれは諜報員や監視のプロではない。必ず何かしらの兆候が見える筈だ。
結局、暗がりからの対監視ではそれらしい動きは見られず、渡瀬はホテルに向けて動き出した。
途中で本の数瞬立ち止まった渡瀬は、靴紐を治す演技をしながら、壁際の塀の隙間に何かを埋め込んで角度を調整する。
そして、顔を背けるようにして足早にホテルの中に消えていった……
……コンコン
3階の角の部屋、305号室に到着した渡瀬は扉をノックしてから、少し離れた位置に立ち扉が開くのを待った。
少しの間があってから人の動く気配が扉の向こう側から感じられ、ドアスコープの色が変わるのが見える。
それからやや間があって、チェーンを外す音と解錠音が響き、細めにドアが開けられる。
その隙間から顔を出したのは、普段の明るい表情がすっかり消え失せた楊の姿だった。
何度か顔を合わせている渡瀬は、その憔悴した表情を見て、少しだけ苦しそうな顔を浮かべながら小さく頷く。
それを見た楊は、ほんの少しだけ安堵の表情を覗かせてから、渡瀬を室内に招き入れてた。
楊は味方と合流できた事で気が抜けたのか、入口のドア前でへたり込んでいる。
渡瀬はそんな楊の姿を背中越しに一瞥しながら、構わずに部屋の中に入り込み他に人がいないか、チェックを進めていく。
宋が殺されたと言う話はブラフで、渡瀬の存在がバレて罠にかけられた可能性も否定出来ない。
誰が裏切りどこに罠が潜んでいるのか、一時も油断がならない世界なのだ。
少しでも長生きしたければ自らの眼と耳で確認し、すべての事象を疑わなければ少しの油断が死を招いてしまう。
バスルームやトイレに人が潜んでいないかを確認し、冷蔵庫からミネラルウォーターを出してから、ドサリとベッドに体を落とすように座り込む。
「宋が殺されたと言うのは、間違いないのか?」
ようやく部屋の中に入ってきた楊へミネラルウォーターを渡しながら渡瀬はそう尋ねた。
「ええ…… 一週間くらい前から、様子がおかしいと思っていたんだけど、数日前から姿を消した。
それで、さっき知り合いから電話があって、東京湾で死体が発見されたって……」
途切れがち、つっかえながら言葉を発する楊は、ついにこらえ切れずに涙を溢れさせた。
楊と宋は、同郷の幼なじみだった。
両家ともそれなりに裕福な家庭だったが、宋の家は事業に失敗して宋は大学に進学するのを断念した。
そして観光ビザで日本へ入国して、働き始めたのだ。
しかし、不法就労で就ける仕事は限られており、周囲の環境もあって次第に違法な仕事に手を染めていった。
そして行き着いた先は、『邪龍』と言う新興中華マフィアの構成員だった。
対する楊は順調に大学を卒業し、正規の就労ビザで日本へとやって来た。
幼なじみであり、惹かれ合っていた二人は再会し頻繁に会うようになっていた。
相反する道に進んだ二人ではあったが、故郷から遠く離れ恋仲に発展するのは必然だったのだろう。
荒んだ世界に生きる宋にとって、楊は唯一の癒やしであり光明だった。
楊にとっては、幼少から知っている宋の成長した姿と、時折見せる昔と変わらない無邪気な笑顔がたまらなく愛しく思えていたのだ。
だが、絡みついた運命の蔦はそう簡単に振りほどけない。
楊のために組織から足抜けしようと宋は考え始めていたが、容易には足抜けできないほどに邪龍の組織に入り込んでいたのだ。
邪龍はこれまでの中国人犯罪組織よりも、多岐にわたるシノギを持っておりその残虐性も抜きん出ていた。
組織から抜けだそうとしても時間だけが過ぎてゆき、その分茨の蔦は宋の身体に絡みついてゆく。
そんな時に邪龍がらみの事案を追いかけていた渡瀬と宋は、出会ったのだ。
協力者獲得を指示されていた渡瀬は、渡りに船とばかりに宋へその話を持ちかけた。
その時に宋は、渡瀬へある条件を出したのだ。
一つは楊の安全を確保すること。そしてある程度の期間が過ぎたなら、自分を組織から足抜けさせて欲しいと言うことだった。
その条件を呑んだ渡瀬は、それ以降定期的に邪龍の情報を宋から受け取っていた。
内容としては、主に密航ビジネスで東南アジアから密入国してくる人物に関するもので、その情報でテロリストの流入を水際で食い止めたこともあった。
「どうしてあいつは、俺にすぐ報せなかったんだ?
