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借りてきた猫のようにベンチに膝を揃えて座っていた千葉を拾うと、三人並んで校舎に戻る。昨日の出来事がなかったことになっているということは、元々美衣は僕を部活に誘いに来ていたはずだ。何故なら昨日も、そう言って美衣から僕に声をかけてきたのだから。
連鎖してその後の出来事までもが脳裏をよぎるが、小さく頭を揺らして振り払う。
既に結構な時間が経っているからか、綺麗に磨かれた廊下を歩く人影は僕ら以外にはいなかった。静まり返った空間に、三人の足音だけが響く。
しばらくすると、一歩前を歩いていた美衣が足を止めた。仰ぎ見ると、教室の扉の上の電子プレートは故障でもしているのか、何も表示されていない。しかし、横に並んだ旧式の白いプレートが所属を示す。
「旧文化研究会……?」
得体の知れないものを見たようなしゃがれた声で、千葉がぽつりと零す。建物内のすべての部活を回ったつもりではいたが、ここには来ていない。いちいち旧式のプレートなど視界には入っていなかった。
旧文化――すなわち、紙の本やアナログゲームのことだ。デッドメディアとも呼ばれている。
「そ。電子化が進んで今はほとんど使われなくなったデッドメディアって呼ばれているものについて研究したり、保存したり、そういうことをしてる部活だよ。って言ってもまあ、人数少ないから部活じゃなくて研究会扱いなんだけど……」
「は、はあ……」
千葉が呆けた表情をしてしまうのも、ある種仕方がないことなのだろう。そもそも僕たちのような世代には、紙の本などと言われても関わりがない。ほとんどの高校生は紙媒体の新聞や小説なんてのは読んだことがないはずだ。だからそれを研究、保存していると言われても、いまいちぴんとこないのだ。
「とりあえず入って入って」
しゃっと勢いよく扉を開けると、両手でそれぞれ僕と千葉の背を押す。押されるがままに入ると、驚くような光景が目に飛び込んできた。
見渡す限りの本。本。本。全体的に薄茶色で統一された室内は、まるで木に囲まれているかのような錯覚をさせる。いや、本棚も本も材質は木なのだから、それも錯覚ではないのかもしれない。
書物の保存という役割があるからか、部屋は他のどの部活よりも広い。昔の学校には図書室という部屋が必ずあったと美衣が言っていたが、たぶん、今目の前に広がる景色と似たようなものだったに違いない。
壮観にして圧巻。徐々に増えていく美衣の部屋の紙を見ていた時とは比べものにならない衝撃だった。
「すごいな……」
「でしょ? 私、ここのこと聞いてから絶対この学校に入ろうって決めてたの! こんなにいっぱいの本に囲まれるなんて夢みたい。たぶん、卒業までに読み切れないから、卒業してからも来ると思うの!」
思わず漏れた素直な感想に、水を得た魚のごとく飛びついてくる美衣。目をきらきらと輝かせた彼女の手が僕の手を掴んだ瞬間、一気に心拍数が上がる。今すぐにでももう一度想いを告げたい気持ちをねじ伏せて僕は言う。
「それ、もしかして僕らが入るのはもう決定なのか……」
「うん。だってほら、私とゆうくんとあの子。これからは千葉くんも含めて四人で一緒だよ」
強引な姿勢に呆れつつ、変わらずこの空間にいられることに充足感を覚える。だから、その言葉に反応するのがワンテンポ遅れた。
「……あの子?」
「うん、真白ちゃん」
「げ」
反射的にそんな声が出てしまう。それくらい、一ノ瀬真白のことは苦手だ。
「会って早々失礼ね、あんた。げって言いたいのはこっちよ。せっかくの美衣先輩との時間を奪うなんて」
どうやら聞こえていたらしい。整然と並んだ本棚の裏から現れた一ノ瀬は、分厚い本を片手に冷たい視線を浴びせてくる。
「どうりでこんなに片付いてるわけか……美衣がこんな綺麗に整理するわけないもんな」
「あ、ゆうくんひどくない? そりゃあ私は片付け苦手だけどさ……」
「そういうこと。あたしは入学式の日からもうここに来てるんだから、あんたたちここに入部するならあたしの後輩だからね」
「ちょっとゆうくん聞いてる? 私だって少しくらいは片付けするんだよ?」
すねる美衣を無視して、一ノ瀬を睨む。同級生なのに先輩も後輩もねーだろという意思表示だ。
「あたしはもう部活のために活動してるのよ。二日連続美衣先輩の手を煩わせてるあんたと違って」
それを言われてしまってはなんとも反論しづらく、うぐっと黙ってしまう。勝ち誇った笑みを浮かべる一ノ瀬に、苦し紛れに今度は違う話題を振る。
「ていうかお前、どう考えてもこういう部活にいるようなやつじゃないだろ。なんでいるんだよ」
言ってから、これほど答えのわかっている質問もないだろうと自己反省した。
「決まってるじゃない。美衣先輩のいるところにあたしはいるのよ」
「あっそ」
ふふんと鼻を鳴らす一ノ瀬。残念ながら、今の僕では一ノ瀬には勝てそうもない。
すると、ようやく話が途切れたからか、恐る恐る千葉が僕に耳打ちした。
「誰?」
