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僕に唯一できることは。  作者: 伊月
その森はあたたかい
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 耳を疑った。次いで、身体が震えた。あり得ない。彼女がここにくるなんて。そんな。

 まるでアンティークのブリキ人形にでもなったかのようにぎこちなく動く首を向ける。軋む音が聞こえたかのような錯覚をする。


「もう、探したんだよ? 教室行ってもとっくに出て行ったっていうし、ゆうくんいつも位置情報切ってるから」


 彼我の距離が数メートルあるにも関わらず、甘い匂いが漂ってくる。そこに人工的な気配は一切介在しておらず、いわゆる、女の子の匂いというやつだ。

 ふと、隣に座る千葉に気付いたのか、長い髪を揺らして彼女は問う。


「ゆうくんのお友達?」

「えあ、えっと、はい! 千葉楓って言います!」


 先輩という関係性がそうさせるのか、それともその外見故か、上擦った声になる千葉。澄んだ声がそれに返す。


「私は佐倉美衣。ゆうくんの幼馴染ってことになるのかな?」


 ふわりと風をまといながら、スカートを翻して可愛らしく首をかしげる。裏表のない純朴な笑顔にますます混乱する。一体何が起きているんだ。何故美衣は何事もなかったかのように僕に話しかけている?

 精一杯頭を働かせるが、どう考えても理解の範疇を超えている。ただでさえ考え事に脳が手いっぱいだからか、すっと顔を覗かせてくる美衣の気配にも気付けなかった。


「ゆうくん?」

「――――!」


 急なことに声にならない声をあげる。きょとんと僕を見つめる瞳に吸いこまれそうになりながら、ぶんぶんと首をふる。


「千葉、ちょっと待っててくれ」


 吐き捨てるように言うと、美衣の手を引いて庭園の奥に駆け出した。先程の千葉もこんな感じだったのかという考えが一瞬頭をよぎるが、すぐに消え去る。今はそんなことはどうでもいい。バラ園という性質上、美衣が棘で怪我をしないように細心の注意を払いながら突き当たりまで辿り着いた。

 ここまで来るとさすがに人の気配もない。花を眺めるだけならこんなところまで来る必要がないからだ。

 今日は比較的暖かいからか、額にうっすら汗を滲ませる美衣。


「ゆうくん? こんなところまでどうしたの? あの子、千葉くん? 置いてきちゃったけど……」


 軽く胸を上下させながらも疲れた様子は見られない。そんな美衣にぐいっと顔を近付け、小さく吼える。


「なんで……っ、そんな……!」

「……?」

「覚えてないのかよ! あんな……それなのに、当たり前みたいにこんな」


 思わず肩に掴みかかる。さすがにこれには驚いたのか一瞬面食らった表情を見せるが、すぐにおっとりとしたものに戻る。すると、拡張視に真っ赤なアラートがでかでかと現れた。美衣の携帯端末が今の衝撃と美衣が感じたであろう怯えを危険と捉え、僕の携帯端末を通じずに直接警告しているのだ。これ以上続ければハラスメント行為として通報するぞと。


 否応なしに冷静にさせられた僕は、美衣の両肩に置いた手を離し、改めて言葉を紡ぐ。


「昨日の放課後、僕と話したこと、覚えてないのかよ」


 桜舞う蒼穹を背に、雪のような言葉の冷たさを皮膚で感じた記憶が蘇る。当然だ。たかだ二十四時間程度しか経っていないのだから、褪せるはずもない。


 果たして彼女は、あの時とは似ても似つかぬ表情で。


「――ごめんね、私、覚えてないの」


 そう、言った。


「は?」


 覚えていない? 昨日のことなのに? 自分でこんなことを決めつけてかかるのも滑稽な話だが、でも、あの出来事が昨日の夕飯の献立のように軽々と消去される記憶だとは思えない。

 なのに、何故。


「昨日の放課後だよね。何かあったってことはわかるの。何かすごく、嫌なことがあったのは。でも、学校が終わってから帰るまでの記憶がないの。ゆうくんと、何か話をした気がするのに……ごめんね……」