俺に連絡をよこせば、逃げられると解っていたはずだろう……」
表情を曇らせながらそう言った渡瀬に、涙を拭きながらポツポツと語り始めた。
「宋の様子は、普通じゃなかった。でも、笑っていた。
これが終わったら、一緒に故郷に帰ろうって言ってた……」
渡瀬はその言葉を噛みしめながら静かに頷き、そしてその言葉の意味を考え始めた。
もし内通者としての立場がバレたのであれば、姿を隠すような真似をせず、素直に渡瀬へ保護を求めてきたはずだ。
それをせずに一人で動いていたのであれば、危ない橋を渡ろうとしたのではないか?
どこか悲壮な覚悟を感じさせる言葉を、楊に残していた。
宋が出した条件。一定の期間を過ぎるか大きな情報を渡した場合、組織から足抜けさせる……
宋は何かを掴んでいた。どうやら、その線で間違いなさそうだ。
「宋が何を追っていたか、見当はつかないか?」
渡瀬は宋が出していた条件と自らの推測を話し、楊にそう聞いてみた。
「分からない…… 宋は私に仕事の話は一切してくれなかった」
「なんでもいい。手がかりになりそうな事があれば教えてくれ。 あいつの死を、無駄にしたくない……」
渡瀬がそう言うと、楊は少し考える仕草をしてからバッグの中から、何かを取り出す。
……それは一本の鍵だった。
「宋が言った。今の仕事が終わったら、荷物を運ぶって言って。私に渡した」
涙を拭いながらそう言った楊の言葉に、渡瀬は引っかかりを覚えた。
協力者には常に身奇麗にして、『いつでも手ぶらで逃げられるように身辺を整理しておけ』 と伝えるのが普通だ。
当然、渡瀬も宋に対して言い聞かせていた筈だ。
それが事をなしてから、悠々と引っ越しの荷物を運び出すなどありえない。
渡瀬は鍵を受け取って、部屋の住所を聞き地図アプリで場所を確認する。
一度見て、場所を覚えてからアプリのデータを消去する。
履歴を残さないようにする習慣や暗記のテクニックは、公安部の教育で徹底される事項だ。
渡瀬はスマートフォンに目を落とし、別のアプリを立ち上げる。
今のところ、この場所はバレていないようだが時間的猶予はない。
邪龍の組織は都内の各地に根を張っている。ここがバレるのも時間の問題だろう。
「後の事は俺に任せろ。君はこのまま国に帰るんだ」
立ち上がった渡瀬は楊に向けてそう言った。
その口調にはほんの少しの優しさと、厳然とした反論を許さぬ厳しさが同居していた。
「パスポートは持ってきてる…… でも……」
「議論をしている時間はない。このまま日本に残れば確実に命を狙われる」
そう言ってへたり込んでいた楊を立たせた渡瀬は、支払いを済ませて離脱を開始する。
スマホのアプリを立ち上げたまま、エレベーターに向かって歩き始めた二人だったが、不意に渡瀬が足を止めた。
「どうやら、お客が来たようだ」
そうつぶやいた渡瀬は来た道を引き返して、非常階段に足を向ける。
錠前のカバーを叩き壊してロックを解除し、二人は外に踊り出た。
ドアを閉めてそのまま正面入口とは反対側の路地まで抜けた渡瀬達は、商店街に出て通りかかったタクシーを止める。
二人が乗り込んだタクシーは静かに発進し、夜の街へと紛れていった…………