それがきっと、僕の世界のすべてだから
「ゆうくん、そろそろ機嫌なおしたら?」
「別に、機嫌が悪いわけじゃない」
「じゃあ何が悪いの?」
何かが悪いというわけでもないが――あえて言うなら、そう。ばつが悪いんだ。
境内へと続く参道、段葛を並んで歩きながらも、どうにも僕は美衣の顔をうまく見れずにいた。原因は言うまでもなく、駅からの道すがらの出来事だ。
あれで美衣が怒っているとは思えないし、もちろん僕だって何も思っちゃいない。が、美衣の顔を見ると途端にあの時のことが鮮明に脳裏に浮かびあがりそうで、気後れしてしまう。
不自然なのがわかっていながら、自然を装って桜に視線を向ける。
美衣が同じ名を持つことをしきりに誇りたがるのも無理はない――美しい花が、視界いっぱいに咲いていた。
一度はその数を減らしてしまった段葛の桜だが、時を経てその数は以前よりも増している。満開の時期はとっくに過ぎて多くを散らしてしまっていても、なお華麗に花弁を開いている。
「……綺麗だな」
声に出したつもりはなかった。無意識に漏れた声に反応したのか、僕の手を小さな手がぎゅっと握る。
「もう何年目かな?」
「さあ。十年くらいじゃないか」
鶴岡八幡宮から始まる僕たちの花見は、ほぼ毎年のように行われている。この時ばかりは中学の時でも一ノ瀬はついてこなかったし、美衣と別の学校に通っていた去年だって欠かさなかった。春の始まりと終わりを感じるための、いわば儀式なのだ。四月が大きな境である僕ら学生にとっては、一年の始まりでもある。
頭上を見上げれば蒼穹と桜が始まりを教えてくれるし、視線を落とせば、散った花弁がやはり終わりを教えてくれる。そういう時期に、僕たちはここに来る。
場所に深い意味はなかったように思う。神主や祀られているものには悪いが、少なくとも僕に信仰心はないし、美衣もあまりそういうタイプではない。ふたりで通った軌跡そのものがそうだと言えばそうなのだけれど、特筆すべき思い出も、たぶん、ない。だからなんで毎年のように来ているのかと誰かに問われれば、非常に困るし言葉に詰まるのだと思う。きっと理由なんてないのだ。ただ親がなんとなく連れてくれて、美衣とふたり、また来たいと願った。桜を見たいと望んだ。それだけ。
大事なのは場所ではない。誰とここに立っているかだ。
そう考えると、今の今まで些細なことを気にしていた自分が馬鹿らしくなってくる。自嘲気味に小さく鼻を鳴らすと、力むことなく、ごく自然に美衣の顔を見ることができた。
「あ、やっと機嫌なおった?」
「だから、別に機嫌が悪かったわけじゃないっての」
いたずらっぽく笑う少女に、こちらも口角が上がる。やはり、彼女とはこの距離感が一番心地いい。気兼ねしなくて、穏やかで。
四月も既に下旬。それでも花見客は多い。みんな、明日の天気を憂いているのだろう。きっと明日の雨で今年の桜は最後だ。
「そういえばゆうくん。決めてなかったね」
並んで歩いていると、ふと美衣がそんなことを言った。
「決める?」
「うん。ゆうくんが真白ちゃんに実力テストで勝った時のご褒美」
「ああ……」
そういえば、どうして僕はそんなことを言ったのだろう。美衣に想いを伝えられたのが嬉しくて舞い上がっていたのかもしれない。
正直、一ノ瀬に勝てる気はしなかった。
「真白ちゃんってそんなに成績いいの?」
「知らないのか?」
「うん。あんまり成績の話ってあの子としないから。私に気を使ってるのかもしれないけど」
「別に、美衣だって世間的に見れば十分いい方だと思うよ」
足りないところはあるが、決して非才な少女ではない。平均点を下回ったという話を聞いたことはないし、根が真面目だから試験前の勉強もしっかりしている。自分で言うことでもないかもしれないが、周りに僕や一ノ瀬がいるせいで、相対的に自分を低く見てしまうのかもしれない。学年も違うのだから、比べたって仕方がないだろうに。
しかし、一ノ瀬が美衣に成績の話をしないのは、別の理由だろう。一ノ瀬はそういうところに気を遣う性格ではない。たぶん単純に、彼女にとって成績の話とは特筆して持ち出すような話題ではないのだ。
なにせ一ノ瀬が学業において一位以外の順位をとっている姿を見たことがないのだから。
「あいつに勝とうと思ったら、僕が一位を取らなきゃならないってことか……」
考えれば考えるほど、現実味のない話だ。相手は全教科満点なんてのを複数回達成している化物。
「でもゆうくんも成績、いいよね?」
「まあ、一応ひと桁常連ではあるけど、ね……」
所詮はひと桁、である。ひと桁とはつまり一から九。けれど一は当然一ノ瀬のものなので、僕は二から九を彷徨っているだけの小鳥にすぎない。大きく羽ばたく成鳥にはなれない。
一ノ瀬に勝つ未来を想像しようとしてみるけれど、どうもうまくいかない。
「名前」
「名前?」
「ああ、久しぶりに名前で呼んでくれないか」
「いつも呼んでるじゃない」
「まあ、それも名前と言えば名前だけど」
でも厳密には、違う。
言語化するには少々難しい感覚だ。愛称というのは字の示すとおり、当然そこには愛情が込められている。だから愛称で呼ばれることも喜ばしいことにかわりはなく、美衣が僕の名前を呼ぶ際に抱く想いには、自信と安心を預けられる。
でも、随分と長い間、彼女の口から夕立と呼ばれたことがないような気がするのだ。たぶん、今まで数えられるくらいしか。
だから愛称以上に僕には美衣の声で紡がれるその名前が特別に思えるし、僕が頑張る動機としては、十分だ。
大体、いつだってそうなのだ。僕の行動原理は。モチベーションというやつは。どんな時でも、佐倉美衣という少女によってもたらされている。
「君が僕の名を呼んでくれるのなら、僕にはなんだってできる気がするんだよ」
随分と間が空いてしまいましたが、今後もこんな感じになるかもしれません。早い可能性もありますが……。
あくまで花見の話は余談ですので、気長にお待ちいただければ幸いです。