 数時間分の記憶がなくなって不安じゃないわけがない。それともうひとつは、申し訳なさだろうか。悟られまいと押し留めていたものが堰を切って出たようだ。途端に今にも泣きそうな表情に変わった美衣を見て、反射的に彼女の身体を抱きかかえようとする。その時考えた。今、美衣は「すごく嫌なことがあった」と言った。つまり、僕の告げた言葉は、美衣にとって嫌な言葉だったということになる。それも、前後の記憶をなくすほどに。


 そんなことがあるわけがない。非科学的だ。この、科学に満たされた世界で。

 僕の理性はそう言うが、それでも思わずにはいられない。

 もし本当に美衣がそれだけ僕の言葉を嫌がっていたら。あの言葉をなかったことにして、今までどおりの関係を築くことを、美衣が望んでいるなら。

 僕は美衣のその想いに応えてやるべきなのではないだろうか。


「大丈夫、僕がどうにかしてみせるよ。だから美衣は心配しないで」


 後者はともかく、前者はまったく心にもないことを、努めて平静を保って言う。大丈夫、美衣が僕を疑ったことなんてないんだから、素直に受け入れてくれる。

 一緒に積み重ねてきた時間は僕を裏切ることはなく、美衣は僕が言った大丈夫という言葉で落ち着いてくれたみたいだ。どうにか零れそうだった涙は堪え忍び、可憐な顔立ちには笑顔が戻る。


「うん、ありがとう。ごめんね、ゆうくん」

「いいよ。美衣は気にしなくていいんだ」


 笑いながら言うと、完全にいつもの調子に戻ったのか、もうその表情には曇りは一切見られない。心の中でほっと胸を撫で下ろすと、今度は優しく美衣の手をとった。


「ごめん、余計な時間とらせたな。戻ろう。たぶん、千葉がどうすればいいかわからずに困ってるから」


 千葉のナンバーは知らないから位置情報を検索することはできないが、おそらくあの場でどうもできずにうろたえていることだろう。その様子を想像すると、思わずくすりと笑ってしまう。

 手に力を込めて引こうとすると、美衣がにこにこと僕を見ていることに気がついた。


「お友達、できたんだね」

「……まあ、友達って言っていいのかは、わからないけど」


 如何せん知り合ったのは今朝だ。信頼関係なんてまるで築けちゃいないし、相手のことだって、精々同じクラスということと名前しか知らない。


「よかった。またゆうくん、中学の時みたいになったらどうしようって思ってたから」

「その話はやめてくれ」


 美衣のことが好きすぎて同級生となんて全然話をせず、ずっと美衣と一緒にいた中学時代。正直、恥ずかしくて思い出したくない。

 でもそのおかげで美衣から色々な話を聞くことができたっていうのは、僕にとっていいことだったと思う。今僕が持っている昔の知識っていうのは、大体が美衣からの受け売りだ。そのおかげで今の僕があるのだから。


 行こ。と言って美衣に先導される。僕がしようとしていたのに、いつの間にか逆転していた。でも、これはこれで心地がいいから、特に何も言いはしない。

 その代わりと言ってはなんだけれど、考える。本当に美衣が望んでいることは現状の維持なのかと。別に、実は美衣も僕のことが好きで、あの時のことは何かの間違いだった――なんて展開を望んでいるわけではない。

 ……嘘だ。超望んでる。僕以上に美衣と心を通わせている人間なんて他にいるはずがないと結構本気で思ってはいる。なんなら家族以上に。

 けれど、昨日僕の鼓膜を揺らした美衣の言葉は虚構ではない。たしかに美衣はあの時僕を拒絶したし、僕は美衣に拒絶された。

 あれが一体なんだったのか。皆目見当もつかない。でも、放っておくわけにはいかない。あの時の美衣の言葉が本心だったかそうでないかに関わらず、美衣が昨日の放課後の記憶を失っているという事態は異常だ。

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