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ぱっと顔を見ただけで嬉しそうにしているのがわかった。学校の管理サーバーに送信された部活動加入の状況はほぼリアルタイムで部の責任者にも転送されるため、僕が入部届を書いたのが美衣にも既に伝わっているからだ。千葉がいつその手順を済ませたのかは定かではないが、今朝そのことで話しかけてきたということを考えると、昨日別れてから今朝までの間のことだったのだと予想できる。
放課後、正式に部員として旧文化研究会に赴いた僕と千葉を待っていたのは、にこにこと楽しそうなオーラを全身から撒き散らした美衣と、露骨に嫌な顔をしている一ノ瀬だった。つまりはまあ、いつもどおり。
籍だけは存在するというもうひとりの部員は、未だに一度も顔を合わせたことはない。幽霊部員とは元々そういうものなのだろうし、この調子だと恐らくその人が卒業するまで一度も会うことはなさそうだ。
その人にはなんらかの事情があるのかもしれないし、ないのかもしれない。そればっかりは本人にしか知りようのないことだけれど、あいにくとこれは現実。ドラマチックな出来事はそうは起きなくて、だからたぶん、その人は、とりあえず在籍してみたものの、面倒になっただけなのだろう。
今にも抱き付いてきそうな美衣の脇をするりと抜け、最早定位置と化したロッキングチェアに腰をおろす。前後にゆらゆらと揺れる椅子は心地よく、たわいもない話をするにも、すぐ側にずらりと並ぶ本を読みふけるにも快適だ。ジェルシートで腰回りを包みこむ最新のソファたちとはまた違った良さが、この古めかしい木の椅子にはある。
今日は何を読もうか、と本棚を眺める。僕がいつも椅子を置いている場所の近くは、どうやら戯曲を中心に揃えられているらしい。一冊目は初めての形式に戸惑うことが多く一冊読むのにもかなりの時間がかかっていたが、二冊三冊と数を重ねるごとに徐々に慣れ、気付けばそう時間もかからなくなっていた。
紙媒体をなくしほぼすべてのシェアを電子にしようという風潮には、当時の読書家たちはずいぶんと否定的だったらしい。紙やインクのにおい。ページをめくる感覚。ハードカバーの重み。そういったものが読書の醍醐味のひとつだと頑として聞かなかったという。結局そういった声は少しずつ減り現状に至っているのだけれど、しかし今ならば、その気持ちも少なからず理解できる気がする。紙を繰る手の熱や、わずかに感じられる〝次〟のどきどきというものは、この形でしか味わえない。
しばし本棚に意識を向けて視線を泳がせていると、背表紙がすり減ってしまってタイトルのわからなくなっている本が目に入る。好奇心でそれに手を伸ばそうとすると、背後からよからぬ気配を感じた。
もしやと思いつつ恐る恐る出所を探ると、案の定、頬を膨らませてむくれている美衣の姿があった。
これは構えとか暇だとかそういうときの彼女なりの意思疎通であり、恐らくこの場合、〝したい話があるからこちらを向け〟という意味なのだと思われる。幼馴染みながら面倒くさい人間だと思うが、しかし惚れた弱みというやつなのだろう、ため息をつきながらも本に伸ばそうとした手を引っ込め、彼女に向きなおった。
「なに」
ムフフと擬音が聞こえそうな笑みを浮かべると、大仰に手を振って話し始める美衣。
「ねえ、みんなはさ、なんでこの部活ができたかってわかる?」
得意げにそんなことを言う。何か違和感を覚え、一瞬考える。すぐに答えは出た。
「その話、今日するために練ってきたな」
「うっ」図星だったのか、息を詰まらせたような声を出し、目を泳がせる。「で、でもおもしろい話だとは思うの! たぶん!」
「せっかく練ってきた話ならちゃんと自信を持て」
旧文化研究会のなりたち、ということはつまり、美衣の好きなものがどうやってできたか、という話である。好きなときに好きなことをする性格の彼女が、理由もなくこんなテンションの上がりそうな話をせずに黙っていられるわけがない。僕や千葉が正式に入部するこの日に話さんとずっと待ち構えていたはずだ。
となると自然、ハードルは上がる。が、別段美衣は口上が達者だとかそういうわけではない。それがわかっている僕や一ノ瀬は大した期待はせず――一ノ瀬は美衣の話となればどんな話だろうと喜ぶ気もするけれど――そんなことなど知りもしない千葉は、待ち遠しそうな顔で美衣を見ていた。
