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波風を立てない。おそらく、それが一番いいことなんだと思う。もう一度僕の気持ちを彼女の心に近づけたところで、僕がまた苦しむだけだ。
いや、それだけならばまだいい。僕はいくら傷ついても、彼女がいれば。だが、美衣はたしかに言ったのだ。「嫌なことがあった」と。それはつまり、僕の言葉が彼女を苦しめたということだ。自分だけではなく、他人をも傷つける、明確な刃物だったということだ。
そんなことは許されない。僕が僕を、許せない。
「ゆうくん?」横からの声に、びくりと身体が震えた。「どうしたの? 体調悪い?」
「位置情報は切ってても、さすがにメディの方は切ってないよ。そこまで馬鹿じゃない」
MGPM自体を、そして医療端末との常時相互通信も含めて指す俗語を交えて、美衣の言葉に返す。静かに道を照らす街灯の光が、美衣の瞳に仄かに差し込む。
「本当は位置情報切るのも校則違反だと思うんだけど……」
「必要な時にはちゃんとオンにしてるよ。位置情報のオンオフを確認するにはメディ経由で調べるしかないから、よほどのことがないとバレることはない」
「先生とかが探してたらどうするの?」
「放課後まではオン。放課後はオフ。なんかあったときは外にいたって言うさ。緊急時以外は学外まで調べる権限は学校にはないよ」
「……入学して早々、校則の穴探しばっかしてるんだね」呆れたように溜め息をつかれる。「そういう知識はもっと他のことに使えばいいのに」
「……他のこと、か」
現代に生きておきながら過去に想いを馳せる美衣は、機械にめっきり弱い。それを補うため、逆に僕はかなりそっちの知識が潤沢になってしまっている。本来は業者に任せるべきMGPMの点検も、僕と美衣の家の分は、父さんの手を借りながらではあるが僕がやってしまうくらいだ。両親が研究職の人間だというのも理由のひとつかもしれない。
そんなことがあるから、たしかに僕が真剣に何かの研究に没すれば、多少の技術的発見をすることだって将来的には可能だろう。人間の意識の電子化などは個人的に興味があるし、精神治療の一環としてその逆に近いことは既に行われているから、実現性も高そうだ。
でも、それらのことが今のこの環境を手放してまでほしいものかと言われれば、僕は即座にノーを突きつける。僕は今を全力で生きるのに精一杯で、とてもじゃないが数十年先の未来なんて見えない。
「まだそういうことは考えるつもりはないな。美衣こそどうなんだ? 僕より一年早くそういうことを考えなくちゃならないわけだし」
僕が言うと、美衣は長い髪を風にたなびかせてくるりと回った。「えへへ」と誤魔化すように笑って、口元に人差し指を添える。かわいい。
「正直私も、将来自分がどういう仕事してるかとか全然想像つかないんだよね。ほら、私ってできること限られてるでしょ?」
「……まあ、現代社会において美衣はポンコツも同然だしな」
「さすがにひどくない! 私だって時間かければできるんだよ?」
「効率よくするための機械化なのに、時間かけてたら本末転倒だろ」
「それはまあ、そうだけど……」
見るからに落ち込んだ様子の彼女を見て、少し言い過ぎたかなと反省する。
「だから、美衣はあんまり周りとか気にせずに、やりたいことをやればいいんだよ。どうしようもなくなったら僕がどうにかしてやるからさ」
なかなかに恥ずかしいセリフを吐いたような気がする。これでは一緒に暮らそうと言っているようなものだ。
とはいえ美衣はこういうことを深読みする人間ではない。たぶん、本当に文字通り「どうにかしてくれるんだ」としか思っていないだろう。
いたるところに鉄や金が使われるこの国では、美衣のように極度に機械に弱い人間というのはとても少ない。道路の脇に並ぶ街灯。数歩先には一際太いものがあった。道行く人の健康状態をチェックしMGPMと通信するためのセンサーが埋まっているからだ。
外を数歩歩いているだけでもいかに世界が冷たい鉄に覆われているかがよくわかる。人が本来持つ温かみではなく人工的な熱で包まれた世の中は、彼女のような人間にはどれだけ息苦しく感じるのだろうか。
「まだまだ先のことだもんね。今考えても仕方ないかっ」
そんなことはおくびにも出さず微笑む美しい少女は、優しい音色を響かせる。
「でもね」
「ん?」
「――ずっと、一緒にいられたらいいよね」
思いがけぬ――けれどわかりきっていた言葉は、僕の胸に鉛のように重く沈みこんだ。