「一ノ瀬真白。一年生。僕や美衣と同じ中学のやつ」
それ以上は語りたくないとばかりに、語尾に力を込めた。
別段、彼女が僕に何かをしただとか、手がつけられないほどの不良――昔で言う不良なんてものは、今時即座に更生プログラムで頭から足先までいじくられるのだが――だとか、そういうわけではない。ただなんとなく、苦手なのだ。そう、嫌いではなく、苦手。自他共に認める類い稀なる才覚ゆえの自信に満ち溢れた態度とか、美衣を神格化しているんじゃないかってくらい溺愛しているところとか。そういうのが、なんとなく、肌に合わない。
僕のそういう感情を察してくれたのか、千葉はそれ以上は何も言わなかった。単純にそれ以上の興味はないのかもしれない。
「それで、そっちの金魚のふんみたいなのはなんなの? どう見てもこういう部活に入るような頭には見えないけど」
「ふん……」
一ノ瀬のわりに、随分古めかしい言葉を使うもんだ。ついでに、茶髪や金髪のやつは頭が悪そうみたいな価値観も古い。まあたぶん、僕と同じように、美衣の趣味による影響なのだろうけれど。
別に、美衣自身がそういう偏見を持っているわけではない。決して。
金魚のふんと称された千葉は、怒っていいものかわからずわなわなとただ震える。その様子を〝図星だから反応できない〟のだと考えた一ノ瀬は、再び勝気な表情で笑う。
ふたり揃って一ノ瀬に一杯食わされたままというのもなんだか癪なので、ここはひとつ打って出る。が、方法はわりと最悪だった。
「ところで一ノ瀬、もう高校生になったわけだけどさ、まだ縞パン履いてるのか?」
「んなっ」
途端に顔を真っ赤にして持っていた本を投げつけてきた。ひょいっと危なげなく受け止める。それがまた悔しいのか、小柄な彼女は耳まで赤く染まっていた。
しかし僕の手札はこれで終わりではない。むしろこれからが肝心だ。
美衣の目の前で本を乱雑に扱う。となると当然美衣は――
「真白ちゃん! 大事なものなんだからそんな扱いしちゃダメでしょ!」
こうなる。
美衣に心酔する一ノ瀬にとっては、どんな言葉よりも美衣に悪く思われるということが一番効くはずだ。予想通りにことが運んで内心満足げに振り向くと、そこには「縞パン……」と微妙ににやけながら呟く千葉がいた。
こいつ、意外とむっつりだったのか。
「へえ、じゃあ一応、もうひとり部員はいるのか」
ようやく平静に戻った一ノ瀬を含めて、室内に点在するそれぞれの椅子に四人で座る。すぐ背に大きな本棚を迎えるロッキングチェアに僕。その近くに千葉。僕の正面に美衣、その横に一ノ瀬だ。
「うん。まあ一回しか顔見たことないんだけどね」
「幽霊部員ってやつっすね」
「でも少しでも人数が多い方が部費って出やすいらしくてね。ほら、本って高いから」
「たしか全国に数ヵ所しかないんでしたっけ。印刷所」
「よく知ってるんだなぁ、そんなこと」
「あんたに話してないわよ」
「あ、はい……」
楽しそうに話す美衣たち。千葉も一ノ瀬がどういう人間かわかったのか、一ノ瀬の不遜に思える態度にもあまり気を悪くする様子はない。そうだ、そいつは気にしないのが一番いい。
そんな三人を横目に、僕は今一度この部室をぐるりと見渡してみた。
驚くことに、この部屋からは一切電子機器の気配がしない。今座っている椅子や背後の本棚、少し離れたところに設置された長机など、いずれも材質は木で統一されている。もちろんいくらここが異質な空間であろうと学校の中であることに変わりはないので、MGPMの端末や不測の事態に備えた警報器、学内のメインコンピューターと繋がれた応答システムなど、数えればキリがないくらい科学が介入しているはずなのだが――美衣の尽力か、それとも連綿と続くこの部の方針なのか、一切の機械のにおいが撤廃されていた。
医療とAIの発達によって過剰なほど科学に覆われた現代において、この光景は極めて珍しい。たぶん、こんなのが他に見られるのは、それこそ本当にMGPMなどの機器の導入が難しい山や海の中くらいだろう。
それくらい、この部屋からは木の、森の中に放り込まれたのではないかと錯覚するような香りしかしなかった。
「すごいでしょ」声のした方を向くと、美衣がこちらを見ていた。「昔からなんだって。せめてここでだけは、皆が忘れた……ううん、私たちにとっては見たことすらない懐かしい世界を感じれるようにって」
どんなきっかけがあったのかは、僕ですら知らない。ただ、僕が知る限り佐倉美衣という少女は物心ついた頃からもう、過去を生きていた気がした。だからたぶん、本能的なものなのだろう。ピンク色が好き。ハンバーグが好き。紙の本が好き。きっと、そこに違いはない。僕が幼馴染である美衣を好きであるのと同じくらい自然に、彼女は書籍が好きなのだ。愛しているのだ。
だから僕は、嬉しそうに語る美衣を見るのが大好きだった。その様子が、本当に楽しそうだから。
「ああ、そうだな。すごく落ち着く」
まるで、君の心に触れられているような気がするから。
一昨日までなら簡単に言えた言葉が、喉をつっかえた。