「え、えぅ……あんまりじっと見られると緊張するな……。え、えっと、昔から今までずっと、全国で一番多く紙の本を蔵書しているところが東京にあるのは知ってるよね?」
「国会図書館ですよね。今では本が増えることもなく、利用する人もいなくて、あこの職員は閑職だって聞きますけど」
およそ高校生が気にするものではない知識まで付属して答えたのは一ノ瀬だ。しかしなんだ、まるでやることがなさそうな上に環境も悪くなさそうだし、悪くないんじゃないか、国会図書館の職員。
脳内の希望進路リストにこっそり項目が追加されたことなど露知らず、美衣はその言葉に「うんうん」と頷く。
「原則的に一冊はそこに入れることになってるの。今でも少しずつ本は増えてるらしいから、もしここにいる誰かが将来作家さんとかになって紙でも本を出したいってなれば、一冊はそこが買ってくれることになるよ」
「今時作家になるやつなんて稀だろ」
「それでも、だよ。この部活、結構作家とかになってる人多いらしいし」
僕の言葉に、美衣がむっとして答える。
でもたしかに、こういう部活に入る人っていうのは、小説とかが好きな人ばかりだろうから、美衣の言っていることはおおむね正しいのだろう。そもそも、興味がなければこの部活の存在に気付くことがないのだ。電子プレートが機能していない部屋など、僕でも物置か何か使われていない部屋なのだと思って無視する。ていうか、実際気付かなかった。
「話がちょっとそれたね。それで、国会図書館っていうのは今でもちゃんと機能してるんだけど……国会図書館って言うくらいだから、昔は普通にそこらにあったんだよね、図書館」
「そこらにって……」美衣のアバウトな表現に、千葉が口を挟む。「県域ずつとかであったってことっすか?」
現在、この国には国会図書館以外に図書館と呼ばれるものは存在しない。図書館と言えばイコールで国会図書館を指し示すものだ。
その点を考えると、いくら昔書籍の需給が多かったからと言って、そう数があったとは思えないが――
「ううん、実はね、基礎自治体ごとにあったの」
「そんなに?」
思わず声に出してしまう。一ノ瀬も同じように驚いた顔をしていた。基礎自治体という言葉に馴染みがなく理解できたなかったらしい千葉に「区ごとだよ」と小さく教えてやると、途端に目を丸くした。
基礎自治体――昔の呼び方で言うと、市町村というやつだ。つまり、美衣の話が本当であれば、県域ごとに三十や四十もの数が存在していたことになる。正直想像もつかない数だ。合理性も感じられない。
「でも、そんなにいっぱいあってもどうするんですか? どうせ規模の大きいところに一極化するだけだと思うんですが……条例で統一していたとか?」
一ノ瀬の言い分に賛同した。結局のところ、人は便利な方を優先する。極端な話、一万冊しか本がないところと百万冊本があるところでは、当然人は多い方に行くはずなのだ。
「そんなことはないよ。今だってそうだけど、昔も地域によって栄え方は違ったから、図書館の規模だって違ったの」
「じゃあどうやってそんなの維持してたんですか?」
「それはね……ゆうくんならわかるんじゃないかな?」
一ノ瀬と話していたはずの美衣が、そうして僕の方を向いた。
「僕?」
思わぬ問いかけに、咄嗟に頭が働かなかった。一ノ瀬や千葉にはわからなくて、僕にわかること。
千葉の趣味や見識は把握していないけれど、それは美衣も同じことなはずなので、共に千葉のことは普通の人としか考えていない。テンションが高く交友関係も広い。運動神経が凄まじく男気があって人に優しい、いい人プログラムでも組み込まれているんじゃないかって男。ということにしておこう。
一ノ瀬の医療科学に関する知識は僕を遙かに上回るもので、機械の使い方や直し方、いわゆる科学技術と呼ばれる全般に広く浅く技術を蓄えている僕とは違う。医療プログラムの構築技能は時に長く歳を重ねた科学者すら凌ぐほどで、すでにいくつか特許を取得してもいる。有名なもので言えば、脳の記憶媒体にアクセスして過去の肉体情報を検索し、怪我や病気、視力の悪化などの衰えを、治療ではなく回帰――細胞構成を元の状態へ戻すことで回復させるプログラム。まだ完全に実用化とまではいかないが、技術自体は周知のもので今後の進歩に期待がよせられている。つまるところ、天才少女というやつだ。
まず間違いなく知識量で言えば僕は一ノ瀬に到底敵わないし、そこに千葉も加わればアリがゾウに歯向かうようなものだ。だからきっと、美衣が僕に求めているのは、根本的なもの。根本的に、僕にあってふたりにないもの。
しばらく記憶の海を漂ったところで、そもそもの質問者が誰なのかを思い出した。出題者が答えをわかっていない問題は、問題として成立しない。
そして僕と美衣だけが知っていることとなれば、それはもう考えるまでもない。
この場で美衣と僕にだけわかること――出題者である美衣と、美衣にあれこれすすめられて様々な本を読み漁った僕のみが知りうる、昔の事情。昔の物語の、舞台背景。
「交通の問題か」
「せーかい!」
舌っ足らずに叫びながら、そこにボタンでもあるかのように華奢な手が空を叩く。それがどういう意味を持った仕草なのかはわからない。
「交通の問題って、どういうことすか?」
予想通りの千葉の質問に、僕はしたり顔で訊ね返す。
「もし仮に各県域の中心に図書館が設置されていた場合、端の人たちはどれくらいかかる?」
「わざわざそんなとこ行くくらいなら普通に拡張視に入れるかタブ端末に入れるんじゃねぇか?」
「それを言ったら話が進まないだろうが……たとえばの話だよ」
「そうだな……ってもまあ、広いとこでも三十分とかじゃねぇの?」
自分が普段利用している交通機関を思い浮かべたのだろう。家々より高い位置に巡らされた超電導リニアや地下鉄を使えば、よほど辺境のまだ区画整理が終わっていない地域でもなければその程度でつくはずだ。
しかし、彼はそもそも前提を間違えている。図書館があったのは、現代じゃないのだ。
「おそらくその時代、立地によっては電車やバスを乗り継いでいかなきゃならないし、山間部だったりすると交通整備も行き渡っていなかったりするから、一時間や二時間かかるところだってあっても不思議じゃないんだ」
「二時間? マジかよ……」
「マジだよ。県域にひとつとなれば当然その中での中心部――地理的にも、政治的もだけど、そういうところを選ぶ必要がある。金はかかるしどうしても地域格差が生まれる。それに何より、本を借りるために交通機関やら車やらを乗り回して片道二時間もかけるってのは不便すぎる」
思いつく限りの理由を頭の中に並べ、それをうまくかいつまんで言葉として構成する。やや箇条的な説明を聞き、「へぇ」と短く声を上げる千葉。
「でも、そんないくつも作ってたらそれこそお金がかかるし、本の数だって必要だわ。行政や自治体としては、そっちの方が困るんじゃないの?」
「たぶんだけど、どちらかと言えば、ひとつの市……ああ、いや、区にだけある方が問題なんだと思う。当然他と違ってその区にだけ負担がかかるし、国からの補助でもしようものなら差が生まれてしまう。だったら全部に重荷を背負わせてしまえばいい。全員が同じ荷物を担いでれば、自分だけが、なんて文句は出てくることもないからな」
あくまでこれは僕個人の考えなのだけれど。と付け加えるのを忘れない。
というのも、事実として図書館は最早絶滅危惧種なのだし、おそらくその時代としては各地域ごとに点在していたことは至極当然のことだっただろうから、資料なども残ってはいない。だから現存する記録を基に想像するしかないのだが、昔と今ではそもそも常識と言われるものが違う。
美衣の話を聞いて短時間で考えただけだから、自分の中でもいまいち不確定な説明だ。
たぶん、僕の予想は間違えているのだろうなぁ、とは思うが、それを正してくれる人もいないのだった。
「あんた、なんかそこまで頭の回転が早いと若干気持悪いわね……」
「失礼だしお前には言われたくねーよ。親しき仲にも礼儀ありって言葉知ってるか。ていうかお前の方がたぶんえげつないだろ」
「あたしは普通だし、別にあんたと親しくなったつもりはないわよ」
「だな……僕も言った後になって思った」
「ちょ、ちょっとふたりとも!」僕と一ノ瀬がくだらないことを言い合っていると、慌てて美衣が割って入った。僕らのやりとりを本気で喧嘩しているように思っているらしく、必死になって止めようとしている。「せっかく高校でも一緒になれたんだから仲良くしようよ! ね?」
中学生の頃から幾度となく繰り返されてきたこのやりとりと、懐かしい美衣の様子に思わず笑みが零れる。美衣が卒業してからはめっきりなくなっていたので、実に一年ぶりだ。
たぶん僕も一ノ瀬も、内心では三人でのこういう会話を、日常の一幕として楽しんでいたのだろう。だから美衣が欠けてからはぱたりと途絶えていた。